攪乱
攪乱 1
風もなく、冷気に覆われた穏やかな朝が鳥の声に彩られている。
窓を挟み、暖炉の火に温められた室内で、リシア教司祭であるパデル・エヴァチは、ジュナ・サーペンティアの私室の窓辺に座り、甲高い声で鳴く鳥の声に耳を傾けていた。
「声の主はカシャヤ、冬を求めて移動する珍しい鳥です。寒さの中に好んで巣を作り、住まいに作られる巣は吉兆であるという言い伝えもございます」
ジュナは微笑んで両手を合わせ、
「まあ、最近よくこの声を聞くようになったと思えば、そのような愛らしい鳥の住まいに選ばれていたとは知りませんでした」
エヴァチは苦笑し、
「愛らしいかはどうかは……カシャヤの雄は繁殖のために寒さに強い頑丈な巣を作り、雌に自らの能力を主張しますが、雄同士では他者の求愛を妨害するため、相手が留守の間に巣にゴミや死骸を投げ入れるという卑しい性質も持ちます」
「得るために戦うのは生物の本質です、私はそれを――」
ジュナは微笑みの強度を上げ、
「――卑しい行いとは思いません」
エヴァチは頷きを返し、
「たしかに、聖典にもそのような逸話がございます……丁度良い、今日はその一節をお聞かせいたしましょう――」
エヴァチは表情を硬化させて司祭としての顔を作り、リシアの逸話を通して、その根底にある教訓や教えを説いていく。そこには北方の民や貴族、リシア教の教えを生まれながらに受けてきた者たちの考え方や生き方を示す内容が豊かに詰め込まれていた。
やつれた顔に虚ろな目を置きながら、エヴァチは話の途中に、幾度も服の袖に口を当てて咳をする。
ジュナはその度に飲み物を差し出し、
「今日はもうこのくらいにいたしましょう……ご無理をさせたいために来ていただいているのではありませんから……」
エヴァチは懸命に首を振り、
「滅相もありません、あなたから受けている温情になにもせずにいれば、私は神の怒りに触れるでしょう。あれだけの食料を用立てていただくのに、どれほどの危険を冒されているのか。民を思っての崇高な行いと勇気に、ただただ頭が下がるばかりです」
深々と頭を垂れるエヴァチに、ジュナは慈愛に溢れた悲しげな表情で頷き返す。
「いただいた御言葉は、そのままあなたにお返しします、司祭様。痩せたお顔を見ていればわかります、お渡ししている食料をご自分では食べておられないということを。その自己犠牲を伴う愛情を向けられる人々は、あなたを通して神の救いを受けている、とても幸せなことだと思います」
エヴァチは薄らと目に涙を溜め、ジュナに向けて静かに頭を下げた。
「……続けましょう、私程度の知識がお役に立つと言っていただけるかぎり、誠心誠意ご教示させていただきます」
エヴァチは苦しげな息で話を続ける。ひとしきり語りを終えた頃、ジュナは手にしていた聖典を閉じ、側に控えるレキサに頷きを送った。
ジュナはエヴァチに向け、
「今回はいつもより多くの食料を確保できました。救済の一助として使ってください」
言うと、エヴァチは露骨に目を輝かせ、
「おお……それは……なんと言えばいいのか」
「ですが、量が多くなってしまったので、一度に運び出すと怪しまれます。少々の危険を冒すことになりますが、出入りの業者にお金を渡して、外に運び出してもらえるよう手配しておきました。お帰りの際に、使用人から受け渡し場所の説明をお聞き下さい」
ジュナが説明すると、レキサが一歩進み出て、華麗な所作で腰を落とした。
エヴァチは声を震わせ、
「あなたの行いを、必ず神は見ておられます……必ず……」
しきりに礼を言って頭を下げる。
ジュナは無難な微笑を浮かべて、部屋を出るエヴァチとレキサを見送った。入れ違いに、外に出ていたユギクが部屋の中に戻ってくる。
ジュナは一礼したユギクを迎え、
「おかえりなさい、上はどう?」
ユギクは首を横に振り、
「めちゃくちゃ静か。使用人たちはいつも通りに働いてるし、誰も占領地の話なんてしてません」
ジュナは視線を傾けて、
「そう……ということは、発表は演出を加えて、ということになりそう。向こうとどんなやり取りをしているのか気になるけれど……」
すると、ユギクは顔色を悪くして、
