狂乱 1
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狂乱 1
兵士達が忙しなく城塞内を行き交う。各々が騒々しく準備に奔走しだしたのは、戦いが近いという話が、にわかに広がり始めた頃だった。
ある者は緊張した様子で祈りを捧げ、またある者は道具や馬の手入れに勤しんでいる。
そんな忙しない状況下で、行き交う者達が視線を釘付けにする一人の人物がいた。ほんの少し前まで、カトレイを指揮していたビュリヒ・マルケである。
「はあ……」
司令官代行を退任して、カトレイ本部から派遣されている会計としての立場に戻ったクロンは、聖職者の格好をしたマルケと再会し、大きく首を捻って喉を唸らせた。
「やあ、クロン殿、ご機嫌はいかがだろうか」
機嫌の良さそうなマルケの軽い挨拶に、クロンは軽く会釈をして応じた。
「どうも、将軍……まず、まだあなたがここに残っておられたことに戸惑いを感じていますが、それよりもその格好は……」
マルケは得意げに胸を張り、
「司令官に請われ、顧問への就任を引き受けたんだ。この格好に関しては私なりの覚悟のようなものでね。考えたのだが、神を信じぬ者達とはいえ、言葉は通じるし、話してみれば救いようのない愚か者というわけでもなさそうだ。東方からの来訪者達が信仰を理解できないというのなら、できるように教えてやればいいのでは、と」
クロンは砂場に落ちた食べ物でも見るような目でマルケを見つめる。
そこへ、
「剣ではなく手を差し伸べる、それは大変素晴らしい試みです」
ネディムが拍手をしながら二人の前に現れた。
マルケとクロンの二人は同時に険しい顔でネディムを睨めつける。
「なにかご用でしょうか」
冷たく言い放ったクロンに、ネディムは控えめな微笑を浮かべた。
「そう邪険にしないでください」
マルケが威嚇するように咳払いをして、
「悪いが、私もあなたとはあまり友好的に関わりたいと思っていない」
ネディムはわざとらしく驚いた顔をしてみせ、
「私がなにか気に障ることでもしたでしょうか」
マルケは思いきり顔を顰め、
「司令官に私の悪い噂を吹き込んだのは、カルセドニー卿、あなたではないのか」
ネディムは少しも悪びれる様子なく頷き、
「ええ、そうです。ですがその噂は信憑性のある事実として、私が情報を握っていた故のこと。私は大公から任命され、アリオト司令官を補佐していますから、その指揮に影響を及ぼしかねない者を遠ざけるように助言するのは当然のことでしょう」
クロンが一歩踏み出し、
「将軍、このお方にはお気を付けください。言葉一つでひとを泥沼に落とすようなお方です」
マルケは素早く首を振ってクロンを見やり、
「会計殿もなにかされたのか」
クロンは苦々しく口角を下げ、
「暗に脅され、法外な値切りをされました。本部にどう説明すべきか、報告書の内容に苦慮し、頭を抱えているところです」
ネディムはすっと軽快に手を打ち、
「そういうことであれば、私がお手伝いいたします」
クロンは顔に皺を刻んで全身を細かく痙攣させた。
「結構です!」
ネディムは微かに頷いて、クロンに小さく頭を下げた。
ネディムは、聖職者の格好をしたマルケをまじまじと見つめ、
「いやそれにしても、あなたがそういう人物だったとは、正直意外でした」
マルケは訝しんで、
「そういう、とは?」
「噂で聞く限り、随分と強硬な人物であると思っていたもので。ひとは直接会って見なければどのような人物か知る事はできない、ということを改めて知った思いです。同時に、私の今の上官の寛容さに、少々驚いてもいるのですが」
マルケは皮肉っぽい笑みを返し、
「ふ、まあその点については同意できるな」
「ですが――」
ネディムはそう切り出し、湯が少しずつ熱を冷ましていくように、微笑みから無表情へと顔色を変えていく。
「――今後の行いには、十分お気を付けください」
マルケは顔相険しくネディムを睨み、
「それは、どういう意味で言われているのか」
