先制 3
先制 3
アリオトは不気味なほど静寂のなかにある。
太く長い通路の各所に、武装した黄色い軍服のカトレイ兵達が立ち、鋭い視線を這わせながら警戒についていた。
身内であることを証明する目印を肩にかけながら、
物々しい警戒態勢が敷かれた通路をゆっくりと歩いているネディムは、カトレイ兵らに身内である事を証明する黄色い帯を携帯しながら、腰や背中に手を当てた。
「いたた……さすがに足腰にきているようだ……」
長時間の移動で体のあちこちを痛めている兄を労るでもなく、クロムは険のある視線で睨めつける。
ネディムはそんな弟の右手を見て苦笑した。
「腰の物に手を添えているのは、アリオトの兵を警戒してのことなのだろうね」
クロムは警戒心を隠すことなく、
「不肖の兄がくだらない事を考えていないかと警戒しているだけだが」
ネディムは大きく左右に首を揺らし、
「私はお前の主殿に対し、補佐役として誠心誠意尽くしているつもりだ、少しくらいは認めてくれてもいいのではないかな」
クロムは鼻に皺を寄せ、
「真実そうならばな。だが身に染みついた猜疑心は拭えない、どうも匂うのだ、そこにいるのは我が愚兄ではなく、あの愚昧な男の臣下ではないのかとな」
「それは否定できない」
クロムは眼光を鋭く尖らせ、
「みろッ、だから信用ならんのだ」
ネディムは首を回して肩をほぐしながら、
「仕方がないだろう、私は大公にお仕えし、冬華の一員として身を立てているのだからね」
クロムはじっとりと湿った表情で、
「そう言いながら、あの時も裏切った」
ネディムは嘆息し、
「またそのことを持ち出す、たいしたことではないだろう」
「あの馬鹿に仕えろと強制しようとしたことがたいしたことじゃない?」
「ドストフ大公はカルセドニー家が属する国家の宗主、輝士の位を戴くには相応の態度を示さなければならない、それが古くからの仕来りなのだからね」
「それを何度も不要だと言った。愚劣で無能な者にひざまずくことは神の御意志にあらず、仕える主は我が運命の導きに従うのだと」
ネディムは微かに首を振り、
「勇敢で愚かな弟よ、お前はいつもそうやって苦難の道を好んで進もうとする。そんなお前を見守りながらいつも心配していたが、ついに仕える相手を見つけて喜んでいるお前の顔を見ているのは、家族としてこのうえない幸せだ、その気持ちに嘘はない」
クロムは険しかった表情をほぐし、
「そうだ精々喜ぶがいい、この神に愛されし勇敢な男クロムはついに運命の道へと至ったのだ。これより先、我が君が行く覇道に付き従い、この手であらゆる障害を打ち払わん」
クロムの大仰な言葉を微笑ましく思いつつも、ネディムは冷ややかな視線を送る。
「……さて、お前の主殿が、それほど大きなものを望んでいるかどうか」
再びクロムの顔が険しくなり、
「その口が愚かな疑念を口ずさみ、我が君の足を僅かにでも引きずるのなら、その時は兄であろうと躊躇なくその身に風穴を開けることになるだろう」
ネディムは真顔でクロムの脅し言葉を受け取り、
「たしかに、お前なら言葉通りにやるだろう――」
ネディムはクロムの頭に手を乗せ、髪をぐしゃぐしゃと撫でつけた。
「――心配はいらない、クロム。この兄は言った通り、お前の主殿をお助けするためにここにいるのだよ、今もそうしているだろう? 寝ずに馬を駆けてここまでお連れして、腰も背中も座る気がしないほど痛めているが、それほどまでしている兄の努力を、少しは認めてもらいたいと言っているんだ」
クロムは黙って髪を撫でられながら、零れるように無邪気な笑みを浮かべた。
「馬鹿に仕えた事を悔い改めるのなら、過去の過ちを少しは許してやってもいいだろう。もし、カルセドニー兄弟が再び手を組むのならば、どんな敵が相手でも恐るるに足らず! そうだろう?」
小さな木剣を振り回してはしゃいでいた子供の頃を思い出し、ネディムは変わっていない弟を微笑ましく観察する。
