攪乱 3
攪乱 3
鳥が鳴くよりも早く起き、ツィブリの長い一日が始まる。
朝食は調理場から回された家畜用の残飯に、水に浮かべた屑麦のみ。中身を失った粃を眺め、かつては城内で権威を誇っていたツィブリは、我が事のように思わずにはいられなかった。
食事を終え、老体に鞭を打ちながら、馬房に膝をついて馬糞を素手で拾い集める。それは、死罪と引き換えに得ることができた、唯一の役割だった。
城内に置かれた無数の馬たちの汚物を片付ける最中、寒さで身が縮み、喉に苦しさを感じてツィブリは激しく咳き込んだ。
「――宰相」
耳元から姿なく、フクロウの呼びかけが聞こえてくる。
その声音から気遣いの気配を感じ、ツィブリは一人、汚れた手を空に上げ、無事を伝えた。
「大事ない……寒さで喉が閉まっただけだ……」
周囲に人気がない事を確かめ、ツィブリは誰もいない馬房の中で、一人小さく呟いた。
「――症状に合う薬を調達してきましょう」
耳元から聞こえるフクロウの声に、ツィブリは大きく首を振って見せる。
「私には必要ない。それよりも、外でまたなにかあったのか」
「――外からならずものたちが入り込みました。傭兵団のようですが、我が物顔に振る舞っている様子、不穏です」
ツィブリは作業の手を止め、
「……ドストフ様が人手を求められたか、おそらく、戦勝した君主としての格好を整えようとされているのだろうが。例の件、公表の気配はないのか?」
「――未だ。城を出入りする者たちの間でも噂を語る声も聞きません」
「なるほどそうか、大仰に花を飾ってから知らせようというのだろう、あのお方の考えそうなことではある……他に変わった事は?」
「――冬華付きの書記官たちの出入りが激しくなっています。様子からして、なにか大事を抱えているのは間違いないと思いますが、私の手が届く範囲では、その全容が掴めません」
「ふむ……人質として残されたムラクモのご婦人方に問題はないか……?」
「――関知している範囲では、なにも」
ツィブリは憂いを込め、
「ふむ……」
暗く息を吐いた。
「――シュオウ殿は勝利を得られました、そのうえで、大公が人質に何かすると、お考えなのでしょうか」
ツィブリは腰を屈めたまま首を振り、
「確信があるわけではない。だが、注意しておくにこしたことはないからな。ドストフ様は才を愛でるお方だ、件のお方が戦上手であると知れば、無碍に扱うことはないはず……まわりの者が、余計なことを吹き込まなければ、だが……」
「――公表がいつになるかわかりません。この件を、人質の皆さまに知らせたいと思いますが」
「それがいい、ご婦人方も喜ばれるだろう。だがくれぐれも、安堵しないように伝えるのだ、なにものかが陰謀を企てているともかぎらぬ、どれほどの結果をあげようと、あのお方が余所者であることは変わりないのだからな」
*
ムラクモを離れ、異国の地で人質として軟禁されているアイセ・モートレッドは、運ばれてきた食事を受け取り、卓上に丁寧に並べていく。
「ふあ……」
シトリが大あくびを浮かべて食卓にもたれかかる最中、隣ではテッサが食台に乗せられた食器類を取り、種類ごとに適切な位置へと配膳する。
その時、
「これ――」
テッサが食器を納めたカゴの中から、一枚の布地を取りだした。
アイセは布地を見て、大きく目を見開く。それはシュオウがターフェスタを出る前に取り次いだ、外との連絡役と交わした目印であった。
布地に付けられた色と、葡萄酒でつけられた染みの数が、おおまかな時間と場所を示している。
アイセは布地を受け取り、テッサと目を合わせ、頷いた。
時間は夕刻を迎える頃、アイセは一人で散歩を理由に城内を歩いていた。