「言ったままですよ。あなたが今、そうして名誉を回復する機会を得られたことに感謝の念を持ち、顧問という立場を忠実にこなすのであれば何も問題はない。ですが、その機会を与えた者を軽んじて約束を違えば、あなたは大人しくここを去るべきだったと後悔する事になるかもしれません」
マルケは声を荒げ、
「また脅すのか、あんた達はそういうことばかりだな」
「ジェダ・サーペンティア――」
ネディムがその名を言うと、マルケは押し黙って目の下を痙攣させた。
「――アリオト司令、シュオウ殿の側には、常に風蛇の公子の目が光っているのをお忘れなく。あなた方が思う以上に、公子殿から贈られる主への忠誠心は強い。それ故に、あの目は多くを監視し、常に評価していますよ。私も見られている側の一人として、心からあなたの身を案じて忠告を送らせていただきます。どうか、その手にある職務に忠実でありますように」
*
カトレイ雇われの輝士、リ・レノアは現在、新たな役職として、仮の重輝士にして指揮官代行という不安定な二つの名を冠していた。
「アリオト司令がムラクモへの侵攻を決めた。各隊の隊長達はこの後私のところに集合すること。今日から本格的に実戦での動きと編成を詰める」
カトレイの兵士らを集めた集会で、レノアは指揮官就任後初の指示を伝えた。
だが、解散が告げられた後、集合の指示を与えた隊長達は、一部の者達以外ほとんどが言う事を聞かずに距離をとった。
「あんた達――」
反抗するように遠巻きに視線を送ってくる隊長達を睨みつけると、集団の中から、重輝士のシルフ・ニーステルが声を上げた。
「新たな指揮官代行は、分をわきまえずに取り入るのがお上手なようですから、あなたはきっと、事前の打ち合わせなどなくとも、上手く兵を動かす事なんて簡単にこなされるのでしょう? さあ皆さん、決められる事は非力な私たちの間で決めてしまいましょう、代行のお手を煩わせてはなりませんから」
シルフは美しい髪をかき上げ、嫌みを隠すことなく、意地悪な目つきで皆を扇動する。
レノアは眼前の出来事にとくに動揺することもなく、
「……はじまったね」
誰にも届かない小さな声で呟いた。
群れに取り憑く平凡な者達は、規則を第一の重要事とする。彼らは慣習を重んじ、その枠を越えて高みに手をかける者を罰し、排除を試みようとする習性を持つ。
レノアの目の前で堂々と命令に逆らう者達のほとんどは、今回の指揮官候補者に選ばれていた重輝士達だ。自分達のうちの誰かが得られるはずだった席を、部外者に奪われたという憤りを強く持った故の行動であろう。
多数派がレノアに背を向けた事で、恭順の意を示していた少数派まで、彼らの顔色を窺うように距離をとり、恐る恐る背を向けて去って行く。
一人残されたレノアが一つ息を吐くと、背後から静かにひとが歩み寄ってくる気配が伝わった。
「なにか?」
振り返って見えたのは明るい黄緑色の髪色と彩石。強く不快な印象を与える心のこもっていない微笑を浮かべた、ジェダ・サーペンティアだった。
「その地位は重荷だったんじゃないかと心配になってね」
心配など僅かにでもしていないであろう態度に、レノアは適当に相づちを返す。
「ああ、そう」
ジェダはレノアの隣に立ち、去って行く隊長達の背を見つめた。
「シュオウは独自の感覚でひとを選んでいる。彼が気に入る人間の特徴は、単純に使えるかどうかだと思っていたが、どうやらそれだけで決めているわけでもないらしい」
「悪いけど、大貴族のお坊ちゃまの言う事はまだるっこしくてね、なにが言いたいのかよくわからないよ」
ジェダは冷たく鋭い視線をレノアに返し、
「無理をする必要はない、自分の能力を自覚したなら、まだ引き返せる。君が引き受けたその役目に適応できないまま、報酬のためにしがみついていれば、シュオウにとっても障害になる。彼にとって不要だと判断すれば、そのときは僕が君の戦死を見届けることになるだろう。が、出来る事ならそれは避けたいとも思っている」
淡々と語られるその内容は、明らかな脅しである。
ジェダ・サーペンティア、その名が風に乗って囁かれる事は多い。血塗れ公子、汚名と共に知られる残虐な殺し方が手形のように忌み嫌われている札付きの人物である。