「それもいいが、お前の主殿はまず、アリオトという足場を固めなければならない。そのための手順の一つは叶ったが、問題はこの後のことだ、ボウバイト将軍への対応、それを一つでも間違えばこの先は――」
クロムは真顔になり、
「あの眷族の武芸は平凡だ、退場間近の辺境の老婆のなにを恐れる必要がある」
ネディムは行き着いた通路の奥の小窓から外を眺めつつ、
「辺境の守護者とはいえ、ボウバイトは数を集めることのできる有力な領主でもある。話が通じる相手ならば怖くないが、怒れる猛獣が相手では面倒だ。増援軍の実質的な指揮官であるボウバイト将軍の胸三寸で、ここから先、お前の主殿が司令官としての任をまっとうできるかどうかが決まる。だが、他者の意思にふりまわされているようでは、どのみちこのアリオトを掌握することなど不可能だ。アリオトを意のままに動かせないのであればムラクモと戦うことはできず、成果を残せなければ、大公は新任の司令官にその責を問われるだろう、以前に仕留め損ねた風蛇の家の公子を抱えている現状も踏まえれば、東方出身の異邦人達の末路がどうなるか、想像するのは容易い」
クロムはネディムの顔を覗き込み、
「だからそのために早々に傭兵共を抱き込んだはず、だな?」
ネディムは笑って頷き、
「その通り、カトレイは前任の将軍の不手際をワーベリアム准将に手酷く諫められた。後任は前任者の後始末に適した人材が送られるのが常。そうして送られる人間は手堅く、契約内容を遵守するお目付役が選ばれる」
クロムは不信感を露わに、
「奴らが我が君につくとわかっていたのか……? だが、そのことを言ってはいなかったな」
ネディムは感情を押し殺したような無表情で目を細め、
「可能性はあり、確証はなかった。私はまだ、お前の主殿とそのお仲間達からの信頼を得ていない。故に、確実ではないことをお伝えすることは憚られる」
クロムは半歩後ずさり、
「そうだ……その顔……昔から兄はいつも自分だけが最後に得をしていた。だから信用できん、じい様の釣り竿を盗んだときだってそうだった」
ネディムはごまかすように視線を空に向け、
「盗んだとは心外だ、あれは先々代からご褒美にいただいた物じゃないか」
クロムは歯を剥き出し、
「あれは誕生祝いに、このクロムがもらえるはずのものだった!」
「先々代はご高齢であられた、きっと忘れてしまわれていたのだろう。そんなに欲しかったのなら私からお前に渡してもいい、たしかまだ別荘に保管してあったはずだ」
「施しなどいるものか!」
クロムは吐き捨てて、拗ねた様子でネディムに背を向けた。
「深界に下りてまで兄弟喧嘩も情けない、お前の思う不満すべてに謝るから、いいかげんここにいる間だけでも許してもらえないだろうか」
クロムは腕を組んでゆっくりと振り向き、
「その姑息な頭を休みなく働かせ、我が君のために使うというのなら、少しの間忘れてやってもいいだろう。その気になれば、ボウバイトの婆さんとてまるめこめるはず、そうだな?」
ネディムは口角を下げ、
「恐縮だが、この身には大軍を自在に操る権能はなく、燦光石のような強大な力も持ち合わせてはいない。私にできることは、ただ自分の考えを相手に助言することだけ。カトレイを指揮下に収めることができたのは上々、だがここから先は敵意に満ちた将軍が軍隊を率いて迫ってくる、もし戦いになれば、そこからは私の専門外だ」
「ふん、どんなものが相手だろうと、我が君であれば、難なく片付けてしまわれるだろう」
ネディムは諭すように、
「自信があるようだが、あの方がどのような人物なのか、まだよく知りはしないのだろう」
クロムは言い返さず、むっつりとネディムを睨んだ。
ネディムは続けて、
