釘付け 1
釘付け 1
重苦しい音と共に開かれた門の隙間から、白道の上に群れる人馬の気配が、隙間風に乗って流れ込む。
門の外に出たネディムは、後ろから渋面でついてくるクロムを見て微笑んだ。
「兄弟で一つの目的のために動くのはいつ以来だろうね」
クロムは口角を下げ、
「楽しそうに言うな、我が君を裏切らないか監視にきているだけだ」
吐き捨てるように言った。
カルセドニー兄弟は肩を並べて白道を歩く。
薄雲が強風に押され、強い陽光が地上に差し込み、照らされた白道が新雪のように白く輝いた。
「賭けはこっちの勝ちでいいんだろうな」
歩きながら、クロムは勝ちを確信して上擦った声を発した。
ネディムはクロムとは目を合わせず、
「まだだよ、まだなにも片付いてはいない」
「だが、さっき我が君の言葉を聞いて嬉しそうに笑っていた」
ネディムは口角を上げ、
「お前の主殿の考えを面白いと思って、つい吹き出してしまった。まさか増援軍の受け入れを拒絶するとは思ってもいなかったのでね」
「……褒めているのだろうな?」
ネディムは首肯し、
「飢えた獣が家を訪ねてきて、自ら扉を開けるのは愚か者のすること。だが問題は、ここに尋ねてきた獣は表面上は身内であるということで、その受け入れを拒むのは、思うほど簡単な決断ではない」
クロムは誇らしげに、
「どんな方法であろうと、我が君なら息を吸って吐くのと同じほどに、難なく片付けてしまわれる。最初から賭けはこっちの勝ち、それ以外の未来は存在しないのだ」
淀みなく相手を信じ切って言うクロムの言葉が、ネディムの耳には心地良く聞こえる。
栄誉ある輝士への道を閉ざされ、監察という不名誉な仕事に付き、能力を活かせないまま影の中を生きてきた時間を、惜しいと思わなかった時はない。
ネディムは後ろを振り返り、城壁の上からじっとこちらを見ているシュオウをちらりと覗く。
幼少期から非凡さを露わにしながら燻っていた弟が、ついに見つけた運命の主君であり、その忠誠心に、クロムは全身全霊を賭けている。
――その忠誠に値する人物か。
平民の階級にありながらその枠を飛び越え、大事を成し遂げようと動き出している。
自尊心の塊のような風蛇の家の公子に、頭を差し出させたあの日の光景は、今もまだ脳裏に強く焼き付いていた。
「で、あの婆さんはどうする」
クロムの問いかけで、ネディムは意識を今へと戻す。
「主殿のお望みは増援軍を外に置きつつ、手の届く範囲に釘付けにすることだ。そのためにはまず、ボウバイト将軍の動向を掌握する必要があるだろう」
「だからそれをどうやる?」
ネディムは肩を竦ませ、
「さあ、どうしたものか」
クロムは鬼神像の如く顔を怒らせ、
「まさかなにも考えていないのか?」
「先のことばかり考えていても手足は鈍る。とにかく今は、主殿の命令通りに、アリオトへの招待状を将軍に受け取っていただけるよう最善を尽くそう」
「婆さんが受け取らなかったら」
ネディムは微笑みながら自身の首に手刀を当てた。
「言うまでもないと思っていたが、実際そうなる可能性は十分にある」
クロムは真剣な顔で考え込み、
「ふむ……そうなれば、いっそ邪魔な連中をさっさと仕留めることができるぞ……」
ネディムは苦笑し、
「兄を守ろうという気持ちは微塵にでもないのだろうか」
クロムはネディムの言葉を一笑に付し、
「そんな暇はないのだよ」
と言い切った。
無駄話をしているうち、目的の人物との距離が縮まっていく。
互いの声が届くほどの距離になり、ネディムとクロムはどちらからでもなく立ち止まった。
流れていた風がぴたりと止まる。
先に見える群れた兵士達を背負い、騎乗したまま先頭で待ち構えるエゥーデは、副官と孫を側に置きながら、ネディムの顔を見るなり口元を震わせた。