風蛇公の異名で知られる蛇紋石の主の子という特権階級にありながら、国を捨てて他国に渡り、彩石を持たない平民の男に仕えている。そして輝士としての彼の実力は、悪評と共に、特にターフェスタ国内では知れ渡っていた。
普通なら怯えるべき接触に対して、しかしレノアは堪えきれずに笑みを漏らした。
「お坊ちゃまさ、昨日私に提案された報酬の額を見てたよね? あんなお宝をみすみす手放すなんて冗談じゃない。あれだけの金が手に入ったらすぐにでもこんな仕事やめてやるんだ、ひひッ」
妄想する明るい未来に誘われて、思わず邪気に満ちた笑い声を漏らすと、余裕の態度で微笑を浮かべていたジェダが、きょとんと真顔でレノアを見つめた。
レノアは駆けだし、背を向けて去って行く隊長達を呼び止めた。
「待ちな!」
その視線は集団を束ねるシルフ・ニーステルを鋭く捉える。
シルフが胸を張って高圧的にレノアを見下ろし、
「なんです?」
レノアはシルフの眼前に詰め寄り、
「あんた、私が指揮官だと認めないつもりか?」
シルフは若干気圧されたように目をそらし、
「いえ、別に。興味もありませんから……」
「なら元いた位置に今すぐ戻りな」
「……それは、嫌です」
レノアは目を見開いてシルフを睨めつけ、
「ここは軍隊だ、上官への命令に従わないのなら、それは私を指揮官とみとめてないってことだよね」
シルフは苛立たしげに唇を震わせ、まっこうからレノアと視線を合わせた。
「ええ、そうですね。あなたは相応しくない、どんな方法であちらに取り入ったかわかりませんが、分をわきまえて今すぐ指揮官の席から退くべきで――」
最後まで言わせることなく、レノアはシルフの髪を掴み、顔面から地面の上にねじ伏せた。
顔面を硬い地面に打ち付けたシルフの鼻から、赤い鮮血が滴り落ちる。
レノアはシルフの顔を持ち上げて覗き込み、シルフにだけ聞こえるよう小声で話しかける。
「あんた達が言う事を聞かないのなんて最初からわかってた。でもね、それじゃあこっちも仕事にならない。だから、代表してつっかかってくる奴を最初に痛めつけるつもりでいたんだ、反抗的な群れを黙らせるのには、それが手っ取り早い。その生け贄があんたみたいな弱いお嬢様で楽ができそうだよ――」
言い終えると、レノアの指の爪が肉食獣のように鋭く伸びる。その爪の先でシルフの顔をそっと撫でると、
「――まだ逆らう根性があるなら立ち上がりな。でも、立つなら私と決闘になる。晶気を使うと気が荒くなるから手加減は出来ない、その綺麗な顔をずたずたに切り裂き、皮を剥いで飾り物にしてやるよ。あんた達に嫌われようが恨まれようが、少しも恐くない、従うまでとことん調教してやる」
シルフは目を合わせたレノアの顔を見て、引きつったような悲鳴をあげた。
晶気を使ったレノアの顔は変貌し、目は猫のように瞳孔が細長く引き締まり、口元から長い犬歯が、獣の牙のように伸びていた。
手を離したレノアは立ち上がり、横たわったまま微動だにしないシルフを見下ろした。直後には、晶気によって生じていた体の変化が、すべて霧散し、消失している。
レノアは突然の事に戸惑っている隊長達に向け、声を張り上げ、
「聞きなッ。あんたらも知っての通り、ここには本部から監視役のじいさんが送られてきてる。つまりね、上の連中はここを気にかけてるんだ。そんな状況であんたらが指揮官に逆らい、部隊の運用がぐちゃぐちゃになったらどうなると思う? まあ私は首になるだろう、でも元々輝士とは名ばかりの雑用係、失うものなんてたかがしれてる。けどあんたらはどう? その座につくまで色々と頑張ってきたんだよな。うまくやれなきゃ、そのご立派な経歴に一生消えない泥がつくことになる。それが嫌なら、どうすればいいかわかるね」
指示を無視して反発していた隊長達が、互いに顔を見合わせた後、駆け足気味に、集合をかけた場所へと戻っていった。
レノアは再びシルフの顔を覗きみ、
「思ったより簡単にあいつらのご主人様になれたみたいだよ。あんたはどうする? まだ私の邪魔をしたいなら――」
首を掴んでシルフの顔を持ち上げると、
「いや、やめて、許して……ッ」
シルフは怯えた顔で逃れようと必死に足をばたつかせた。
レノアは物影から見物していたカトレイの兵士達に声をかけ、
