服従 4
服従 4
適切な言葉選びと明瞭な喋り口。今に至るまでの経緯を語るアレリー・ノランは、見た目の年齢よりも大人びた少女だった。
シュオウはアレリーの拘束をはずしながら、
「この子の話は事実か?」
ロ・シェンに対して、試みに問う。
「……我らは聖者の群れではない、対価を受け取り労働の一環として行っただけのこと」
苦しげな顔で喉をさすりながら、言い訳染みた口調でロ・シェンは答えた。
シュオウは横たわる老婆を見つめ、
「これも、労働のためだったか」
「雇い主の望みだ、他のなによりも強い要望だった」
聞きながら、アレリーの手首の拘束に手を触れると、
「……ッ」
アレリーが酷く痛がる素振りを見せた。
「大丈夫か?」
アレリーは目を潤ませながら頷き、
「はい、これくらいのこと、お婆さまの苦しみに比べれば……」
手首に巻かれていた拘束を解くと、赤紫色に変色した肌が露出する。最後に分厚い手袋をはずすと、綺麗な藍色をした彩石が露わになった。
腹の底を虫が這っているような不快感が心を濁す。
無力だった少女の悲しみと、傍らで正気を失うまで苦しめられた老婆。この結果を望んだ者と、加担した者。
怒りと不快感を込め、加担した者の代表者、ロ・シェンに視線を送るが、彼は決して視線を交わそうとはしなかった。
ロ・シェンは敗北者の態度を貫いている。対抗する意志を消し、ひたすらに服従する態度を崩さない。
――くそ。
吐きどころのない怒りが苛立ちとなり、シュオウは心中で悪態をついた。
「――――」
ビ・キョウが突然、シュオウの後方を示すように顎をしゃくった。
振り返ると、手に鋭利な鉱石の破片を握ったアレリーが、祖母の前に立ち尽くしていた。
アレリーは、
「今の私の力では、上手く晶気を操れる自信がありません……教えてください、どうすれば、人を少しでも楽に死なせることができるのでしょうか」
手は震え、顔は酷く青ざめている。
シュオウはゆっくりとアレリーに近寄り、
「簡単なことじゃない。それを渡してくれ……俺が代わりにやる」
焦点の定まらない目で、アレリーは震える手をゆっくりと持ち上げる。シュオウはその手にそっと触れ、鉱石の破片を受け取った。
うめき、発狂を繰り返す老婆の前に屈み、
「…………」
手際良く、死を与えた。
「あ……」
血を滴らせながら生気を失っていく老婆は、小さく声を漏らし、まるで安らかに微睡むように、微かな微笑みを浮かべ絶命する。
「お婆さま……ッ」
祖母に駆け寄るアレリーが、その身を愛おしそうに抱きながら慟哭する。
シュオウは血に濡れた鉱石の破片を見せつけるように、ロ・シェンの足元にあえて落とした。
「…………」
アレリーの悲痛な鳴き声を背景に、沈黙したままのシュオウに睨まれるロ・シェンは、顔に汗を滲ませ、
「この仕事で受け取った前金のすべてを渡す。それで、見逃してもらえるか……」
シュオウは鼻に皺を寄せ、
「金なんてどうでもいい。今は人質を全員解放することだけを考えろ」
ロ・シェンは
「承知した、ただちに解放する」
シュオウはロ・シェンとビ・キョウを強く見やり、
「始めろ」
*
ロ・シェンとビ・キョウの二人は率先して人質の解放に従事した。
歩ける者たちを誘導し、弱った者たちを背負って連れ出す。
全身が汗まみれになり、大方の作業の終わりが見えた頃、地上との往復の最中に突然ビ・キョウがくすりと笑った。
「なにがおかしい」
不満げに問うたロ・シェンに対して、ビ・キョウは額の汗を拭いながら、
「山を出て間もなくこれだ。大金と引き換えに力を誇示し、名高い東方の輝士たちですらも圧倒してその気にもなっていたが、直後に現実を思い知らされた。上には上がいる、その当たり前の出来事が、雨や雪の如く突然に降って湧いたのが妙におかしくてな」