「あれは貴様がやらせたことかッ!!」
閉ざされたアリオトの門を指さし、エゥーデは激高する。
直後、一瞬の強風が吹き抜けた。
風に流された前髪をかき戻し、ネディムはエゥーデの前で恭しく辞儀をした。
「将軍、無事なご到着を心より歓迎いたします」
「歓迎……?! よくも悪びれずに言うものだ。遠路を越えて増援軍を引き連れた私に対し、門を開けぬとなどとほざいておいて、歓迎だとッ?!」
響き渡るエゥーデの怒声に、彼女の乗る馬が怯えた様子で首を振って後ずさる。
エゥーデは馬の腹を蹴って素早く元の位置に戻し、荒ぶる鼻息を荒馬のように吐き続けた。
ネディムは深く頭を垂れ、
「それは、気が回らず申し訳ありません。ですが現在、アリオトは過剰な人員を抱えた状態にあり、増援軍を受け入れる態勢が整っておりません。そのため、准砂将軍は増援軍に対して白道での待機を指示されました」
顔を伏した影の中で、ネディムは密かにほくそ笑む。
エゥーデは歯を剥き、
「忌まわしい。砂将などと、遙か大昔のカビの生えた称号をこの耳に入れるな。開門を拒んだのは糞虫の意思、そう言っているのだな」
ネディムは顔を上げ、
「紛うことなく、アリオト司令官のご意志です」
エゥーデは門の前を守備する黄色い軍服の輝士達を見やり、
「卑しい金食いの傭兵共を指揮下に入れ気が大きくなったようだが、たかだか少数の傭兵を使って我が軍と一戦交え、無事ですむと思っているのか」
ネディムは穏やかな所作で首を振り、
「めっそうもない、身内同士で血を流し合うなどという野蛮な考えを、准砂はお持ちではありません。しかし失礼ながら、あなたの背後に控える増援軍の指揮権は、ターフェスタ大公に任命されたアリオトの正統な司令官のものであり、副司令である将軍がそれを指して我が軍と呼ぶのは、いささか不適切ではないかと存じます」
穏やかな口調ながら、高みから諭すような物言いを受け、エゥーデの側に控える副官が露骨に表情を険しくした。
「将軍に対し、そのものの言い方はなにか」
エゥーデの副官であるアーカイドが棘のある声を発する。
引き換えに、エゥーデはネディムに対して、寸前まで出かかった怒声を飲み込んだ。
「ふ――」
その時、ネディムのすぐ後ろに待機していたクロムが鼻で笑う音が鳴った。
エゥーデは視線をクロムのほうへやり、
「貴様は……」
クロムは颯爽とネディムの隣に並び、
「クロム・カルセドニー、だが?」
そう名乗りを上げた。
エゥーデは軽蔑したように口元を歪め、
「ああ、輝士のなり損ない、腐肉を漁る醜い猛禽共の端くれか」
クロムは退屈そうに視線を流し、
「凡庸なる者がなにを喚こうと、このクロムの価値は変わらない。それよりもだ――」
突如エゥーデを睨みつけ、
「――さきほど、この耳に恐ろしい言葉が届いた気がした、もしや我が君を指して糞虫、などという汚らわしい呼び名をつけたのだとしたら」
殺気に満ちた視線と共に、クロムは背負っていた白弓を取り出した。
「エゥーデ様ッ」
エゥーデの前に、副官のアーカイドが抜剣して躍り出る。
後ろに整列している大軍から地震のようなどよめきが上がった。
ネディムは素早くクロムの弓を押し下げ、
「申し訳ありません、愚弟は評判の通り我慢の効かない質を持っています。冬華の称号とこのネディムの顔に免じ、子供の戯れと思い、お許しを」
頭を下げるネディムの横で、クロムは依然としてエゥーデを睨みつけていた。その双眸は猛禽のように鋭く、感情の色が窺えない。
エゥーデは僅かに怯んだ様子で息を吐き、
「……出来損ないの妄言などどうでもいい。このまま話していてもなにも進まん、あの男を今すぐここへ呼びつけろ」
ネディムは姿勢を正し、長衣についた皺を手で払い伸ばした。
「その件についてですが、准砂はアリオトへ将軍閣下をご案内するようにと私に命じられました」