各所に配置された兵の厳しい目は依然として変わらないが、以前であれば背後からつけていた監視の兵の姿はなくなっている。
時が経つごとに、東方出身者に対しての警戒が緩くなっている。それが信頼からではなく、慣れからくる緩みであることを、アイセは適切に理解していた。
階段を上り、通路を抜けた先の突き当たりに足を止める。そこは上階にあって周囲をよく見渡すことのできる場所である。
到着して早々、
「――そのまま、景色を眺めているふりをしてください」
まるですぐ隣に人がいるかのように、耳元でささやく声が聞こえた。シュオウから緊急時のためにと紹介されたフクロウという男の声である。
アイセは声の出所がわからないまま、
「このまま話せばいいのか」
「――はい。ただ、斜め下にいる兵が、あなたを監視しています。あまり大きく口を動かされませんよう。小声でも、こちらには届きます」
アイセは目立たぬように微かに頷いて、
「わかった。それで、なにかあったのか」
呼び出しは急を要するときに限るということになっている。これまでなにもなく、突然の声がけがあったのは、つまりそういうことなのだ。
「――シュオウ殿が戦場で勝利を収め、ユウギリという地の支配権を手にされました」
アイセは激しく動揺して、
「ユウギリが、陥落した……?」
喜びよりも、驚きが勝った。アイセの知るムラクモは強大な軍を持つ強国だ。
心情を察してか、
「――これは、あなた方にとって朗報であります」
フクロウは念を押すようにそう言った。
アイセは慌てて頷き、
「ああ、そうだな……」
思い出したのよう頬を緩ませた。
故郷の軍が敗北したという報に動揺しつつも、現状、ターフェスタで地位を築こうとしているシュオウたちにとって、これはこの上なくめでたい報告なのである。
「――良きにしろ悪きにしろ、状況が変化を迎える時です。くれぐれもご注意を。元宰相も心配をしておりました」
薄暗くなっていく空に、浮かぶ灰色の雲が溶けていく。空の色合いが変わる瞬間を眺めながら、アイセは小さく頷いた。
「わかった、気をつける。危険を冒して知らせてくれたことに感謝する、ありがとうフクロウ殿」
それ以上声は聞こえなかった。が、間際に好意的な息づかいが耳に届き、アイセは一人、細やかに微笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
異国の地に取り残されながらも、気にかけてくれる味方がいる心強さを胸に、アイセは入手した情報を持って仲間たちの元へと急ぎ戻る。
さっそくと、聞き知った情報を話すと、
「当然ね」
テッサは言葉通り、当たり前の結果であると驚いた様子もなく受け答え、
「じゃあ、帰ってくるの?!」
眠たげに椅子に横たわっていたシトリは、別人のように大きく目を輝かせ、アイセにぐいと顔を寄せた。強引に手首を掴んでくるシトリの握力は驚くほど強い。
「お前、普段からそれくらいきびきびと動け――」
アイセは呆れながらシトリを押しのけ、
「――すぐに戻ってはこられないだろう、戦いに勝ったといっても、やることはいくらでもある。シュオウが率いているアリオトの軍が今後は占領軍となるのなら、尚更忙しくしているはずだ」
しかし、シトリは心ここにあらずといった様子で、
「終わったんだ……帰ってくる……あ、痩せとかないと……ッ」
うっとりと、雲の上を覗くように浮ついた視線を泳がせたかと思えば、突然思い立った様子で服をはだけて体操を始めた。
テッサはアイセに、
「他に情報は?」
アイセは首を振り、
「いいえ。ただ、注意するように言われました、こうした時には状況が変化しがちだと」
テッサは真剣な顔で視線を落とし、
