潜入 4
潜入 4
まるで演舞のような攻防が繰り広げられた後、ビ・キョウが率いる集団は観衆と化していた。彼らが一体となって息を飲む気配が、心地良い喝采のように戦いに興を添えている。
一方で、自身の得物である双子剣の片割れを落としたまま、ビ・キョウは呆然と立ち尽くしていた。
シュオウはビ・キョウの剣を拾い上げて、使い心地を確かめるように軽く剣を振ってみせる。
ビ・キョウは剣を握ったシュオウを見つめ、
「その身のこなし、剣さばきに一切の無駄がない……」
シュオウは握った剣をちらりと見て、
「剣を使うようになって、まだ日が浅い」
ビ・キョウは明らかな惑いを表情に滲ませ、
「下手な謙遜のつもりか。剣を扱う動きの一つ、素人のそれではない……それどころか、先ほどの動きは……いや――」
思いを払うように首を振った。
「――たしかに、剣士の足さばきとは趣が異なる、それに妙な癖も感じたが」
ビ・キョウは自らに問いかけるように語りながら動揺を鎮めていく。
シュオウは手にしたビ・キョウの剣を掲げて見せ、
「続けるか?」
ビ・キョウは頷き、
「当然ッ」
戦意を持ち直した様子を見て、シュオウは一瞬口元を綻ばせ、ビ・キョウの剣を投げ返した。
剣を受け取った相手が体勢を整えたのを見て、シュオウは先手をとって攻撃を仕掛ける。剣を払いながら距離を詰め、自然な動作で手が届く間合いを詰めていく。
しかし、シュオウの手は相手に届くことなく空振りに終わった。
ビ・キョウは得意げに鼻を鳴らし、
「一瞬驚かされたが……なるほど、見よう見まねのお遊びだったか、真剣勝負の最中に、ふざけたことを考えるなッ」
瞬時に、鋭く目を尖らせた。
言葉と同時に双剣が凄まじい風切り音と共に振り払われた。まるで一本の剣が分裂しているかのように、二つの剣が完全に動きを一致させて繰り出される。
剣の軌跡は吹き抜ける風、足運びは流れる水、視線の動き、腕の振り、そのどれもが長い鍛錬と才能によって磨き抜かれた達人の技だ。
まったく異なる間合いが用いられる剣術と体術、ビ・キョウの技は、この二つが矛盾することなく共存していた。
――違いはなんだ。
観察する。連続する複雑な動きを、一枚の絵の如く切り分け、その一つずつを一瞬で頭にたたき込む。
剣で切り払うための間合い、剣で穿つための間合い、そして格闘、相手との間合いを詰め、拳を打つための間合いをとる。
――俺のとは違う。
シュオウの技は、格闘に用いる間合いよりもさらに深い。相手の体の各部位を掌握し、そこから全身が擦り合うほどの距離を維持しながら、相手の自由を完全に制する。
これまで付け焼き刃で学び、使ってきた剣術と、身体にたたき込まれた体術の二つは、完全に混じり合うことのない矛盾した技法だった。だが、その矛盾を超え、両方を掛け合わせた道の一つが、今目の前にあるのだ。
――もっとだ。
獲物を前にした獣が涎をこぼすかのように、口内に汁が溢れた。
純粋な好奇心は満たされることなく、さらなる飢えを伴って、シュオウの探究心を突き動かす。
「しッ」
ビ・キョウがかけ声のような声と共に剣を振った。
その一振りは決して見せかけではない、隙あらば一振りで相手の急所を切り裂く強さを秘めている。だが、同時に剣の間合いを超えて絶妙に距離を詰めてもくる。直後になんらかの意図を持ち、剣を手放して手先を伸ばしてくるのだ。
――なにがしたい。
ビ・キョウの技の動きを見るに、手を伸ばしてくる動作こそが、技の真髄に違いない。
知るために、その行く末を見届ける必要があった。
――見せてもらう。
シュオウは後退して足元に転がっていた石を拾い上げた。
その行動を勘違いしたのか、
「恥知らずな」
ビ・キョウが軽蔑の意を吐き出した。
ビ・キョウが再び双剣を振り払う。
一連の技を見届けて、相手が手先を伸ばす瞬間をはっきりと眼で捉える。狙われた部位を後ろに下げ、代わりに拾った石をビ・キョウの手先の前に差し出した。その直後、
「ッ?!」
ビ・キョウの手先に触れた硬い石が、まるで脆いガラスのように音を立てて砕け散った。
――そうか。