「こいつは指揮官に逆らった、命令不服従の罰で明日の昼まで牢ですごさせる、連れてきな」
緊張しきった兵士達にシルフを引き渡すと、遠巻きに様子を伺っていたジェダが、いつのまにか隣に立っていた。
「手慣れている」
ジェダは言って、地面に落ちた血だまりを踏みつけ、靴を引きずって地面に赤い線を引いた。
レノアは両手をはたき、
「もっとろくでもない奴らの面倒をみてた時期もあったんでね。ここのお人形ちゃん達を馴らすのなんてたいしたことじゃない」
レノアは改めてジェダを見やり、
「それで、まだなにか?」
ジェダは広場で整然と並んで待機するカトレイの隊長達を見つめ、
「さっき言った事は忘れてかまわない」
そう言い残し、靴の裏を血で汚したまま、その場を静かに立ち去った。
*
「ムラクモへ送る宣戦布告の文書を用意いたしました、ご確認ください」
ネディムの達筆な字で記された文書に目を通し、シュオウはアリオト司令官の印章を用意する。
文書には日取りと交戦に用いられる白道の地点、その他諸々が丁寧に記されていた。
「ここまで決めるものなのか」
あまりの礼儀正しさに、戦争ではなく、まるで興行として開催される競技にでも向かうようである。
聖職者の衣を纏ったマルケが、
「戦争といえど規則は必要となる。それがなかった頃、国家間の争いは際限なく世界を消耗させた。だが今となっては遺体の扱い、捕虜の処遇、白道の修復にもある程度の取り決めはある。慣習とは理由があって積み上げられてきたものということだな。まあ、これがまかり通るのは、意思の疎通ができる相手であればこそだが」
その時、
「失礼します、ボウバイト副司令を連れて参りました」
ディカが入室し、報告をあげた。
シュオウはディカに頷き、
「入れてくれ」
許可を与えた。
エゥーデは副官一人だけを連れて現れ、ずかずかと歩いて椅子を掴み、執務机に座るシュオウの前にふんぞりかえって着座した。
「話は聞いた。一度きりの機会を早々に使い捨てることになるぞ」
語りは淡々としていながら、その目は隙あらば襲いかかってきそうなほど殺気立っている。
「これ以上時間を使いたくない」
シュオウは言って、手元にあった文書をエゥーデに差し出した。
エゥーデは仏頂面で文書に目を通し、
「……大権を行使したいのならば好きにしろ。だが言っておくぞ、かの国にはその絶大な力が畏怖の対象とされる四つの燦光石があり、その奥には隷属する砂の石までもが存在する。輝士も晶士も、何人殺そうとも次から次へと代わりが現れる。ムラクモとはそういう国だ、もし奴らに攻め込まれれば命を賭けて戦うことに意味はあろうが、こちらから奴らに弓を引いたとて、得るものはなく失うものばかりだ」
ネディムが、
「そのご発言は、大公殿下の指針に対する非難とも聞こえます」
エゥーデは顰めっ面でネディムの言葉を無視した。
シュオウは前傾姿勢でエゥーデを見つめ、
「ムラクモの領土を取る、大公にそう約束した」
エゥーデは顰めっ面でシュオウを睨めつけ、
「意志が固いのならば、さっさとこれを送りつけろ――」
そう言って持っていた文書をシュオウに投げ渡した。
ネディムはシュオウに辞儀をして、
「アリオト司令、副司令両名の意志の統一をもって、この文書は正式に効力を発揮することになります」
シュオウは文書に署名し、アリオト司令の印章を押した。
「今すぐ使者に届けさせろ」
「用件は片付いたな」
見届けたエゥーデが立ち上がると、ディカがすぐに呼び止めた。
「お婆さま、もうお戻りになられるのですか。よろしければ、こちらで一緒に食事をなさっていけば……」
「……ッ」
エゥーデは無言で激しくディカを睨みつけた。
ディカは身を縮めて顔を伏せ、頭を下げて祖母を見送った。
エゥーデが去って間もなく、マルケが大きく息を吐き、ぐったりと体の力を緩めた。
「はあ……うまくやっているのかと思いきや、ボウバイト将軍に思いきり疎まれているな」
マルケが言うと、ネディムが頷き、
「ええ、それはもう」
ディカが所在なさげに頭を下げ、
「祖母の失礼な態度をお詫びします……」
マルケが慌てて腰を浮かせ、
「いやいや、あなたが謝ることはない」
