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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
銀星石攻略編
126/184

序曲 5

序曲 5






 規則正しく繰り返される寝息が、聞こえる唯一の音として室内に響いていた。


 シュオウは眠ったままのクロムの顔を覗き込む。


 時に老獪な狐のようであり、時には子猫のように無邪気にも見えるクロムは、目を閉じていると彼が実際に生きてきた年齢よりも若く見えた。


「おや――」

 部屋に入ってきたネディムがシュオウを見つけ、

「――度々見に来て頂いて、感謝いたします」


 シュオウは懐から小袋を取り出し、

「薬を作って持ってきた。傷につける塗り薬と、こっちは滋養をつけるための飲み薬だ」


 ネディムは興味深そうに受け取った薬を見つめ、

「これをご自分で?」


「深界で採れるものを混ぜてある、もし心配なら使わなくてもいい」


 ネディムは微笑み、

「とんでもない、ありがたく使わせていただきます。むしろこれを使わなかったと後でクロムに知られたら、私の身が危うくなるでしょう」

 辞儀をして薬をクロムの顔の横に並べた。


 シュオウは改めてクロムを見やり、

「まだ一度も起きてないのか」


 ネディムは頷き、

「はい、よほど疲れているのでしょう。ご心配には及びません、過去にもこうしたことは何度かありました。クロムはほどほど、という言葉を持たないままに生まれてしまったのでしょう」


 戯けて話しながらも、クロムを見る眼差しには、その身を案ずる家族の不安が滲んでいる。


「クロムが起きるまでここに残っていい」


「……お気遣い、痛み入ります。いけませんね、上官に気を遣わせてしまうようでは、司令官の補佐役としては、三流の振る舞いです」


「家族を心配するのは当たり前のことだ、気にしなくていい」


 ネディムは体をまっすぐシュオウに向け、

「カルセドニー家はあなたからの恩を受けている。それをお返しするために、司令官としてのあなたの任をお支えすると約束しました。あなたの行かれる道を、最後までお供をさせていただきます」


 揺るぎない双眸から強い意志を感じ、シュオウはそれを黙って受け取った。


「俺が選んだ道が正しいと思うか?」


 クモカリの助言を受けてから、シュオウは一度ネディムと話を詰めていた。

 間を置かず、慎重さに欠いた進軍を進めるためのもっともらしい理由は、すでにネディムの考えのもと、軍内部に流布されている。


 ネディムは即答せず、指先を口元に当てる。


「なにが正しく、なにが間違っているか、今の時点で判断は難しい」


 珍しく答えに窮している様子のネディムに、シュオウは問い方に変化を加える。


「なら、自分が司令官ならどうする?」


「私なら、ですか……それは少々意表を突かれる質問ですが……そうですね、私なら一旦ここで手を止めるでしょう。軍備を整えながら情報収集を行い、先方との交渉の場を設けられるよう手段を模索します」


「それでユウギリを取れるのか?」


 ネディムはゆっくりと首を振り、


「いいえ。私のような者は可能性の低い成功に手を伸ばすのではなく、失敗を回避する手段を優先する。行く道が安全であるかどうかを時間をかけて調べ上げながら、もし僅かにでも不安を感じれば、そこから先に進む選択を忌避します。そうしているうちに季節が変わり、あっというまに一年、二年と時が過ぎていく。慎重になるほど、足は遅くなるものです」


