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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
銀星石攻略編
123/184

序曲 2

序曲 2






 完璧な微笑みを浮かべ、足を内股にして立ち姿に微かに弱さを滲ませながら、一輪の花のようにたおやかに辞儀をする。


 ただこれだけだ。


 一瞬の所作だけで、目の前にいる男はこう思う、彼女は自分に気があるのだろうか、と。


 それはユギクがハイズリという名で組織に所属していた時、教官役の老婆にたたき込まれた技の一つである。


 ユギクは、その鍛え上げた手練手管を存分に活かし、

「大公殿下が新しい軍服をご所望されておられるのですか……?」

 首を小さく傾け、密かに身を屈めた姿勢から、瞬きを多めに大きな瞳で相手を見上げた。


 ユギクが小技を駆使する相手の中年男は、城内の給仕の一角を担う責任者の一人だった。


 男はユギクに抑えきれないにやけ面で頷き、

「そうなんだよ、なにか良いことがあったらしい、あれほどご機嫌の良い大公様を見るのはいつ以来だろうかと下の者たちの間でも話題でね。わざわざ国中の仕立師に呼び出しまでかけられたらしい」


「それは珍しいことなのでしょうか?」


「ああ、珍しいとも。大公様は衣装にはあまり気のないお方だ。それが突然仕立て屋を総動員させろと、それも軍服を作らせようなんて本当に珍しい、私がここで働き出してからも初めてのことだ」


 ユギクは胸元で両手を握り合わせ、

「よく覚えていらっしゃるのですね、私なんて数日前の献立もすぐに忘れてしまうのに」

 目を輝かせながら大袈裟に相手を褒めそやした。


 一連の所作と言葉に込められた意味は、あなたを尊敬しています、である。それはすぐに効果を発揮した。


 男は露骨に鼻の穴を膨らませ、

「記憶力に優れていなければこの仕事は勤まらないよ。私が若い頃、大公家に推薦されたのは、主人のご家族の足の大きさを完全に覚えていてね、靴屋を呼んだときにその間違いをだね――」


 聞いてもいない自慢話を始めたのは相手が心を開いている証拠だ。気に入った相手に自分のことを知って欲しいのである。しかし、男の場合そこには往々にして誇張が含まれる事が多い。そして大抵の場合、こうした話は長くなる傾向にある。


 その発端となる刺激を与えてしまったことを自覚し、ユギクは早くも後悔に囚われていた。


「へ、へえ――すごい――本当ですか――なるほどぉ――」


 長々と語られ始めた手柄話に、相手の気を害さないよう適切な合いの手を入れていく。しかし、


 ――長すぎるんだよ。


 手柄話は止まることなく、若い頃の逸話に始まり、その後の出来事から恋愛、結婚、子どもの誕生。大公家に仕えてから、蜂の巣に石を投げて落とした事など、くだらない思い出話と武勇伝が絶え間なくあふれ出てくる。


 興が乗った男が、しだいに興奮しながらユギクに少しずつ身を寄せ始めた。その時、


「ユギクさん、お嬢様がお呼びです、言いつけたことがどうなっているのかと、お怒りのご様子でした」


 レキサが姿を見せ、そう言いながらユギクの腕に触れていた男に小さく頭を下げた。


 ユギクは素早く一歩後退し、

「面白いお話の最中に申し訳ありません。ご主人様からお叱りを受けに参らねばならなくなってしまいましたので」

 品良く給仕服を摘まんで辞儀をした。


 男は大きく咳払いをして、

「いやいや、そういうことなら。そうだ、他国の貴族家に仕えている親戚から貴重なイベリスの刺繍標本を送ってもらってね、それが最近ようやく届いたんだが、よかったら後で私の仕事部屋に見に来ないか、その時に話の続きでもしながら――」


 レキサが素早くユギクの手を掴み、

「急いでいるのでッ」

 強引に二人でその場から引き上げた。


 人気のない通路まで進み、ユギクはレキサの手を振り払った。途端に人相を醜悪に歪め、

「遅いんだよ、来るのが」


 レキサは照れ笑いのような表情でユギクから視線を逸らし、

「……ごめんね、いつ止めたらいいかわからなくて」


 ユギクは口を歪めて大きく舌打ちをして、

「ああ、気持ちわる……べたべたあちこち触りやがって。あのやろう、よく頑張ってるねって頭に手を乗せてきやがったんだ、しかも地肌を指でぞりぞりと……勝手に女の髪を触るんじゃねえよ、糞がッ」