「それは本当にそう。武功を挙げたとしても、安心はできない。いいえ、むしろ状況はより危険なものになるかもしれない」
シトリが屈伸をしながら、
「なんで? 勝ったんじゃん」
テッサは目元を尖らせ、
「勝ったからよ。ムツキを落としただけで、新参者の司令官としては十分すぎるほどの戦果をあげている。なのに、いきなりムラクモの領土まで手に入れた、というのは出来すぎ。ターフェスタ大公がまともに論功をすれば、その功績は多大なものになる。上手くいきすぎても、今度はそれを面白く思わない人たちが現れる」
アイセは神妙に頷いて、
「こういうときだからこそ、浮かれてはいられないということですね」
「そういうこと。今日から警戒を強めましょう、交代制で一人が必ず起きているように。いざというときのための逃走経路も、しっかりと復習しておかないと。警備が薄くなる夜にこれから毎日の演習を行いましょう」
シトリが盛大に口元を歪め、
「げえ……」
候補生時代、宝玉院でよく見たシトリの顔と同じものを見て懐かしく思いつつ、アイセはもう一人、この場にいない仲間のことを思い出す。
「ジュナ様にも知らせておいたほうがいいでしょうか」
テッサはてきぱきと身支度を進めつつ、
「ええ、そのつもりだったけど。直接話を聞いたあなたからお話するのが筋かもしれない、お願いできる?」
アイセは一瞬返事を躊躇いつつ、
「……はい、わかりました」
*
静まり返った城内の通路に立ち、アイセはジュナの部屋の扉をそっと叩いた。
身分を名乗ってから少し間を置き、
「どうぞ、お入りください」
ジュナの身の回りの世話をしているユギクの声が返ってくる。
「失礼します」
ジュナと顔を合わせようとする瞬間、他の者たちには感じない緊張に身が固くなる。それはサーペンティア一族という血から受ける威圧感なのか、それともジュナという個人から受ける印象なのか、わからないまま、アイセは出迎えたユギクの案内を受け、寝台の置かれた部屋に足を踏み入れた。
寝間着姿で寝台に座るジュナは、アイセと目を合わせ、美しく可憐な面立ちで柔和な微笑みを浮かべる。
「いらっしゃい。こんな格好で、お出迎えもせずにごめんなさい。もう夜を迎える支度を済ませてしまったところだったから」
アイセは軽く会釈を返し、
「いえ、突然声をかけたのはこちらですから」
視線を室内に巡らせた。
ジュナは姿を隠し、隠密行動をしている人間を抱えている。その隠密がアデュレリアの所属であるという不可解さも、緊張を感じる要因の一つとなって、無意識に視線が各所へ誘われてしまうのだ。
ジュナはアイセに椅子を指し、
「どうぞ」
アイセは一瞬の迷いをはさみ、
「……どうも」
着席する。
「それで?」
上辺のやりとりを飛ばして本題に入ったジュナに、アイセは小さく咳払いをして、
「じつはシュオウが――」
シュオウの指揮下で進軍する軍が、ユウギリを攻めて陥落させたことを説明する。一大事である一報を聞いても、しかしジュナは態度を一片にも変化させることはなかった。
アイセは表情を曇らせ、
「もしかして……知って、いたのですか……?」
ジュナは微かに頷き、
「ええ、少し前に」
大事を知りながら黙っていたジュナに対して、瞬時に曇った気持ちが胸の内に淀む。
「どうして、私たちにそのことを――」
思わず不信感が口をついて出るが、アイセは失言に気づき、喉の奥を詰まらせた。
ジュナは申し訳なさそうな表情を浮かべ、
「お知らせしたいと思っていたのですが、この件を教えてくださった大公殿下に口止めをされていたものですから」
アイセは驚きに眉をあげ、
「大公から聞いたって……直接、ですか……?」
大公と直接面会しているなど、寝耳に水である。
ジュナは首肯し、
