籠絡 2
あけましておめでとうございます。
2024年もどうぞよろしくお願いいたします。
震災の被害を受けられた皆様にお見舞いを申し上げます。
一日も早い復興、そして日常を取り戻されることを、心よりお祈りいたします。
籠絡 2
朝陽が照らす白道を、野営のテントが埋め尽くす。
アリオトの門前に陣を構える増援軍は、灰色の森に囲まれた中で一夜を過ごした。
健やかな朝露の香りが立ちこめる一日の始まりに、ディカ・ボウバイトは鼻歌を歌いながら朝食を配る列に並んでいた。
そこへ、
「おはようございます、ディカ様。ここに並ばずとも、司令部に行けばすぐに食事を用意させますので」
朝の挨拶もそこそこに、様子を見に来たアーカイドに対して、ディカは機嫌良く微笑みを返した。
「階級を序列に照らせば、上級輝士達と同じ待遇を受ける資格はないでしょう」
「お立場を考えれば不要な気遣いとは思いますが、そうされたいのであれば、私もお供させていただきます」
アーカイドは列に並ぶディカの隣にどっしりと自分の居場所を確保した。
「つきあわなくていいのに」
「少しのことですので」
祖母に仕え、かつては母にも同様に忠誠を尽くしていた男の過保護ぶりに慣れているディカは、アーカイドの気遣いを大人しく受け止める。
ディカはつま先立ちをして列の前方を眺め、目を閉じて鼻を鳴らした。
「ミルクと野菜の匂いがする……パンもつくといいけど」
ディカの声音は軽やかに弾んでいた。
アーカイドは渋い表情でディカを見つめ、
「昨夜はよく眠れたようですね」
ディカは頷き、
「とてもね。アーカイド、あなたは……」
アーカイドは苦笑いを浮かべ、
「ご覧の通りです。恥ずかしながら、深界のまっただ中で眠るのは、どうにも落ち着かず……」
ディカは柔く笑み、
「私も初めてアリオトに入ってからしばらくはそうだった」
「随分、ご気分が良いように見えます、心配をしておりましたので、安心いたしました」
ディカは動揺した様子で視線を泳がせた。
「……そんなふうに見える?」
「はい、一目でわかるほどには」
ディカは自らの顔を両手で覆い、
「気をつけないと……お婆さまにまたお叱りを受けてしまう」
「その点では私からも忠告を、エゥーデ様は現在、とても気分を害されております」
ディカは表情を暗くし、
「昨日のことで、でしょう」
アーカイドは強く頷き、
「はい、アリオトの司令官、シュオウに対して、その怒りが収まらないご様子です。それは、エゥーデ様にかぎったことではありませんが」
アーカイドの言葉通り、爽やかな朝の空気を台無しにするほど、辺り一帯で司令官への悪口が絶え間なく囁かれている。
ディカは神妙な顔で周囲を見渡した後、
「アーカイド、あなたも……?」
静々と問いかけた。
アーカイドは周囲に気を配りながら声を潜め、
「ディカ様を無事に連れ帰った者です、嫌うはずがありません」
「そう……」
ディカはほっとしたように肩の力を抜いた。
順番が来て、ディカは分配された朝食を受け取った。内容は味の薄い汁物と硬いパンであり、輝士に配給されるものとしては質素な内容だった。
アーカイドは慎ましい朝食を見つめ、
「司令部にいけば、幾分かましなものをお出しできるでしょうが」
ディカは首を振り、
「これで十分。でもこのまま手持ちの食料でやりくりしていても限界はくるでしょう」
「それは当然です。本来我らはアリオトに入り、そこで駐屯するはずでした。当然、食料の分配を主張する権利はありますが」
「それはもう伝えたの?」
アーカイドは首を振り、
「いえ、すぐにでも伝えるべきことですが、体面上の都合がありまして……」
「こちらから食料を分けろと言えば威厳を損なう。お婆さまなら、そう考えそう」
「はい、仰るとおりです」
その時、アーカイドの部下が息を切らせながら姿を見せた。
「バライト重輝士、失礼いたします。ディカ様にお渡ししたいものが――」
手に持っていた一通の書状のようなものを差し出した。
アーカイドは素早く上官の態度を取り、
「それは?」
「さきほど使者がきて、これをディカ様にと。差出人はアリオト司令官です」