結果を見て、納得する。
「技の決め手は握力か。手が体に届いた瞬間に、相手を掴み殺すための動きだな、俺じゃなければ、最初の一手で殺されていた」
ビ・キョウは明らかな動揺を纏いながら一歩、二歩と後退して、
「お前……何者だ……?」
その瞳が、再び惑いと疑念に囚われる。
シュオウは応えることなく間合いを詰め、ビ・キョウへ剣を振り払った。
遠近の間合いを切り替える――――相手が使う体術の神髄はそこだ。だが、半歩の間合いを詰めるだけでは完璧な模倣には至らない。
一連の動作を見せられたビ・キョウは、美しい顔に怒気を孕ませ、
「またそれか……ッ、付け焼き刃の真似事など通用するはずがないッ」
ビ・キョウが反転して攻勢に出る。シュオウは避けること、受けることのすべてを感覚に委ね、観察にすべての意識を集中する。
剣を払い、間合いを切り替える、半歩を詰め、格闘の間合いに相手を引き込む。
一連の動作は流麗だ。剣技から体術、体術から剣技、まったくつなぎ目の見えない組み合わせの木工細工のように、異なる二つが融合している。
だが、相手が言うように動きを模倣してみても、あと一歩が及ばない。完成へと至る、決定的ななにかが足りていなかった。
すべての集中を注ぎ込み、一連の動きの一つずつ、そのすべてを読み解いていく。
それは、視るものすべてを薄く、丁寧に切り裂いていくような感覚だった。その過程で、異物のような存在、その二つの間合いのつなぎ目が完全に溶け合う瞬間を探求する。
足運びは見た。
視線も、腕の動きも。
――肩は?
記憶に焼き付けた動きから、違和感は感じられない。
今目の前で起こっているビ・キョウの動作と、引きずり出した記憶の動きを照らし合わせる。その時、ふと小さな違和感に囚われた。
シュオウは淡く口元をほころばせ、
――見つけたッ。
一度目、二度目、三度目と繰り返されるビ・キョウの技は、同じように見えてもなにかが違う。そこに見つけた明らかな違い――その都度に、剣の長さが微妙に変化しているのに気づく。
――試そう。
ビ・キョウの攻撃を躱し、またシュオウは同じ動きを再現する。しかし、そこには今までなかった動作が組み込まれる。剣を握る柄の長短の調整だ。
ビ・キョウは動作の中で自然にそれをやっていた。剣の間合いでは長く、そして体術の間合いに移るにつれ、少しずつ剣の握りを短くしていく。たったそれだけの事だが、極まった手並みによって、間合いの切り替えに絶妙に違和感を隠している。
シュオウはその動きを完全に模倣した。剣を振りつつ、握り手の深さを調整する。足りなかったその一つの動作を組み入れた瞬間、
「――――――ッ」
深い洞窟を抜けた先に雲一つない大空を見るかのように、捉える視界が、はっきりと剣の間合いを突破した。その直後、剣技と体術、それぞれに持ち込める複数の道を示す、新たな行程が現れる。
――これが。
それこそ、ビ・キョウの極めた技が見せる新たな景色の一端だった。
シュオウはビ・キョウの手首を掌握する。その直後、片方の手にある剣で、さらに相手の喉元に刃を押し当てながら、さらにその奥に、いくつもの手を打つ余裕が垣間見える。
命を完全に掌握する感覚が、痺れを伴い全身を冒した。
シュオウは見開いた眼でビ・キョウを凝視し、
「極めだ――この先は、何度戦っても俺が勝つ」
勝利を宣言した。
ビ・キョウは手をだらりと下げ、呆然として両膝から地面に崩れ落ちる。
「まさか、そんな……」
見守っていた者達が、
「師範ッ!」
声を荒げて武器を構えた。
ビ・キョウは震えながらシュオウを見上げ、
「開祖より幾星霜をかけ、磨き上げられた一門の技、型の習得に数十年、身を粉にして己を鍛え上げてきたというのに、その極意を今の一瞬で――」
ビ・キョウの顔付きが、徐々に憤怒に塗れていく。
「――盗んだのか、今の一戦だけで……? 我らの教えを、その極意を……? 信じられん、だが目の前にあることが事実ならば……生かしてはおけない……もはや武人としての誉れもない……お前たち、門外不出の技を、我らの誇りを奪った者を、殺せえッ!!」