「どれほど武芸に優れていたとしても、僅かな手勢のみで、ここを手中に収めることは難しい。力尽くで押さえ込めばアリオトは憎悪に蝕まれ、共闘して戦に臨むなど不可能になってしまうだろう。現状はお前が思うよりとても難しい局面なのだよ。カトレイは所詮借り物の戦力にすぎず、むしろ下手に戦力を手にしたからこそ、並の者であればその力を乱用し、むやみに無数の命を失うだけに終わってしまうだろう。一歩間違えれば、すべてが破滅へと向かうこの状況で、さて、お前の主殿はいったいどのような決断を下されるのだろうか、実に興味深いとは思わないか」
クロムの視線が一層険しさを増していく。クロムは腰の短剣に手を当て、
「我が君を試すつもりかッ、いや、愚兄のことだ、まさか最初からそのために……こうしてはいられんッ」
クロムは慌てて来た道を戻ろうと足を踏み出した。
ネディムはクロムの肩に手を置き、その身を留める。
クロムは殺気を帯びた暗い顔で振り返り、
「……その手を離せ」
ネディムは僅かに微笑みを浮かべ、
「賭けをしよう、クロム」
「賭け、だと?」
「お前の主殿がこの局面を乗り切ることができるかどうか。もちろんお前がどっちに賭けるかはわかっている」
瞬きもせずじっと見据えるネディムに気圧されつつ、クロムは、
「……何を賭ける?」
「お前が勝てば、言う事をなんでも一つ聞こう、ただし、黙って事の成り行きを見守ることが条件だ」
クロムは向き直って顎に手を当て、
「……なんでも、だな?」
「なんでも。約束だ」
ネディムはクロムの腰から短剣を抜き取り、自身の左手の平を切りつける。一筋の切り傷から鮮血が溢れるのを見たクロムは短剣を取り返して同じように手の平を切り裂く。二人は血の滴る拳を握り、互いの胸を拳で叩いた。
その仕草は、二人の間で賭けの約束が結ばれた証だった。
*
真っ暗な闇の中から、
「――シュオウ」
名を呼ぶ声がした。
水底に深く沈んでいた意識は、なにに阻まれる事もなく水面へと浮上する。
目を開けると、名を呼びながら肩を揺するジェダの姿があった。
「来たか」
とシュオウは問う。
ジェダは頷き、
「ご到着だ」
身体を起こすと、一室の中に仲間達の姿があった。
不安そうな顔から、いつも通りの顔、緊張した面持ちや、闘志をたぎらせた顔、各々の性格や感情を反映した顔が並び、皆の視線がシュオウへと寄せられている。
「現状は」
シュオウが誰にでもなく聞くと、クロンが進み出て、
「指示の通り、門を閉ざしたまま、内外すべての通行を止めております」
シュオウは僅かに視線を下げ、
「……わかった、行こう」
言って、先頭を切って部屋を出る。
後をついてくるジェダが、
「珍しく熟睡していたようだね」
後頭部を撫でるような仕草をした。
シュオウがその仕草を真似て自身の後頭部に手をかざすと、跳ね上がった寝癖が手の平に触れた。
熟睡は死と同じ。
身の安全が確約されていない場所で寝入ることは、たしかに珍しいことだった。
背後から同行している仲間達を見やる。
そこにあるのは見知った顔、信頼できる者達であり、頼もしくも感じる。彼らの存在が深い眠りへと落ちる恐怖を消してしまったのだろう。
少し前まで敵として戦っていた相手国の拠点に居ながら、かつては誰一人知りもしなかった者達と、こうして同じ道を歩いている。
少しずつ状況が変化している今を面白く感じながら、シュオウは一瞬、柔く微笑した。
「増援軍とボウバイト将軍への対応、どうするか決めたのか」
ジェダの問いにシュオウは首を振り、
「いいや、寝入ってほとんど考えられなかった」
ジェダは珍しく喉を詰まらせ、
「……どうする」
その声は隠しきれない深刻さを滲ませている。
シュオウは立ち止まって振り返り、
「まずは見て、それから考える」
「ッ……」
言葉を切らしたジェダが足を止める。だが、シュオウはかまわず一人歩みを止めなかった。
城門の外を一望できる城壁の上に到着し、眼下に広がる光景を観察する。
微かな日差しを受け、兵士達とそれを率いる赤い軍服を着た輝士達が群れていた。その群れを率いるのは、戦馬に跨がりながら胸を張り、年季の入った威厳を漂わせる増援軍の指揮官エゥーデ・ボウバイトである。