「俺は少しも笑えんぞ。あの眼を見ただろう、隙あらば殺す理由を探していた。やるなら早くしろと、あの不気味な隻眼から放たれる視線が言っていた……生まれて初めてだ、捕らわれた獣の心地を味わったのは」
「だからこそ、お前は完全な服従を選択した」
ロ・シェンは低く声を潜め、
「……間違っていたと思うか?」
ビ・キョウはゆるやかに首を振り、
「私はあの男の戦いを目の当たりにした、見事だったよ。鍛え上げられた一門の者たちが、まるで赤子のように軽々と狩られたのだ。武芸の達人、などという言葉では片付かない、あの男は得体の知れない強さを秘めている。シェン、早々にそれを見抜いたお前の目に狂いはなかった。群れの統率者としては、そのことを恥に思う必要はない」
ロ・シェンはふっと肩の力を抜き、
「統率者としては……か」
自嘲ぎみに言う。
ビ・キョウは微笑み、
「お前には長命の素質があるよ、シェン。だが気をつけろ、ここでの所業が、相手を相当怒らせたのは間違いない」
ロ・シェンは腹の上を手で押さえ、
「死ねばすべてが無意味だ。這いつくばり、汚泥を舐めてでも生き残る」
*
広々とした資材置き場一帯を人々が埋め尽くしている。その半数近くは手の甲に彩石を持つムラクモの貴族たちだった。
地下に閉じ込められていた人質たちの救出を終えた頃、過ぎた時が、空の明るさを変えている。
弱った者、怪我人や病人たちの間を駆けずり回るセナは、
「こんな人数、私一人じゃ看きれない、ミヤシロのじいちゃんや街の人たちを呼んでこないと……」
切実な訴えの通り、救出された人質たちの状態はよくない。大小はあれど、知識を持った者が処置をしなければ危険であろう者たちも混じっている。
――どうする。
葛藤が生じ、シュオウは止めどなく空の色をたしかめる。
一晩を越え、また次の夜を迎えかねない現状で足踏みを続けているが、ここにきた大方の目的はすでに果たされているのだ。
「シュオウ君、迷っているのではありませんか……」
アマイから唐突に問われる。
「なにを、ですか」
アマイはふらついた足取りで距離を詰め、
「ここで助けを必要としている者たちのために力を尽くす事と、仲間たちの元に戻ることを、です」
おおよそ、心の内をそのままに見透かされ、シュオウは鷹揚に頷いた。
「……そうですね」
アマイは、おもむろにシュオウの手をしっかりと掴み、
「戻ってきなさい――」
視線を合わせ、強く言った。
「――あなたの居場所は縁もない北の国々にはないはずです。東地には君を思う者たちがいる、私もその一人です。それだけの力がありながら、ただの傭兵稼業に堕ちるべきではない。ただ一人、斥候のように敵地に送り込まれている君の現状を見れば、ターフェスタでろくな扱いを受けていないのはわかります。悪いようにはしません、共にサーサリア様を探し出し、その後は親衛隊の一員として軍に復帰できるよう、あらゆる手を尽くすと約束します。ですから、戻ってきて、力を貸してください、お願いします」
すべての事情を知らないアマイは、少なくない思い違いをしていた。だが、シュオウはその一つずつにあえて口を返さない。
心からの言葉をかけるアマイに、シュオウは軽く頭を下げ、
「ありがとうございます、アマイさん」
アマイは僅かに破顔し、
「それでは……ッ」
期待の視線を向けてくるアマイから目をそらし、そのまま現状を俯瞰する。
目の前にあるのは救出された人質たち。彼らを捕らえてその家族や身内である兵士たちを言いなりにしていたという問題の根源、カンノという名の男は野放しのままだ。
そのカンノに雇われ、捕らえた者たちに凄惨な扱いを与えていた集団の主力は大方で制圧済みである。
毛布を肩にかけながら、涙を拭うアレリー・ノランと目が合うと、アレリーは姿勢を整え、深々と頭を垂れた。
――解決はしていない。
このユウギリという土地が抱えた混沌は、なにも変わってはいない。その街に攻め込もうとしている立場から、現状の回復を試みるという矛盾を抱えながらも、