 全身を手で払いながら、溜め込んでいたものを盛大に吐き出した。


 レキサは不自然なほど一瞬で真顔になり、

「あいつ、人形にしようか?」

 目を大きく見開きながらも、その色は酷く暗い。


 ユギクはレキサの頬をつねり、

「顔――」


 レキサはにへらと、

「ふひ」

 無邪気に笑んだ。


「人形はもういるだろ。あの倉庫番を解放したら始末しないといけなくなる。あんたの力は便利だけど不便なんだよ。あの中年オヤジはうざいけど、べらべらとなんでも話したがるから使い勝手がいい。危険を冒してまで、いま取り替える必要はないからね、余計なことはするんじゃないよ」


 ユギクに諭されたレキサは、

「うんッ」

 従順に頷いた。


 ユギクは通路の奥へ足を向け、

「じゃあ行くよ。うちらのご主人様の欲しがってたものは、だいたい手に入った。そろそろ満足してくれるといいんだけど」




     *




 人と人を繋ぐ関係は糸で現すことができる。


 結ぶこともあれば、切れることもあり、絡まった後にほぐれることもある。


 人を点とし、点と点を糸という線で繋いでいく。


 そうしていくうち、無数の点がどこと線を結んでいるのか、その関係性から、敵意や奇妙な共生関係なども見えてくる。


 ジュナは遊戯に興ずるような感覚で、知り得た点と点に線を繋ぎ、その関係性を見定めていた。


「この二つの貴族家が面白いの。一見するとなんの接点もない家同士だけれど、両家の当主の妻となった二人の女性たちは、じつは幼馴染で同じ人を師にもっていた間柄だった。ほら、別の情報からそれがわかるでしょ」


 ジュナが楽しそうに語る言葉に、目の前に立つユギクは、

「はあ……」

 気のない返事をした。


「きっとこの二人は結婚後も仲良くしていたはず。となると二人の夫も巻き込んで交友していたはずだけど、その関係性を示す情報は見当たらない。どころか、どうも対立している節がある。一方が一方を糾弾したという話が、訴えを受け付けたリシア教会員の情報から汲み取れる」


 話しながらジュナが目を通す資料は、リリカがひっそりと盗み出してきたものだ。


 ユギクは横目でレキサと視線を重ねた後、

「えっと……だから……?」


「面白いと思わない? 現状にある手元のものだけでは、この二人が対立するに至った原因がわからないけど、欠けた部分を埋める情報が、また別のところから見つかったりするから…………待って、この二人、産んだ子どもがどちらも男の子……それも同じ名前なのね」


 ユギクはだらりと肩を落とし、

「正直、けっこうどうでもいいんすけど……」


 夢中で思索にふけっていたジュナは顔を上げ、だるそうに肩を落とすユギクに微笑みを向けた。


「どうでもよさそうな事に、役に立つことが隠れていることもあるのよ。誰かにとっての利益、それによって誰が損をしたのか。誰かの危機に、命懸けで手を伸ばすのは誰か。点と点、そこから伸びる線を正確に把握できれば、それは大きな力になる。あなたたちはとても優秀、二つの点を結ぶ線が、まったく別の点から見えてきた。生きた情報を集めてくれている証拠ね」


