序曲 3
序曲 3
息が凍るほどの寒い早朝。
昇りかけの朝陽がムラクモの拠点ムツキを照らす。
甲高い鳥たちの声の奥に、姿を想像もできない生物の醜い声が鳴り轟いた。
ディカ・ボウバイトは高い城壁の上から深界を俯瞰していた。目の前には画材、手には木炭を握り、見える景色を線に描いて置き換える。
「この寒さでは、ろくに手が動かないのではありませんか――」
背後から声をかけられたディカは振り返り、
「マルケ将軍、おはようございます」
「おはようございます、ディカ殿」
ディカは慌てて画材を片付け始め、
「すぐにどかしますので」
マルケは慌てて両手を突き出し、
「ああいやいや、邪魔をするつもりで声をかけたのではないのです、どうかそのままで」
ディカは画材を抱えた格好のまま、
「ですが、将軍の前でこのようなものを……」
マルケは大きく手を振りながら、
「いやいやいや、将軍といっても、今の私はアリオト司令官付き軍事顧問という、よくわからない身の上ですので、お気遣いなく。むしろ、私のせいでボウバイト侯爵家の次期御当主の邪魔をしたとなっては、ご挨拶したことを後悔することになってしまいます」
ディカは微かに眉を顰め、
「次期当主というのは、祖母がそう思い込んでいるだけで……」
視線を沈めた。
マルケは明るく笑み、
「どうやらお互いに自分の立ち位置に不安を感じている様子。ご存じでしょうか、私は部下だったカトレイ兵たちに司令官の御者と影で呼ばれているのです」
ディカはきまずそうに視線を泳がせ、
「あの、それは……」
ディカはマルケにつけられた酷いあだ名をよく耳にしていた。たった今マルケが語った呼び名は、聞いたなかでも比較的優しいものだった。
喜々としてマルケを馬鹿にするカトレイ兵たちの態度を見ていると、彼が普段いかに嫌われていたか、と推察できるが、いまこうして対面で話をしているマルケからは、そこまで嫌われるような人間性を感じられなかった。
城壁にもたれかかりながら、マルケが描きかけの下絵を覗き込む。
「深界の森など、どこで見ても同じような景色だけではありませんか」
絵に描かれた一面の森の景色を見て、マルケが言った。
ディカは深く視線を世界へ送り、
「ここから見える景色は特別です。戦場を越した戦いの後、敵国の拠点から見える景色はどんな褒賞にも勝る絶景でしょう」
マルケは顎をなでながら何度も頷き、
「なぁるほど……そう聞くと、たしかにこの景色が特別なものに見えてくる――」
一時、深界の音が止む。
静まりかえった朝の空気のなかで、マルケが白い湯気と共に、深い溜息を吐きだした。
ディカは横目でマルケの顔を覗いて、
「お疲れですか」
マルケは自嘲するように笑って、
「敵輝士の大群のなかに馬一頭で突っ込まされたのです、疲れていないわけがない……だが、これがなんとも……」
マルケは言葉を濁しながらしきりに首を捻った。
ディカはその態度を不思議に思い、体ごと顔をマルケに向け、
「どうなさったのですか」
マルケは外の景色を見つめながら下唇を突き出し、
「ひどい目に遭わされているというのに、よく眠れるし、前よりもずっと体が軽いのです。単純に痩せたというのもありますが……」
首を傾げながら自分の腹を摘まむ様が面白く、ディカは耐えきれずに笑いを零した。
「変化のきっかけは、あの方の顧問になられてからですか」
マルケは深く頷いて、
「私は夜が苦手でした。暗がりにはあまり良い思い出がない。とくにここのところは、嫌な記憶を引きずり出されるようなことがありまして、そのせいで不眠を患ってしまい……今思えば随分と気が立っていたような気がします。それがあの男に会って話をしているうち、なんだかこう、すうっと楽に……あれこれとやる事ができて役割に従事し、生きた心地のしない戦場を駆けずり回っているうちに――」
マルケは両手を掲げて笑み、
「――気づけば、頭のなかで淀んでいたものが全部どこかへなくなってしまいました。しっかりと熟睡して早く起き、散歩の途中にふと見かけた未来のボウバイト侯爵に顔を売っておこうなどと、意欲的にお声かけをしてしまえるほどにはね」
話を聞きながら、ディカはカトレイ兵たちから感じるマルケへの印象と、本人から受ける印象の矛盾の原因に気づく。
ディカは微笑を返し、