ディカは胸の上で拳を握り、
「あのひとから……」
差し出された書状を、慎重に受け取った。
アーカイドは神妙にディカを見つめ、
「どのような内容ですか?」
ディカは文字を目で追いながら、徐々に息を荒くしていく。
「昼食を一緒にどうかと……私、お招きをいただいたみたい。どうしよう、えっと――」
ディカは突然そわそわとしだし、髪や服を手で押さえ始めた。
アーカイドは語気を強くして、
「その前に、将軍にお窺いを立てなければなりません」
「そうッ……お婆さまに聞かないと、アーカイド、お願い一緒にきてくれる?」
聞きながら、ディカは返事を待たずに駆けだしていた。
「お待ちくださいッ――」
アーカイドは慌ててディカの後を追いかけた。
中央奥の席に陣取るエゥーデは、孫から渡された書状を読んで、獣のように重く唸り声を鳴らした。
「……だめ、でしょうか」
恐る恐る祖母の顔色を伺うディカに対し、エゥーデはおもむろに口を開き、
「行ってこい、ボウバイトの名を汚さぬように」
ディカは驚いた顔で瞬きを繰り返し、
「はいッ、ありがとうございます」
子供のように足を弾ませ、司令部を出て行くディカを見送りながら、アーカイドは不安げにエゥーデを見つめた。
「許可をお与えになられるとは思いませんでした」
エゥーデは白湯で粉薬を飲み下し、
「糞虫がディカに懸想しているのであればよい、懐に潜り込ませれば、踏みつける隙も見えよう」
「ですが、もし懐柔が目的であれば」
エゥーデは鼻で笑った。
「ディカを手懐けたところでなにができる。増援軍は我が手中にある、小細工でどうにかできると思っているのなら、いずれその浅慮を知ることになろう。が、当然一人で行かせるつもりはない」
アーカイドは力の入った敬礼をした。
「護衛役として、私がディカ様に同行する許可を願います」
エゥーデは底から突き上げるようにアーカイドを睨めつけ、
「向こうには糞カルセドニーがいる、奴がいかに愚かであろうと、礼節を欠いた行いは許すまい。だが、お前がそう望むのなら好きにしろ、仮の副官として側につき、あれに後継としての自覚を持たせろ」
「は、感謝いたします」
アーカイドは辞儀をしてエゥーデに背を向けて歩き出す。
エゥーデはアーカイドの背に向けて声を張り、
「誰にでもガキや小娘の頃はある、この私にもあった。あれにはそれが遅くきただけのこと。猛牛を束ね、荒馬を乗りこなし、蛮族を退けるのがボウバイトの宿命だ、我が孫にもその血が深く刻まれている」
アーカイドは振り返って無言で頭を下げ、司令部を後にした。
*
時間をかけて容姿を整え、微細な服のしわまで綺麗に伸ばしたディカが、自身のテントから姿を現した。
緊張した様子で強く拳を握りながら硬直している姿は、まるで社交界に初めて披露される少女のように初々しい。
アーカイドは無邪気に甘えていた幼少期のディカを思い出しながら、過去を見る事が出来る窓を覗いているような心地に浸っていた。
アーカイドはディカに頭を下げて、
「私がお供します」
ディカは赤く塗った唇で微笑み、
「ありがとう、アーカイド」
その時、
「城門が開きました。司令官が徒歩で出てきます――」
その報告が上がり、ディカは意を決した様子で歩き出す。
ぎこちなく足を動かすディカは、
「どうしよう……」
アーカイドは血相を変えて顔を覗き込み、
「なにかありましたか」
「私、緊張しているみたい」
ディカは震える手を見せながら苦笑した。
アーカイドは密かに胸をなで下ろし、
「私がついていますので」
ディカは数回頷いて、深呼吸を繰り返した。
やがて、アリオトの側から歩いてくるシュオウの姿が目に入る。だが、アーカイドはその様子を不審に思った。
昨日、歴戦の将であるエゥーデを、口先で退かせた勇士はそこにはなく、あるのは強ばった表情で奇妙な歩き方をしている、年相応の青年のような姿だった。
昨日まで漂わせていた威圧感のようなものが、跡形もなく消えている。
互いの距離が声が縮まった頃、シュオウは置き去りにされた雛鳥のような顔で虚空を凝視し、ディカは前を向いているようで、目だけが不自然なほど地面に向いていた。
