籠絡 1
籠絡 1
各所を警戒するカトレイ兵達と、それを睨むアリオト兵達。
ここは疑念と不満を閉じ込めた小さな箱の中。深界に点在する拠点の一つ、夜のアリオトは、眠ることなく絶えず鼓動を続けている。
中庭での集会の後、ジェダとの会話を終えたシュオウは、待ち構えていたレノアと顔を合わせていた。
「お部屋にご案内いたします」
ぶすっとした表情で、レノアは礼儀正しく辞儀をする。
シュオウはレノアに、
「さっきはありがとう」
短く感謝を伝えた。
レノアは視線を逸らしつつも口元を緩ませ、
「大急ぎだったわりには、まあまあだったかな」
「うまくやってくれた。彼らの領地の肉を使ってくれたのがよかった」
「ああ――」
レノアは唸ってから目を細め、
「――あれは嘘」
シュオウはきょとんとして、
「……嘘?」
「あんな急場で都合良くボウバイトの肉が置いてあるわけないだろ。ここの上級指揮官用に仕入れてあった質の良い肉の在庫をあるだけ使ったんだ」
シュオウは感心した様子で、
「よくばれなかったな」
レノアは得意げな表情であごを上げ、
「前にボウバイトから卸された肉を食べたことがある。肉質はかみ応えがありながら柔らかく、油は控えめ。ここにあった肉の部位は見た感じ質感が似てたし、塩はどこでも手に入りそうな岩塩を使った。よほどの目利きじゃないかぎり、それっぽくあんたんとこのだと言えばそう信じるだろ」
シュオウは頬を緩め、
「ボウバイト産の肉だと聞いたとき、彼らは嬉しそうだった。あの瞬間だけ敵意を感じなかったんだ、一瞬でも、欲しかったのはあの時間だった。頼んでよかった」
レノアは視線を逸らして小指で鼻をかき、
「ここで働く連中に短時間で相当無理をさせたんだ、後で褒美と褒め言葉でも与えとけば、死に物狂いで働いた奴らも、甲斐があったと喜ぶかもな」
「わかった、そうする」
「もういいだろ、行くよ、ついてきな」
シュオウは歩き出したレノアの後に続いた。
レノアは歩調を緩めてシュオウの隣に並び、
「代行じいさんの指示でカトレイ指揮官用の部屋に案内する。こんな役誰だっていいだろうに、司令官様のおかげで、ついでにこき使われてるよ」
シュオウはゆったりと歩きながら、
「マルケ将軍の使っていた部屋か」
「そういうこと」
対面から歩いてくるカトレイ輝士達が、レノアとシュオウに道を譲る。すれ違いざま、輝士達はレノアに向けて頭を下げるように首を振った。
シュオウはレノアの横顔を見つめ、
「どうして指揮官じゃないんだ」
レノアは足を止めて、
「あんた、いきなり変なこと言うね」
シュオウは後方を振り返り、
「いますれ違った輝士達に相談事を持ち込まれていたのを見た」
レノアは察した様子で頷き、
「は、そんなことで? 群れに飼い慣らされて自分で決められない奴らっていうのが、どこにでもいるもんなのさ。そういう奴らが私のとこに来てあれこれと決めてもらいたがる。私は思ったことをそのまま言うからね、それだけのことだよ」
シュオウはレノアに視線を戻し、
「間違ったことを言う奴のところに聞きには行かない」
レノアは眉根を下げ、
「間違った事を言わないから、私が指揮官じゃないのがおかしいって?」
シュオウはまばたきもせず、
「俺にはそう見える」
レノアは口を真横に結び、
「……あんたがどう思うかなんて知らないよ」
再び歩みを再開した。
シュオウは視線をはずすことなく、
「マルケ将軍のことは」
さらに問いかける。
「知ってるよ、補充兵として一緒に連れられてここまで来たんだからね。あいつが追い出されることになって喜んでるやつは多い」
「自分はどうなんだ」
レノアは無表情に視線を下げ、
「どうでもいい。見りゃわかるだろうけど、私には南方人の血が入ってる。そのうえリシアの信徒でもないから、あいつには嫌われてた。しばらく前に昇進の話もあったが、ご丁寧に否推薦の書状まで本部に送ってくれたっけね、物凄く分厚いやつをさ」