エゥーデは再び眉を怒らせ、
「私から顔を出せとぬかすか」
エゥーデを守るように前に身を置くアーカイドが、
「無礼な……」
ネディムは涼しい顔でそれを受け止め、
「さて、着任する部下が拠点の主に挨拶に出向くことが無礼なことでしょうか」
エゥーデは怒気を孕んだ怒り顔で口を開くが、無言で睨み続けるクロムをちらりと見るや、それを喉の奥で押しとどめた。
「……不当な扱いを受けてまでここに留まる理由などないぞ。このまま引き返し、大公に事の子細をご報告申し上げてもいいのだ」
エゥーデの言にネディムは大袈裟に首を振り、
「大公殿下になんとお伝えするおつもりでしょう、アリオトに到着はしたが、中に入れてもらえなかった、と?」
エゥーデは顔を引きつらせ、
「大公が真実をお知りになれば、その判断が誤りであったと気づき、陰東の賊を討伐せよと命じられるはずだ」
ネディムは長衣の袖を腰に回し、
「さて、それは……謀反が起こったとお伝えしたとしてもその証拠が必要になります」
エゥーデは大きく目を見開き、
「私が証言する! 代々の忠臣たるボウバイト家当主、このエゥーデがな! 私だけではない、増援軍にはボウバイト家に纏る者以外にも他家の輝士達も多くいるのだ、その者らも大公に真実を述べるであろうよ」
ネディムは後ろ手のまま頷き、
「たしかに、仰るとおりです。あなた方は中央へ戻り、そこで開門を拒まれたと証言する。大公は頷いて話に耳を傾けられるでしょうが、しかしあなたの期待通りに、討伐のための軍勢を差し向ける決定を簡単に下すことはないでしょう」
「なにを――」
ネディムは突如真顔になり、
「大公殿下は対外的な評価をことさら気にかけておられます。お忘れでしょうか」
その一言で、エゥーデは言葉の真意を察したように喉を詰まらせた。
ネディムは頷いてさらに続け、
「そう、ご自身の恥となるような出来事に対しては、それが外に漏れる前に慎重を期して次の意志を決定される。大公はまず事態を把握するために、自身の右腕である冬華を筆頭とした調査団をアリオトへ派遣されるでしょう。到着した調査団に対応するのは冬華の一員であるこのネディム・カルセドニーです。私は彼らに真実を伝える、アリオト司令官に謀反の意志などなく、副司令は増援軍を我が物とし、その引き渡しを拒んで独断で中央へ引き返した、と」
怒りを溜めながらも、エゥーデは僅かに顔色を悪くしていた。
「偽りを述べて私を貶めるつもりか」
「悪意はありません。ですが、このアリオトの維持と安定した運営を行うために必要なことならば、私は躊躇なくいま言ったことと同じことを大公にお伝えすることになる。そうなれば、将軍の名に傷がつくことになりかねない、現在のボウバイト家は一枚岩ではないはず、そうなった場合、御当主の跡取り問題になんらかの――」
エゥーデは手を上げて遮り、
「黙れ、それ以上は言うな」
ネディムは後ろ手を解いて頭を下げ、
「出過ぎたことを申しました。司令官はなにより将軍との対面を望まれております、どうかご再考を」
エゥーデは鼻から深く息を吐いた後、ネディムの後方へと視線を流し、遠くを見やった。
「……アリオトの守備兵は傭兵共ばかり、アリオトの兵達はどうした」
ネディムは頷き、
「アリオトの兵士達は現在、司令官の命令により全人員の待機が指示されております」
エゥーデは目を細め、
「……争ったか?」
「いいえ、まったく。嘘は申しません、中に入り、ご自身の目で見ればすぐにわかることでしょう」
エゥーデの内に秘めた熱が一目でわかるほど下がっていく。
老将軍は俯き気味に、
「……よかろう、出向いてやる」
絞り出すように、静かに言った。
ネディムは鋭く視線を尖らせ、