「これ以上探ってこいって言われたって無理ですから……給仕長より上は管轄外ッ」
ジュナは笑みを返し、
「わかってる」
ユギクがほっと胸をなで下ろした直後、
「ぬん」
低く落とした一声と共に、突如ユギクの背後からリリカがキノコのように顔を生やした。
「ぎゃあ――?!」
突然の登場に、ユギクは悲鳴を上げて壁際に背中に張り付ける。胸を押さえながら激しく息を切らせ、
「――お前、いつかぼこぼこにしてやるッ」
リリカは勝ち誇ったように胸を張り、ぼやけた目でユギクを睨めつけた。
リリカはジュナに顔を向け、
「お求めになられていた例の情報がまとまりましたので」
丸めた紙束を差し出した。
ジュナは渡されたものに食い入るように目を通し、
「もう……?」
「もう、です。食料の換金を依頼した商人のなかに、弱味を掴める者がいましたので」
ジュナは紙に綴られた数字を見つめながら笑み、
「うまく利用したのね、あなたは本当に優秀」
リリカはにやりと片頬を緩ませ、ユギクに視線を滑らせる。
目の前で褒められたリリカに対して、ユギクは苛立たしげに頬をふくらませた。
ユギクは壁から離れてジュナの前に立ち、
「集めてきます」
ジュナはきょとんとした目で、
「なにを?」
「情報、お知りになりたいご様子でしたのでッ」
ジュナは柔らかな微笑をユギクに向けて、
「それはもういいの、城の給仕たちに噂の欠片でも回っていないなら、おそらく上の人間でもそれを知るのは極一部だけのはず。おめでたい情報を隠している、ということがわかっただけで、今は十分だから」
リリカが張り合うようにユギクの隣に立ち、
「リリカであれば、もっと深く情報を探れます」
歯を剥きだしたユギクが無言でリリカを睨みつけた。
ジュナは閉じられた扉をじっと見つめ、
「リリカさんは今日からエヴァチ司祭に張り付いて。目を離さず、なにか変化があればすぐに報告を」
リリカは一瞬返事を躊躇い、
「……なにか、とは?」
ジュナは小さく笑みを浮かべ、
「どんなことでも」
リリカは強く頷き、
「こくり――かしこまりました」
その一言を残し、リリカの音もなく部屋の奥へ向かい、その気配を完全に消し去った。
ユギクはリリカが去った後を睨みつけた後、
「どうしてあの司祭のことをそんなに気にするんですか……? そんな役に立つような人間には思えないんですけど」
ジュナは目線だけをユギクに送り、
「不満げね、言いたいことがあるなら聞くけれど」
「不満っていうか……与えすぎじゃないかって……」
「食料のこと?」
ユギクは頷いて、
「あの司祭、こっちを当てにしてる感じがします。うちらが身を切っているわけじゃないけど、食料庫から抜き取ってるのも、いつかばれるかもしれないし。あんまりあげすぎてると、貰えるのが当然っていうふうにならないかって」
ジュナはくすりと笑い、
「心配してくれてる?」
ユギクは唇をとがらせ、
「別に……食料の調達や換金で危険を犯してるのはうちらなんで、いつまで続けるんだろうって思っただけで」
ジュナはリリカから渡された紙束に目をやり、
「そうね、ずっとは続けられない。あと少し……あと一歩のきっかけだけ……」
ユギクは紙束をこっそりと覗き込み、
「それって?」
ジュナは紙束をユギクに差し出し、
「現状を利用して高利を得ているのが誰か、その手がかりがここに入っている。悪い人は天地の別もなく、どこにでもいるもの。本当に、どこにでも」
ユギクは難しい顔で紙束に記された数字を見つめ、
「ぜんっぜんわからない……」
ジュナは返された紙束をまとめた後、ユギクに向けて、
「大公に直接ご挨拶の申し入れをして。取り付く島がなければ、あなたの使える裏技を駆使してね。最優先で、絶対に」
ユギクは一瞬で表情を仕事用に切り替え、
「はい、ただちに」
*
「殿下――」
ドストフ・ターフェスタ大公の私室に入るなり、冬華六家の一人、エリス・テイファニーは主の前に膝を落とした。
「おお、エリスよ、来たかッ」
未だ寝間着姿のままであるドストフの声は異様なほど明るく弾んでいた。
エリスは大きく頷いて、
「ついさきほど、知らせを受けました……東方の領土を切り取ったと――」