「少し前、殿下に会食に招いていただいたおりに、多少の縁を持ちました。私はこのような体ですし、余所者であるが故に政治にも遠い存在で、安心して話が出来るのかもしれない。ほんの少しだけ、気を許していただいているようです」
「はあ……」
アイセは曖昧な返事をしつつ、部屋の隅で険しい目を向けてくるユギクをちらりと見つめた。彼女にしてもムツキで働いていたころとは別人のようだった。
彩石を持たずに生まれた忌み子であり、不自由な体で他人の庇護がなくては生きていけない。この部屋の主であるジュナの生い立ちや現状を思い返しても、弱者が身を隠す巣穴という心地が微塵もしない。
ジュナの相貌は完璧だ。見目の良い者が多い貴族のなかでも群を抜いた美を持っている。それは彼女の弟と等しく、どこか作り物めいた空想の産物のような表情からかもしだされる印象なのかもしれない。
人質として、このターフェスタの統治者の心一つで窮地に立たされる危険な状況にありながら、晶気を操れず、自らの力で立つこともできないジュナからは、まるで怯えた様子を感じられず、厳重に管理されているはずの食糧倉庫に自由に出入りし、正体を知られることなく暗躍する隠密を操り、この国の最高権力者から極秘の情報を先んじて知らされている。
すべてを総括しても、ジュナ・サーペンティアは超然としている、という印象しか持てない、彼女の立場や生い立ちからは、考えられないほどに。
「なにか、しようとしてはいません、よね」
渦巻く疑念が限界に達し、アイセはふと、おかしな言葉を口走っていた。
側に控えるユギクの視線がきつくなるが、ジュナはほんの僅か、米の一粒ほどにも表情を変えることがない。それが一層、不気味な違和感を呼び起こさせる。
一方のユギクは目元を鋭く尖らせ、
「失礼ですよ、アイセ様」
思わず謝罪しそうになるのを堪えながら、アイセはジュナから視線をはずさなかった。
本人の口から心を聞きたい。その意を汲んだのか、ジュナはそっと微笑み、
「アイセさんとはお友達でありたいと思っています。友人に嘘をつくのはよくないことだと思うので、本当のことをお話します――私は、なにもせず、ただじっと椅子に座っているつもりはありません」
不安が的中した、そう思いながらアイセは口先に力を込める。
「我々は実質、このターフェスタで孤立無援の状態です。向こうが剣を向けてこない以上は、下手に動いて刺激を与えるべきではありません」
ジュナはまた、作り物のように、完璧な表情を作って見せた。困り顔である。
「私のような者に、そんな大それた事ができるはずがないのです。具体的になにかしようとしているわけではなく、私はただ、人を見て話をしているだけ、本当にそれだけなんですよ」
言葉から、嘘をついている感覚は伝わってこない。目線、呼吸、態度、すべてが健全で、濁りを感じない。そうなると、今度は疑うような態度をとったことに焦りの感情が浮かんでくる。
「……おかしなことを言いました、申し訳ありません」
アイセは言って、深々と頭を垂れる。
ジュナはほがらかに笑声を漏らし、
「頭を上げて下さい。どうか特別扱いせず、今みたいに、気になることがあったら言ってください。ここにも、もっと顔を出してほしい、テッサさんやシトリさんにも、是非そう伝えてくださいね」
「はい……」
愛想笑いを返し、アイセは別れの挨拶を告げて部屋を出た。手には、土産物として渡された菓子を入れた袋がある。
――なにをやってるんだ。
アイセは一人、こつんと自分の頭に拳を落とした。
言い表せない感情を消化しきれぬまま、暗い表情で自室へと引き上げる。
静寂の通路に響く靴音は重く、糸で引かれたように、その足取りは鈍くなっていた。
*