「……まあ、うちらはそういうののために仕込まれてるんで」


 ユギクは得意げに、つんと鼻を高く上げた。


 ジュナはユギクとレキサへ順番に頷き、視線を手元へ戻した。

「おかげで、下と上を結ぶ線も見えてきた。とても細い糸だけど――」


 ジュナは紙束の中から一枚を抜き出し、


「――ヴィシャ、下街の裏側を仕切る親方衆のなかでも強い影響力を持つ人物。それともう一人は」


 ジュナはユギクとレキサの二人の中間に視線を送る。


 いつのまにかユギクたちの背後に立っていたリリカが、

「リシア教司祭パデル・エヴァチ――ぼそ」


「うわッ、またかよ?!」

 突然の登場に驚いたユギクが体を大きく仰け反らせた。


 リリカは音もなくジュナの前に進み、数枚の紙束を差し出した。


「いくつかの候補の中で探っておりましたが、この人物がお望みの人物として適合する存在かと思いました」


「どうしてそう思ったの?」


 ジュナに問われたリリカは、ぼんやりとした視線を僅かに浮かせ、

「エヴァチ司祭、この人物が大公に対して、重税を抗議した記録を見つけたからです」


 エヴァチ司祭は彩石を持って生まれながらも家柄に恵まれず、輝士を志すも成人前に行き詰まり、苦労をしながら聖職者の道に進むことになった。


 リリカは淡々と言葉を繋げ、


「彩石を持って生まれた立場にありながら、神の名の下に平等を唱えている珍しい人物です。下街の信者たちも分け隔てなく受け入れているようで、その性質上、貴族家からはあまりよく思われていないような様子が窺えました。しばらくの間リシアの本山に呼び出されていたようですが、近頃はまたターフェスタ内で落ち着いている様ですが」


「上流階級とも繋がりを持ちながら、大公の政策に不満を持っている慈悲深い司祭様……探していた表側の有力者」


 ジュナはヴィシャ、そしてエヴァチ司祭の資料を並べ、二人の名が記された文字の部分を指でなぞった。


「司祭に直接お会いしてみたい」


 ジュナの呟きにリリカが渋い顔を作り、

「城には上街の教会の関係者が招かれ、エヴァチ司祭は遠ざけられています。ジュナお嬢様は監視下に置かれていることもあり、対面を望むのは少々難しいのではないかと。少なくとも権力を持つ誰かの許可が必要になるでしょう」


「それなら――」

 と、ユギクが手を上げた。


 ジュナが頷くとユギクは言葉を繋げ、

「近いところで、大公が戦勝の触れを出すらしいので、普段興味がない軍服まで用意しようってくらい浮かれてるなら、それに便乗してお祝いの言葉を送り、機嫌を取るのはどうでしょう。自慢話をしたい相手が一番喜ぶのは驚いてみせたり褒めてやることですから、大公が喜べば、多少のことは許してくれるんじゃないかって……」


 叶えてほしい望みのために、相手のご機嫌を伺う。その提案は単純かつ素朴な正攻法だった。


 皆が黙して話を聞いていると、ユギクはだんだんと声を小さくして、口をすぼめてそっぽを向いた。


 ジュナは爽やかに笑みを浮かべ、

「良い考え!」

 ぱん、と強く両手をたたき合わせた。




     *




「なんだ、これは……」


 中年のリシア教司祭パデル・エヴァチは、下街の広場に張り出された大公の布告を苦々しい表情と共に凝視した。


 助祭を務める青年ハースが背後から布告を覗き込み、

「戦勝の布告文ではありませんか……深界でムラクモ軍を撃破、国境守備の城塞を制圧……まさか本当なのでしょうか……?」


 張り出された布告に、少しずつ人が集まりだしている。


 エヴァチは険しい顔で布告文を睨み、

「なぜだ、銀星石様はすでに戦いからお離れになられたはず。それなのに、なぜターフェスタが東方の強国を打ち破ることができる……」


 その時、布告文を見た一人の男が、

「あの男がやったんだ、シュオウという名の、あの――」

 その名を叫び、集まりだしていた人々に向けて興奮した声をあげた。


 エヴァチは口々に上がるその名を、

「シュオウ……」

 疑念を込めて呟いた。


 エヴァチは、その名をぼんやりと記憶していた。祖国を捨て、異邦の地に身を移しながら、突然戦争の司令官に任命されたという、悪ふざけのような、よく要領を得ない話を聞き知っている。


 異国の人間に突然戦争の指揮を一任するという暴挙に留まらず、その者はまだ若い平民の身分にある者だという。大公はすっかりおかしくなったのではないかとエヴァチは思っていた。