レノアは軽く語って笑い声をあげた。
シュオウは深刻な表情でレノアを見つめ、
「そんなことが……」
「勘違いするな、別にそれでよかったんだ。目を付けられて閑職に追いやられても、楽な仕事で金が貰えるならそれでいい。ほとんどの奴にとっては冷遇されてるって状況なんだろうけど、それ以外になにか嫌がらせをされることもなかったんでね。みんなが言うほど私はあのおっさんのことを、特別嫌っちゃいなかったよ」
力みのない声でレノアは言った。
案内された宿舎の一室の前で足を止めたレノアは、
「――ここ」
開いた扉の中から見える室内は広く、執務用の大きな机に寝台など、兵舎とは思えないほど充実している。
「こんなにいい部屋を」
「当然だろ、あんたはここで一番偉いんだ。両左右、通路の奥に警備役が待機してる、なにかあればそいつらに言いな」
シュオウは去ろうとするレノアに、
「レノア、ありがとう」
名を呼び、感謝を伝えた。
レノアは背を向けたまま、
「いいよ。私は自分の居場所に戻る、もう面倒事を持ってこないでくれるとありがたい」
上げた右手を一振りして、そのまま去った。
一人その場に残されたシュオウは、新たに手に入れた自室を一望する。
しんと静まりかえる部屋の中でほっと息を吐き、外套を脱いで、そのまま寝台に身を投げた。
*
ネディムとクロンは連れだって、城塞内の小部屋に身を置いていた。
「色々と慌ただしい一日でした。お疲れではありませんか」
ネディムの気遣いにクロンは自身の肩を叩き、
「年が年ですので、虚勢を張るつもりはありません。正直に申せば、今日一日で一年分の仕事をした気分です」
部屋の扉を叩き、カトレイの兵士が茶を運んでくる。ネディムはそれを自らの手で受け取り、クロンの湯飲みに赤色の茶を注いだ。
「自らの職務に忠実な者は得がたい、あなたのような実直な仕事人がこのアリオトに派遣されていたことはまったく幸運なことでした。私見を述べるに、准砂も同様に思われていると思います」
クロンは茶を受け取って湯気を顔に当て、ゆっくりと長く息を吐いた。
「近年は引退を検討する事も増えましたが、長く務めていると珍しい経験をすることもあるものです。今日はまさしく、そうした一日となりました。まさかあの若さで、しかも濁石を持つ司令官をこの目で見ることになろうとは――」
ネディムはゆっくりと自らの湯飲みに茶を注ぐ。半分より少ない程度の茶をゆっくりと回し、昇る湯気に鼻を近づけて香りを味わいながら、
「……ふむ、面白い」
声を高くして、独り言のように呟いた。
クロンは不思議そうに眉を上げ、
「なにが、でしょう」
ネディムは柔く笑み、
「生涯に一度きり、あるかないかという事があります。真夏に雪が降り、空から魚が降ってくる、一度死んだはずの人間が生き返った。なきにしもあらずと申しましょうか、平民の、それも異国の人間が、一夜にして大軍を取り仕切る東門の長におさまっていた。たしかに、実際に目の当たりにしなければ、簡単には信じられないような出来事ですね。しかし、実際には言葉でいうほどそれは容易く容認されることではない、露骨なほど拒絶の意を示されているボウバイト将軍の反応はごく普通のものです。一方で、あなた方カトレイの順応力はさすがでした」
クロンは熱い茶をすすり、
「仕来りや慣習ではなく、カトレイは契約の遵守こそを第一の理念としておりますので」
そう語る口調はどこか誇らしげに聞こえる。
「今やこのアリオトの均衡を保つうえで、カトレイは欠かせない存在となっている。これを円滑に運用するためには、有能で柔軟な指揮官を選ぶ必要がありますが、このままあなたが指揮官代行を継続するというのはいかがです、よろしければ私のほうから准砂に推薦をさせていただきますが」
クロンは渋面で湯飲みを置き、