「賢明なご判断です。よろしければ、幹部の方々もご一緒に。旅の疲れを労うため、皆様方を食事の席に招きたいとの准砂のご意向です。それと――」
ネディムは困惑した様子で側にいたディカを見やり、
「――そちらのボウバイト家の公女殿を主賓として招きたいと、准砂たっての希望です」
ディカは驚いた様子で自身を指さし、
「わ……私を、ですか?」
ネディムは長衣の袖に両手を通して頷き、
「あなたが描かれていた絵のことを准砂にお聞かせしました。准砂は是非そのことで直接お話をしたいとのことです」
ディカは別人のように破顔し、
「行きますッ――」
直後、伺うように祖母の顔を見る。
エゥーデは熟考した後、微かに首を縦に振った。
アーカイドがなにか言いたげに身を乗り出すが、エゥーデは気にした様子もなく、
「アーカイド、腕の立つ輝士達を見繕え」
「しかし、閣下――」
エゥーデはネディムを見やり、
「同行者に人数制限はなかろうな」
ネディムはにっこりと笑み、
「食事会への招待ですので、席を充たすのに適切な人数にご配慮いただければ幸いです」
「ふんッ」
エゥーデの指示の元、アーカイドの手引きによってボウバイト家に連なる幹部と、若く腕の立つ精鋭輝士達が集められた。
「では、ご案内いたします――」
ネディムは完璧な所作で一礼し、客人を引き連れて門に向かって歩き出した。
*
歩いて門へ向かうカルセドニー兄弟の後ろから、エゥーデ達一行が列になって追っている。
アーカイドがエゥーデに馬を寄せ、
「よろしいのでしょうか」
エゥーデは視線を前に固定したまま、
「門を閉ざされたままでは埒があかん。だが一旦中に入ってしまえば内情が見える。門の内にはアリオト兵達がいる、連中の姿が見えないということは、糞虫に従う者はいなかったということだ。隙があれば皆を解放し門を開ける、それですべて片付く」
おびただしいほどの流血と引き換えに、エゥーデは心の内で勝利に向かう絵を描いていた。
「そのような危険な場に、ディカ様をお連れするべきではないのでは」
エゥーデはほくそ笑み、
「糞虫が我が孫に興味を示しているのであれば、その油断を利用するまで。それに、やつの死に様を目の前で見せるには、これ以上ないほど都合が良い」
背後を振り返る、ボウバイト一族の重鎮数名の他は、選抜された若く優秀な輝士ばかりである。
「あちら側も、噂の通りであれば相当な手練れ達です、ご注意ください」
エゥーデは前を歩くクロム・カルセドニーの背を睨めつける。
「頃合いを見計らい合図を出す、あれも標的に入れておけ」
アーカイドは顔を顰め、
「ですが、カルセドニー家が……」
「やつは本気で私を殺そうとしていた。噂に違わぬ狂人め、完全に頭がいかれている。兄のほうも、もしも刃向かえば謀反人としてその場で仕留める、周知しておけ」
「はッ」
アーカイドは承知を告げ、打ち合わせのために後続の輝士達と合流した。
*
交渉を終えたネディムが、クロムと共にアリオトへと戻ってくる。その様子を城壁の上から見ていたシュオウは、
「よし」
拳を握って、強く頷いた。
隣に立つジェダは、
「とりあえず話をまとめたようだが――」
渋々といった鈍い歩調で、騎乗したボウバイト将軍と、その配下の輝士達がゆっくりと門へ向かっていた。
ジェダは白道の上に取り残された増援軍を見下ろし、
「――あれは使い物にならないな」
増援軍の兵士達の顔付きから、どのような思いでここまで来たかが如実に伝わってくる。
シュオウは、
「だな」
控えめにジェダの意見に同調を示す。
離れた場所で、肘をついて様子を伺っていたシガが、
「中の連中が暴れ出して挟まれれば、その先にあるのは血みどろの脱出劇だ。連中は急かされてくたびれてる、今のうちに叩いておくのもありじゃねえのか」
シガが親指で示した増援軍を見つめ、シュオウは静かに目を細める。