ドストフは慌てて指を自分の口元にあて、
「大きな声を出すな、まだ一部の者にしか知らせていないのだ」
エリスは声を潜めつつ顔を近くに寄せ、
「おめでとうございます、これまでの殿下のご苦労が報われたことをなにより喜ばしく思います。冬華全員が顔を揃えてお祝いをできればなによりでしたが」
祝いの気持ちを伝えつつ、エリスはしんみりと哀愁を漂わせる。
ドストフはどこか気まずそうに頭をかき、
「そうだな。この成果をデュフォスにも知らせてやりたいものだ。そっちはどうなっている?」
エリスは嬉しそうに声を弾ませ、
「着々と。調査を進め、あと少しで尻尾を掴めるところまできています」
ドストフはしみじみと頷き、
「……あの出来事からここまで、まるで上手くいかないことばかり続いたが、ついに光明が見えてきた。神は耐え忍んだこれまでの日々を、見過ごしてはおられなかったということだ」
エリスはドストフの言葉一つずつに頷き、
「殿下、この後はどのように?」
ドストフは嬉しそうに鼻の穴を膨らませ、
「極秘でな、他国で評判の絵描きを呼び寄せたぞ。臣民にこの件を公表する際の私の姿を劇的に描かせる。後世の子孫たちのために、偉業を伝えるためにな。それが終われば、占領地に足を運ぶつもりだ。お前にもその場に同行をしてもらいたいが」
エリスは不安を表情に浮かべ、
「絵画の制作については、素晴らしいことだと思います……」
その態度に気づいたドストフはエリスの顔を覗き、
「……なにか言いたいことがあるか?」
エリスは言いにくそうに視線を落とし、
「占領地に向かわれるというのは賛成しかねる部分があります。占領したとはいえ、ムラクモからの反攻がないという保証がありません。御身の無事のためにも、中央をお離れになるべきではないと……」
ドストフは口元を曲げ、
「……言いたいことはわかる。が、この身で東方の地を踏まずして、どうしてターフェスタが勝利したといえるのだ。向こうは出迎えの支度を整えると言っている、ネディムも訪問を待っていると言っているのだ、あれが危険のある地に私を呼び込もうとするはずがない」
その名を聞いてエリスは眉を上げ、
「ネディムが……? 出過ぎたことを申しました。同行をさせていただければこのうえなく光栄なことと思いますが、今はデュフォス奪還の大詰めを控えている時、その指揮を執るためにも、私はここに残ることに――」
言いかけで、ドストフは下唇を突き出し、
「いや、お前にはついてきてもらう」
「殿下……」
ドストフはじとりとエリスを睨み、
「栄えある瞬間を私一人で迎えろというつもりか? 名のある者が側に付いていなければ大公としての威厳を損なう。デュフォスは囚われの身、ナトロは遠方で療養中で、ネディムは現地で私を出迎える役だ。この戦の勝者として現地を訪問する際には相応の格を示さなければならず、今我が手元にある者でふさわしいのはお前しかいないのだ。この栄誉ある使命を、まさか断るつもりではなかろうな」
ドストフの気性をよく知るエリスは、反論を喉奥に押し込み、恭しく頭を下げた。
「……殿下の仰せのままに。この上なく栄誉ある大役を仰せつかったこと、心より感謝いたします」
ドストフは鼻息荒く笑みを浮かべ、
「デュフォスの件は別の者に指揮をとらせればよい。お前はこれより、遠征隊の支度を取り仕切るのだ。後の世に恥じることのないよう、重々気を配るようにな」
エリスは声を低く、
「……はい」
「殿下、失礼いたします。緊急の申し入れが――」
大公付きの部屋まわりを管理する使用人の一人が、入室して頭を下げた。その男はエリスの存在に気づくと、ぎょっとして目を大きく見開き、慌てて頭を深く下げた。
「なんだ? かまわん、そのまま言え」
使用人は躊躇いつつ、
「……じゅ、ジュナ・サーペンティア様が、殿下との面会を希望しておりまして」
聞いた途端エリスは目を怒らせ、
「そのような無礼な願いを、なぜ下で止めておかないのですか。立場をわきまえず、厚かましくも殿下に会わせろなどと――私が対応してまいります」
立ち上がろうとしたエリスを、ドストフは慌てて呼び止めた。