 だが、

「なぜ、勝っている……」

 エヴァチは止めどなく溢れる疑念を、再び口から溢れさせた。


 新たな司令官の任命は、銀星石を戴くワーベリアム准将との不仲の結果、やけくそになった大公の起こした酔狂の類であったはず。


 独り言のような疑念の言葉に、ハースが反応し、

「件の者が本当に優れていたのだとしたら……」


 エヴァチはぼやけた視線でハースを見やり、そのまま噂話で盛り上がる人々を注視した。


「言っただろう、あの男はすごいやつだって」

「ヴィシャの旦那も言ってた、ここしばらくの配給の食糧はあのお方が用意してくださったのだと」

「信じちゃいなかったが、本当だったんだな」

「あの男が……いや、シュオウ様がきっと、ターフェスタを勝たせて戦争を終わらせてくれるッ」


 人々が口々に明るい希望を語る言葉が、エヴァチの耳に聞こえてくる。


 ――違う。


 エヴァチは人々を見ながら首を振った。


 ――違うのだ。


 戦争には莫大な金が費やされる。大公の望みは深界での競り合いに勝利することではなく、ムラクモの領土を奪い取ることなのだ。


 それこそは、近隣のどの国の王でも手を出すことのできなかった勲章であり、燦光石を持たずに玉座につく現ターフェスタ大公にとっては、その劣等感を慰めるために見た、果てのない夢のひとかけらなのである。


 ――このままでいけば。


 半端な勝利は、無謀な夢の継続を意味する。


 すでに国民の多くが疲弊しきっている状況で、戦争がこれ以上長引けば、大公は夢の継続のためにさらに税を搾り取ろうとするだろう。たとえそこに、一滴の水すら残っていなくても、だ。


 ワーベリアム准将が戦争の指揮官からはずされたと知ったとき、この不毛な戦いに終わりが見えたと、エヴァチは神に感謝を捧げた。


 だが現状はどうか。この布告通りに本当にムラクモの拠点を陥落させたのだとしたら、大公はそのまま夢を叶えようとムラクモの領土に手を伸ばすだろう。


 ――いったいいつになったら終わる。


 ムラクモの領土を侵犯することは可能か、そもそもそれにどれだけの時間を費やすのか。


 負けるのならば、少しでも早いほうがいい。


 エヴァチ自身も、そして助祭のハース、ここに集う者達も皆、目に見えて痩せ細っている。


 教会に蓄えていたものなどとっくに下街の民のために吐き出している。己の先すら見えぬ状況で、重税に苦しめられ続けている民の運命を思えば、エヴァチにとってこの戦勝の布告は、ただの絶望への道しるべにしか思えなかった。


 その時、布告文の掲示を仕切っていた輝士が、胸を張りながら前に進み出た。


「ターフェスタ大公殿下のご意志と神の祝福により、我が国は東方の大国を打ち破り快勝した。それにより、偉大なる大公殿下の偉業に帯する祝賀を受け付ける。大公殿下への賞賛と献上品の用意がある者はいますぐ係の者に――」


 その言葉を聞いた途端、エヴァチは頭の中を巡る血が沸き立った。


「ふざけるな! この者達を見よッ、痩せた手を、足を、痩けた頬を見よ! 栄養が足りず、外を歩けなくなった子どもたちもいる……こんな有様にしておいて、献上品を寄越せなどとよくもッ!!」