「この先どうなるかもわからない私などではなく、あの方にこそ、お顔を売っておいたほうがよいと思います」
マルケは途端に真剣な顔をして、
「少し前であれば、その言葉が冗談に聞こえたのでしょうが、今なら思わず頷いてしまうくらいの説得力がある。あの男は大物になる、ここ最近、そう思わされるだけのものを見てきました。目を疑うような武力と精神力を備え、優秀な配下を従えている……しかし危うさも感じずにはいられない……」
「危うさ、ですか」
「少数で大群に突っ込んで暴れたかと思えば、その後も勢いのままに拠点に攻め込む。まったくの考えなしとは思わないが、あまりに選ぶ手段が無謀なものばかりだ。金銀財宝を抱えていても、綱の上だけを歩いていたのではいずれ足を滑らせる」
マルケの言ったたとえ話を想像の中で描きながら、ディカは小さく首を傾げた。
「私達とは基準が違うのではありませんか」
こんどは逆に、マルケが聞き手に回る。
「基準とは?」
「深い激流の川があったとして、人間であればそこに飛び込むことは死と同じです。でも川に飛び込むのが巨大な狂鬼だったら? 激流の川は水たまりから漏れた一筋の水の流れに等しいのではないでしょうか」
マルケはあごに指を添え、
「それだけの力があるから、凡人とは危険とすべき行動の基準が違う、とおっしゃりたいのですか。凡人を人間に例えたとき、その対比として、あの男を狂鬼に例えられるとは……あなたの目には、あの男が随分と恐ろしいものとして映っているのでしょうな」
ディカは目を見開き、
「それ以上のものとして見えているかもしれません」
淀みなく言い切った。
その返答が思いもしないものだったのか、マルケがディカと視線を合わせ、次の言葉を躊躇った。
その時、通路の奥から誰かが向かって来る気配が伝わってきた。
先に現れた者の姿を見て、マルケは思わず破顔していた。
「おお、クロン殿か!」
バーナ・クロンは一礼し、
「マルケ将軍、ご無事な様子でなによりです。物資の輸送に便乗し、前線まで足を運ばせていただきました」
淡々と現状を報告した。
*
アリオトから出発した物資の輸送隊は、早朝にムツキに到着した。
開かれた門の隙間から出てきたシュオウが、クモカリの所へ駆け寄ってくる。
司令官の衣装を着ておらず、簡素な運動用の肌着で現れた常と変わらぬシュオウの顔を見て、クモカリは自然と笑みを零した。
「早かったな」
シュオウが白い息を吐きながら言った。
クモカリは荷馬車の行列を見ながら頷いて、
「急がせたのよ、休憩少なめでね。そのぶん美味しい食べ物でご機嫌をとらないといけなかったけど」
「助かった、水も食料も、ここの蓄えは少なかったんだ。しばらくしのげるだけの物があれば、みんなが安心できる、よくやってくれた」
すっかり人の上に立つ者としての振る舞いが板に付いている。上から下への労いの言葉を心地良く感じながら、クモカリは輸送隊の兵士たちに物資の運び入れの手順を細かく指示した。
食べ物を運ぶ蟻のように、兵士たちが整然と列を作ってムツキのなかに物資を運び入れていく。
クモカリはシュオウと共にその様子を見守りつつ、
「大丈夫だったの?」
何がとも言わず、シュオウはその意味を察し、
「こっちの被害は思ってたよりも遥かに少ない。それよりも、ムラクモのほうが心配になる、様子もおかしいんだ」
数多事情はあれど、シュオウはムラクモを心底憎みながら国を出たわけではない。敵としての立場にありながらも、そこで生きる者たちに対しての心残りがある様子を、クモカリは言葉なく察していた。
「よかったら話を聞かせてもらえる?」
シュオウは強く頷き、
「歩きながら話す。今日はちょうど、みんなを集めて今後の方針を決めることになってる。朝食を食べたあと、クモカリも一緒に参加してくれ」
シュオウと肩を並べながら、クモカリはゆっくりと歩き、ムツキの門を通り抜けた。
――不思議。
少し前までここにいた時には、料理や雑用に従事する存在であったクモカリは、今や大人数を率いて輸送を指揮し、指揮官が集う会議に出席をするという、特別な立場に立っている。
数奇な運命の一端を感じながら、クモカリは見慣れたムツキの風景に、僅かな後ろめたさを感じていた。しかし同時に、身勝手な里帰りをしたような気持ちも湧き上がる。