――まだだ。
残る、と心の内で決意を固める。
シュオウは隅に立ち尽くすロ・シェンとビ・キョウを呼び、
「お前たちの雇い主の戦力は?」
ロ・シェンは、
「一帯を仕切る巨利の館にはいくつもの下部組織がある。連中は古くからここらに根付いているクズ共だが、私兵としてはかなりの数になる。それに加え、民の一部を徴兵し、他にも小規模の傭兵たちも雇い入れている。人質をたてにして従わせているムラクモ人兵士たちを含めれば、そこそこの規模の軍隊と一戦交える程度の力は十分にあるだろう」
話を聞いて、シュオウは眉を顰める。
「そんなにいるのか――」
カンノという男は平民出身である。その立場にありながら、一国の軍と戦えるほどの戦力を有しているという話は、多少なりシュオウに驚きを与えた。
シュオウは熟考し、
「……カンノという奴を直接押さえるのが手っ取り早いな」
ロ・シェンと並ぶビ・キョウが突然膝を地面に落とし、
「敗北者の身としてはあつかましい願いだが、一門の無事が保証されるのなら、我らはどんな要求にも従う所存……そうだろう、シェン?」
ロ・シェンは躊躇なく膝をつき、
「……要求にはすべて従う、望みがあるなら言ってくれ」
両手を合わせ、頭を下げた。
アマイがやりとりを見つめる最中、シュオウは二人を睥睨し、
「群れの頭を押さえ、カンノに従っているムラクモの兵士たちに人質たちを解放したことを知らせたい。そのために手を貸せ」
ロ・シェンは渋い顔で視線を上げ、
「カンノはネズミよりも臆病な男だ、狙われていると知れば姿を隠すだろう。奴が根城とする館の内部は複雑で、隠された通路が幾重にも折り重なり、その先は方々の地下通路に通じている。いくら力があろうとも、制圧は容易なことではない」
シュオウは一瞬考え込み、視線を解放されたばかりの人質たちに向けた。
「それなら、隠れられない状況を作ればいい」
ビ・キョウはシュオウの視線の先を追い、
「…………なるほど、そういうことか」
シュオウはロ・シェンを見つめ、
「カンノに家族はいるか?」
「いる。すべてを把握しているわけではないが、妻たちに子どもや孫たちが複数人いるのは知っている。子の一部は下部組織を仕切る頭目の地位にある」
空に厚い雲がかかり、微かな冬の陽光を遮った。
シュオウは眉の下に暗い影を落としながら顎をひき、ひざまづく二人に視線を合わせ、
「捕まえろ」
短く命じる。
「…………」
側に立つアマイが、複雑な表情を浮かべて息を飲む。
ロ・シェンは深く頭を落とし、
「承知」
シュオウは二人を睨み、
「お前たち全員を解放した後は、俺一人で監視することはできない。逃げたければいつでもできるはずだ。でも、俺にも仲間がいる、もし逃げたとしても、かならず見つけ出してやる」
顔を上げたロ・シェンは一瞬だけシュオウと視線を交え、
「百刃門大師範の名に誓う、必ず、使命をまっとうする……」
*
「変化はないか?」
天幕を張った司令部の下、苛立たしげなジェダの声を聞き、バレンが頭を下げた。
「は、現在のところなにも……」
ジェダは天幕のすき間から空を見上げ、
「また一日が過ぎようとしている。ここまで時間がかかるなんておかしい、なにかあったのかもしれない……」
「へ――」
積み上げた荷物に背を預けていたシガが笑い、
「――なにがあるっていうんだ」
ジェダは睨むようにシガを見やり、
「どんなことでもあり得る」
シガは上半身を起こしてジェダを睨み上げ、
「相手を誰だと思ってる、お前が母親みたいに心配してる相手はシュオウだぞ。あいつが中に入って戻ってこないってんなら、戻ってこれないんじゃなくて、戻ってくる気がないだけだ。こんな簡単なこともわからねえのか」