兵士達の表情、輝士達の視線、そしてエゥーデの纏った猛る気が、まるで熱風のように押し寄せ、存在しない風にのって、ありもしない臭いを運ぶ。
突如、鼻の奥を、戦場の臭いが突き上げた。
その臭いは記憶から引きずりだされた幻臭でありながら、圧倒的な重さと存在感をもって、滞留する血の臭いを内包している。
エゥーデは馬を前に進めながら声を張り上げ、
「増援軍が到着したのだ、今すぐ門を開けよッ」
刺々しく、敵意に満ちた声。
その音質は深界で幾度も聞いてきた音によく似ていた。捕食者が獲物を定め、狩り殺す事を宣言するときの雄叫びだ。
――だめだ。
直感する。
彼らを向かえ入れれば、無数の人間の血が流れる。
入れてはいけない。
接してはいけない。
なぜなら、彼らは敵ではないのだから。
飢えた捕食者を高みから見下ろし、
「だめだ」
心中に湧いた言葉は、そのまま短く発せられた。
呆然とするエゥーデと、増援軍の者達。突如張りを失ったかのように熱を失っていく空気の中、シュオウの周辺にいる者達からも、戸惑いや驚きの気配が漏れ伝わる。
緊張と弛緩が入り交じる特異な空気のなか――
「ふ――」
背後に控えるネディムが、一人大きく笑声をあげた。
*
城壁の上から見下ろすエゥーデは絶句したまま、硬直していた。そんな指揮官の様子から、増援軍全体に、染み渡るように動揺が広がっていく。
彼らと同様に、側に控えていたシュオウの身内からも、戸惑いの空気が漂いつつあった。
クロンはシュオウの背後へ歩み寄り、
「開門をしないのですか?」
シュオウは視線を固定したまま、
「しない」
クロンは声に疑念を滲ませつつ、
「それはいったい……」
シュオウは城壁に左手を乗せ、
「開門せず、増援軍はこのまま外に置いておく」
皆が驚いた様子で声を失うなか、一人笑声を漏らしたネディムがシュオウの隣に立ち、同様の姿勢で眼下を見下ろした。
「なるほど、石の上にあっては不穏の種も芽吹けない」
シュオウは微かに首を動かしてネディムを見やり、
「どう思う」
ネディムは深く首肯し、
「現状においてはとても良い――いえ、むしろ最善かもしれません。これで我々は次の行動への選択権を得られる……実質的に、先制を取ることと同義です」
ジェダがネディムとは反対側からシュオウの隣に立ち、
「シュオウ、今なら彼らに有利を取れる」
シュオウは首を振り、
「中も外も、ここにいる人間は全員一つの戦力だ、血を流すつもりはない」
ネディムが、
「味方にはしたくとも信用はできない……下手をすれば板挟みの状態にも陥りかねませんが」
シュオウは前を向いたまま頷き、
「まずは副司令と話をする、俺に文句を言いたいはずだ――クロン」
シュオウからの名指しで呼び捨てにされたクロンは、一瞬の戸惑いを滲ませて、
「……はい」
「ボウバイト将軍を中に招いて話をしたい」
クロンは頷き、
「かしこまりました。すぐに用意を――」
部下へ指示を出そうとした直前に、ネディムがそれを止めた。
「お待ちを、私が使者としてボウバイト将軍に対面してまいります」
その時、クロムが素早く進み出て、
「反対します、こいつは信用なりませんッ」
実の兄に対し、軽やかに暴言を吐いた。
ネディムは咳払いをして、
「先方は長距離の移動で疲れ、気も立っているでしょう。本来部外者であるカトレイの者ではなく、知己である私が行って話をしたほうがよいと思います」
「自信は」
シュオウの短い問いにネディムは頷き、
「確実に遂行いたしましょう」
シュオウはネディムの目をじっと見つめ、
「……わかった」
「感謝いたします」
ネディムは恭しく辞儀をし、背を向けずに数歩身を引く。
依然として疑いの眼を向けているクロムに対し、
「そんなに兄を心配しているなら、ついてきて援護をお願いしようか」
クロムは仏頂面で息を吐き、
「いいだろう、おかしな真似をしないか後ろから見張っててやる」
カルセドニー兄弟は並んでシュオウに頭を下げ、カトレイ兵らと共に門の外へと足を向けた。