籠絡 3
籠絡 3
打算に満ちた愛想笑いに、媚びるようなしぐさ、そこから出てくる真実味に欠ける世辞の数々が、降り注ぐ雨のようにシュオウを襲った。
「こちら、以前隊商から買い付けた逸品です、もしよろしければ――」
「祖父の形見の古書ですが、見る者が見れば黄金にも匹敵する価値があるとか――」
「煮出して飲めば気力が湧き上がり、三日三晩眠気が吹き飛ぶ効能が続くという秘宝の豆です――」
続々と訪れるカトレイの重輝士達は、それぞれが白々しくご機嫌伺いの挨拶をした後、思い思いの品をシュオウへ献上した。
仮置きの司令部の円卓の上を、そうした品々が隙間なく埋め尽くしていた。
「どういうことだ」
突然の事態に困惑した様子で、シュオウは数々の贈り物の前で腕を組んだ。
ネディムはシュオウの隣で賄賂の品々を眺めつつ、
「おそらく、指揮官候補者との面談の支度をしている話が伝わったのが原因かと思います」
ジェダはシュオウの隣の椅子に腰掛け、
「次の指揮官を現地の人材から選任すると知ったからか。それにしても、こんなものがどうして賄賂になると思える」
ジェダは献上品の一つ、干物のような黒い豆粒を手に取り、不思議そうに匂いを嗅いだ。
シュオウは大きく首を傾げ、
「自分が指揮官に選ばれたいから、こんなことを?」
ネディムが首肯し、
「急場のこととはいえ、臨時の指揮官に任命されれば、その結果によっては出世への大きな近道となるでしょう。上を狙う者にとっては、喉から手が出るほど手に入れたい好機、そう捉えるのは当然のことです」
「僕はこの贈り主を推す」
ジェダは最初に贈られた賄賂を指さしてそう言った。
急に結論を出そうとするジェダに、シュオウは眉を顰めた。
「まだどんな奴か知らない」
「この賄賂の品々はわかりやすく贈り主の性質を表していると思うよ。たしかな価値を保証されていないものや、あまりにも珍奇な贈り物を寄越した人間は要領が悪い。その点、最初に挨拶にきた男は一番手を取っただけじゃなく、贈り物は金貨の束という至極まっとうに価値の解るものを用意してきた」
ジェダの言葉を聞いて、シュオウは二重底に金貨を敷き詰めた木箱を見つめた。
シュオウはしかめっ面で重く息を吐き、
「それだけで決められない」
「僕は自分の意見を言ったまでだ。予定通り全員と話をすることに異論はないさ」
ネディムが真剣な顔でシュオウの顔を見つめ、
「准砂は、どのような人物が指揮官に相応しいと考えているのでしょうか」
「戦場で恐がらずに前を向いて戦える。兵士達に勇気を与え、その時に合わせた決断ができる。それと、絶対に仲間を見捨てない」
即答したシュオウに、ネディムは深く頷き返す。
「なるほど、よくわかりました。今おっしゃられたような人材であれば、たしかに申し分ないでしょう。この先に選ぶのは友人ではなく、あなたの進む道に役立つ手先となる者です。不要と判断した将軍を排除してまで、この状況に辿り着きました。私はあなたの決定に口出しをするつもりはありませんが、無能な者、反抗的な者を早々に候補から除外するよう、面談に臨む前に、私からの進言としてお聞き下さい」
真剣なまなざしで言ったネディムに、シュオウは頷く代わりに、正面からネディムの眼差しを受け止めた。
*
「遅くなりました」
この日、昼を過ぎてから初めてクロンがシュオウの前に姿を現した。
無言で頷いたシュオウとは異なり、ネディムは親しげにクロンに声をかける。
「おはようございます、クロン殿。昨夜は遅くまでお手間をとらせてしまいました。眠りを妨げてしまったのでは、と心配をしていたところです、申し訳ありませんでしたね」
クロンは一瞬だけ口元を苦く歪め、
「……いえ、カルセドニー卿、お気になさらず」
凍えるような硬い声で短く返し、露骨にネディムから視線を逸らす。
クロンはシュオウの前に立ち、頭を下げた。