「力だけですべてが解決するわけじゃない、不慣れな土地に入れば不慮の出来事に遭遇することもあるだろう。南方の野人の考え方は単純でうらましい、こんな当たり前の事を想像する知力もないようだ」
シガはゆっくり立ち上がり、
「言ったな……? 取り消させやしねえぞ」
ジェダは真っ向からシガと睨み合い、
「取り消すつもりなどない」
脇でおろおろとしながら様子を窺っていたレオンが割って入り、
「お二人ともやめてください! 朝方の件で、増援軍が今にも破裂しそうなほど不満を態度に表しています、こんな状況で身内どうしで争っている姿を見られれば、相手方に付け入る隙を与えることになりますから」
その時、天幕の出入り口から姿を現したレノアが、
「そいつの言う通りだよ。あんたらの言動は多くの人間の命を左右する、言動には気をつけな」
バレンがレノアに椅子を差し出し、
「増援軍の様子は?」
レノアは席に腰を落として首を回し、
「ボウバイトの兵士どもはブチギレてるよ。当たり前だ、仲間から逃げ道を封鎖されるなんてのは、喉元に刃を突きつけてるのと同じことなんだからね」
言いながら、当てこするようにジェダを凝視する。
ジェダは冷めた視線をレノアに送り、
「元から信用のできない相手だ、武力に訴えて逆らうつもりならそれでもかまわない、今のうちに叩き潰しておく丁度良い理由になる」
「……それが残念ながら、お坊ちゃんの期待通りにはならなそうだ」
レオンが前のめりに、
「それはどういうことですか?」
レノアはレオンに視線を向け、
「下っ端と一部の幹部連中が騒いでるが、一線を越えてくる気配はない。意外だったけど、どうやらボウバイト将軍は現状を甘んじて受け入れるつもりのようだ」
バレンとレオン、アガサス家の親子は同時にほっと息を吐きだした。
ジェダは渋面で、
「そうか、それは残念だよ」
レノアは自分の目の下をなぞり、
「ぴりぴりしすぎなんだよ、いい加減少し眠りな、目の下が黒くなってるよ、綺麗なお顔が台無しじゃないか」
ジェダは不快そうにレノアを睨んだ後、椅子に腰掛けた。
瞼を落とし、指先で目頭を摘まむジェダに対してシガが突然、
「そんなにあいつのことが気がかりならな、自分で行って見てくりゃいいんだ」
ジェダは目頭を揉む手を止めてシガを見つめ、
「……なんだと?」
シガは歯を見せてジェダを睨み、
「なんだよ、続きをやりてえのか」
ジェダは首を振り、
「違う、今なんて言った?」
予想外の反応にシガは戸惑いつつ、
「あ……? 気になるならてめえで見てこいって言っただけ――」
ジェダは途端に立ち上がり、
「そうだ……その通りだ、珍しく良いことを言ったな」
レノアが腰を浮かせ、
「おい、まさか本当に?」
「行くさ、ただし、僕一人じゃない。ユウギリ領内への侵攻を目的とし、ただちに全軍の総力をもって進軍を開始する」
司令部にいる全員が息を飲む中、シガが冷めた声で、
「あの婆さんが黙っていうこと聞くと思うか?」
ジェダは外套を羽織り、身なりを整えながら、
「僕が直接話をつける。君はどうするんだ」
問われたシガは首を鳴らし、
「ま、ただここで待ってるよりはましだな。街に入れば飲み食いするもんもあるだろうし、悪くねえ考えだ」
同意を告げたシガに、ジェダは微かに微笑みを向ける。
「こっちの意志は聞きもしないのかい」
レノアの不満に対してジェダは、
「雇われは黙って言われた通りにしていればいい」
冷たく言い放った。
続けて、
「アガサス重輝士、意見があるなら聞こう」
柔い調子で問いながらも、斬りつけるような鋭い視線でバレンを見た。
バレンは僅かな間を置き、
「……ありません、ただちに兵をまとめます」
*
「閣下、ジェダ・サーペンティアが話があると」
アーカイドから聞き、エゥーデは顰めっ面で、
「話、だと?」
アーカイドは頷き、
「追い払いますか」
エゥーデは視線を泳がせ、
「……いや、通せ。何を言い出すつもりか、暇つぶしに聞いてやる」