石畳を敷き詰めた庭に、飾り立てられた城の主塔が影を落とす。
豪奢な装飾と花をたっぷりと飾られ、無骨な外壁は、赤い布地で美しく装われている。
その庭いっぱいに集められた群衆は、展望台から姿を現した大公ドストフに虚ろな視線を向けていた。
国を代表する精鋭輝士である冬華の一人を側に置き、壮麗な鎧を纏わせた兵に囲まれながら、飾り付けた高価な軍服を纏うドストフは、眼下の群衆を前にして胸を張った。
庭の片隅で、物影から様子を伺う骨食いの長ボ・ゴは、遠目に見えるドストフを指さし、首を捻った。
「おい、あいつぁなんだ?」
ボ・ゴの指す先には、あきらかに場違いに思える平凡な男の姿がある。男はドストフの周囲をふらふらと歩きながら、角度を測るように親指を立てる、という奇妙な行動を繰り返していた。
ボ・ゴの疑問を受け、同席するプレースは冷めた声で、
「絵描きだ。後世に残すため、殿下の栄えある瞬間をすべて絵画として残すことになっている」
ボ・ゴはかっかと笑い、
「そいつあ抜け目ねえな。だが、あの面を残したって見たがる奴がいるもんか?」
プレースは眉を顰め、
「稼ぎを失いたくなければ、冗談でも人前で言うなよ」
ボ・ゴは後ろ頭に手を当て、
「へへ、あんたの前以外じゃ言わねえよ」
ドストフのまわりを飛び回っていた絵描きは、構図を決めたのか、ぴたりと足を止めた。それを合図としてか、ドストフはおもむろに前に進み、彩石を付けた左手を群衆に向かって掲げてみせる。
群衆の中から、わっと歓声が沸き起こった。
「大公様!」
「ドストフ様!」
各々にドストフの名や名声を叫び、拍手と共に歓声を響かせる。だが、その様子を見ていたボ・ゴは盛大に首を傾げてプレースを見た。
「なあ、あの騒いでる連中はサクラか?」
プレースは躊躇いがちに頷いて、
「……よくわかったな」
「そりゃな、ほどよく間隔を空けて、騒いでる奴らが均等に置かれてりゃあ嫌でも目につく。間に挟まってる連中は湿気た面でぼうっとしてるだけだしな」
群衆の大半は無理矢理集められた町人たちである。その中に紛れ込ませているのは、城勤めの飼い慣らされた使用人たちだった。場の空気がしらけないよう、細心の注意が払われた努力の成果である。
「涙ぐましいだろう、有能な文官たちが一人の機嫌を取るために右往左往と……華々しい城勤めの実態なんてこんなものだ」
ボ・ゴはへらりと口元を緩ませ、
「あんたもその一人だもんな」
「黙れ、誰のおかげで良い思いができると思ってる」
ボ・ゴは卑屈に頭を下げ、
「そりゃあなた様のおかげで。だがその分たっぷり分け前のほうは用意させてもらいますんで」
ボ・ゴから視線をはずしつつ、プレースの口元はだらしなく緩んでいた。
「大仕事が向こうの方から転がり込んできた、うまくやれば、たいした後ろ盾もない俺にも、出世の道が開かれる」
ボ・ゴは顎を引いて、
「それ以上偉くなろうってんで?」
プレーズは自嘲し、
「なにが偉いものか。唯々諾々と上からの指示に従うだけ、今の俺は使われるだけのただの駒だ。俺は盤上を見下ろす側に行く、そのためにも失態は許されん。貴様らの群れの中でも使える者を選り抜き、ここに残せ」
「大公の遠征にくっつける方はいいんで?」
「制圧された地を訪問するだけだ、立っていられるだけの馬鹿で十分だ」
ボ・ゴは、
「へへ、そういうことなら、そうしますがね。なら、さっそく始めましょうや。この街でぶらついてても、まともに遊べるところもねえし」
「まだだ、大公殿下がここを出るまでは動かない。水面で足掻くことなく、主の目がないところで素早く狩りを終える。大公が戻られたその時、華々しい成果をご覧にいれたい」
「演出ってやつですな、流石に心得ておられる」