「司令官、遅れて申し訳ありませんでした。代わりの者にまかせておりましたが、ここからは私が同席させていただきます」
シュオウは強く重い声で、
「始めたい」
と言い放った。
クロンは一礼し、
「それでは、一人目の者から――」
司令部の入り口に立っているカトレイ兵に合図を送ると、部屋に黄色い軍服を纏った重輝士の男が現れる。
司令部の中央に置かれた横長の机で、シュオウを中央に置いて、左右にジェダとネディムが席に着いた。
候補者の男が入室したのを見届けたクロンは、用意されていた四つ目の席には座らず、シュオウの傍らに身を置いた。
男はシュオウの前に立って一礼し、
「失礼いたします、カトレイ重輝士ポーダ・メロンです。この度は貴重な機会をいただき、司令官閣下に心より感謝しております」
隣に座るジェダが小声で、
「本だ――」
その一言は、この候補者が渡してきた賄賂の品と結びつけている。
シュオウは真っ直ぐメロン重輝士を見つめ、
「最初に一つ聞きたい、指揮官になりたいと思っているか」
メロン重輝士は目を輝かせて、
「はいッ、私という人間を知っていただければ、それ以外の適任はないとわかっていただけるものと思っております」
「わかった、なら聞かせてくれ」
メロン重輝士の経歴を記した紙を目の前に置きながら、シュオウは絶え間なく売り込みの言葉を紡ぐ声に耳を傾けた。
そして、一通りの話を終えた後、
「よくわかった」
シュオウがメロン重輝士の面談の終了を告げた。
クロンはメロン重輝士を下がらせ、次の候補者を部屋に入れる。
二番手に呼ばれたのは女の重輝士だった。
「重輝士、シルフ・ニーステルと申します」
ニーステル重輝士は目を引かれるほど容姿に恵まれていた。美しい金髪に輝くような青い瞳、整った小さな顔にすらりと伸びた長い手足。
ジェダはニーステルをちらりと見やり、
「黒い豆だ」
再び、賄賂の品と人物を結びつけるように呟いた。
シュオウは再び、先ほどと同じ質問を投げかける。
「指揮官になりたいと思うか」
ニーステル重輝士はつんと顎を上げ、
「特別に急いで出世を望むわけではありませんが、マルケ将軍の代行が務まるとすれば、私をおいて他にはいないという自負はございます。理由は他にもありますが」
「なにがあるというんだ」
棘のある声でジェダが聞く。
ニーステル重輝士はジェダの視線に不快そうな表情を見せた後、シュオウに視線を戻して上品な微笑みを浮かべた。
「ニーステル家は西方諸国の一角、アイドリアの王家に連なる家柄です。下位とはいえ、私は王石の継承権を賜る身ですので、指揮官として司令官のお側に身を置くことは、軍での活動を越えた価値をご享受いただけるものと思っております」
ネディムは手元の紙束を取って眺め、
「……王家の血筋とは、たいへんに素晴らしい」
その言葉にニーステル重輝士は目を輝かせ、
「はい、おそれいります」
心底誇らしげに胸を張って口元を緩ませた。
シュオウは彼女の様子をじっと観察し、
「わかった」
素っ気なく面談の終了を告げた。
ニーステル重輝士は余裕の表情で首を傾げ、
「あら、もうよろしいのでしょうか。お聞きいただければどんなことにでもお答えいたしますが」
「司令官は終わったと言っている。察しの悪さは指揮官適性を疑問に思わせるだけだ」
敵意を隠す事なく辛辣な言葉を浴びせかけたジェダに、ニーステル重輝士は唇を噛んで怒りを滲ませるが、それを飲み込み、無言で頭を下げて部屋を後にした。
シュオウは晴れない顔で腕を組みながら、
「……次を頼む」
呼ばれて入ってきた三人目の候補者を渋面で迎え入れた。
「これで全部か」
全員の面談を終えたシュオウは、疲れを滲ませた顔でクロンに聞く。
クロンは頭を垂れて頷いた。
「以上です、司令官」
ネディムがシュオウの顔を覗き込み、
「気になった者はいましたか」
シュオウは難しい顔で口角を下げながら、紙束の中から三枚を選び出した。