「遅く、か。そうするのが正しい方法なんだろうな」


 ネディムは小刻みに首を振り、


「あなたは私とは違う。安全な道など最初から求めてはおられないはず、迷いを抱く必要はありません、ご自分の思う道を進めばよいのです」


 シュオウはネディムと視線を交わし、力強く頷いた。


「全員を集める前に、これからのことを相談しておきたい、今少しいいか?」


 シュオウは部屋の隅にある机を見ながら言った。


「喜んで――どうぞ、准砂がお先に」

 ネディムは頭を下げて、手を流して先を譲る。


 シュオウの後に続きながら、ネディムは懐から周辺深界の地図を取り出し、机の上に広げた。


「私は戦場の指揮については経験に乏しいため、あくまで机上の盤面を俯瞰する立場からの意見としてお聞き下さい」


 シュオウは、

「わかった」

 言って、頷いた。


 ネディムは机の上に置いてあった文鎮を地図の上に置いた。


「上層へ攻め上りながら、下層の道を失うのは、水上で船を失うに等しい。ユウギリを目標に速やかな進軍を行う場合、なにより重要視すべきは退路の確保となります。それ故に、我が軍は戦力を二分する必要がある。第一はユウギリへの侵攻役、第二は深界の白道上に陣を構え、退路を死守する役を担う。第二をこのムツキに配置しておく手も存在します、そうしたほうがむしろ敵側は挟撃を警戒して動きが取りづらくなる。ですが、それは――」


 シュオウは黙して地図の一部を指さし、

「アデュレリアの動きしだい、か」


「その通りです。ムラクモからユウギリに通じる白道は大別して二つ。侵攻速度を優先する場合、一方からムラクモ側からの攻勢を警戒しつつ、もう一方の経路からアデュレリアの動向を警戒しなくてはならない。二方を同時に警戒するのなら、先に申しました通り、退路の確保は必須となります」


 シュオウはたっぷりと時間をかけ、

「…………白道への布陣と、ユウギリへの侵攻を同時に進める」


 ネディムはシュオウの顔をじっくりと見つめ、

「よろしいのですか」


「深界では大きくて強い狂鬼ほど上位の捕食者の位置にいる。でもそれだけじゃない、同じくらい、場所によってはそれよりも上位の捕食者たちがいる」


 ネディムはあごを上げ、

「興味深いお話です、そのもう一方とはどのような?」


「小柄で早く動ける奴らだ、こっちのほうがもっと怖い。人間の群れも大きくなるほど動きが鈍くなる、だから俺たちはその逆の存在になるんだ」


 ネディムは首を揺らし、

「小さくとも俊敏に」


 シュオウは首肯し、

「向こうが対応を考えている間にすべて終わらせる。まずはユウギリの現状を把握し、占領を進めながら同時に撤退の支度も進めておく。一瞬でその両方を切り替えられるようにしておきたい」


 ネディムは虚空を見つめながら頷き、

「まるで反対の行動を一瞬で反転させる、兵の高い練度が必要になるでしょうが、あらかじめ徹底して準備を進めておけば不可能でありません。あとの問題は兵力の分散、その編成についてですが」


 シュオウは周辺にある雑貨を掻き集め、それぞれを地図の上に載せた。


「アリオト軍とカトレイ軍を二つに分けて白道に配置する」


 ネディムは難しい顔で、

「では、ボウバイト将軍麾下の増援軍を侵攻軍として配置することになりますね。そうなると、制御下にない軍を手元に置くことになる。半減させたカトレイ軍だけでは少々心配になりますが」


「信用できないからこそ、手の届く所に置いておきたい」


 ネディムは破顔し、

「普通なら、そのようなものは遠ざけたいと思うのが人情なのですが。いざというときにはご自分の手でどうにかできる、と仰っておられるようにも聞こえます。その決定に迷いをお持ちでないのなら、私も同意いたします。あとは第二の指揮を誰に委ねるか」


 シュオウの脳裏に、適任者の顔がいくつか浮かび上がる。シュオウはその一人である目の前の人物を見つめ、


「出来ないか?」


 ネディムは一瞬視線を流し、

「出来ます、とお伝えしたい所ではありますが、私だけでは有事の際の兵の運用に不安が残る。戦場指揮に手慣れた者がもう一人いれば……例えば、現カトレイ指揮官のような」


「レノアはユウギリに連れて行きたい――」


「そうなると、選択肢は限られる。能力がありながら信頼の置ける人物となると……」


 真っ先に思い浮かぶのはジェダの姿だ。しかし、他を圧倒する個人としての武力を持ちながらも、大軍を指揮するための裏打ちされた地位や経験には乏しい。信頼できる者として同様に思い浮かぶシガも同条である。