複雑な感情と親しみを込め、
――ただいま。
心の中で、そう呟いた。
*
――あら。
軍議に集った者達を一望して、クモカリはその変容に素早く気づく。
それは先に部屋にいた全員が、シュオウへ送った視線だった。
彼らは戦いに出る前まで、刺々しい憎悪や不信感、よそよそしい他人同士が滲ませる気まずい空気に塗れていた集団だった。
その様相は一変し、各人の視線には、これまであった疑念や怒りなどの負の色合いが薄まり、まるで統率の取れた一個の群れのような心地良い空気が、微かにだが感じられる。
長卓にジェダとネディム、バレンが並んで座り、その対面にカトレイを代表してレノア、クロン、マルケの三人が座っていた。さらにその奥には、増援軍代表としてエゥーデが座り、その後ろに副官のアーカイドが控えている。
シュオウの登場に合わせ、立ち上がったネディムが一礼する。
「司令官、各軍の代表は揃っております、いつでも軍議を始められます」
シュオウは頷き、
「それぞれから現状を聞きたい」
長卓の最奥に腰掛けた。
すかさずジェダが、
「ムツキの掌握は滞りなく進んでいる。アリオト軍の状態は良好で、継続した作戦行動になんら不安視する要素はない」
次に、カトレイを代表してレノアが、
「拠点制圧時にそこそこの死傷者が出たけど許容範囲、現状のままで問題はないと言っておく」
クロンを挟んで、身を乗り出したマルケが、
「態度に気をつけろ」
レノアを睨んで注意した。
レノアは煩わしそうに目をそらし、そのまま奥の席に座るエゥーデに視線を移す。
報告を告げるべき最後の人間となったエゥーデは皆の視線を受けながら、
「とくにない」
重たい声でそう言った。
シュオウは、
「わかった――」
短く言って頷き、
「――ムラクモの現状について整理しておきたい」
咳払いをしたバレンが立ち上がり、
「現時点で我々が知り得た情報をまとめます。ムラクモは現在内紛を抱えた状況にあり、アデュレリアが起こしたとされる敵対的な軍事行動がその原因である可能性が高く、それに加え、サーサリア王女失踪という不可解な情報もあげられています」
バレンが報告を上げた直後、シュオウが顔色を曇らせた。それは慣れた者でなければ気づかないような、ほんの僅かな変化だった。
バレンはさらに続け、
「先の戦闘でムラクモ軍の陣容が万全ではなく、制圧した拠点内の管理にも不備が多々見られる。元ムラクモ軍人として、これは異常事態であると断言できます。その原因が先に述べたことによるのかどうか、今はまだ断言できるところではありませんが、捕虜たちから断片的に知り得た情報を繋ぎ合わせても、とくに矛盾は見つかっておりません」
静かに聞き入っていた者達の中で、エゥーデが静々と口を開き、
「アデュレリアの謀反を事実とした場合、下手に手を出せば東方の争乱に巻き込まれる可能性もある、さらなる侵攻を目論む時期としては良い頃合いとは言えん。次の行動は慎重を期し、今は手に入れたこの国境拠点の守備を固めることに注力すべきだろう」
ネディムが指を立て、
「むしろまたとない好機であるとも取れますが」
エゥーデは険しい顔でネディムを睨み、
「これが敵の策ではないと言いきれるか? 我らを油断させ、欺瞞によって無防備に軍を進めさせながら、期を見計らって一網打尽にでもされたらどうするつもりだ」
ネディムは涼しい顔で手の指を組み合わせ、
「奇策に頼るのは本来、弱者の性質でしょう。ムラクモはその名を世界に轟かせる東の強国、たとえ我々を侮っていなかったとしても、本来であれば持てる力のすべてを投入して、力押しでねじ伏せようとするはずです。だがそうしなかった――それはしなかったのではなく、できなかったと捉えたほうが通りがよろしい」
エゥーデは上唇をめくって歯を剥き出し、
「場末の女のようにぺらぺらとよく喋る」
ネディムは軽く頭を下げ、
「お褒めにあずかり、恐縮いたします」
ネディムは頭をあげ、その視線をシュオウへ向けた。
「私からの提案として、まず現状を正確に把握するために、アデュレリア公爵に直に使者を送るのはいかがでしょうか」
首を取ったような勢いでエゥーデが鼻で笑い、
「ふん、相手は歴史に名高い氷長石だ、相手になどされるものか」
ネディムは涼やかな微笑みをエゥーデに返し、