 エヴァチが輝士に掴みかかろうとした途端、兵士らが武器を構えて前に立ち塞がった。


 ハースが慌ててエヴァチの腕を掴んで引き、

「エヴァチ司祭、どうか落ち着いてください!」


 騒然とする広場で、怒鳴られた輝士がエヴァチに歩み寄り、

「お立場と教会に免じて、このことは大公のお耳には届かないよう配慮します。この場は大人しくお下がりください」


 エヴァチは荒い息をゆっくりと整え、手を引くハースに逆らうことなく、その場を離れた。


 二人は人気のない場所で足を止める。


 エヴァチから手を離したハースががっくりと肩を落としながら、

「いやもう……心臓が飛び出るかと……」

 青白い顔で胸を押さえた。


 エヴァチは崩れた聖職者の服を整え、

「……すまなかった。あまりの暴論に腹が立ってしまってな」


「お気持ちはよくわかります……私だって……ッ」


 言いながら、密かに拳を握るハースも、下街の民とそう差はないほど痩せ衰えている。


 エヴァチは黙して空を見上げた。


 曇天に奥にあるはずの熱は、春を迎えぬ地上には一切届かない。


「このターフェスタの民の行く末を、天に祈ろう……」


 エヴァチは硬く冷たい石造りの地面の上で跪く。

 ハースがそれに倣い、二人は天を見上げ、同時に祈りの仕草を手で表した。


 ――一刻も早く、完膚なきまでの敗北を。


 誰にも聞こえぬ心の奥深く、エヴァチは強い願望を祈りながら、戦いの地へ思いを馳せた。




     *




 ターフェスタが開戦を宣言してから、戦地として戦いを繰り広げられてきた白道上をアリオトの馬車隊が通過していた。


 馬車には大量の物資が積み込まれていた。食料、武器などの装備品から、建築材料に至るまで、種類は多岐にわたる。


 隊列を組む馬車隊を囲むように警護役の兵士たちが随行している。


 戦いに同行せず、アリオトに残ったクモカリは、この輸送隊を仕切る責任者として同行していた。


「はいどうぞ」


 馬車隊の中央付近で、馬車の席に腰掛けていたカトレイの主計、バーナ・クロンに、クモカリは自身が用意した料理を差し出した。


 本格的に調理された食事を見て、クロンは不思議そうに首を傾げる。


「あの、これをどこから」


「いま後ろの馬車で作ったばかりのお昼ご飯よ。火を使いたくないから、あらかじめ調理して持ってきておいた小麦粉の生地に細かく刻んだ干し肉と、ターフェスタの郷土品の野菜の漬物を添えて香辛料で味付けたしたもの。しっかりと味があるわりには匂いも少ないから、深界で食べる食事としては安心できるでしょ」


 クロンは渡された筒状の料理をまじまじと見つめ、

「用意周到、ですな」

 鼻を近づけた。


 音も鳴く喉を揺らしたのを見て、クモカリは優しく微笑んだ。


「じゃあごゆっくり」


 離れようとすると、

「お待ちを――」

 クロンが呼び止めた。


「それで足りなければ追加で用意もできるけど」


 クモカリの配慮にクロンは首を振り、

「いいえ、もしよろしければ、ご一緒にいかがかと」

 手にした料理を軽く掲げて見せた。




 自分の分の料理も用意したクモカリは、馬車の上でクロンの正面の席に腰を落ち着けた。


 クロンはさっそくと料理を頬張り、

「美味い……旅の携帯食とは思えません」


 クモカリは笑って、

「お上手なんだから」

 料理を口に運んだ。


「世辞ではありません。渇いた肉と酸味の強い漬物が、中に入ったタレと合わさり絶妙な味わいを表現している。このタレはどのような……?」


 クモカリはにやりと笑み、

「褒められてすごく良い気分だけど、それについては内緒にしておくわ」


 クロンは頷き、

「そうでしょうな、この味は金になる、秘密にしておくべきです。調理場もなくこれだけのものを用意できるのなら城下に良い店を開けるでしょう」


「あら、私お店をもってたのよ、ムラクモ王都の一等地にね」


 クロンは眉を上げ、

「そうでしたか」


 クモカリは食べかけの料理を手に持ったまま周囲の景色に視線を流し、

「私はちょっと変わった生まれ方をしたけど、濁った石を持つ人間としては、平凡な人生を送るはずだったのよ。すべてが変わったのは彼に会ってから」


 クロンは残っていた料理をすべて食べ尽くし、

「アリオト司令官のことですか?」


 クモカリは頷いて、

「流れでね、気がついたらこうなってた。本当なら私、馬車に乗ってのんびりと食事をとれるような身分じゃないから」


「それどころか、あなたはこの輸送隊の指揮官の地位にあります」


「やめて、くすぐったくなっちゃう。こういうのを分不相応って言うんでしょうけど、だからってそこから逃げるわけにもいかないのよね」


 シュオウが戦場に出てから、クモカリは日々忙しく自身の仕事に従事した。物資の管理と運搬の指揮は規模が大きく重圧を感じたが、それも実際にやってみれば、店を運営していたころにしていたことと、大きな違いはなかった。


 クモカリはふと、目に影を落とし、長い隊列によって運ばれる物資を俯瞰した。


「戦争って本当にお金がかかるのね。これだけの食料があれば、ターフェスタの街中で飢えていた人達にたくさん分けてあげられるのに」


「武器、防具の調達、集めた兵士たちへの給金に食料の確保、馬の運用費、建物の修復に必要とされる材料費――数えていけばきりがないほど、莫大な費用がかかります。ターフェスタの場合、なかでも最も浪費の原因となっているのは、我々カトレイへの支払いでしょうが」


 クモカリは顔色を落とし、

「ターフェスタの街中の様子をご存じかしら?」


 クロンは曖昧に首を傾け、

「正確に知るところではありませんが……しかし想像はつきます」


「みんな疲れきってて、心も体もぎりぎりって感じだったわ。なんとかしてあげたいけど、私にはそんな力はない。だからせめて、早く戦いを終わらせようとしている皆のために絶対に物資だけは不足させない。クロンさん、あなたはこういう仕事には慣れているんでしょ? なにか助言があったら教えて欲しいんだけど」