 ――そうだ。


 絞り込まれていく候補のなかから、シュオウは不意にある人物のことを思い浮かべた。


「決めた――」


 その名をネディムに語った。




     *




 ムツキの一室にて、司令官の権限の下、二度目の軍議に幹部達が招集された。


 ネディムの口から今後の方針説明が行われた後、シュオウが立ち上がって皆の視線を集める。


「マルケ、白道に布陣させる軍の指揮を頼みたい」


 マルケは驚いた顔で自分を指さし、

「私か?! だが、いまの立場は……」


 ネディムが割って入り、

「顧問の立場を一時的に解き、司令官代行としてカトレイ、アリオト混成軍の指揮をまかせたいとの司令官の意向です」


 マルケは戸惑いながら視線を泳がせ、

「司令官、代行……」


 シュオウはマルケを真っ直ぐ見つめ、

「他にまかせられる奴がいない」

 世辞ではなく、本心を告げる。


 マルケは不敵に笑みを浮かべ、

「そうまで言われて断れるはずもない……いいだろう、退路の確保という重要任務、このマルケが必ずや遂行してみせる、司令官代行の名の下に!」


 勢いよく宣言し、颯爽と聖職者の衣を脱ぎ捨てると、その下に着ていた汗染みのついた肌着が露わになった。


 マルケと同じカトレイに属するレノアは、顔にかかったマルケの衣を不快そうに丸め、クロンは肩を落として盛大に溜息を漏らした。




     *




 真昼の太陽を厚い雲が覆い隠す。


 リシア教司祭エヴァチは、くすんだ聖職衣の上に粗末な外套を羽織りながら、肌寒い日陰のなかを歩いていた。


 閑散とした通りを歩く途中、不意にエヴァチを呼び止める声があがる。


「司祭様……」


 痩せた暗い顔で声をかけてきたのは下街の信徒の一人である中年の男だった。


「ああ、君か」


 男は帽子を脱いで目を潤ませ、

「今朝、うちのじいさんが逝っちまったんで……」

 崩れるように膝を落とし、嗚咽する。


 エヴァチは男の背にそっと手を当て、

「そうだったか……辛かっただろう……」


 顔を上げた男の顔に、エヴァチは一瞬たじろいだ。痩せこけた顔に血走った眼、口から白い泡をたて、歯を食いしばる姿は、まるで教典に出てくる化物の如き姿だ。


 男はすがるようにエヴァチの肩を掴み、

「働き手の大人たちや子どもらに食わせるのに精一杯で、じいさんにまともな食事をやれなかった……ッ、俺のせいだ、俺のせいだ……神は俺の罪を罰するだろう、だがもしその罪が子どもたちにまで及んだらと思ったら……」


 尋常ではない力で肩を押さえ込まれながら、エヴァチはその勢いに倒されぬよう、必死に足を踏ん張った。


「次の世代を活かすために仕方なくしたことを神は罰したりはしない。お父上が安らかに天に召されるよう、今日中に葬儀を執り行おう、悔恨ではなく感謝の心を捧げなさい」


 男は涙と鼻水をこぼしながら、

「ですが、うちにはもう、教会に払えるものが……」


「そんなものは必要ない、このあと夜のうちに――」


 言いかけてエヴァチは言葉を止めた。無意識に胸の辺りを握りしめ、


「――教会には助祭のハースがいる。もし私が戻っていなければ、彼に事情を話しなさい」


 男は不安そうにエヴァチを見つめ、

「司祭様は……?」


 エヴァチは頷き、

「呼ばれていてね、もしかしたら、戻りが遅くなってしまうかもしれないのだ――」

 遠くをじっと見つめた。


 男は頭を下げ、

「わかりました、感謝します……ありがとうございます……」

 力なく家に向かって歩き去る。


 悲しげな背中を見送りながら、エヴァチは再び道を歩き出した。


 城門の側までたどり着いた時、再び聞き慣れた声に呼び止められた。


「司祭ッ」

 助祭のハースが手を振りながら走り寄ってくる。


 エヴァチは口元を歪め、

「なぜここに――」


 ハースは息を切らせながら、

「申し訳ありません、待っているように言われましたが、どうにも心配だったもので」

 無邪気に笑みを浮かべた。


 エヴァチはハースの肩を押し、

「ここは私一人で問題ない、すぐに帰りなさい」


 ハースは眉をひそめ、

「ですが……せっかくここまできたのですから」

 エヴァチの抱える荷物に手を伸ばした。


 エヴァチはその手を避け、

「異邦から来たという大公の客に神の教えを聞かせるだけだ。おそらく、くだらないもてなしの一環なのだろうから、すぐに終わるだろう。私のことはいいから、教会に戻って葬儀の支度を整えて――」