ビ・キョウの咆哮が夜の静寂を打ち破る。
その途端、武器を持った無数の武芸者たちが、声もなく一斉にシュオウに襲いかかった。
シュオウはビ・キョウの掌握を解き、すかさず距離をとった。
――数が多い。
軽く十人以上はいる。それぞれが多種多彩な武器を持ちながら、ビ・キョウの号令の直後に素早くシュオウを取り囲んだ。
殺気だった集団は、手慣れた様子で目配せを交わした。その直後、前から一人、左右後方側から二人がシュオウに襲いかかる。
前からくる一人は短槍を構えていた。得物が違っても、やはりビ・キョウの技のそれと基本的な動きはよく似ている。
優れた武人でありながらも、やはりその技のきれはビ・キョウに遠く及ばない。
間合いの極意を見切った今、相手の技の隙がはっきりと見て取れる。
間合いの隙をつき、剣を払う。すかさず相手の短槍を握り、体勢を崩して振り回し、素早く立ち位置を入れ替えた。
シュオウが立っていた位置に身を置き換えられた相手は、背後から武器を振っていた二人の攻撃を一身に受ける。
「ぐあああッ」
同士討ちの結果、二人が一人を痛打した。
一人がシュオウを睨めつけ、
「きさま……ッ」
大きな体に似合わず、俊敏な動作で金属棒を振りまわす。
シュオウは一撃を躱しつつ、相手の動きを観察した。
同じ流派であっても彼らは扱う武器が違う。それだけではなく、最後の決め手まで異なるようだ。
ビ・キョウは、彩石の力によって得られるのであろう強靱な握力によって、指先で人体を破壊する術を決め手としていた。
今対峙している男は彩石を持っておらず、しかしよく鍛え抜かれた蹴り技を、剣の振りに巧みに織り交ぜて攻撃を仕掛けてくる。
十人十色、それぞれに合った武器と格闘術の融合を果たし、昇華した武術のようだ。
十人以上の武人たちに命を狙われた状況ながら、シュオウは世界の広さの一端を目の当たりにして、未知の可能性に目を輝かせた。
――ここッ。
相手の間合いのつなぎ目に剣を入れ、型を崩す。剣の腹で武器を握った拳を叩き、握りが緩んだ隙をついて武器を奪って投げ捨てる。徒手になった相手が武器を奪われたことに気づくよりも早く、
「――ッ」
相手の懐深くに潜り込み、手首をとって相手を組み伏せ、倒れ込んだ男の肩を足で強く押さえ付けた。
シュオウはビ・キョウを見やり、
「そっちのやり方は見せてもらった。今度は俺のやり方を見せる番だ」
言って、踏みつけていた男の腕をへし折った。
「ぎゃあああ、ああああッ――」
シュオウは上半身をしならせてゆったりと身を揺らし、手にしていた剣を投げ捨てた。
轟く悲鳴を背景に、ビ・キョウはその目を大きく見開いた。
*
物影に隠れて様子を覗っていたセナは、一帯が静かになったのを待って、恐る恐る前に出た。
地面一帯に、まるで木の枝で子どもが絵を描いたかのように、足で付けられた線が無数に刻まれている。
その地面の上に複数人、南方人の武芸者たちが倒れ込んでいた。
「う、うう……」
異様な光景と、そこかしこからあがる呻き声を聞きながら、突っ伏した者たちの間を怖怖と歩く。
倒れた者たちは皆、腕や足があらぬほうへと曲がっていた。
倒れ込んで呻く者は多数、なかには気を失っているのか、ぴくりとも身動きをとらない者も混じっている。
集団のなかを抜けると、その先にシュオウの暗い銀髪が見えた。この群れの統率者ビ・キョウの前に立ち、相手を静かに見下ろしている。
ビ・キョウは無抵抗に座り込み、
「シュオウ、と言ったな、まさか総出でかかって、たった一人に敗北するとは…………一門の武力に自信があったのだがな、この世の広さを思い知らされた気分だ」
目を細めながらシュオウを見上げた。
シュオウは淡々と、
「俺も同じ事を思ってた」
ビ・キョウは優しげな眼差しで微笑し、
「聞くが、お前の武術に師はいるのか?」
シュオウは頷き、
「いる」
ビ・キョウは寂しげに視線を落とし、
「そうか。叶うなら、教えを請うてみたかった――」
シュオウに自らの剣を差し出して、
「――抵抗はしない、好きな方法で殺すがいい」