「ポーダ・メロン重輝士、シルフ・ニーステル重輝士、それとカイ・ローレン重輝士」
ジェダはシルフについて書かれた資料を、叩くように手を乗せた。
「シルフ・ニーステル、書かれている内容を見ればわかると思うが、なんの実績もないのに突然重輝士に抜擢されている。典型的な縁故採用での特別待遇だ。自慢気に語っていた王家の血筋とやらを存分に活かしたに違いない。実力の有無はわからないが、少なくともここに至るまで、自分の能力で上がってきた人間とは思えない」
ネディムが静々と手を上げ、
「その点については、私も同意見です」
シュオウは人選に不満を表明する二人を見る事なく、椅子に背を預けて視線を下げた。
「全員いま会ったばかりだ、どんな人間かどうかなんてわからないだろ。ただ、この三人からは嫌なものを感じなかった、それだけだ」
ネディムは三人それぞれの資料を見つめながら、
「我々が前任のマルケ将軍をはずしたのは、良好な関係性を築くことは難しいと判断したからです。少なくとも准砂や我々に対して敵意を持っていないということは、新任の指揮官に求める必須の条件といえますので、それを根拠にした絞り込みは間違ってはいないでしょう」
シュオウはジェダに視線を流し、
「どう思う」
「一人に関しては今言った通り。残りの二人のうち、金貨の男は手際が良いが、経歴に細かい失態が多く記録されている。本の男は誰よりも自信があるようだったが、本人が言うほどの功績は見当たらない」
ジェダが言った後にネディムが続き、
「急場の人選です、誰を選んでも完璧というわけにはいかないでしょうが、誰かを選ばなければなりません。どうなさいますか」
ジェダ、ネディム、クロンからの視線を受けながら、シュオウはしばらくの間、沈黙と熟考を重ねた。
「……今言った三人ともう一度話がしたい」
クロンは腰を低くして、
「かしこまりました、それではまずメロン重輝士を――」
言いかけでシュオウはそれを遮り、
「三人全員をここに呼んでくれ」
「全員を、同時にですか」
「頼む」
クロンの手配で三人の重輝士が同時に入室する。
三人は互いを気にした様子で、戸惑いの気を滲ませていた。
「我々が最終候補、という認識でよろしいのでしょうか?」
カイ・ローレン重輝士がシュオウに問うた。
思惑を秘めた三人の視線がシュオウに集まる。
シュオウは質問に答えず、一人ずつじっくりと候補者達の顔を観察し、おもむろに語りかけた。
「それぞれ、俺の事情は知っていると思う。この先に俺が欲しいのは戦いでの勝利だ。カトレイの指揮官にはそのための指示を出す、それに応えられる人間を選びたい。会ったばかりで、紙に書いてあることを見ても全部はわからない。だから教えて欲しい、俺の部下として戦場に出たとき、指揮官としてどう振る舞うのかを」
曖昧さを含む問いかけに、三人は一瞬の戸惑いを滲ませた。だが、競争相手を振り落とそうと、ローレン重輝士がいち早く声を上げる。
「当然、司令官の命令を忠実にこなしますッ」
メロン重輝士は次に続き、
「同じくです。手駒として買われる我が軍の真価は、感情なく戦いに臨む兵士であるということ。その性質を忠実に果たすまでです」
最後に、ニーステル重輝士はシュオウに優しく微笑みかけた。
「個人的に、先の戦場でのあなたの行いには敬意を感じております。もちろん、指揮官にお選びいただけるのであれば司令官の命令に異を唱えるようなことはいたしません。それだけに留まらず、耳目のある場で、私は司令官に忠誠心を示すことを惜しむつもりはありません。その行為はあなたの名に箔を付けることにもなるはずです」
それぞれの言葉を受けて、シュオウは息を殺して思索する。
部屋にいる各々の呼吸の音が聞こえるほどの静けさが流れた。
しばしの沈黙の後、シュオウは口を開き、
「レノア輝士を知っているか?」