「それをすれば、もうこの国に俺達の居場所はなくなる」
シガは深く鼻息を落とし、
「めんどくせえな。敵にもしない、味方にもならない、どうしろってんだ」
シュオウは増援軍を見つめ、
「必要なときになったら、戦場に引きずりだす」
シュオウの言にジェダは、
「増援軍を飼い殺しにしつつ、ここに留めさせる、か。言うほど簡単じゃなさそうだが。僕らはターフェスタで孤立している、一歩間違えればすべてを失うことになる」
シュオウは、
「完全に孤立しているわけじゃない」
言いつつ、その視線の先に戻ってくる兄弟達を見る。
ジェダは表情を露骨に曇らせ、
「ネディム・カルセドニー、か」
声には隠す気のない棘があった。
シュオウは横目を向け、
「なんだ?」
ジェダは腰に手を当て、
「利用する分にはいい、が信じ切るのは危険だ。ここまで見てきたが、弟のほうとは違って、兄のほうは実に凡庸な理性の持ち主だよ。凡人は保身を常とする、冬華という約束された地位にいながら、ここまで踏み込んで僕達に協力して、いったいカルセドニー家の当主に何か得られるものがあるのか、それを考えれば信用に足る相手とはいえないだろう」
長衣を風に揺らしながら、ゆったりと歩いて戻ってくるネディムの立ち居振る舞いには、貫禄のようなものが漂っていた。
落ち着き払った態度、大軍を背負った猛る将軍を前にしても緊張した様子一つ見せることなく交渉をすませてきた。
顔をあげたネディムはシュオウの視線に気づき、目を合わせてにっこりと柔く微笑んだ。
「凡人、か――」
小さく呟きながらネディムに頷き返し、シュオウは勢いよく振り返る。
「――クロン」
カトレイの指揮官代行の名を呼んだ。
「なんでしょう」
「ボウバイト将軍と、なるべく落ち着ける席で話したい」
クロンは僅かに考え込み、
「であれば、茶会の場を設けるのが適切かと存じます。係の者に応接の支度をさせましょう」
シュオウはちらりと、後方に控えているクモカリを見た。
目の下を暗くし、顔色は悪く、疲れも見える。
本来、こうした事は彼の得意分野だが、慣れない土地で、異国の者達への歓待をまかせるには、現状のクモカリ一人に丸投げするのは抵抗があった。
シュオウは遅れてクロンへ頷き、
「わかった、頼む。でもその前に、担当する人間と話せるか」
クロンは微かに首を傾げ、
「……はい、手配いたしましょう」
シュオウはジェダに向き直り、
「すこしはずす」
ジェダは頷き、
「応接用の部屋を確認しておこう、不測の事態も考慮して、対処のしやすい位置を考えておくよ」
シュオウは無言で頷き返し、クロンと共にこの場を後にした。
*
カトレイが所有する軍隊組織に属するビュリヒ・マルケは、その人生の中でかつてないほどの混迷の中にいた。
びゅん、と風を切る鞭の音が鳴り、耳を塞ぐ。
記憶に残る痛みと音、子供の頃の自分の悲鳴にうなされ、悪夢から爆ぜるように覚醒する。
肩が波打つほどの息切れを起こし、全身は汗で雨に打たれたように濡れていた。
「くそ、くそッ――」
疲れを癒やすどころか、その真逆の効果しかなかった睡眠を呪いながら、マルケは寝台から体をこし、部屋履きに足を通した。
窓から空を見上げ、太陽の位置を確かめる。
「……寝過ぎたな」
昼を過ぎ、夕方近くなっても、誰一人起こしにこなければ、心配して様子を見にくる者もいない。
眠りが悪いことへの苛立ちから、誰かに起こされるたびに怒鳴りちらし、時には厳罰を与えていた結果である。
汲んである水を手酌ですくって喉を潤し、汗に濡れた寝間着を脱ぎ散らかす。
手早く正装を済ませ、どろりと重たい目で、部屋の中を見渡した。
アリオトに着任してからそう日もたっていない。
前任者の失態によって急遽穴埋めに派遣されたが、マルケは初めから、今回の任務に乗り気ではなかった。