 言い終えるより早く、武装した輝士が現れ、エヴァチの前で一礼した。


「エヴァチ司祭、お待ちしておりました。大公の命により、ご案内いたします。そちらも――」


 輝士はハースを見て、城内へ入るよう手で促した。


 エヴァチは首を振り、

「いいや、この者は――」


 ハースがエヴァチの言葉を遮り、

「同行者です、ただちにまいりますッ」

 強硬な態度で城門の奥に足を進めた。


 エヴァチは溜息を吐きながら、

「……まったく」

 後に続いた。


 城門をくぐり、中庭を通って城内へと足を踏み入れる。

 がらんと拾い石造りの城内の薄暗い空気は、外気よりも冷たく感じられた。


 エヴァチは先を歩く輝士に、

「私がお目にかかるお方はどのような人物なのでしょうか」


 輝士は前を向いたまま、

「若い女性です。それ以上、私の口から申してよいか、許可を得ていませんので」


「……そうですか」


 エヴァチは輝士の態度を妙に感じていた。件の人物のため、わざわざ大公の名を使ってまで呼び寄せたのなら、その人物はそれなりの地位にある者であり、それほどの相手であれば、あえて身元を隠すような態度をとる理由もない。


 長い廊下を歩き、初めて立ち入る城の客間が集められた区画に入る。通路には豪奢な絵画や調度品がそこかしこに飾り付けられていた。


 エヴァチは再び輝士に対して、

「用件が済みしだい、大公にご報告にあがる機会をいただけるでしょうか」


 輝士は一瞬言葉を詰まらせ、

「……どうでしょう、確認をとっておくことにします」

 振り返って小さく頷いてみせた。


 エヴァチは頭を下げ、

「どうぞよしなに……」


 案内役の輝士は扉の前で足を止め、

「こちらです――」

 そう言って、部屋の扉を叩いた。




     *




「例の僧侶が来たみたいです」


 ユギクの報告を受けたジュナは、読んでいた本を閉じて頷いた。


「お通しして――あなたはおもてなしの用意を」


 ユギクは部屋の入り口に向かい、レキサは炊事場に駆けて行った。


 少しして、

「こちらです」


 ユギクが愛らしい微笑みで客を迎え入れ、ジュナの待つ応接間に二人の男たちを案内した。


 両者とも一目で聖職者と呼ばれる立場にある者達であるとわかる。


 中年の男はくすんだ赤い衣を纏い、もう一人は古びた裾の短い衣を羽織っていた。


 ユギクがジュナに一礼して背後に控えた。その態度から男たちは、この部屋の主がジュナであることを知って驚いた顔を見せた。


 中年の男は呆けた顔でジュナを見つめ、

「……あなた、なのですか?」

 その視線はジュナの左手の甲にある白濁した輝石に向けられる。


 ジュナは微笑と共に頷き、

「はい」


 戸惑った様子で固まってしまった中年の男に、同行していた若い男が声をかけた。


「司祭……」


 腕に触れられた中年男は慌てて頷き、

「ああ、失礼をしました。私は教会の司祭を務めているパデル・エヴァチ、この者は助祭のハースです」


 エヴァチとハースは同時に頭を下げた。


 ジュナは合わせるように軽く会釈を返し、

「ジュナ、と申します。ようこそおいでくださいました。いまお茶と軽食の用意をさせていますので、お二人とも座ってお待ち下さい」


 ジュナは振り返ってユギクを見やり、

「準備を手伝ってきてもらえる?」


 ユギクはじっとジュナを見つめて、

「かしこまりました――」

 言って辞儀をした瞬間、

「――司祭のほう、懐になにか隠してる」

 ジュナにだけ聞こえるよう、小声で報告した。


 ジュナは無言でユギクに頷き、視線をエヴァチへ向けた。


「突然のお呼び立てをしてしまってすみませんでした。大公殿下にリシアのことを知るために、詳しい方を、とお願いをしてしまったのです」