長々しいドストフの演説が始まった。大公家の歴史と、今日に至るまでの近隣諸国との過酷な争いが語られ、美化された経緯が饒舌に語られる。
最後に、大公は劇的に拳を振り上げ、東方の強国ムラクモの領土を獲得したことを報告した。
群衆の中に仕込まれた盛り上げ役たちが一声に喝采を送る。一方、その間に挟まれた多くの町人たちは、ざわざわと落ち着きのない気配を漂わせはじめた。
暗いざわめきが、仕込みの喝采を徐々に押し流していく。
大公は満悦の表情を浮かべて群衆を鎮め、
「これは国民が一丸となって果たしたことでもある。その締めとして、あと一時、皆の国への忠誠心を集めたい」
静まり欠けていたざわめきは、突如怒号へと変わった。
「おい、なんだと――」
「今、なんて言った――」
血走った眼で、群衆たちは口々に大公を罵りだした。
慌てて、仕込みの使用人たちが、大袈裟な拍手と喝采の言葉を叫び出す。
偽りの喝采と現実からひりだされる懐疑が入り交じり、場は騒然となりながら、しだいに統制を失っていく。
「まだ足りないっていうのかッ――」
そう叫んだ老齢の男に対して、監視役の兵が暴力的に掴みかかった。
プレースは舌打ちをして、
「ち、解散だな――」
困惑する大公の隣に立つエリスに向け、プレーズは手を回して合図を送った。エリスは頷き、素早く大公を守りながら奥へと戻らせる。
大公の姿が見えなくなったのを確認し、プレーズは部下たちに指示を与えた。
「鎮圧しろ。だが祝いの場だ、殺すなよ」
ボ・ゴは嬉しそうに手を揉み、
「追加料金を貰えるなら、俺らも手を貸すぜ」
プレーズは無言で頷き返した。
ボ・ゴは手下を率いて、怒れる民衆の中に飛び込んでいく。骨食いの傭兵たちは手慣れた様子で民衆に馬乗りになり、繰り返し顔面を殴打した。
悲鳴、怒号、群衆の奏でる狂騒が辺りの空気を暗く染める。
「お上の公認で堂々と人を殴れるなんて、最高じゃねえかッ」
ボ・ゴは満面の笑みを浮かべながら、組み敷いた男の顔を殴りつける。殴られた男の口から、勢いよく折れた歯が飛び、プレーズの足元に転がった。
プレーズは足元の歯を拾い、
「……はあ」
うんざりと溜息を吐きだした。
騒ぐ民衆たちは暴力によって押さえ込まれ、次々と城の外へと連れ出されていく。騒ぎの中、庭の中心に一人佇んだまま微動だにしない人物がいた。
摘まみあげた歯の奥に見えたその人物に歩み寄り、
「司祭殿、いらしていたのですか」
プレーズは穏やかに声をかける。
その男は下街の教会の主である司祭パデル・エヴァチだった。
「…………」
エヴァチは眼光鋭く、大公の消えた展望台を睨みつけ、黙したままプレーズの呼びかけに一切の反応を示さない。
プレーズは続けて、
「演説は終わりました。このような状況ですので、気をつけてお引き取りを」
声をかけても一切反応を示さない。腕を掴むが、エヴァチは湖底の岩のようにその場から一歩も動こうとはしなかった。
プレーズはエヴァチを睨めつけ、
「残念ながら信仰に厚いほうではないので、司祭の身分に甘えているのなら、痛い目をみることになりますが」
やはり、動こうとはしないエヴァチに、
「そうか――」
プレーズはエヴァチの腕を捻り挙げ、膝の裏を蹴って強制的に地面にひざまずかせた。
聖職者に対する暴行に、周囲の兵たちが動揺と抵抗感を示す空気が漂い出す。
プレーズは躊躇う兵士たちを睨みつけ、
「さっさと連れ出せッ」
その空気を一喝した。
組み敷かれ、両脇を兵士に抱えられながら連れ出される間も、エヴァチは無言のまま大公がいた場所へ睨み続けていた。
「なんなんだ……」
その態度を不気味に思いつつも、プレーズはこの場の統制に素早く意識を切り替えた。