「待てッ……かまわん、応接間に通せ……」
「殿下……ッ」
ドストフは気まずそうに視線をはずし、咳払いをする。それを合図に使用人は頭を下げたまま部屋を後にした。
エリスはドストフに詰め寄り、
「あの者は人質として監視下に置かれている立場にあります、そのうえ、サーペンティアとは名ばかりの石に加護を受けぬ下賎の身の上。軽々しく要求にこたえれば、殿下のお立場が軽んじられることになります」
叱るような口調のエリスに、ドストフは不満げに唇を突き出した。
「だが……この度の戦の功績をたてたのは、あの者の身内だぞ、無碍には扱えぬ。石に色がないとはいえ、れっきとした大家の公女であることに違いはない、父親は世に名高い蛇紋石だ……面会に備えて支度をする、私の着替えを用意させよ」
エリスは小言を押し殺し、
「遠征隊の指揮のため、ここで失礼いたします……詳細の詰めはまた後ほど。退室をお許しを願います、大公殿下」
ドストフはエリスに背を向け、
「……好きにするがいい」
不機嫌に、そう言い捨てた。
*
ジュナは応接間に通され、他に使用人もいない状況下での面会が許された。体が不自由であることと、彩石を持たない身であることからくる、警戒心の緩さもあるのだろう。
面会に応じたドストフは、まるで嬉しい秘密を隠した子どものように無邪気な顔で、必死に溢れ出しそうな笑顔を噛み殺していた。
ドストフは正直な人物だ、ジュナの見立てでは少なくとも現代のターフェスタ大公は悪徳を備えた典型的な悪人ではない。彼はただ、感情のままに生きる純粋で愚かな、ごくありふれた人間なのである。
嘘をつくのが苦手であろうドストフを前に、ジュナはその心の内を完全に見透かしながら、品を保って微笑みを浮かべる。
ドストフは椅子に浅く座り、そわそわとしながら自分の指を忙しなく絡み合わせた。
ジュナは一礼をして、
「急なことに応じていただき、感謝いたします、大公殿下」
ドストフは必死に威厳を保とうと胸を張り、
「急用であるのなら、なにかあったのではないかと思ってな」
ジュナは柔く目を細め、
「先ほど、提供いただいている自室に吉兆が訪れました」
思いも寄らぬ語り出しにドストフは首を傾げ、
「吉兆、とな……?」
「カシャヤという鳥が窓の外に巣を作ったのです。それはとてもおめでたい兆しである、と、エヴァチ司祭より教えていただきました。それで、もしやこのターフェスタになにか良い出来事が舞い込んだのではないか、と。時期を鑑みるに、戦地からの吉報があったかもしれない、と気になってしまって」
ドストフは平手で自分の膝を景気よく打ち、
「まさに……ッ、慧眼である……」
ジュナはわざとらしく目を輝かせ、
「それでは……」
ドストフは誰もいない応接間を見回し、
「これはまだ、正式な発表を控えている段階だが――」
ドストフは押さえていた笑顔を爆発させ、饒舌に最新の戦況を語り出した。ドストフは険しい顔で口の前に指を置き、
「――ということになってな。今聞かせた事は内密に、他言は許さぬ」
ジュナは目を湿らせながら、
「……おめでとうございます、殿下」
頷いて、頭を垂れた。
ドストフは椅子によりかかり、幸せそうに祝いの言葉に酔いしれる。
「向こうではユウギリと呼ばれている地だ、通商の通過点として何度か名を聞いたこともある。遥か彼方の大昔より、そこは東方の王土として治められていた。他の誰が、それほど重要な地を手に入れられただろうか」
思いを馳せ、噛みしめるように言いながら、ドストフは視線を酔いどれたように天に向けて泳がせる。
「前人未踏の偉業です、殿下の努力と誰よりも優れたご判断、そして叡智と勇気なくして、その成果はなしえなかったでしょう――」
ジュナはドストフが聞きたがるであろう言葉を止めどなく吐き出した。その度、ドストフの顔面はゆるゆると溶けていく。
ドストフはすっかり気を良くして、
「そなたも嬉しいであろう。あの者たちは私の期待に応え成果を上げた。それこそはまさに偉業、あの銀星石……プラチナ・ワーベリアムですらなしえなかったことだ……」
その名を語った後、ドストフは腹痛を耐えるような苦しげな顔をしてみせる。