シュオウが頷き、
「そうだ、今さら俺も気にしてない」
「ありがとうございます……」
頭を下げたディカは、エゥーデが座っていた椅子の下に、ころりと転がる紋章入りの帯留めが落ちているのを見つけ、手を伸ばした。
ディカはしゃがんで落とし物を拾い、
「祖母が落としていった物のようです」
ネディムが手を伸ばし、
「まだアリオトを出ておられないはずです、すぐに届けさせましょう」
ディカは首を振り、
「いいえ、私が渡してまいります、すぐですから」
*
「功を焦る糞ガキどもが――」
エゥーデの言葉は、直後に吐きだした唾と共に、中庭の片隅にある排水口に消えていく。
「――く」
建物から落ちる日陰の中で、エゥーデは突然倒れ込むように壁に手をつき、体を支えた。
「エゥーデ様……ッ」
エゥーデは心配して様子を伺うアーカイドに手の平を突き出し、
「なんでもない、糞虫の顔を見ていたら気分が悪くなった、そのせいで息を乱しただけだ――」
そう言いながら激しく咳き込むエゥーデを気遣い、アーカイドは上官の肩を支えた。
「深界での寝泊まりに体がお疲れなのでしょう。アリオトに部屋を用意させます、閣下お一人であれば断られる理由もないでしょう」
エゥーデは激しく肩を揺さぶってアーカイドを押しのける。
「余計なことをするな。我が身だけを安全な場所に置けばどう見える」
「ですが……」
「案ずるな、アーカイド。間もなくだ、もう間もなくアリオトは我が手中に落ちる」
アーカイドは顔色を落とし、
「……約束を反故になさるおつもりでしょうか」
エゥーデは呼吸を乱しながらも笑みを浮かべ、
「約束は守ってやる、奴らの戦場に付き合って兵を出すところまではな。だが、身を粉にして尽くしてなどやるものか。戦いたければ戦わせてやるが、我が軍がそれに付き合い血を流す義理などないのだ。戦いが始まって早々に兵を後退させ、頃合いを見て無傷のまま撤退する」
アーカイドは語気を強め、
「ですがそれでは、アリオトの兵士らに多大な損害が出るのでは……」
「致し方ないことよ、察して追随する者もあろう」
アーカイドは口元を苦く歪め、
「越権を覚悟で申しますが、それはあまりにも無慈悲です」
「所詮、アリオトの兵はアリオトの兵、ボウバイトではない。だが見捨てるとは言わん、生き残りは速やかに旗下に取り込み、即刻アリオトを掌握する――――ふ、たしか糞カルセドニーが言っていたな、大公殿下は自らが始めた戦いの矛を収めたがっていると。私がそのご意志を汲み、引導を渡す大役を引き受けよう」
悪巧みを秘めたエゥーデの双眸の輝きが、若き日の面影を宿している。
対照的に、アーカイドは顔を沈め、
「……ディカ様が心配です、その結果にどのような心持ちとなられるか」
エゥーデはさらに目の力を強め、
「糞虫の死を持ってディカは後継としての自覚に目覚めるだろう。これは、あれが大人になるための通過儀礼となる。当家の問題だ、お前は口を出さず黙って見ていればいい」
アーカイドは力なく頭を垂れ、
「……はい」
中庭に伸びる回廊の影で、しゃがみ込んだディカは、手で口を押さえながら、目前にいるエゥーデの話に耳を傾けていた。
――お婆さま。
話の内容を心の内に沈めながら、エゥーデが去った後、握っていた帯留めの紋章を見つめ、肩を落として深く白い息を吐き出した。
*
ディカの胸中に、エゥーデの言葉が澱のように淀んでいた。
祖母がこのまま大人しく言いなりになると思っていたわけではないが、まさか本来の身内とも呼べるアリオトの兵達を犠牲にするという非道な行いにまで手を染めようと考えているとは。
エゥーデの計画が実行に移されれば、戦場にあるターフェスタ軍は、ただでさえムラクモに劣る戦力によって、さらに不利な状況に追い込まれる。
一度の失敗すら許されない状況に立っているシュオウの立場を思えば、それはあまりにも酷な事態となる。
――お伝えしないと。
言葉では簡単に思えても、それは実質、生家と祖母に対する裏切りとなる。
鬱々とした感情を抱えながらも、ディカの足はボウバイトではなく、シュオウの元へと向けられていた。
意を決して司令部に足を踏み入れるが、そこにシュオウの姿はなかった。