顔を合わせながら、どちらも互いを見ていない。
無言の二人を見かねたアーカイドは呆れる心地で咳払いをして、
「このたびは――」
そう切り出すとディカが慌てて声を張り上げ、
「こ、このたびはお招きいただきままして、ありがとうございましたッ」
不格好に言葉を噛みながら、裏返った声で挨拶を告げた。
シュオウはぎょろぎょろと片方の眼を泳がせ、
「……どうも」
その視線は行く当てもなく彷徨い続けている。
果たして、これが胸に企みを秘めた者の態度だろうか、とアーカイドは当初の懸念に疑問を抱き始めていた。
彼の態度はまるで、初めて異性との付き合いに挑む若造のそれである。
最初の一言以来黙り込む二人に耐えかね、アーカイドが声をかけようとしたその時、
「我が君ッ!」
いつのまにか側にいたカルセドニー家の問題児、クロムが突如大声を上げて前に出た。
「クロム?!」
クロムを見るシュオウの顔は、この状況に心底驚いている様子である。
クロムは両手を大きく広げてディカを睨み、
「この女は我が君を口汚く罵った老婆の一味です、無警戒にお側に置く前に、このクロムが不審者の身体検査をさせていただきますッ」
唾を吐きながら必死に叫んで、広げた手をディカに向け、じりじりと距離を詰めだした。
血走った目を剥いて近寄ってくるクロムに、ディカは怯えたように後ずさる。
アーカイドは素早くディカの前に立ちはだかり、
「それ以上近寄るなッ」
シュオウが慌てて背後からクロムを羽交い締めにして、
「やめろッ」
クロムは僅かな抵抗をみせ、
「しかし我が君、検査を拒否するのは後ろ暗いことがあるからに違いありません! なにかを隠し持っているはず、暗殺の道具か、はッ、もしや毒では……病気のネズミを隠し持っているのか!?」
なにかが取り憑いたように喚き散らすクロムを、シュオウはさらに強く羽交い締めにする。
「いいからやめろ、命令だッ」
最後の一言を聞いた途端、クロムは糸が切れた人形のように、ぱたりと動きを制止させ、黙り込んだ。
シュオウはクロムを後ろに追いやり、
「申し訳ない……」
心底からの謝罪を口にした。
ディカは首を振り、
「いいえッ、私は大丈夫です。また助けていただいて……」
僅かにほぐれた様子だった二人の緊張が、再び戻る。
「じゃあ――」
簡潔な一言でアリオトへと促すシュオウに、酷く緊張してぎこちない様子のディカを見守りながら、アーカイドは小さく溜息を吐いていた。
*
ガラスの杯を満たす水が、細かな振動を受けて波紋を奏でる。
シュオウとディカが顔合わせに座る小さな丸い卓の上に、料理が次々と並べられる。二人はただ黙々とその様子を見つめていた。
ディカの後方、壁際に陣取ったアーカイドが、険しい顔付きでシュオウに睨みを効かせているが、難題を抱えたシュオウは、その視線の意味をほとんど理解していなかった。
「今日は、どうも……」
シュオウが不器用に挨拶を伝える。
ディカはもじもじと手を揉みながら、
「こちらこそ、どうも……」
一言呟き、俯いた。
一通りの給仕が終わり、一揃いの昼食を前にしながら、二人は言葉を発することなく、無為に時を止めていた。
気まずい沈黙の中、シュオウは微かに耳に届いた咳払いの出所を探した。すると僅かに開いた扉の隙間から、縦一列に顔を並べてこちらを覗き見ている仲間達と目が合った。
――あいつら。
シュオウは目尻を尖らせ、睨みを効かせる。自分が見世物になっていることに憤りを感じつつ、彼らが無言で口を動かして伝えようとしている内容を必死に読み解いた。
覗き見ている者達は一様に口の形を揃えて、話せ、と言っているようだった。
――話せって。
一人の女を籠絡せよ、という使命を負っている今、食べ物を前にしてただ無言を貫き通していたとしても、その目的は叶わない。覗き見に勤しむ観衆達の進言は、もっともな内容である。
彼らの無言の忠告に意を決して頷き返し、シュオウは所在なさげに座るディカを見つめ、強固な意志を込めて声をあげた。
「まッ――」
その一言を発し、大きく口を開けたまま、シュオウは次の声を出すことなく硬直する。
――ま?