突然その名があがると、候補者の三人は心底困惑した様子でそれぞれに顔を見合わせた。
なにかと一番手を好むローレン重輝士が口火を切り、
「補給担当のリ・レノアでしょう、知っていますが」
シュオウはローレン重輝士を鋭く見つめ、
「どんな人間だ?」
「雑なように見えて面倒見が良い。何か困っている者がいれば自然と妙案を出してくるので、四方からの評判も良い。私もつい先頃、夜中にマルケ将軍を起こさなければならなくなって愚痴っていたところ、本部付の年寄りにやらせればいいと言われて、あッ――」
ローレン重輝士は言いかけて、我に返ったように口を押さえた。ぎょろりと見開かれた目は、シュオウの側に控えるクロンを捉えている。
クロンは表情に変化を作らないまま、大きく咳払いをした。
シュオウは他の二人を順番に見つめ、
「二人はどう思う?」
メロン重輝士は鷹揚に数回頷いて、
「たしかに……彼女に助けられたという者の声をよく聞きます。なので、その名に覚えはありました」
ニーステル重輝士は、表情を険しくして視線を落とした。
「……私はよく存じておりませんので」
シュオウはクロンに顔を向け、
「レノア輝士と話したい」
ローレン重輝士は慌てた様子で声を荒げ、
「ま、待ってください、まさかあの女を候補者にあげるおつもりですか?! さきほどの発言は撤回しますッ、あれの父親は混沌領域の出という噂で、その生まれは決して――」
「もういい、十分聞いた」
シュオウが強烈に睨めつけると、ローレン重輝士は腰を引き、その場から一歩後ずさった。
ジェダが席から立ち上がり、
「ご苦労だった、三人とも下がっていい」
しかし、候補者達は不満を隠すことなく、その場から動こうとはしなかった。だが、
「聞こえなかったのかね」
クロンがきつく声を上げると、三人は渋々出口に向けて歩き出した。
去り際にニーステル重輝士が他の二人の候補者達を睨み、
「……あんた達、馬鹿じゃないのッ」
小声で吐き出した一言は、しっかりとシュオウの耳に届いていた。
「今出た名前は、ボウバイトとの接見をまかせたあの女輝士のことかい」
ジェダに問われてシュオウは首肯した。
ネディムが手元の紙束をぱらぱらとめくり、
「リ・レノア、階級は輝士……准砂はあの者を指揮官にお望みなのでしょうか」
シュオウは曖昧に視線を流し、
「わからない。ただ、今まで顔を見て話した人間の中に、これだと思う一人が見つからなかった」
クロンは咳払いをして注意を引き、
「申し訳ありませんが、その者は軍の指揮官たる資格を持ち合わせておりません。候補者に加えたいとお考えなのであれば、諦めていただくほかありません。それが規則ですので」
「ただ話をするのも規則に反するのでしょうか?」
軽い口調で聞いたネディムに、クロンはあからさまに目を背け、
「……いいえ」
そう吐き捨てた。
シュオウは、
「どうしても話がしたい。レノア輝士を今、ここに呼んでほしい」
真っ直ぐに願いを伝えた。
クロンは難しい顔で返答を渋っが、間を置いて首を縦に振った。
「……承知いたしました」
*
「おい、やめてくれよ」
指揮官候補者の面談に使われている司令部に入室したレノアは開口一番そう漏らし、天を仰いだ。
レノアは初めて会った時とは違う服装をしていた。やはりカトレイの輝士服を基本としながらも、そこに黒い生地と装飾品を巧妙に混ぜ、個性的な髪飾りで髪をまとめている。
クロンは苛立ちを滲ませながら肩を怒らせ、
「その服装と態度をいい加減に――」
レノアは一切気にした様子もなく、部屋の入り口で足を止めてシュオウを睨めつけた。
「構わないでくれって言ったのは社交辞令じゃないんだよ」
シュオウは真っ直ぐレノアの視線を受け止め、
「ただ話がしたいだけだ」
「ここはあんたらの司令部で、今日は指揮官候補者達の面談用に使われてるはずだ。本当に個人的に私と話がしたいなら、わざわざ今、こんなとこに呼びつける必要はない」