「一時の事であれば代行も務まりましょうが、私はあくまで文官です。戦場で兵士らの指揮を執る能力はありません」
ネディムは肩を竦め、
「残念ですね」
「この派遣兵団には相応の人材は揃っております。重輝士の階級にある者のなかから、相応しいと思う者を選んでいただければいい。こうして我々が今顔を付き合わせているのは、その最初の一歩であるはずです」
ネディムは湯飲みを置き、
「はい。では、本題に入りましょうか」
クロンは素早く契約をまとめた文書を広げ、計算用の道具を取り出した。
「カトレイは求めに応じ、契約内容に鑑みた相応の支払い金と引き換えに、新たな指揮官の任命権を譲渡いたします、その金額についてですが――」
ネディムは見開いた眼でクロンを凝視し、
「高すぎます」
前のめりでそう言った。
クロンは一瞬面食らった様子で声を失い、
「そ、そうですか。特別に多少の融通を効かせることは可能です、その場合ですと――」
クロンが数字をはじき出すが、ネディムは直後にその数字をいじってみせた。
クロンはネディムが出した数字を瞬時に表情を険しくする。
「カルセドニー卿……これはなにかの冗談でしょうか……?」
冷ややかな声が、場の空気を急速に冷ましていく。
ネディムが示したのは、クロンが提示した額よりも極端に低い数字である。
ネディムは落ち着き払った態度で、
「こうした場で、私は冗談を語ることはありません。ここに提示した額は私が適正な支払金額だと判断したものです」
「我らの理念は契約遵守だと言いました。あなた方は契約内容を参照し、指揮官の交代を求められた。そこで約束を交わした金額をお支払いいただくのは契約の遵守であり、適正かどうかの主観によって判断されるものではありません」
ネディムは薄らと笑みを浮かべ、
「私もさきほど言いました、なきにしもあらず、と。契約は人と人とが交わす約束事ですが、そこに神の意志が介在するわけではありません。であれば、そこには常に特例が存在しうるのですよ」
「私もこの道について長く、幾度となく交渉事に臨んでまいりました。皆あの手この手で値切りろうとするものですが、そうしたやり取りは時に耳に心地良く、良い好敵手と巡り会えた時には、盤面の駒遊びのように、興じることに楽しささえ感じたものです。が、これは……」
ネディムは首を傾げ、
「おや、なにかご不快な思いをさせてしまったようですね」
その口元には、軽薄な笑みが浮かんでいる。
「カルセドニー卿、あなたは商人ではない、こうした状況での機微をご存じないのは当然のことでしょうが、値切りにも相応の礼儀というものがございます。あなたの提示されている額は、この世界の不文律を大きく乱すもの、どうか初めからやり直しを」
クロンは言ってネディムのいじった数字を元に戻した。
「ご高説はごもっと、しかしどうでしょう、不文律を説かれる前にさきほどご自身で語られた理念について思い出していただきたい」
クロンは苛立ちを隠しきれないむくれ面をして、
「契約の遵守、ですか……」
ネディムは首肯し、
「カトレイと交わした契約の中には、第一の義務としてこうある――本契約に基づき、傭兵団としての責務を全うし、軍隊としての品格と秩序を維持し、契約の条項を厳守する、と」
クロンの顔付きが一層険しさを増していく。
「なにをおっしゃりたいのか――」
ネディムは大きく破顔し、
「いいえッ、その顔はよくわかっておられる顔です。このアリオトの戦線について以降のカトレイ軍の行いが、果たして契約内容を遵守したものだったか。先の戦いで狂鬼の乱入が起こった際、カトレイは救援を放棄し自軍だけを早々に引き上げさせた。くしくもその時、取り残されたアリオト兵やリシアの輝士達の多くを救出したのは現アリオト司令官、シュオウ殿でしたが、このこともあなたはよくご存じなのではありませんか」
クロンは渋面で額に汗を滲ませ、
「……存じておりますが」