 ジュナは社交辞令を言いつつ、対面するエヴァチの様子を観察する。


 ゆったりとした聖衣の上からでもわかるほどエヴァチは酷く痩せている。痩けた頬と眉の下の窪みに、暗く影を落としているせいで、実際の年頃よりも老けてみえた。


「お気遣いは無用です、神の教えを説くことこそ、我が身に与えられた使命なのですから」

 話しながら、エヴァチは服の上から胸の辺りをそっと撫でた。


「お待たせいたしました」


 ユギクとレキサが盆に乗せた茶と軽食を運んで来た。

 湯気の立つ赤い茶と、肉と野菜を挟み、一口大に切り分けたパンを見て、エヴァチとハースの二人は大きく目を見開いた。


「このような高価なものを出していただくのは……」


 ジュナは上品に茶器を持ち上げながら、

「どうかご遠慮なく。これくらいの食材なら、望むだけいただくことができますから」


「こんな豪勢な食事を望むだけ……」

 ハースが唇を舐め、大きく喉を鳴らした。


 エヴァチは軽食に手を付けず、

「失礼ながら、あなたは彩石を持たない身分であるとお見受けします。なのに、大公の賓客として豪華な客室に滞在され、自由に豪勢な食材を手に入れられるという。あなたは何者なのでしょうか、あなたの要求により、私に目も向けなかったターフェスタ大公から直接の要請が届きました、それは並大抵の待遇では実現しないことです」


 エヴァチのその質問を無礼だと捉えたのか、隣に座るハースが顔を青くしてジュナとエヴァチを交互に見やる。


 ジュナは熱い茶を少しだけ喉に流し、

「私の身分については見ての通りです。何者かと問われてお答えするだけのたいしたものはなにもありませんが、あえてお伝えすることがあるとすれば、私の本来の名は、ジュナ・サーペンティアと申します」


 エヴァチは大きく体を仰け反らせ、

「サーペンティア……」


 ハースは逆に身を乗り出し、

「それは東方の王石の一つ、蛇紋石を継承するあのサーペンティアですか?」


 ジュナは頷き、

「蛇紋石を継ぐオルゴア・サーペンティアは、私の父です」


 ハースは顔を手で覆い、

「そんなすごい人物の娘さんだなんて……あ、でもその石は……」

 ジュナの手にある濁石を指さした。


 エヴァチは強くハースの手を引いて、

「やめなさい、軽々しく触れてはならないことだ」


 ハースは蒼白な顔で、

「も、申し訳ありませんッ」

 深々と頭を下げた。


 ジュナは暖かな微笑みを返し、

「いいんです、ここに来てからは隠していることでもありません。私がムラクモを出て、このターフェスタに身を置いているのも、この生まれが原因の一つでもありますが、こうして良い待遇で迎えていただいていますから」


 エヴァチは苦しげに顔を下げ、

「無用な好奇心で立ち入ったことを聞いてしまいました。寛大なお心に感謝いたします、ジュナ様」


 ジュナはエヴァチに微笑みを返し、


「この世界に生まれ、そして生きる事について、宗教というものはそこに明確な意味があると説いているそうですね。私も自分がこのようにして生まれたことに疑問を持ったことがあります、誰かを恨むような気持ちや、後悔、自己嫌悪――そうした感情への慰めになる考えや教えが、リシアの教えにあるのであれば、それを学びたいと思いました。それに、その教えを根底にして人生を送る、この国や地方の人々の考え方を知りたいという思いもあります。これもあなたの言うところの、無用な好奇心なのかもしれないのですけど」


 エヴァチは鷹揚に首を振り、

「いいえ、むしろそれは崇高な興味と探究心とでも呼ぶべきものでしょう……あなたの師として教え導くことができるのなら光栄に思いますが、私ではその役をこなすのに不十分であると思います。もし今からでも叶うのであれば、大公に別の者を宛がわれるよう、願われることを勧めます」