頭の中は真っ白になっていた。ま、とはなにか。自分がなにを言おうとしてその最初の一言を選んだのか、記憶がすっぽりと抜け落ちている。
心底困惑した様子のアーカイドが呆然と肩を落とす様、そしてディカが呆けた顔で口を開ける様子まで、シュオウの眼は、そのすべてを鮮明に捉えていた。
二人の表情の意味を考えるまでもなく悟る、失敗したのだ、と。
その時、
「あはははッ――」
外の通路から複数人の下品な笑い声が聞こえてきた。それは親愛なる仲間達からのまごうことなき嘲笑である。
シュオウはめったにかかない冷や汗を全身に感じながら、口を開けたままの間抜けな顔を隠すように椅子の背もたれにぐったりと体を預けた。
依然として外から響く笑い声の中、ディカが耐えかねたように突然笑いを零し、
「……ごめんなさい、つられてしまって」
そう言いながらも、笑いを堪えきれない様子で口元を押さえつける。
シュオウは出迎えてから初めて全身を脱力させ、
「笑ってくれ……」
沈んだ声でそう言うと、ディカは思いきり笑い声をあげた。
心底楽しげに笑う彼女の顔を見て、シュオウもつられるように、枯れた笑みを零した。
ひとしきり笑った後、ディカは後ろを振り返り、
「アーカイドお願い、二人きりにしてくれる?」
アーカイドは脱力していた顔に緊張を戻し、
「いえ、ですがッ」
ディカは低く落ち着いた声音で、
「大丈夫だから」
頷いてみせた。
アーカイドはしばらく無言でディカと視線を合わせた後、
「……承知しました」
部屋を出て、隙間なく扉を絞め、しっかりと部屋に蓋をした。その直後に、外から人の気配が散っていくのが伝わってくる。
「アーカイドは気の利く人です、二人きりにしてほしいと言えば、そうしてくれる」
ディカは呼吸を落ち着けてまっすぐとシュオウを見つめた。その顔は、先日エゥーデ達との会合に居合わせた時の彼女そのものだった。
ディカはおもむろに頭を下げ、
「申し訳ありませんでした、突然のご招待をいただいて、私も少し緊張して舞い上がってしまっていたみたいです」
シュオウは姿勢を正して、
「こっちも同じです」
「お迎えに来て頂いた時からあなたらしくありませんでした。誰かに何か言われたのではありませんか? 今この時に、私個人に対して送られた招待も、意図があってのことではないのかと思うのですが」
ディカは淀みなく問いかける。真実を見通すように、彼女の視線は揺らぐことはない。
シュオウは鼻から深く、ゆっくりと息を落とし、整えられた髪をわしわしと解きほぐした。
「あなたを籠絡するように薦められた」
ディカはまばたきを繰り返し、
「籠絡、ですか……」
「増援軍を仕切る将軍の家族、ディカ・ボウバイトを誘惑するつもりでここに呼んだ」
正直にすべてを話すシュオウに、ディカは色のある微笑みを返して、
「あなたのような人に本気で誘惑していただけるのであれば、とても貴重な経験であると思います、嫌ではありません」
率直な言葉にシュオウは照れくささを感じつつ、一身に見つめてくるディカから僅かに視線をはずした。
「でも俺は……あまりそういうことが得意じゃ、なかったみたいだ」
「あなたに苦手なことをさせてしまうほど、祖母に――エゥーデ・ボウバイトに手を焼いている、ということなのですね」
「手を焼かせているのは俺のほうかもしれない」
「それは間違いありませんね――」
ディカは小さく笑って、注がれた茶で喉を潤し、
「――この場に招待された意図を知ってしまった今、私を籠絡してどうしたかったのか、本当の気持ちをお聞かせ願えないでしょうか」
シュオウは茶器を手に取り、ディカに二杯目をゆっくりと注いだ。
「俺には時間がない」
ディカは神妙に声を潜め、
「時間……」
「バリウム侯爵の口添えでこの地位に就いた。でもそれは、ひとから与えられただけのものでしかない。自力で手に入れたものではない以上、この司令官という地位をいつ取り上げられるかわからない。そうなる前に、俺は少しでも早く結果を出さないといけない」