「前任の指揮官がとったその後の対応は言うまでもありませんね。あなたのおっしゃるカトレイの理念が守られていたのかどうか、ここへ来て観察していたところ、カトレイの兵士達は規定の正装を守っていない者多数、司令官に対して敬礼の義務を欠く者は数え切れないほどでした。それにくわえてこの茶です」
クロンは茶器を見つめ、
「この茶がなにか?」
ネディムは茶器から茶葉を一枚取り出し、
「この茶葉、乾燥した果物を彷彿とさせる豊かな香りと、雪解け水を口に含んだような爽快な後味、間違いなくヴェールエメラでしょう。ヴェールエメラは大公家が所有する領地の一つであり、そこで収穫される茶葉は極少量で、大公家が独占して所有している逸品です。一部リシアのお偉方や、各地からの献上品への返礼として送られ、時には諸公らに贈られることもありますが、基本的に一般には出回っていない代物です。おそらくここにこの茶葉があったのは、司令官のために特別に用意されていたものか、前司令官のワーベリアム准将と共に持ち込まれたのかもしれません。このようなものがなぜ、あなた方の手から、今ここに出されたのか、教えていただけないでしょうか」
クロンは茶器に鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、
「な、なぜなのか、私にも……」
ネディムは手の平に載せた茶葉を卓上に強く叩きつける。激しく音が鳴り響き、クロンがびくりと全身を震わせた。
「なぜなのか、私がお答えしましょう。それはあなた方が、アリオトの備品に許可なく手を付けているからです」
クロンは喉を鳴らし、
「証拠もなくそのような……」
ネディムはすっと立ち上がり、長衣の袖を振り上げ、腰に手を回した。
「信じられないというなら仕方がありません、両陣営の担当者から聞き取りをし、詳細に実態の調査を行うことにいたしましょう」
クロンは縋るようにネディムに手を伸ばし、
「いや、それは――」
ネディムはゆっくりと歩を進め、クロンの背後に回り込む。肩に手を置き、前のめりになって計算道具に示された数字を覗き込む。
「私はさきほど、あなたから提示された額が高いと伝えましたが、あなたはそれに対し拒絶の意を示された。どうでしょうね、私の話を聞いた今ならこの額の多寡の意味、ご理解いただけたのではありませんか」
クロンは血の気の引いた顔で計算道具を使い、元の額の半分の数字を新たに示した。
ネディムはその数字を見て身を引き、室内を一歩ずつ、吟味するように歩き出した。
「紫白の塩、という逸話をご存じでしょうか」
クロンは振り返ってネディムを見つめ、
「南西ヘリオドールの商人達に伝わる、教訓話の一つです。白い塩を商う者が大量に塩を買い占めた後、病魔によって汚染された紫色の塩が出回ると嘘を吹いてまわり、自らが所有する白い塩を高く売りさばいた」
ネディムは頷いて、
「その商人は財を成した後、嘘を咎められ、天意の鉄槌を受け命を失った。詐欺によって利を得ても、その財は根付くことがないという教訓を伝える話になっていますが、私はこの逸話に違う見解を持っていましてね、実際の所この話が教えているのは、人が虚偽の情報に翻弄され、容易く操られるということを言っているのではないかと思うのです。しかし、この話にはさらに、また別の見方も存在する」
強く、ネディムは一歩を踏みならした。同時に、クロンは肩を震わせてネディムから視線を逸らして前を向く。
「別の見方、ですか」
「もし汚染された紫色の塩が実在していたとしたらどうでしょう。天罰を受けて死んだ商人は一転して民衆から称えられていたのではないでしょうか。人々は情報に翻弄される、それが偽りであると知れば怒り、真実であれば感謝する。ある視点から見れば、この二つの結果に違いはないのです、どちらにせよ人々は、危険だと煽られれば、一度はそこから離れるのですからね」