 クロンは視線を沈め、

「私など、他人に教えを施すほどの身ではありません。普段なら遠慮をさせていただくところですが、いただいた美味しい昼食へのお礼として、一つだけ……ひとを信用しないことです」


「信用しない……」


 クロンは頷き、

「例えばあの馬車隊の一角を担当する兵士です。濁石を持つ軟石兵、カトレイの兵士ではないので、出身はターフェスタのどこかでしょう。ターフェスタは現在重税によって民が疲弊している。そんな状況下で、これほどの潤沢な食料や物資を見ればどう思うでしょうか。腹が立ち、自分や置いてきた家族のためにくすねてやろうかと考える、それが人情というものです。一人が取り始めれば、それは洪水のように底を広がり、すぐに真似をする者達が現れます。たとえこうした状況下でなくとも、物を扱う以上は、そこにひとを関わらせることになる。最初にとられた物がかけら一つだったとしても、その後の対処を誤れば取り返しのつかないことにもなりかねない、関わる者達を決して信じてはなりません。あなたはお優しい人物だとお見受けしておりますので、この助言を差し上げたいと思います」


 真剣な表情で話に聞き入っていたクモカリは小さく頭を下げた。


「ありがとう、とても大事な話を聞かせてもらったわ。彼らを信じていないわけじゃないけど、私も一応ささやかに手を打ってはいるのよ」


 クロンは意外そうに瞼を上げ、

「ほう、というと?」


 クモカリは懐から数字を書き付けた紙束を取り出し、

「馬車隊を区切って班にして、そこに積まれた物資の数を細かく調べて書いた物を、班を担当する兵士さんたちと共有してあるの。それぞれの班長に、現地に到着したときに物資の確認をして、一つでも足りないものがあれば倍の料金を請求すると伝えてある。彼らにはすっかり嫌われちゃってるでしょうね、信用していないって言ってるのと同じなんだから」


 クロンはクモカリから紙束を受け取り、

「……いいえ、大変素晴らしい。正確に物資の状況を把握できるだけでなく、窃盗の抑止にも繋がります。よくこれだけのことを……」


 クモカリはにこりと笑い、

「あなたの所の人に手伝ってもらったのよ、優秀な人が多くて助かっちゃうわ」


「…………」


 クロンは少しの沈黙の後、自らの荷物から、紙と筆を用意した。揺れる馬車の上で、膝の上に板を置き、その上で書き物の用意を調える。


 クモカリに不思議そうに見つめられながら、クロンは紙の上にすらすらと文字を書き、最後に達筆で署名した。


 クロンは書いた物を差し出し、

「よろしければ、これをお持ちください」


 クモカリは紙を見て首を捻り、

「……まったくなんて書いてあるかわからないんだけど?」


「我々の仲間内でのみ伝わる暗号文字のようなものです。カトレイに纏る人物に見せれば、雑に扱われることはないでしょう。もしも、この先にカトレイとの関わりが必要となった際にでも、これのことを思い出してください」


 クモカリはクロンに笑みを向け、

「ありがとう、なんだかぴんとこないけど、お気持ちを嬉しく受け取っておくわ」


 クロンは真顔で頷き、

「さて、この辺りは……両国の国境が混じり合う地点でしょう。このまま無事に到着することを祈るのみです」


「ええ、そう願うわ」


 クモカリはクロンと共に、一条に伸びる白い道を俯瞰する。


 酷く砕けて破損した道、点々と広がる黒い染み。


 見覚えのある戦いの痕から目をそらしながら、クモカリは代わりに、先で待つ仲間たちの顔を思い浮かべた。











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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄腕諜報員! クモカリは一流の料理人なだけでなく経営者でもあるから、こういう輸送隊の指揮も出来るのか、優秀だなぁ。そらクロンが勧誘?先行投資?しようとする訳だわな。 (戦争は金食い虫) …
[良い点] こういう環境の描写は良いよねぇ
[良い点] 戦争の敗北を願うエヴァチ司祭と戦争の跡から目を外すクモカリなど、それぞれの心情が察せられる描写がサラッと入る所が流石です 内容が濃くて毎回楽しみすぎる
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