ディカの案内のもと、増援軍の司令部テントの中にジェダが通された。
「おはようございます、将軍」
ジェダの恭しい辞儀に対して、エゥーデはツボの中に痰を吐き出し、
「夕暮れ間近に早いもくそもあるか。用件はなんだ、朝方の件について詫びにでもきたか」
「いいえ、必要なことをしたまでですから、謝罪は不要でしょう」
「やはり、貴様の指示だったな、蛇の家の糞ガキめ。お前の主はどうした? ふらりと敵地の視察に行ったまま戻らぬのだろう。分不相応な地位にいまさら恐れをなして逃げ出したか?」
「現状はすべて、当初からの作戦のうちです。敵地の情勢を見極めた後、合図をもって進軍を開始する――――時は整い、進軍を開始する時がきた。その意志を伝えるためにこうして直接参上いたしました」
ジェダの言葉に、エゥーデは大袈裟に声を上げ、
「ほおう、それは大層な深謀よ。その作戦とやらに、相談もなく後方を塞ぐことも入っていたか? まるでこちらの動きに怯えているような態度だと思ったがな」
ジェダは顔色一つ変えないまま、
「軍務であれば柔軟に事に当たらなければなりません。今朝方の件に関しては、僕の一存で決めたことです」
やり取りを見守りつつ、ディカがあからさまに肝を冷やした様子で両者に視線を彷徨わせる。
エゥーデはディカを厳しく見つめ、
「ディカ!」
ディカは体をびくりと震わせ、
「は、はいッ」
「お前はどう思う」
一言、聞かれたディカは驚いた顔をした後、まなじりに力を込め、
「……この状況での進軍が司令官の意志であるのなら、麾下である増援軍は従うのが道理、だと思います」
自信ありげに語り始めながらも、徐々に声の強さが落ちていく孫の様子を、エゥーデは内心愉快に思いながら見ていた。
「このまま白道に寝そべっていても飯を食い潰すだけだな」
エゥーデの言葉に、場にいる全員が驚いた表情をみせる。
ディカは一歩踏み出し、
「では……ッ」
「どうせやるつもりでここまで来ているのだ。進軍するぞ、アーカイド、ディカ、者どもに知らせ、支度を進めろ」
ジェダは深々と頭を垂れ、
「司令官に代わり、誠実なご決断を心より感謝いたします、将軍閣下」
エゥーデは呆れたように鼻息を飛ばし、
「微塵にも思っていないのだろうが」
伏した顔のまま、ジェダは露骨に頬を緩ませた。
*
空の赤みが、ユウギリの街並みに影を生む。
虫の音もなく、鳥も巣に引きこもる寒い冬の夜を目前に控えた頃、巨利の館では物々しい警備態勢が敷かれていた。
各所にムラクモの軍人である輝士や従士たちが配置され、その奥に幾重もの壁や門を挟み、組織が抱える私兵たちと、傭兵たちを侍らせながら、館の主カンノは自らがこしらえた仮の領主の御座に腰掛けていた。
カンノは落ち着きなく肘掛けを指で叩きながら、
「おい、いつまでかかるんだ」
百刃門の幹部、ジ・ホクは振る舞われた豪華な食事を喰らいながら、雇い主であるカンノにへつらうように頭を下げた。
「主人殿、どうか心配なく、今うちのやつに確認に行かせたところなんで」
カンノは年季の入った顔でジ・ホクを睨み、
「さっきもそう言ったぞ、その前もッ」
不意の訪問者があり、ロ・シェンが雇い主をジ・ホクにまかせてから連絡がとれていなかった。確認のために人を送るも、送った者は一向に戻ってこない。さらにその確認のために送った者も戻らず、ジ・ホクは三度目の確認のために部下をさらに送り込んでいた。
「次が戻らなければ俺が行って直接見てきますんで」
かぶりつく骨付き肉の脂を口の周りにべっとりつけながら、ジ・ホクは止めどなくカンノに頭を下げる。
カンノは慌てて手を振り、
「いやいや、お前はここにいろッ、彩石を持つお前は強いんだろう、ロ・シェンがいない間はしっかりと側について俺を守れ」