ネディムは再び席に戻り、卓上の計算道具に記された数字の桁を大幅に下げ、
「改めて、これが妥当な額ではありませんか?」
そこに刻まれた数字は、ネディムが最初に提示した額よりもさらに低い。
クロンは全身を硬直させて瞳を大きく揺らし、
「…………私は、本部になんと言えば」
「あなたは状況を正確に理解し、適切な判断を下した。これは公正な取引であり、両陣営の将来にとって最善の道である、と――」
ネディムは残っていた茶をすべて注いで飲み干し、
「――お時間をいただいてありがとうございました、おかげでとても楽しい一時を過ごす事ができましたよ。私があなたにとって、心地良い対戦相手だったと思っていただければ幸いなのですが、クロン会計殿」
軽い口調で上辺だけの感謝の言葉を吐いた。
クロンはそれ以上口を開くことはなく、ただ椅子に座って項垂れたまま、去って行くネディムを見る事もなかった。
*
夜明け前。
「――ッ」
シュオウは暗闇の中で瞬時に覚醒し、傍らで見下ろす黒い人影に掴みかかった。
がっしりとした体格、おそらく男の腕をひねり上げ、うつ伏せに倒して肩の下に全体重をかけて制圧する。
「いたぁあいッ?!」
覚えのある男の声を聞き、シュオウは僅かに拘束を緩め、男を仰向けに転がした。
「お前は……」
微かな夜の明かりに、マルケ将軍の苦痛に満ちた顔が映し出される。
マルケは肩を押さえながら、
「折れてる折れてる、腕の感覚がない、頼む誰か助けを呼んでくれッ」
寝起きのシュオウは目を擦りながら、
「折ってない。なんでここにいるんだ、なにをしてた」
マルケは返事をせず、肩を押さえたまま興奮した様子で悶えていた。
一旦落ち着かせるために、シュオウはマルケを引き起こし、大きな長椅子に座らせる。
「い、痛すぎる……息をするのも苦痛だ……」
マルケは泣きじゃくる子供のように服の袖で涙を拭った。
「椅子に腕をかけておけば少しましになる」
シュオウに言われたまま、マルケは椅子の背もたれに恐る恐る腕を乗せ、ようやく呼吸を落ち着けた。
「いったいなんなんだお前は」
真顔で言われ、シュオウは即座に言い返す。
「それは俺が言いたい」
次にマルケは水を求め、たっぷりと飲み干した後に、事の経緯を語り出した。
曰く、体調不良で出立を遅らせ自室に残っていると、そこに誰か入ってくる気配があり、寝台の下に隠れたのだという。部屋に入ってきた人物は清掃を始めたので、それが終わるまで寝台の下に隠れて待っていたのだという。
シュオウは立ったままマルケを見下ろし、
「で、待っている間に寝てしまった、と」
マルケは深く首肯し、
「起きたら部屋は真っ暗だった。這い出してみたら、寝台の上に誰かいるじゃないか」
「それで俺を見てたのか」
マルケは勢いよく首を振り、
「見てないぞ、寝ている男をまじまじと観察する趣味などない! なにかいるなと気づいた瞬間にお前が私を襲ったんだ!」
シュオウは首を傾げ、
「そもそもなんで隠れる必要があった」
マルケは引きつった顔で、
「う……」
喉を詰まらせる。
シュオウはマルケから離れて寝台に腰掛けた。
マルケはこそこそとシュオウに視線を送り、
「……この部屋をもらったのか?」
シュオウはじっとマルケを睨みつけ、
「俺はどこでも好きな部屋を使える」
マルケは唇を尖らせて目をそらし、
「まあ、それもそうだな」
じっくりとあごを撫でた。
「部屋が必要ならクロンに言って用意してもらう」
マルケは慌てて首を振り、
「いやッ、いいんだ、私の事は放っておいてくれ、誰にもなにも言わなくていい」
シュオウは要領を得ないマルケの態度に疑問を抱きつつ、
「じゃあ……?」
マルケは真剣な顔で頷き、
「言われずとも私はここを去るつもりだ。ところで一つ聞くが、外にいた連中はもう中に入ったんだろうな?」
シュオウは首を左右に振り、