「それは、ムラクモに勝利する、という結果でしょうか」
シュオウは首肯し、
「そのための道具の一つが、ボウバイト将軍の手の中にある。時間があればあの人に認めてもらえるように努力もできたかもしれない、でもそれを待っていられるほどの余裕は、俺にはない」
ディカは声を暗くし、
「祖母が後継に推している身内の私を利用できれば、増援軍を上手く引き込む事ができるかもしれない……あなたに助言をした人物の考えは正しいと思います、でも、間違ってもいる」
シュオウは首を傾げ、
「俺にはどういう意味か……」
「私は祖母の強引な手配で戦場へ送られた身です。祖母が私に求めているのは身の安全ではなく、後継者として相応しい強さを身につけ、一族の支持を得ることだけ。孫の身を案じて可愛がるだけのお婆さまとは違うのです……お婆さまは私を、愛してはいない……」
独白のように語るディカの表情には、捉えどころのない、いくつかの悲哀が滲んでいた。
暗く沈んだ表情で床を見つめるディカに、シュオウはその目を誘うように喉を鳴らした。
「俺は育ての親から何度も死ぬような場所に放り込まれた。全身にあらゆる痛みを与えられた事もある、斬られたり、折られたり、他にも色々と」
ディカは動揺を隠せぬ様子で口元を押さえる。
「ひどい……」
シュオウは首を振り、
「そうやって鍛えられたおかげで今の俺がある。愛されていたかどうかはわからないが、大切に想われていなかったとは思わない」
シュオウなりの励ましの気持ちは、明らかに言葉が不足していたが、その意図が伝わったのか、ディカは僅かに明るさを取り戻して微笑を浮かべた。
「心を寄せる方法は人それぞれに、ということをおっしゃりたいのでしょうか。いつか、私にもそう思える日がくると思われますか?」
シュオウは真っ直ぐ見つめてくるディカから視線を逸らし、
「……たぶん」
曖昧に濁すと、ディカは朗らかに笑みを零した。
「正直に言っていただいたお礼にお伝えしますが、祖母はあなたの死を望んでいます。理由はいくつかありますが、私があなたの絵ばかりを描いていたせいかもしれません。不出来な孫の堕落の原因であると決めつけているのでしょう。昨日の事があり、一時は大人しくしているように見えたとしても、きっとそれは上辺だけのこと。エゥーデ・ボウバイトは、階級と慣習を重んじる貴族主義の本流にある存在、例え私の事がなかったとしても、彩石を持たない司令官を受け入れることはありません。あなたがボウバイト将軍を従えることは、空に虹を架けるよりも難しいことと思います」
シュオウは躊躇いなく口を開き、
「難しかったとしても、できないとは思わない」
強い口調で言い切った。
ディカは興奮を隠すように唇を噛みしめ、
「私の耳には、その言葉が偽りや虚勢には聞こえません。そのお顔を見ていると、あの日のことが今目の前に起こっているかのように感じられます。私には、あなたに命を許していただいた恩があります、なにか出来る事があるのなら、お役にたてることがあるのなら、微力であっても、どんなことでも、是非協力させてください」
ディカの語りは気圧されそうになるほど熱心だった。
シュオウは一時も彼女から視線を外さず、前のめりに言葉をかける。
「頼めるなら、こっちと向こう、両方を繋ぐ連絡役を頼みたい」
「はいッ」
籠絡せよ、と大仰に語ったネディムの言葉とは裏腹に、シュオウの願いは一切の抵抗もなく、その一言と共にあっさりと受け入れられた。
「いいのか?」
「もっと難しいことをお求めかと思いました。良好とはいえない両者間の調整役としては、私は適任だと思います。そのことでさっそくご相談したいことがあるのですが」
シュオウは頷いて、
「言ってくれ」