やっていることと風体のわりには気の小さい男だ、とジ・ホクは呆れる。しかし相手は目もくらむほどの大金を支払い、さらに莫大な成功報酬まで約束している優良で貴重な雇い主なのだ。
「承知しました、主人殿。なに、心配はいりません、もし何かがあるにしても、大師範たる兄者がしくじることなんてありえないんで。それよりもこれのおかわりが欲しいんですがね……?」
カンノは苛立たしげに顔を顰め、
「まだ食うのか……」
手で部下に合図を送った。
運ばれてきた食べ物にがっつくジ・ホクに呆れつつ、カンノは奥の門を守る私兵たちに声をかけ、
「ノランを呼べ、急ぎだ、さっさと連れて来いッ――」
間もなく、アルデリック・ノランが姿を現すと、カンノは無言で床を指さした。
ノランは不快げに顔面を歪め、膝を落とし、王侯に対するように頭を垂れる。
「来たな」
重輝士という高い階級を持つ貴族軍人を一言で呼び出すことができる。カンノはその優越感に一時、抱いていた不安を忘れてほくそ笑んだ。
ノランは険のある視線をカンノに向け、
「外郭の守備を指揮している最中だ、用件があるなら早く言え」
ノランの態度を見たジ・ホクが吹き出し、
「ムラクモ輝士さんよ、あんた自分の立場をわかってんのかい?」
ノランはジ・ホクを強く睨めつけ、
「うるさい、黙って食っていろ傭兵」
ジ・ホクは咀嚼していた口を止め、座った目でノランに持っていた骨を投げつけた。
「お偉い貴族軍人様ってのは本当に偉そうだな? 南山出身の俺を下に見てんのか? あんたらから見たら、ど田舎の辺境だろうしよ、馬鹿にしてんじゃねえのか?」
ジ・ホクはノランに歩み寄り、巨体から見下ろして片手で肩をがっつりと掴み、力を込めた。
「ぐあああ――」
肩を掴まれたノランが悲鳴を上げ、崩れ落ちる。
ジ・ホクはノランに顔を寄せ、
「お前なんて俺から見りゃ、山に積もってる腐葉土みたいなもんだ。口にゃあ気をつけるんだな、輝士様よ」
カンノが強く手を叩き、
「そこまでにしとけッ。ノラン、お前にまかせた手勢から数を割き、ここの守りを増やせ」
苦しげに息を吐き、重く喉を鳴らして顔を上げたノランは、
「これ以上、外に配置する兵を減らすことはできない……」
「そこをどうにか融通しろって言ってんだ」
「敵が目前に布陣しているのだぞ、奴らがいつ進軍を始めるかもわからない状況でむやみに――」
ジ・ホクはノランの胸ぐらを掴み上げ、
「がたがたとうるせえな、ご主人様がやれといってんだ、黙ってやれよ」
その時、
「カンノ様!」
慌てて入ってきた部下がカンノに駆け寄り、耳元でなにごとか囁いた。
カンノは大きく舌打ちをして、
「糞が、こんなときに……」
ノランはカンノを見やり、
「なにがあった……?」
「その攻めてきてる奴らが動き出したとよ」
ノランは歯を剥き出し、
「始まったのか……」
カンノはジ・ホクに、
「そいつを放せ――」
解放されたノランに、
「――持ち場に戻れ」
「……ここに人を送れという話は?」
カンノは目の下をぴくりと震わせ、
「なしだッ、手持ちの戦力を総動員して侵略軍を食い止めろ」
「手持ちでいつまでも耐えられるような相手ではないぞ……早めの降伏を勧める」
ノランの言葉にカンノは唾を吐き出し、
「ユウギリは俺のもんだ、余所者に指一本触れさせやしねえ。勝たなくてもいい、負けなきゃいいんだ。何人死なせようと、奴らが退くまで時間を稼げ。人が足りなきゃ街の奴らを徴兵してやる、老人だろうが子どもだろうが、盾になる奴らを無差別にな」
ノランはカンノに軽蔑の視線を送り、
「クズめ……」
カンノは歯を見せて、
「行け、犬め。逆らえばお前の娘の手足を切り落とし、焼いてそいつに食わせてやる」
ジ・ホクは自分を指さし、嫌そうに首を振った。
ノランは音を立てて外套を翻し、
「私の家族に傷一つでもつけてみろ、その時はお前をこの手で八つ裂きにしてやる、この言葉を決して忘れるな」
背を向け、立ち去った。