今にも部屋から出て行きそうな勢いのレノアに、ジェダがクロンのほうに顔を向けながら、
「クロン代行が言うには、君には指揮官候補者になるための資格がないそうだ。つまり、話がしたいという司令官の言葉に嘘はなく、君にはそれを拒否する権利はないはずだろう」
ジェダに言われると、レノアは大きく舌打ちをする。
「嫌だと言えば? 罰を与えるか」
「いや――」
シュオウがそれを否定しようとした時、クロンが厳しい口調でレノアに語りかける。
「処罰を検討される前に、カトレイが君との契約を解除することになる。ただ話をしたくないというのは不服従の正当な理由にならない、個人の都合で雇用契約を逸脱する場合、規定に基づき解雇と罰金の支払いを科すことになるが、どうするかね」
険しい顔で口角を下げきったレノアは、ふくれっ面でシュオウの前に屹立した。
「……で?」
まるで今にも襲いかかってきそうなほど、レノアの表情は殺気だっている。
シュオウは強い視線に睨まれながら、はっきりと目を見開き、瞬きを止めた。
「もし自分が兵を率いる指揮官だったら、戦場でどうするかを知りたい」
シュオウがその問いを投げかけると、隣に座るジェダがくすりと笑い、後ろに控えるクロンが重々しく息を吐いた。
レノアは不機嫌な顔を醜悪の域に達するほど、さらに歪めた。
「あんた、噂に聞くよりもずっといい性格してるよ。それに答えたら、ここから出て行ってもいいのか」
シュオウは表情を変えず、
「本気で答えてくれたら、考える」
レノアはシュオウと睨みを交わした後、視線を落として息を吐いた。
「……私なら大の目標と小の目標を分ける。大は勝つこと、兵士達の生存を最優先しつつ、作戦を統括する上からの指示を進める。小の目標は目先のこと。現場じゃなにが起こるかわからない、大の目標を目指しながら、どうやってそこに行くかは私が決める」
険しい顔で語り始めたレノアの表情からは、一転して負の感情が消えていた。
短い時間だが、彼女の仕事ぶりを間近で観察している。緊急時での応用力、人を動かす統率力、立場を越えて頼られる信頼。
レノアには能力があり、はっきりと揺らぐことのない自我がある。
――欲しい。
発作的に沸き起こるその念は、無意識に発せられる彼方からの知らせのようだった。
シュオウは無意識に舌なめずりをして、
「レノア、カトレイの指揮官になってくれ」
心から出た一言に、ジェダやネディム、クロン達が一斉に顔を向けた。
レノアは再び顔に怒気を滲ませ、
「嫌だッ。私を使って、たまたまちょっと上手くいったことがあったからって、他のこと全部がそうなるわけじゃないんだ。ほらみてみな、呼ばれた時、それにあんたの顔を見た瞬間、結局そういう話になるってわかってた。私にそんな大役は務まらない、代行のじいさんもなんとか言いなよ」
クロンはシュオウの前まで足を運び、レノアの隣に立って一礼する。
「その要望に関しましては、再三お伝えしている通り、彼女の階級は輝士であり、指揮官として認められるのは重輝士より上の階級を持つ者のみ。この方法を歪めてよいという文言は、両者間に交わした契約内容にはございません」
「ふ――」
シュオウの片耳に、隣に座るネディムの余裕を感じる息づかいが、微かに聞こえてきた。
「ネディム」
シュオウに呼ばれたネディムは立ち上がり、恭しく一礼する。
「はい、司令官」
「輝士を指揮官に任命する方法はあるか」
「ございます」
ネディムからその一言がでるとクロンは息を飲み、
「カルセドニー卿、あなたはまた……」
ネディムはクロンに微笑み返し、
「あまり身構えないでいただきたい、そう難しい話ではありません。リシアを国教と定める国々では、身分の保証や軍での階級の任命に、国家や組織の意思とは別に、リシアからの承認を得るという方法がある」