「将軍はご存じないかもしれませんが、准砂はかの人物とは知己の間柄のようですので」
エゥーデは、
「なに……」
驚きに見開いた目をシュオウへ向けた。
ジェダが微笑し、
「事実ですよ。話せば長くなりますが、司令官は望めばアミュ・アデュレリアと直に面談が許されている関係にある」
クモカリは無言でジェダの発言に頷きを繰り返す。
その関係を知らない者達から、驚きに満ちた視線がシュオウへ向けられる。
シュオウは彼らの視線を一身に受け止め、
「……アデュレリアに使者は送らない」
自身の考えを口にした。
ジェダが表情を曇らせ、
「公爵と接触を試みるのは悪い案ではないと思うが。もし、向こうの目的とこちらの望むものに妥協点を見出せれば、場合によっては助力を得られる可能性もある」
シュオウはジェダを見つめ、
「その逆の場合もある。半端に関わって止められたくない。初めから目的は一つだけだ、最短でユウギリを手に入れる、それだけに集中する」
エゥーデが大きく溜息をつき、
「簡単に言ってくれるがな、枠の中に収まった深界戦とは違うのだ、上層界での戦いに型はない、広大な市街地の制圧には多くの困難が付きまとう。駐屯する敵の戦力も見えないなかで、無闇につっこむのは愚か者のすることだ」
シュオウは僅かに考え込み、
「…………ユウギリに降伏を促すことはできないか」
ネディムに問うた。
「もちろん可能です。もし、ムラクモがこちら側の推測の通りの状況に置かれているのだとすれば、現状で手に負えなくなった領地からの撤退を選択をするのは合理的な判断です。こちらから危害を加えないことを約束し、望む者たちには自主的にユウギリを脱出する機会を与える、という内容ではいかがでしょうか」
シュオウは力強く立ち上がり、
「その内容でユウギリに使者を送る。返事は待たない、すぐに進軍の準備を始めさせろ」
レノアが眉をくねらせ、
「今からやれって? 兵士たちは出ずっぱりだ、ようやく少し休ませられるかもしれないって時に」
シュオウは強い視線でレノアを見つめ、
「今すぐだ――」
強く言って、そのまま勢いよく部屋を後にした。
クモカリは、シュオウのその態度に小さな違和感を覚えていた。それはまるで、まわりからの反対意見を耳に入れたくない、と言っているようで、どこか焦っているような態度にも見えたのだ。
「はあ……まったく……」
呆れた、と態度で示すように、エゥーデが首を振りながら大きく溜息を吐きだした。
室内の空気が重苦しくなっていく状況下で、一人で出て行ったシュオウをすぐに追う者達がいた、ジェダとマルケの二人である。
クモカリは通路に出た彼らの肩に手を置き、
「私に話をさせてもらえるかしら」
ジェダは静かにクモカリを見つめ、
「君なら構わないが、いま必要なのは――」
クモカリは頷き、
「わかってる、話を聞いてみるわ」
*
道行く者達に聞きながら、シュオウの行き先を辿り、クモカリはすぐにその姿を見つけた。
シュオウは一人で城壁の上から外を眺めていた。その視線の先には、東側に広がるムラクモ領内に属するの深界の森が広がっている。
クモカリはシュオウの隣に並び、
「どうしたの」
シュオウは前を見つめたまま、
「なにがだ」
「らしくなかったじゃない。みんなまだ言いたいことがあったみたいだけど、それを聞かずに逃げるように出て行くなんて」
シュオウは僅かに顔を下げ、
「……逃げた、のか」
言われて改めて気づいた、という態度で、シュオウは眺めていた景色から背を向け、城壁の壁にもたれかかった。
クモカリはシュオウと同じ姿勢をとり、
「なにかあの場で言えなかったことがあるんじゃない?」
シュオウはゆっくりと息を吐き、
「…………サーサリアのことが気になってる」
「王女様が失踪したとかっていう?」
シュオウは頷き、
「ああ」
「でもそれって、まだ噂話っていう段階なんでしょう…………本当のことだと思ってるのね」
「バレンも言ってた、なにもないのに、そんな話が出てくること自体がおかしい。ムラクモの異変と関係があるかもしれない」
クモカリは微笑し、
「なんだ、もっと大きな話かと思ったけど、それってつまり、知り合いの安否が気になるから、早く現地に到着したいってことじゃない」
シュオウは戸惑いを顔に浮かべ、
「それだけで軍を動かす理由にはならないだろ」