部屋に一人で残り、書き物をしていたジェダと目が合う。
ジェダは手を止め、
「なにかご用でしょうか」
ディカに対して他人行儀な言葉がかけられる。
「司令官にお聞かせしたい話があります、どちらに行かれたかご存じでしょうか」
ジェダは鋭利な視線でディカを見つめ、
「……さあ、わからないが、食堂に置いてある絵の続きを描いていれば彼もそのうち現れると思いますよ」
明らかにはぐらかすような態度だった。距離を感じる言葉よりも、彼の視線が如実に語っている。信用していない、と。
ジェダ・サーペンティア、その名についた悪評と、ターフェスタの都で起こった一連の出来事を知っていれば、こうして見られているだけで逃げ出したくなるような心地になる。
だが、ディカはその場に踏みとどまり、ジェダの視線に勝るとも劣らない強い視線を送り返した。
「私があの方の側にいることがご不快ですか」
突然つっこんで聞くと、ジェダは微かに眉をあげた。
「どうしたのですか、突然」
「アリオト司令の実質的な副官であるあなたは、シュオウ様の居場所を把握されているはずです。でも、私には教えてくださらない。私の名がボウバイトだからかもしれない、とも思いますが、違う気がします。あなたは、あの方の側に、誰かがいるのを嫌っているだけのように見えるので」
ジェダは座っていた椅子を引き、おもむろに立ち上がった。そして、宮廷作法のような所作で辞儀をする。
「なにか、僕があなたのご気分を害するような態度をとったのだとしたら、お詫びいたしましょう」
そう言って顔を上げたジェダは、壊れた人形のように、場違いでぞっとするほど心を感じない、冷たい微笑を浮かべていた。
ディカは眉間に皺を寄せて、
「その綺麗なお顔はまさに天性の美貌です、でもあなたに見られていると居心地が悪くなる。壁を作る相手に対してはいつも同じ顔、同じ表情、それはまるで、優れた職人の作った一点物の仮面のよう。本当のあなたと話がしたい、そうでなければ私は、今壁に向かって話をしているのとかわりません」
ジェダは姿勢を崩し、左手を腰にあて、まるでディカを見下すように顎を高く突き上げる。
「では、申し出に甘えることにしよう。あなたは僕らにとって一時の関わりを持つだけの客人にすぎない。そのことをわきまえて、引かれた線の外に出てこないようにしてもらえるとありがたい、余計なことは考えずにね」
「ただ話したいことがあるので居場所を知りたいと願ったことがそれほど大事なのでしょうか? なぜ――」
言いかけで、ディカは押し黙る。
ジェダ・サーペンティアという人間が他人に接する際の態度を思い出す。
「――私が、女だから?」
そう言った途端、ジェダの顔からすっと微笑が消え、驚いた様子で眉を上げた。
「面白い……特別そうしているつもりはなかったが、たしかに、僕の言動にはそういう傾向がある。知り合って間もない相手に気取られるようじゃ、少し気をつけたほうがいいかもしれないな」
「なぜ……?」
ジェダは視線を流し、
「近しい身内に、酷く女癖の悪い人がいたものでね。そのせいで起こった数々の不幸を思い出すと、酷く気分が悪くなる。だから、好意をおおっぴらにして彼に近づく女達を不快に思っているのは事実だ」
ディカは険しい顔で拳を握り、
「私もその一人だと思われているのでしょうか」
ジェダは再び顔に微笑を戻し、
「ああ、その通りだよ」
「私はあの人に神性を感じています、不純な気持ちではありません。協力を申し出たとき、命を救われた恩に報い、心から尽くす覚悟で手を上げました。私は今、祖母の裏切りを告発するためにここに来ています、信じていただけませんか」
一時、黙って視線を交わした後、ジェダは椅子にかけていた外套をとって部屋の出口に向けて歩き出した。
「案内しよう」
「いいの……ですか……」
ジェダは外套を羽織って身なりを整えながら、
「身内を差し出そうという心意気に応えることにした。でも、別に今すぐ僕から彼の居場所を聞き出すことにこだわる理由もないと思うけどね」
もっともな言い分を聞きながらディカは、
「仰るとおりです。でも、頭から拒絶されたので、むきになってしまって……」