「増援軍の事なら、しばらくはあのままだ。中にいれるつもりはない」
マルケは口元を引きつらせ、
「あのまま……だと……どうしてそんなことになる?!」
シュオウは平然と、
「信用できないからだ」
マルケはすぐに何か言おうとするが、言葉を押し殺して腕を組み、首を捻った。
「恐ろしく無礼で非常識だが、それもあり、なのか……? ボウバイト将軍は納得したのか?」
シュオウは頷き、
「とりあえずは」
「信じられん……ッ」
一人で唸りながら考え込むマルケをよそに、シュオウはすっくと立ち上がり、
「俺は体を動かしに行く」
マルケは立ち上がって荷物に手を伸ばし、
「待て、今支度をする」
「別に急がなくてもいい」
マルケは手を伸ばしたまま動きを止め、
「いいのか?」
「ここがいいなら出発まで好きに使えばいい」
「あ……そうか……それは……」
閉ざした口のなかでもごもごと舌を動かす様子を見つつ、シュオウは一人で部屋を後にした。
*
早朝、一通りの鍛錬で体が温まった頃、汗をかいたシュオウを、布巾を持ったクロムが出迎えた。
「まだ陽も昇りきらぬうちから修練に励まられるとは、さすがは我が君ッ!」
静かな中庭にクロムの一声が木霊する。
むやみやたらな勢いに気圧されつつ、シュオウはクロムが差し出した布巾を受け取り、汗を拭った。
「ありがとう」
クロムは鼻の穴を膨らませ、
「とんでもございませんッ」
鼻の穴から二本の白い息が棒のように長く延びた。
「動いたら腹が減った」
クロムは歯を見せて破顔し、
「はい、私もですッ」
「クモカリに何か頼もう、一緒に来るか」
クロムは何度も首を振り、
「もちろん、お供いたしますッ。これをお使いください――」
薄着で来ていたシュオウの肩に、自らが羽織っていた外套をかけ、丁寧に隙間を閉じていく。
汗でびっしょりと濡れた布巾を、嫌な顔一つせずに大切そうに回収するクロムを見ながら、シュオウは尽きることのない疑念を口にした。
「……なんで、俺なんだ」
クロムは一切の淀みなく、
「天命ですッ」
と言い切った。
シュオウは、
「そうか……」
短くそう言いつつも、この奇妙な関係を改めて面白く思い、思わず笑みを零していた。
*
クモカリの差配で用意された朝食を、シュオウ達一行が囲んでいる。
腸詰めの肉料理に、崩して焼いた卵料理、米とパンが両方置かれ、五種類のソースがたっぷりと用意されている。
他にも創意工夫がこらされた料理を前に、ネディムが感嘆の声を漏らした。
「複数の異なる出身への配慮、お見事ですね。宮中の料理人でもここまでできるかどうか」
クモカリは嬉しそうに手の平をかき、
「もう、お上手なんだから」
ネディムは微笑んでシュオウを見やり、
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか? なにかご不便なことなどはなかったでしょうか」
シュオウは部屋にいたマルケのことを思いつつ、
「眠れた、問題ない」
さっそく食事にがっつくシガを筆頭に、ジェダやクロム、アガサス親子やその他ここまで帯同している者達も、一室に集って自分の皿に好みの料理をよそっていく。
ネディムは皿に少量の料理を集めた後、それに手を付けず、シュオウに数枚の紙束を差し出した。
「カトレイの指揮官交代要請に対して、支払い対価の見積もりをとりまとめました」
シュオウは頬張ったパンを咀嚼しながら書かれている数字に目を通し、
「これだけか?」
目を見開き、驚きに溢れた声を漏らした。
すかさずジェダがその中身を覗き込み、
「聞いていたおおよその額とあまりにかけ離れているようだが」
ネディムは涼しい顔で、
「頭を下げて懇切丁寧にお願いをしたところ、この金額までの値引きを受け入れてくださいました」
ジェダは険しい視線でネディムを睨み、
「なにかおかしな条件を受け入れたのでなければいいが?」
