先制 1
先制 1
夜の中に伸びる白い道を、一塊の馬群が一心不乱に駆けている。
シュオウを後ろに乗せたジェダの馬が先頭を走り、そのすぐ後ろを仲間達が追従していた。
「このままじゃ馬が潰れるぞッ」
シガが急迫した声を上げた。
馬一頭に二人、または荷物を乗せ、疾走に近い速度で走らせ続けている。馬たちは一目でわかるほど激しく消耗していた。
シュオウはシガの忠告を聞いて振り返り、
「止まるな、このままで行く」
厳しい口調で継続を告げた。
「その通り――」
併走するネディムが強く頷き、
「――現状で我々にとって唯一といっていい優位は少数であること、その身軽さを全力で活かすための強行軍です、止まってはいけません」
ターフェスタを出てからここまで、事前に手配していた深界を往来する商売人たちと、馬を交換すること複数回。その都度、馬の限界に近い速度で駆けてきた。
凍てる空気の中、風を切り裂いて進み続ける馬に乗りながらの道中で、晒された顔の皮膚は赤くなり、感覚はすでに失せている。
手綱を握るジェダが、外套のフードからこぼれた髪を手で押さえながら振り向いた。
「なににおいても、今はアリオトへの到着を優先するとき」
シュオウはジェダの言葉に頷いてシガを見やり、
「次の馬はもうない、いざとなったら、自分の足で走る」
シュオウが言うと、シガは広い肩の上で首を捻って音を鳴らし、
「いいけどな、そうなったら誰一人俺にはついてこれねえぞ」
シガと併走するクモカリがすかさず、
「その時はあなたがシュオウの馬になるのよ」
シガは声を裏返し、
「なんでだよッ」
一行から微かな笑いが起こると、すかさず最後尾についていたクロムがぐいと馬を前に進めて、シガの前面に躍り出た。
「我が君ッ、そこの南方の駄馬に跨がる際には、鞭を入れる役目をこのクロムにおまかせください!」
大粒の鼻水を垂れながら、会心の笑みを浮かべて馬に鞭を入れる仕草を繰り返す。
シガが瞬時に顔を怒らせ、
「てめえこの、誰が駄馬だッ!」
言いながら手を伸ばすが、クロムは巧みな馬術で馬を操り、シガの手をくぐり抜けた。
騒動を尻目に、ジェダは顔をシュオウのほうへ向け、
「馬はともかく、人間のほうはまだ余裕があるようだね」
シュオウは口元を引き締めて頷き、
「ああ、大丈夫だ」
これから先、未知の状況へ向かっている今、誰一人として恐怖も気負いもみせない仲間達の声が、頼もしく聞こえてくる。
ネディムが前をじっと凝視して、
「目前ですよ、もう間もなくです」
白道に打ち込まれた導を見送り、そう告げた。
ネディムの言葉に、シュオウは改めて目的に思いを馳せる。
――なによりも、優先すべきもの。
ターフェスタ公国が有する城塞アリオトを統括する司令官の座。その地位はしかし、名ばかりのものにすぎない。
敵対していた者、それも彩石を持たない司令官に、アリオトの兵が忠誠を示すなど、微塵の期待も持ってはいない。
祖国に尽くすアリオトの兵には心がある、故に仮初めの主に従うことはない。だが、アリオトには心を持たない兵も存在している。
黒と白、そして灰色に覆われた世界に、薄紅色の朝陽の先駆けが溢れ出す。
昼夜で大きく性質を変える灰色の森。
夜を生きるもの、光の下を生きるもの、それぞれの時が混じり合う刹那の一時。
前方から薄らとその姿を現した巨大な城壁を前に、シュオウは呼吸を深く整えた。
*
陽が昇るより早い頃、城塞アリオトの一室の扉を、ゆったりと叩く音が響いた。
「…………おい、嘘だろう……なんなんだ、誰だいったいッ!」
部屋の主であるビュリヒ・マルケは重たい目を擦り、渇いた唇に舌を這わせた。
「まだ暗いぞ…………眠りが浅くて苦しむ私を、こんな時間に起こしたのだ、たいした用でなければ厳罰に処する……ッ」
扉の向こう側に向けてマルケが殺気を込めて言うと、
「マルケ将軍、バーナ・クロンです」
マルケはしわがれた声を聞いて目を瞬かせ、
「クロン会計官……?」
急ぎ扉を開けて顔を出した。
扉を開けた先に、カトレイの会計官を勤める老人、バーナ・クロンが一人立っていた。
「夜中にすみません、ですがターフェスタよりの増援軍が到着しましたので、ご報告をせねば、と」
クロンの報告を聞き、マルケは首を傾げる。
「増援……こんな時間に? 待て、ということは例の奴らもきたか」
「はい、というより、到着したのはその者らのみのようですが」
マルケは寝ぼけ眼を大きく見開き、
「なんだと……」
「新任の司令官を筆頭に、その配下の者らのみが到着しました。そして件の人物がマルケ将軍との面会を望んでおります」
マルケはくすんだ金髪をかきあげ、拳の先で固いヒゲをぞりぞりとなぞる。
「……よし、会おう、まあ、それ以外ない」
さっそく身を乗り出したマルケを、クロンが慌てて引き止めた。
「お待ちを、その格好で向かわれるのですか」
マルケは自分の姿を鏡に映して観察する。寝癖のついた髪から、皺のついた寝間着まで、一分の隙もなく、格好のすべてが正装にはほど遠い。