「祖母が指揮する増援軍が持参する食料には限りがあります。アリオトが備蓄している食料の分配を、そちら側から持ちかけてはいただけないでしょうか」
「そのことなら、どのみち準備を進めるつもりだった。俺から伝えればいいのか」
ディカは頷くように沈めた顔を、少し時間をかけて戻し、
「はい、どうかお願いいたします」
「わかった、この後すぐに話を進める」
「ありがとうございます。それと今の件とは別のことで、少し言いにくいことがあるのですが……」
ディカはそう切り出すと、突然落ち着きを失ったようにそわそわとしだす。
「なんでも言っていい」
シュオウが言うと、ディカは意を決した様に胸の前で両手を握った。
「では、御言葉に甘えます。わがままをお許しいただけるのでしたら、今回の仕事をお引き受けすることと引き換えに、一つだけ、個人的な報酬を望みたいのですが」
「個人的な報酬……?」
シュオウが聞き返すとディカは頷き、
「あなたの絵を描かせてください」
席から腰を浮かして立ち上がったディカは、両手の指で四角形を作り、指で作った枠の中にシュオウをしっかりと捉えていた。
人が変わったように鋭い眼光を向けるディカの表情は、初めて見る彼女の新しい一面だった。
*
「では、司令官」
「ありがとう、よろしく」
門前で品よく一礼して去って行くディカを見送ったシュオウは、背後を振り返り、そこにいた仲間達に冷めた視線を向けた。
「楽しかったか……?」
冷えた声でそう聞くと、ジェダがわざとらしく咳払いをした。
「さあ、僕は別件ではずしていてね、いまここに来たばかりだから」
シガが響く低い声を響かせ、
「お前も一緒に見てただろうが」
ジェダは無言で睨むシュオウから素早く視線を逸らす。
ネディムが歩み寄り、シュオウの前で一礼する。
「おつかれさまでした。早速ですが、首尾のほうは……?」
見つめてくる仲間達が、同情するような生暖かい目を向けてくる。
そこで気づいた、誰からも結果を期待されていないことに。
シュオウは腕を組んで胸を張り、
「協力してもらえることになった」
見守る者達は、おお、と感嘆の声を漏らす。
ジェダはしかし渋い表情のまま、
「板挟みに遭うかも知れない面倒事だ、引き受けるための条件を提示されなかったか」
シュオウは一瞬言葉を詰まらせ、
「……俺の絵を描きたいらしい」
ジェダは首を傾け、
「絵を、それだけ?」
「それと、食料の分配について、こちらから持ちかけるように頼まれた」
ジェダは一瞬で目を険しくし、
「わざわざこちらから声をかけることに利点はない。飢えを不安に思えば向こうから声をかけてくる、それまで待っていればいい」
ネディムが長衣の袖から手を掲げ、
「それには反対します。白道の上での寝泊まりを強要されたうえに兵糧の不安を与えれば、その不満は際限なく膨れ上がり、憎悪となる。たとえそれが優位を示すための駆け引きだとしても、越えてはならない一線はあります。彼らがアリオトの補給路に陣を敷いているということを忘れてはなりません」
シュオウはネディムに頷き返し、
「俺もそう思う。この件は今日中に片付けたい、いいな?」
ジェダは一瞬ネディムをきつく睨みつけた後、
「君の決定には従うよ」
静かに瞼を落とした。
シュオウはすかさずクモカリに視線を移し、
「頼めるか?」
クモカリは驚いた顔をして自分を指さし、
「あたし?」
「増援軍への分配も含めて、アリオトの物資と補給全般の管理も頼みたい」
クモカリは神妙な顔で口元を引き締め、
「そんな大役が務まるかわからないけど、出来ると思って言ってくれてるんだから、喜んでやるわ」
「頼む、すぐに増援軍への分配の準備を進めてほしい――アガサス重輝士、クモカリの手伝いを頼みたい」
集団の中で存在感なく佇んでいたバレンは、即座にシュオウに敬礼を返した。
「は、お任せください」
両手を大きく伸ばしてあくびをしたシガは、