ネディムは品良く布巾で口元を拭い、
「とんでもない、一切の淀みもなく、無条件の交渉を終えました」
シュオウは金の管理をまかせているクモカリに見積もりを渡し、
「見てくれ」
クモカリは数字を見て目を輝かせ、
「聞いていたときは節約生活を覚悟していたけど、これなら負担なんてほとんどなにもないのと同じよ」
シュオウは晴れた顔でネディムを見やり、
「ありがとう、助かった」
ネディムは一礼し、
「いいえ、たいしたことではありません」
ネディムはシュオウの手元に残った別の紙束を指し、
「そちらはカトレイから提示された指揮官としての適性を持つ者達の一覧です、目を通しておいてください」
シュオウは一覧に記された名を流し見る。しかし、期待していた名が載っていないことに気づき、
「……わかった」
力の抜けた声で了承を告げた。
ジェダはシュオウから一覧を受け取り、
「こちらはカトレイの人材に対してなにも知るところがない、これだけを渡されても指揮官の任命は難しいだろう」
シュオウはネディムと視線を交わし、
「全員と会って話がしたい」
「承知しました、そのように手配をいたしましょう。それと私から一つ提案ですが、本日の予定に、昨日話をしたボウバイト家公女との昼食会をご検討いただきたいのですが」
シュオウは眉を顰め、
「昼食会?」
ネディムは不敵な笑みを浮かべ、
「准砂直々にディカ・ボウバイトを招待し、親交を深めて誘惑し、籠絡するのです」
室内が突如静まりかえる。
シュオウは全員からまじまじと見つめられ、思わず椅子に座ったまま上半身を仰け反らせた。
*
ジェダ、シガ、クモカリ、そしてネディムを交えた面々が、城壁の上から城門の外を見つめていた。
「……出てくるぞ」
シガの緊張に満ちた一言が出ると、開かれた城門からシュオウが徒歩で現れる。
そのシュオウを観察していたクモカリが悲鳴にも似た声をあげ、
「やだ、うそ……ッ」
口元を両手で隠した。
シガが力の抜けた声で、
「あいつ、右手と右足を同時に出してるぞ……」
城壁の上から見えるシュオウは、左右同じ方の手足を同時に出しながら歩いていた。その所作はまるで、子供が操るおもちゃの人形のように滑稽である。
ジェダは口元を隠すように拳で唇を押さえ、
「……めずらしく、緊張しているらしい」
その声は微かに震えている。
ネディムは上擦った声で、
「准砂はこうしたことには長けているのではと思ったのですが」
クモカリが神妙に首を振り、
「相手から寄ってくるのと、自分から行くのは全然違うことなの。シュオウはたぶん、自分から女を口説き落とそうとした経験なんてないはずよ」
対面から正装をしたディカ・ボウバイトが、同じく徒歩で現れる。その傍らにはエゥーデの副官、アーカイドが付き添っていた。
互いの声が届くほどの距離になり、両者は足を止める。だがそのとき、
「あの馬鹿、どこから出てきたッ?!」
シガが指さした先に、どこからともなく現れたクロムの姿があった。
クロムは身振り手振りでシュオウになにか言った後、両手を大きく広げ、少しずつディカに詰め寄り、広げた両手を伸ばしていく。
ディカが怯えた様子で後ずさり、アーカイドが守るように立ちはだかるが、シュオウが寸前でクロムを羽交い締めにしてそれを食い止めた。
その後、一応の話がついた様子で、四人は無事にアリオトに向けて歩き出した。
相変わらずおかしな歩き方をしているシュオウに、
「あんなので大丈夫なのかよ」
シガが言うが、ネディムはそっと微笑みを浮かべ、
「案外、大丈夫かもしれませんよ。ほら、あの公女殿も――」
ディカもまた、恥ずかしそうに俯いたまま、シュオウと同じように右手と右足を同時に出して歩いていた。
年内最後の投稿になります。
次回は2024年1月12日より再開予定です。
皆様、今年もありがとうございました、良いお年をお迎えください。