 ジュナは小さく首を傾げ、

「それは、私に教えを与えたくないということなのでしょうか。私がこのような生まれの者であるから……」

 悲しげな顔をして、白濁した輝石を手で撫でた。


 エヴァチは慌てて腰を浮かせ、

「いいえッ、それはまったくの見当違いです。私は……その……」


 ジュナは突如、鋭い視線でエヴァチを見つめ、

「それとも、その懐に隠している物を使い、なにかを企てていらっしゃるからですか」


「あ…………」


 エヴァチは血の気の失せた顔で体をよろけさせ、聖衣の上から胸の内に隠した何かを握りしめた。


 ハースが立ち上がり、

「司祭、まさか……ッ」


 それぞれからの視線を受け、硬直していたエヴァチは、なにかを諦めたように力を抜いて懐に手を差し込んだ。


 直後、ユギクとレキサの二人がジュナを守るように立ちはだかる。


 エヴァチは首を振り、

「早とちりをしないでいただきたい、ここにあるのはただの――」

 言って、懐から金属の輪で封をした書簡のようなものを取り出した。


「それは?」


 ジュナの問いにエヴァチは辛そうに視線を沈め、

「民に科される重税を抗議し、その行いを諫める言葉と、聖典の一節を綴ったものです……これを、この後大公に直接お渡しするつもりでおりました」


 ハースが怯えた様子で、

「大公に直接物言いをするなんて、そんなことをしたら……ッ」


 ジュナはエヴァチの持参した書簡を見つめ、

「直接お会いして知った大公殿下のお人柄を考慮しても、他人から正論を聞かされることを、とくに嫌われる方だと思います。司祭としてのご身分があっても、投獄くらいはされかねない、下手をすれば――――」


 エヴァチは握った拳で自分の膝を叩き、

「大公はご自分のなさっている所業を理解しておられないッ。軽々しく繰り返される徴税によってどれほど民が疲弊し、飢えて苦しんでいるか……すでに弱き者達が死に始めている、今ならまだ引き返せるのだ、ここが分水嶺ぶんすいれいなのだと、大公に知っていただくことさえできれば……」

 思い詰めた顔で剥きだした歯を食いしばった。


 ジュナは身を乗り出してエヴァチの顔を覗き込み、

「お二人ともとても痩せているように見えます。教会にも税の徴収が?」


 ハースが強く首を振り、

「いいえ、リシアはその地の領主から関係先への徴税を受けることはありません。ですが、うちの教会にあった蓄えは、すでに司祭の指示で民に分け与えてしまいました。補充のための資金を本山からいただけるのはしばらく先になりますので……」


 ジュナは少しずつ聞き知ることができる情報を胸に刻みつつ、緊張した空気を和らげるように、熱い茶を喉に流してから、ほっと柔く息を吐いた。


「私のような余所者からの視点で語ることに、どれほどの信憑性を持っていただけるかはわかりませんが、おそらくその書を大公殿下にお渡ししたとしても、状況に一片の変化も起こりはしないでしょう」


 エヴァチは険しい顔でジュナを見つめ、

「なぜ、そう思われるのでしょうか」


「司祭様は今が分水嶺だとおっしゃいました、大公がそれをわかっていないとも。それは間違いです、その逆に大公はそのことをよくご存じのはず。たとえ自らの決断によってその下にある者が虫や獣のように死んでいくとしても、それを意に介すことはない。そこにあるのは悲劇的な誰かの死ではなく、ただの上下するだけの数字でしかない。特別ではない者たちの数がいくら減ったとしても、それはいずれなんらかの方法で補うことができる。それが社会の序列で上位にいる者たちの考え方です」


「言うだけ無駄と、そうおっしゃりたいのか」


 ジュナは首肯し、

「わかっていることを他人から諭されれば不快になるもの。司祭様のとろうとした行いは、ただご自分の無事を脅かし、命を縮めるだけの結果しか生みません」


 エヴァチは俯いて頭を抱え、

「どうすればいい……どうすれば助けられる……」


「司祭……」

 思い詰めた様子のエヴァチの背を、ハースが労るように優しく撫でた。


 ジュナは車椅子を自らの手で進め、苦悩するエヴァチの肩にそっと手を当てた。


「私と一緒に考えませんか」


 エヴァチは顔を上げ、

「あなたと……?」


 ジュナはじっくりと頷いて、

「度々にご訪問いただきながら、あなたは私にリシアのことを教え、私はあなたからの相談を聞く。共に考えを詰めれば良い方法が見つかるかもしれません。機を見て、穏便に大公殿下と話ができる場も用意できるよう努めます。ターフェスタの人々がより良い明日を迎えられるためにも、あなたのようなお方は、まずご自分の身を守らなければなりません」