その言葉を聞いて、セナは胸を押さえながら息を飲んだ。気配を察して、シュオウが一瞬セナに視線を送る。
シュオウがビ・キョウの剣を受け取った時、
「……殺す、の?」
セナは震える声でそう聞いた。
シュオウはビ・キョウを見つめ、
「殺されたいのか?」
ビ・キョウは自嘲するように笑い、
「望んではいない、だが死することは敗北者が辿る末路という名の道だ。私は負けた、我が身の敗北の後、武人の誉れを捨てて、一対一の勝負を持ちかけた相手に複数人をけしかけ、それすらもしくじった。一門の技も見破られ、このうえで生き恥を晒すつもりもない」
命を投げ出した相手と、その命を握る者が向かい合う。見慣れない非日常の世界に足を踏み入れながら、セナは固唾を飲んで、シュオウの横顔を見つめていた。
「…………」
沈黙の後、シュオウは鋭い視線をセナに向けた。その瞬間、セナは背筋を凍らせる。そこに感情の色はなく、ただ見るためだけの道具のように、それはまるで野生の獣がぎらつかせる眼のようだった。
シュオウはセナに、
「なにか縛れるものを探してきてくれないか」
と聞いた。
見た目とは裏腹に落ち着いた声音に驚きながらも、セナはその意を理解し、
「あ……うんッ、探してくる!」
なぜか嬉しさを感じ、顔を隠した布地の下で破顔する。
ビ・キョウは、
「同情か? そんな甘い考えを持つ者には見えなかったがな」
シュオウはビ・キョウを見下ろし、
「無闇に殺す必要もない。それに、まだ話を聞いてない」
ビ・キョウは視線を流し、
「そういえば、そのような事を言っていたな。親衛隊とやらについてはよくわからないが、しばらく前に我々一門によってここに駐屯していたムラクモの輝士隊が制圧された。生き残りをここの地下に収監している、見に行きたければ案内しよう」
聞いたシュオウの表情が一段と険しくなるのを見ながら、セナはぼろぼろになった牛舎に向けて走り出した。
錆びた道具が散らばっている廃屋の中を覗き込むと、建物の壁面にかけられていた。
黒ずんだボロい縄を集め、意気揚々とシュオウのもとへ届けた。
シュオウは受け取った縄を引っ張って強度を確かめ、
「使えそうだな、よく見つけてきてくれた」
褒められた気分になり、セナは無言でその場を飛び跳ねた。
シュオウは縄を手頃な長さに切り、それをビ・キョウにかけようとするが、その途中で手を引っ込めた。
「どうした、拘束しないのか」
ビ・キョウが手を差し出した格好で問うた。
シュオウは難しい顔で眉根を寄せ、
「石を砕けるほどの力があるなら、縄でしばる程度じゃ意味がないような気が」
「えええ、使わ、ないの……?」
自分の手柄が無意味になったような気分になり、セナはしゅんと肩を落とす。
シュオウはセナと縄を見比べて、
「……一応、やっとくか」
セナの心を察した様子で、シュオウはビ・キョウの両腕にきつく縄をくくりつけていく。
――優しいんだ。
実際の行為とは矛盾する感想を持ちながら、セナは気をつかって縄をまくシュオウをじっと見つめた。
セナは残りの縄を手に取り、
「他のやつらも縛っとくからッ」
明らかに身動きがとれないであろう武人たちに悲鳴をあげさせながら、セナは日雇いの荷運びの仕事をした経験を活かし、絶対にゆるまない方法できつく怪我人たちを縛り上げた。
*
寒さに覆われた廃村は時を止めたように静まりかえる。
ときおり吹く枯れた風の匂いを感じながら、シュオウは前を歩くビ・キョウをしっかりと視界に捉えていた。
視線を感じたのか、ビ・キョウは僅かに振り返り、
「さきほど言っていた通り、この程度の拘束なら、幾通りも破る方法を思いつくぞ」
どこか挑発的な声音を聞いても、シュオウは動じることなく、
「それでもいい。何度戦っても、絶対に俺が勝つ」
ビ・キョウは微笑を浮かべながら目を細め、
「見下されたものだが、完膚なきまでの敗北を喫した今となっては、悪い気はしない」
その時、
「どうして? 負けたら嫌でしょ? 気分が悪くなるんじゃないの?」
ひょこひょこと後をついてくるセナがビ・キョウに話しかけた。
ビ・キョウは眉をあげてセナを見つめ、