クロンは一歩踏み出し、
「簡単におっしゃいますが、リシアは理由なくおいそれと昇進の承認など出しません」
「それは否定しません。ですが、私にとっては特別難しいことではない。冬華として祭祀を司る役割を負っていた立場上、リシアとは縁が深く、それなりに伝もある。緊急の措置として一時的に輝士を重輝士として任命されるよう、私が後見人となり、事後に正式な承認を取り付けましょう」
「できるのか?」とシュオウ。
ネディムは首肯して、
「准砂がそれを望まれるのであれば、いたしましょう」
クロンは歪んだ背筋をぐっと引き上げ、
「もし事後の承認が却下された場合、ご自身にとってどれほどの災難となるか、お覚悟があってのことなのでしょうか、カルセドニー卿」
ネディムはクロンに向けて品良く辞儀をした。
「問題はありません。ご心配いただき、感謝いたしますクロン殿」
クロンは間を置いて全身の力を弛緩させ、
「……そういうことであれば、私からはこれ以上なにも申しません」
両手を挙げたクロンに、レノアが声を荒げた。
「おいッ」
シュオウは立ち上がり、
「余所者の俺達にとって、カトレイは信用して背中を預けられる唯一の仲間になる。その兵士達を率いるのは、信頼できて優秀な人間であってほしい。引き受けてくれないか」
レノアは溜息を吐いて声を潜め、
「……好きで軍人をやってるんじゃないんだよ。仕送りのために金払いがいい雇われ先がここだった、それだけなんだ」
「一時的にとはいえ、重輝士としての昇格を果たせば、相応に給料は引き上げられることになりますよ。なかなかの高額であるはずです」
したたかに、ネディムが売り込みの言葉をレノアに聞かせた。
レノアはうんざりと首を振り、
「そんなもんじゃ割に合わない。一足飛びに出世して、一介の輝士から突然指揮官になろうものなら、目の色変えて上を目指してる連中からどれだけ妬まれるか」
座っていたジェダも立ち上がり、
「面倒ははぶこう。どうすれば引き受ける気になるのか、それを聞いたほうが早い」
ジェダの言った言葉に、シュオウは頷いてレノアを見た。
レノアは逡巡してみせた後、
「下手すりゃ身内からは恨まれ、失敗すれば責任を負わされる。そんな面倒な重責を引き受けるのに見合うものなんて金以外ない。それもはした金じゃないよ、どこにでもいるような女ただ一人のために払うなんて、ありえないと思うような額の金だ」
シュオウは素早く、ネディムに目を向けた。
「払えるな?」
ネディムはシュオウの視線に笑みを返した。
「ええ、都合の良いことに、ちょうど予定していた支払い金が浮いたところでしたからね――」
ネディムは窓際の執務机の上から筆記用具を集め、紙に数字を書き始めた。
書き上げた数字を見たシュオウは頷いて、ジェダに内容を見せる。
ジェダは書かれた数字を見て、短く頷いて同意を示した。
シュオウから紙を渡されたレノアは、途端に目玉が落ちそうなほど大きく目を見開いた。
「これ、ちょっと……え……?」
ネディムは筆記道具を片付けながら、
「ターフェスタ公国において、過去に戦争での勝利を勝ち取った将軍に贈られた土地や財宝、称号や勲章などを考慮にいれ、金額を検討しました」
紙に書かれた数字に目を釘付けにするレノアに、シュオウは強く語りかける。
「引き受けてくれるなら、報酬としてその額を渡す」
「分割で――」
ジェダが短く付け加えた。
レノアは返事をせず、紙を見つめてぶつぶつと誰にも聞こえない声でなにかをつぶやき続けていた。
痺れを切らしたシュオウが、
「レノア……?」
レノアは爆ぜるように顔を上げ、
「やる」
真顔でそう言って、金額が書かれた紙を懐にしまい込む。
さきほどまでの心底迷惑そうにしていた姿はすっかり消失していた。
態度を一変させて指揮官の座を受け入れたレノアの目は、暗闇の中で見る猫の目のように、爛々と光を放っていた。