戦う相手が、世界でも随一の力を持つ軍隊を保有するムラクモ王国であるということも理由の一つ。だが、最大の理由は他人が汚した部屋の後片付けをしろと、不当な役割を押しつけられたという心地がしていたからだ。
しかしそれも過去のこと、まさか後片付けすらできないまま、追い返されるとは、マルケは少しも思ってもいなかった。
「はあ……」
胸中の哀愁を溜息と共に吐き出し、マルケは一人、旅の荷造りを始めた。
散らばった荷物を掻き集め、荷袋に詰めていく。
仕事を終えた時に土産にしようと思い道中やアリオトで集めてきた物は、しかし、来た時とは違い、荷馬車もない一人旅となれば、持ち運べる荷の量には制限がつく。
アリオトへ着任したときには、ムラクモ輝士の剣を戦利品に持ち帰る事を夢想していたが、今となっては革製の荷袋二つに、着替えと旅の飲食物を入れて帰るのが精一杯であろう。
惨めな気持ちのまま荷造りを終え、マルケは部屋の中心で跪き、神に祈りを捧げた。
部屋を出ると、通路に立っていたカトレイ輝士の一人と目が合った。
「げ――あ、いえ、マルケ将軍、まだおられたのですね」
愛想笑いを浮かべる輝士をぎろりと睨み、
「悪かったな、私がまだいて」
輝士は青ざめた顔で目を伏せ、
「い、今の状況ですが――」
マルケは手を振り、
「いらん、私はもうここを去る身だ、どうでもいい」
荷袋を肩に背負い直して歩き出す。
輝士は慌てて、
「お見送りいたします!」
どこか弾んだ声でそう言った。
マルケは湿った視線でじっとりと輝士を見つめ、無言で背負っていた荷袋を投げ渡した。
通路を歩きながら、様相がいつもと違うことに気づく。
――人が?
普段ならアリオトで働く者達や兵士、輝士らがうろついている頃だが、誰一人そんな姿は見当たらず、通路は不自然なほどがらんとしていた。
通路を抜け、城塞の中庭を壁伝いにこっそりと門がある方へと向かうが、マルケはそこで様子がおかしいことに気づいた。
各所に武装したカトレイの兵士達が配置されている。とくに各所を繋ぐ主要な通路や施設など、重点的に警備態勢が敷かれていた。
厩舎から馬をとる寸前、マルケは振り返って見送りの輝士を睨み、
「なにがあった」
輝士は真剣な顔で、
「それが――」
話を聞いたマルケは急ぎ足で見張り塔に昇り、白道が見渡せるほどの高さから、外の様子を見る。
「なんだこれは……」
兵士達の集団が白道を埋めている。
無数の人間達が険しい表情で佇む様は、まるで戦が始まる直前のようだった。
――まずいぞ、これは。
マルケは大急ぎで物見塔から駆け下り、待機していた輝士から荷袋を取り上げた。
輝士は不思議そうに、
「あの、厩舎まで運びますが」
マルケは渋面で、
「部屋に戻る」
輝士は目を丸くして、
「えッ、なぜ……」
マルケは白い歯を剥き出して情けない顔を浮かべ、
「あれだけの人間に見られる状況で、とぼとぼと一人で出戻る姿など晒せるか! 恥ずかしいだろう……ッ」
絶句して立ち尽くす輝士を置き去りにして、マルケは素早く来た道を引き返す。
しかし道中、
「うッ――」
通路の前方に、シュオウとクロンの姿を見つけ、マルケは慌てて身を隠した。
予定を変え、反対側の通路へ向かうが、
「ひッ?!」
今度は通路の先からジェダ・サーペンティアが仲間を引き連れている姿が見えた。
マルケは急ぎ、通路に積まれてあった木箱の影に身を隠す。
さきほどの輝士が突如顔を覗かせ、
「よくわかりませんが……お察しいたします……」
哀れみの目と共に、そう言った。
マルケは歯を剥き、
「黙れッ、頃合いを見てここを出る、私の事は誰にも言うな」
輝士が何度も頷くのを確認してから、マルケは小さく身を屈めながら、再び自室の中へと逃げ込んだ。