「それが世界の理だからだ。勝者は敗者のすべてを握る、野生の獣が絶対的捕食者を前にして膝を折るのを見た事がある。負けを悟り、死を受け入れたのだ。そして敗北を受け入れた敗者の顔は、奇妙なほど穏やかに見えた。私は今、それと同じ境地にある。強者を絶対とするのはクオウの教えの一つでもある、だから、さきほどの言葉はこうも言い換えられる、強者は弱者のすべてを握る――生殺与奪という考え方だ」
セナは話の途中で何度も頷きながら、聞き終えると深く溜息をおとした。
「ほおええ…………明日まで覚えられないかも」
「はっは――」
ビ・キョウが場違いなほど朗らかに笑った。
ビ・キョウは不意に足を止め、地面に置かれた木箱を蹴った。
「この下に地下通路の入り口が隠されている」
シュオウが重い木箱をずらすと、言われた通り、そこに左右に分かれる開き戸が現れた。
シュオウは、地下に続く階段を見て、ビ・キョウに先へ入るよう促す。
シュオウは声が反響する重苦しい階段を降りながら、
「輝士隊を制圧したと言っていたな、何があったか知りたい」
ビ・キョウは前を見たまま、
「依頼を受けて連中を襲ったのだ。高位の軍人たちのようだったが、我らの敵ではなかった。多少の死人は出たが、大方完全勝利と言っていい形で片が付き、生き残りはムラクモとの交渉に使うということでここに幽閉されている」
シュオウは声を沈め、
「……ムラクモの王女はいなかったか」
ビ・キョウは足を止めて振り返り、
「知らないな。そんな大層な獲物がいれば忘れはしない」
まるで嘘を言っていないと強調するように、シュオウとじっくり視線を合わせる。
「……わかった」
シュオウが言うと、ビ・キョウは再び足を進めた。
階段を下りた先に細長い通路が広がっている。様子からして、そこは古い鉱山道のようにも見えた。
ビ・キョウは通路の途中にあった部屋の前で足を止め、
「鍵は懐に入れてある。それと予め言っておく、上からの指示で囚人の面倒をまともに見ていないが、私の趣味ではないからな」
自分の胸を見下ろしながら言った。
シュオウは注意を払いつつビ・キョウの胸元に手を伸ばすが、その手の行き先に気づき、ぴたりと手を止めて硬直する。
固まったシュオウを見て、ビ・キョウが愉快そうに笑みを零した。
セナがシュオウの顔を見上げ、
「私が、とろうか……?」
シュオウは身を引いて、
「……頼む」
萎れた声で言いながら、ビ・キョウに対して牽制の睨みを効かせた。
しゃがんだビ・キョウの胸に手を突っ込んだセナは、するりと古びた鍵を抜き取った。
「はい、鍵」
セナから鍵を受け取って、シュオウはがちがちと音をたてながら解錠する。
扉を開けた途端、中から悪臭が通路に漏れ出し、シュオウは思わず鼻に腕を押し当てた。
真っ暗な部屋を明かりで照らす。室内には一人のムラクモ軍人が監禁されていた。黒に近い色の軍服から高位の軍人である様子が窺える。
足を鎖でつながれたその軍人は、ぐったりと力なく地面に倒れ込み、一切の身動きをとらなかった。
シュオウは軍人に駆け寄り、首に手を当てて生存を確かめる。
その時ビ・キョウが、
「死なせてはいない、そういう指示だからな」
「あ……ああ……あ……」
指先から伝わる微かな熱と鼓動と共に、倒れた軍人が切れ切れに声を漏らした。
シュオウは軍人を抱きかかえるように体を起こさせる。
脂ぎった黒髪が垂れる顔には、整えられていない髭が無造作に生え伸び、汚れきった全身から悪臭を漂わせている。
白くひび割れた唇を震わせながら、軍人は薄らと目を開けた。その途端、シュオウは咄嗟に息を飲んだ。
東方土着民の特徴を色濃く見せる面立ちに割れた眼鏡、知性的な細長い瞳、見覚えのある数々の特徴に気づき、
「アマイ――」
シュオウは相手の名を口ずさんだその直後、
「うあああああッ!!」
歯を剥き出しにしたムラクモ王国親衛隊の隊長、シシジシ・アマイが、鬼のような形相で激しくシュオウに掴みかかった。
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