「……そこまで、言っていただけるとは」


 感動したように目を潤ませるエヴァチの前で、ジュナは慈悲に溢れる優しげな眼差しを返した。


 ジュナはエヴァチの膝の上に置かれていた書簡に手を伸ばし、

「よろしいですか?」

 先に語った申し出への答えと合わせて問いかける。


 エヴァチは黙して考え込み、

「…………どうぞ」

 頷いて書簡をジュナに手渡した。


 ジュナは受け取った書簡をユギクに手渡し、

「暖炉の中へ」


 指示を受けたユギクが、薪を燃やす暖炉の火に、書簡を投げ込んだ。

 紙が炎に飲まれるのを見届けたジュナは、


「お腹がすいているのではありませんか? お二人ともよければ用意した軽食に口を付けてください」


「ありがとうございます!」


 破顔するハースの横で、エヴァチは渋面で首を振り、


「もしよろしければ、それを持ち帰ってもよろしいでしょうか。私たちよりもよほど飢えている者たちがいる。少しでも持って帰り食わせてやりたいのです」


 ジュナは真剣な表情で、

「お心に思い至りませんでした。どうか私のぶんもお持ちください、それに私たちに提供されている食材を出来るかぎりお渡しいたします」


「ですが、それではあなた方のお立場が……」


 ジュナは戯けて腹の上に手を当て、

「ご心配なく、大食漢のふりをしてみせます、演技は得意なほうですから――――」

 一切の淀みがない完璧な微笑を浮かべた。


「今日、あなたのような方にお会いできたことは、神のお導きだったのかもしれません。心より、感謝いたします」


 エヴァチは祈るような仕草で、ジュナの前で深々と頭を垂れた。




     *




 外気に晒された城壁の上から、ジュナは去って行くエヴァチの背を見つめていた。


「本当に大公に会わせてやるんですか? 下手なことしてどうなっても知りませんよ、こっちの立場だって安泰ってわけじゃないのに」


 不満げに言うユギクにジュナは笑み、


「まさか、そんなことをしてもなんの意味もないもの。パデル・エヴァチ司祭、会ってみてよくわかったけど、とても慈悲深い激情家。だからこそとても操りやすい。今は彼の信頼を得ておくとき、だから相手の望む言葉を聞かせたの、ドストフ・ターフェスタにしたのと同じように」


 冷たい風が勢いを増していく。

 中庭に積まれていた枯れ葉の山が、渦を巻く突風により空へと巻き上げられた。


 枯れ葉の擦れ合う音と風の音に交わるように、ジュナは鼻歌で旋律を奏でる。


 ユギクは眉を顰めつつ、身を乗り出してエヴァチとハースの二人を見下ろし、

「……ここからどうするつもりなんですか」


 鼻歌を止めたジュナは舞い散る枯れ葉を見つめながら、

「さあ、まだよくわからない――今はまだなにかの入り口、なにかが起こる前触れの時。この音はまだ、未完の序曲にすぎない、どんな終曲を迎えるかはお楽しみに」


 ジュナは言って、口先で巧みに音色をる。


 その旋律は、大公との夜会の後に聞いた演奏の音の流れを辿っていた。











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― 新着の感想 ―
[良い点] >「信用できないからこそ、手の届く所に置いておきたい」 自信があるからこそ、ですな。 マルケは締まらんなw エヴァチもジュナの手のひらでコロコロされそうだなw(既にドストフやエヴァチ等…
[良い点] マルケさんいいキャラ。 カッコつけて脱いだ衣の下が汗シミの肌着というのが、どうにもマルケさんらしい。
[良い点] >「クロムはほどほど、という言葉を持たないままに生まれてしまったのでしょう」 さすがネディム…クロム解像度が高い…と思ってしまった。 自分の中に揺るぎないルールが有り、安易に妥協できない…
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