ジュナは大きく頷いて、
「これから殿下もお忙しくなられることでしょう」
ドストフは機嫌の良さを思い出し、
「そうなのだ。発表は大々的に執り行う、彼の地に向かうための遠征隊も用意しなくてはならない。また、金がかかるが……」
嬉しげに語っていたドストフの声が、再び暗く沈んでいく。
ジュナは心配そうに顔を覗き込み、
「殿下は財政へのご不安をお持ちなのでしょうか」
すっかり心を開いている様子で、ドストフは体を弛緩させながら、鷹揚に頷いた。
「必要に応じて財を売り、税収も増やしてはきた。が、カトレイから借りる軍への支払いのため、すでに手を付けるべきではない蓄財を切り崩している状態だ。それなりの兵数を揃えて遠征隊の見栄えを整えたいが、それだけでも莫大な金がかかるだろう。費用を増税によって賄えれば、と思ったが、すでに取り過ぎだとうるさく言う者もいる」
ドストフは薄暗い吐息をどっと吐き出した。
話しながら、ドストフはちらとジュナの顔を覗っている。態度からして、明らかに聞きたい言葉があるようだった。
他人へ聞かせる相談事にはいくつかの目的と思惑が隠されている。ある者はさまよいながら答えを求めて他者の意見を耳に入れたがるが、ドストフの場合は違っていた。
「殿下――」
ジュナはたっぷりと間を空けて、
「――華々しい遠征隊を整えるための資金を、追加の徴税で賄うべきです」
ドストフの求める答えを用意した。
その言葉が相手の望むものであったかどうか、
「ああ……ッ」
感激した様子で腰を浮かせたドストフを見れば、一目瞭然である。
ドストフは祈るように手を合わせ、
「それこそ、私が最も聞きたかった言葉だ……だが……」
ドストフの欲求は単純である。金を集めて豪華な身なりを整え、自身の権力を誇示したいのだ。しかし、そのための諸々には多くの金が必要となる。
そうしたいと望みながら躊躇いを滲ませるのは、ドストフ自身が薄らと現実を理解しているからに他ならない。それは国が民から税を絞り取り過ぎている、という現状である。
良識や罪悪感は人の欲求に刺さる小骨だ。真に望みながらも、人は刺さった小骨の痛みで先へ進むことを躊躇する。
「ふふ――」
悩める小心者の大公を前にして、ジュナは細やかに笑みを浮かべた。その相貌は美麗という他なく、女神像のように柔和に微笑むジュナに、ドストフはぽかんと口を開けて見惚れているが、それは紛れもなく、ジュナが見せた嘲笑だった。
車椅子の肘置きを指の先でとんと叩き、ジュナはできる限り、深く身を乗り出した。
「殿下、一つお忘れになられています。あなたは大国ムラクモの領地をその手にされました。彼の地の領民から財を集めることは、支配者となった殿下には容易いこと。ユウギリという一つの地の扱いをとっても、その先に資金調達の目処はいくらでもたちます。財源はあとからいくらでも手に入る。ターフェスタの領民たちには一時を耐えさせるだけ、彼らは見返りをすぐに享受できます。今を惜しむあまり、先にあるものを見過ごしてはなりません」
いとも容易く、凡人は己を甘やかす。
ドストフは瞬きも忘れ、ジュナの言葉に頷きを繰り返した。助言を受けて納得している風に見えながら、彼のなかで答えなど最初から決まっていたのだ。あとは自分を許すための、他者からの一押しを必要としていただけにすぎない。
「よくぞ言ってくれた……ッ、そなたの言葉、このドストフは生涯忘れぬぞ……」
ドストフは顔をきりりと引き締め、君主としての威厳を全身にみなぎらせた。
「決めたぞ、征服を果たしたターフェスタ大公として、その威光を天下に知らしめる、そのためにはなにを惜しむこともないッ」
胸を張って、ドストフが虚空に向かって声を張り上げた。
「殿下のご英断に、心よりの敬意を――」
根拠なき自信を得て翼を生やしたドストフを見上げ、偽りの言葉を口先で紡ぐ。
ドストフの喉に刺さった小骨は、一本残らず抜き取られていた。
その決定が、自身を苦しませることになるかもしれない痛みを招く可能性を忘れさせ、ターフェスタ大公が抱く欲望は、ジュナの言葉により、誰にも知られることなく、無慈悲に解き放たれたのだった。