クモカリはからりと笑って、
「なるのよ、権力ってそういうもの。権力者っていうのはだいたい自分の気持ちのままに行動するものよ、善し悪しは置いておいてね。あなたは今その立場にある、さっきみたいに指針を押し通すのもいいけど、あなたの場合は思ってることをそのままみんなに伝えたほうが上手くいくんじゃないかと思うのよね」
「サーサリア一人のために焦って進軍させることをか?」
「考え方が真っ直ぐすぎるのよ、サーサリア様の立場を忘れたの?」
シュオウは視線を空に向けて戻し、
「王女、だな」
クモカリは頷き、
「たった一人しかいない大国の王女様の身柄にどれだけの価値があると思う?」
シュオウは初めてそれに気づいた様子で、
「そうか…………」
サーサリアを未来の王ではなく、ただ一人の人間としか見ていなかった様子のシュオウを、クモカリは微笑ましく思った。
「失踪の噂のあるムラクモ王女の行方を把握するためだとかなんとか、カルセドニー卿にでも相談すればきっと上手な理由を考えてくれるわ、そういうのが得意そうな人だから」
シュオウは一瞬黙した後、勢いよく一歩を踏み出した。
シュオウは振り返って、
「ありがとう、そうする」
素直な態度で身を軽くした様子のシュオウは、一人で跳ねるように駆けだして行った。
その直後、グウウウ、とまるで獣の唸り声のような重たい音がクモカリの耳に届いた。
その音はもはや、クモカリにとって我が家に等しい、聞き慣れた音となっていた。
クモカリはシュオウの去っていった方向とは逆のほうを振り向き、
「はいはい、お腹が減ったのね?」
通路の奥の暗がりのなかでぼうっと佇むシガに、苦笑いを浮かべながら声をかけた。
*
ターフェスタ城内の大公の私室には、各所から送られた戦勝祝いの献上品が所狭しと並べられていた。
ドストフは、自身の功績に対して送られた祝いの品々を前に、誇らしい気持ちで一杯になっていた。
名のあるの武具や高価な花、ツボや絵画などの価値のある調度品が並ぶが、そのなかに一点、なんの飾り気もなく簡素に紐でくくられた筒状の厚紙が置かれていた。
「これはなんだ?」
使用人に問うと、
「それは……城内に宿泊されているジュナ・サーペンティア様から、大公殿下への祝賀の御言葉を綴ったものであると」
顔を緩ませていたドストフは途端に表情に険を混ぜる。
サーペンティア、その名は忌まわしい記憶と共に、自らの犯した失態と過ちを、苦さを伴い思い起こさせる。
悪名に塗れたジェダ・サーペンティアに、意外な事情があると知ったのはつい最近のことだ。同じ血を分けた双子の姉であるジュナが、彩石を持たずに生まれた忌み子であったという。
その存在も、その名も、せっかくの良い気分を台無しにしかねない。そんな相手からの祝いの品など暖炉に投げ込んでしまうかとも考えたが、ドストフはその考えを改めた。
贈られた豪華な祝いの品々の中で、ただの言葉だけというジュナからの贈り物は異彩を放っていたのだ。
ただ一枚の紙に書かれた祝いの言葉のみを送りつけてくる厚かましさにも関心が湧く。
――なにが書いてある。
結局、ドストフはその好奇心に勝てず、紐を切って厚紙を手の中で広げていた。
そこに綴られていた文字を読み、ドストフはしだいに頬を紅潮させていく。
鼻の穴を広げ、口元を泥のように緩ませ、目を薄らと潤ませた。
そこには戦勝を祝う言葉と共に、その戦果のすべてがターフェスタ大公ドストフの寛大な心と叡智により獲得されたものであると綴られている。その他にも、心をくすぐるような文言が、次から次へと豊かな表現で溢れ出てくる。それはまるで、神に捧げる詩歌のような趣を秘めていた。
読み進めるうち、綴られた言葉の最後に書かれていた内容を見て、ドストフは目を見開いた。
ターフェスタに大いなる祝福を与えた神の恩寵について学びたい、そう記してある。
神を信じぬ蛮族を改宗させる。それは敬虔なリシアの信徒にとって、敵地を奪い取る戦勝に勝るとも劣らない、華のある行いなのである。
ドストフは厚紙を大切そうに抱え、
「これを書いた者を賓客として招く、招待状を用意せよ。料理長も呼べ、東方の客人が喜ぶような献立を考えさせるのだ――」
サーペンティア、その名から受ける悪印象のすべてを忘れ、ドストフは軽やかな声と共に、そう指示を告げていた。