「じゃあ、俺は中の連中を適当に見張っておくか」
クモカリはシガの腕を即座に掴み、
「ぶらぶらしてるくらいなら、あたしと来て荷物運びでも手伝いなさい」
「なんで俺が――」
騒がしく言い合いながらも、クモカリはシガを上手く引き連れてさっそく物資保管庫に足を向けた。
「ディカ・ボウバイトを引き込む事ができたのは上々です。あの公女殿にはボウバイト将軍に対して影響力がある、ひいてはそれが、増援軍の処遇にも関わりますから」
仮の司令部を目指して歩きながら、並んで歩くネディムが声を弾ませた。
「……」
ネディムの言葉に、しかしシュオウは喉を詰まらせる。
ディカの言い分を聞くに、ネディムが期待しているような影響力を持っているかは定かではない。少なくとも、彼女はそう思っているようだった。
「次はカトレイの指揮官をどうするかだ」
シュオウは言ったジェダに頷いて、
「次はそれを片付ける」
その時、通路ですれ違うカトレイの輝士達が道を譲り、直後にシュオウに対して派手な所作で敬礼をしてみせた。
シュオウはすれ違いざまに頷いて見せ、その後に首を傾げる。
「カトレイの兵士達が、朝からあの調子なんだ、突然大袈裟に敬礼されるようになった」
ジェダは振り返って敬礼をしてきた輝士達を見やり、
「昨日の今日だが、君が彼らの信用を勝ち取ったという事かもしれない」
ネディムは無言で小さく笑い、長衣の袖を腰に回した。
通路の先の曲がり角に、カトレイ輝士の男が立っていた。その輝士はシュオウを見つけて破顔し、駆け足でこちらへ向かって来る。
「司令官ッ、お待ちしておりました」
飛び込むような勢いで姿を現したその男は、手に持っていた木箱を脇に抱えながら、関節から音が聞こえてきそうなほど完璧な所作で敬礼をする。
道を塞ぐように敬礼したまま立ち尽くす男に、ジェダは不快げな目で睨みつけた。
「なんだ、不躾に」
男はさらに姿勢を正し、
「カトレイ所属、カイ・ローレン重輝士です。この度は司令官閣下に着任のお祝いをお渡ししたく、失礼ながらこちらで待たせていただいておりました」
シュオウは眉をひそめるジェダと目を合わせ、
「ああ、わかった」
「ありがとうございます。それと、ご挨拶のついでにこれをお受け取りいただければ――」
ローレンは脇に抱えた木箱を大事そうにシュオウに差し出した。
木箱を受け取ると、見た目よりずっしりとした重みを両腕に感じる。
シュオウは箱を上下に揺らし、
「これは……?」
ローレンは腰をかがめて両手を突き出し、
「中身は我が郷里の工芸品などです。つまらないものですので、どうかお一人になられたときにでもご覧頂ければと……ではッ、失礼いたします、ありがとうございました。カイ・ローレンです、カイ・ローレンがご挨拶に伺いましたッ」
早口で言って、深く辞儀をしてそそくさと去って行った。
状況が飲み込めないままシュオウが棒立ちしていると、ネディムが木箱を指さし、
「よろしいですか?」
シュオウが頷くと、ネディムが木箱の蓋をさっと外した。
箱の中身はローレンの言った通り、木工細工の工芸品が納められているが、見るからに、その量は手に感じる重さとは一致しない。
ネディムが無言で工芸品をよけ、木箱の底を指で叩いた。そこから見た目に反する鈍い音が鳴る。さらに、底の隙間に爪をかけてこじ開けると、木箱は二重底になっており、びっしりと重い金貨が詰め込まれていた。
「これは――」
ネディムが金貨を一枚取って光にかざし、
「――カトレイ金貨です」
ジェダが懐から紙束を取り出し、その中身に目を通す。
「カイ・ローレン、提出された指揮官候補者の一人と名前が一致している」
シュオウは手元で輝く金貨の束を見つめ、
「じゃあ、これは……」
ネディムは手にした硬貨を元の位置に差し込み、
「賄賂、ということになるのでしょうね」
三人は黙したまま、通路の奥をじっと見つめた。