「ふ――」
ジェダの作り物の微笑みから聞こえた微かな笑い声が、心地良い風のように、ディカの耳に静かにそよいだ。
*
三日三晩が過ぎ、昼前の一時。
平原のように広がる広大な白道の上を、対峙する二つの軍隊が埋め尽くす。
東側には青い軍服を纏った輝士達と、茶色い軍服を纏う従士達が整然と居並び、ムラクモ王家を象徴する翼蛇の紋章を掲げていた。
対するターフェスタ軍の陣容を統率する司令官シュオウは、西側を埋める黄色と赤の軍服を纏った輝士や歩兵を背負い、その先頭に立っている。
司令官付き顧問の地位にあるマルケは、ネディムと共に後衛に身を置き、これから戦場となる舞台を後方から一望していた。
「戦場の空気というものは、こうも息が詰まるものですか」
しみじみと言うネディムに、マルケは得意げにあごをしゃくった。
「生きるか死ぬかの場所だ、そう見えなくても戦場に立つ者のほとんどは震え上がるほどの恐怖を耐えている。カルセドニー卿、貴殿はあまりこうした状況の経験がおありにならないようだ」
「これほど大規模な戦いの場に出るというのは初めての体験です。正直に申しまして、身が竦みますよ」
「ふん、そうかそうか」
常に高みからひとを食ったような態度をしていたネディムが、怯えた様子を見せていることに、マルケは気分を良くした。
マルケはにやけ面を隠す事なくネディムを見やり、
「恐ければ私から一時も離れずにくっついていることだ。皆に忘れられているかもしれないが、こう見えても私はそれなりに経験を積んできた軍人ですからな」
「それは頼もしいかぎりです」
「まあ、心配することはない。ここは晶士隊が配置された後衛の戦列だ、滅多な事では敵兵が入り込む事はない」
「ですが、もしそうなった場合には」
ネディムの問いにマルケは肩を竦め、
「後衛に敵の剣が届いたのだとしたら、どのみちその陣営に勝ち目はない。そうなったらあとは、敵軍の指揮官が慈悲深い人間であることに期待して、一心不乱に逃げ惑うだけだ。手足が体についたまま拠点に戻れれば、その時は全力で神に感謝するといい」
ネディムは溜息を吐いて首を振り、
「希望に満ちた楽しいお話を聞かせていただいて感謝しますよ、顧問殿」
ターフェスタ軍の兵士達が静かに祈りを捧げる最中、その横を騎乗したジェダが疾走し、シュオウの元に駆けつけた。
この土壇場で、なにかを話し込む二人を見て、ネディムとマルケは互いに首を捻り、顔を見合わせる。
「なにかあったのか」
マルケの言葉にネディムは頷き、
「そのようですね」
シュオウはジェダと話を終えると、ジェダの操る馬の後ろに乗り込んだ。二人はそのまま爆ぜるように白道を駆け、こちらのほうへと向かってくる。
「なにごとだ……」
シュオウとジェダはマルケ達の前で足を止めた。
シュオウが素早く馬から下りて、
「ジェダがボウバイトのほうにまわる」
ネディムに告げた。
ネディムは馬上のジェダを見て、
「ディカ殿のご厚意を信用できませんか」
ジェダは目線だけでネディムを見やり、
「信用の問題じゃない、備えておきたいだけだ」
シュオウはジェダの足を軽く叩き、
「気をつけろ」
ジェダは血の通った微笑みを返し、
「ああ、君もね」
馬を飛ばし、ボウバイト将軍が仕切る増援軍のほうへと去って行く。
一人残されたシュオウはマルケに、
「馬が必要になった、乗せてくれ」
「……えッ?」
返事を待たずに勝手に後ろに乗り込んでくるシュオウに、マルケは呆然としながらもそれを受け入れる。しかし、
「ちょっと待ってくれ、馬が必要になったって、それは――」
少し前に戦場での行動を話し合っていた軍議での一場面で、シュオウの言っていた言葉を思い出す。
『俺がまっさきに敵陣に突っ込む』
マルケは血の気の引いた顔で振り返り、軽やかに後ろに乗り込んだシュオウと恐る恐る目を合わせた。
シュオウは短く、
「出せ」
と告げる。
「ご武運を」
ネディムが手を振りながら他人事のように軽く言った。
「神よ――」
マルケは思わず、天を仰いだ。
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