「連中は東の蛮人どもだぞ、神を持たぬ獣に会うのに礼儀など必要あるまい。むしろ、作法を知らねばならないのは向こうのほうだろう、普通は来訪に頃合いを見計らう、こんな時間に門を叩くだけでも無作法であるのに、そのうえ図々しく会見まで求めるとは、一つ、叱りつけてやらねばなるまい」
クロンは白い眉をひそめ、
「あなたを止める権限は私にはありませんが……本部はすでに、難事に指定したアリオトの任務遂行に気を揉んでおります、どうか穏便な振る舞いを心がけくださいますように」
マルケは口元に不敵な笑みを浮かべ、
「諭されずとも、わかっている」
その真意を察し、クロンは密かに溜息を吐いた。
マルケが歩み出す直前になにかを探すように視線を泳がせ、
「ところで部下はどうした、なぜ私はこのことをクロン殿から聞かされねばならない」
クロンは肩を下げて溜息を吐き、
「あなたの眠りをさまたげることを恐れた者達から、頭を下げて頼み込まれたもので」
「なるほど…………軟弱だが、クロン殿に起こされたとなれば怒る気はしない。最適な案ではあるが……会計官殿にはご苦労をおかけした」
「おかまいなく、老人の朝は早いのです。では、まいりましょうか」
二人は肩を並べ、ゆっくりと歩き出した。
*
窓の外から見える景色が、わずかに明るさを帯びつつある。
夜通しで深界を走り、アリオトの門に到着して間もなく、シュオウ達は案内に従い、城塞内の一室に身を置いていた。
シュオウは疲れを押し殺して佇む仲間達を一瞥した。直後に、部屋の入り口から姿を現した三人の人物に視線を移す。
「おまたせしました……サーシャ・ミスク重輝士、現アリオト司令代行です」
痩せ型で生真面目そうに見える骨張った顔をしたミスク重輝士は言って、深々と頭を垂れる。その辞儀は明らかにネディム・カルセドニー個人に向けられたものだった。
次に、
「カトレイ所属、ビュリヒ・マルケ将軍だ、遠路ご苦労でありました」
金髪のひげ面に、むくんだたるみ顔で、マルケ将軍が挨拶をした。しかし、彼の無造作で寝間着のような服装は、およそ将軍という職位にはにつかわしくなく、両手の親指を腰に差し入れた態度は、その印象をより強く印象付ける。
「こちらは――」
マルケに手を差し向けられた老人は、
「バーナ・クロンです、カトレイより主計監督として急遽こちらに派遣されております、みなさま、お見知りおき下さいませ」
痩せた体にメガネをかけ、しなった背中が、いかにも老人といった風貌の男だった。
シュオウは一歩前に踏みだし、訝しく視線を送ってくる三人へ、
「シュオウだ、今日からここを仕切ることになった」
ごく短い言葉で自身の立場を伝えた。
挨拶を受けた三名は返事をするわけでもなく、頷くことすらしようとはしない。
生じた沈黙が定着する一瞬の間をつき、ネディムが声を張り上げた。
「マルケ将軍、クロン殿、ミスク重輝士、ご足労に感謝いたします――こちらの准砂将軍シュオウ殿が、大公直々の指令により、本日よりアリオト司令官に着任いたします、私はその補佐役を務めます、冬華六家、ネディム・カルセドニーと申します」
ネディムは言って、長衣の袖の中から筒状に巻き付けた令状を取り出し、現在の司令代行であるミスク重輝士の前に差し出した。
しかし、
「おや、どうしたのですか?」
出された物を受け取ろうとしないミスクに対し、ネディムが露骨に首を傾げ、大袈裟に声に抑揚をつけて問うた。
命令書を差し出されたミスク重輝士は、まるでそれを拒むように視線を背け、
「副司令として、ボウバイト将軍が同行していると伺っておりました、着任は司令官と同時に行われる予定です」
態度は控えめだが、語気は強い。
ネディムは首を傾げ、
「副司令の不在が、大公の命令書を受け取らないこととなんの関係があるのでしょう。拒否するのならば、相応の理由を求めます。軍規、または法に則った処罰を検討しなければなりませんからね」
ネディムの明らかな脅し文句に、ミスクはたちまち額に汗を滲ませ、俯き気味な顔からちらりとシュオウを睨みつけた。
「ですが、しかし……」
苦しげにもらすと、突如マルケ将軍が間に入り、
「まあ、そう頭ごなしになることもないだろう。現在の拠点長が予定外の行動に難色を示すのはしかたのないこと、だいたい司令官といったって、ここにいるのはほんの少数、連れてくるはずの増援軍本体はいったいどこにいるというのだ」
マルケの発言に、空気が緊張を帯びていく。
「それは――」
ネディムが口を開きかけたところで、シュオウが手を上げて制止し、
「遅れているだけだ、必ず到着する」
マルケは大袈裟に眉を上げ、
「遅れて到着すると? なるほどそうなのだろう、ならば双方の顔を立ててボウバイト副司令の到着を待ち、その後に正式に着任という運びにしてはいかがかな」
フードをかぶったまま、部屋の壁際に目立たぬように立っていたジェダが突如、
「片方の顔しか立っていないように聞こえるが?」
刺々しい声を上げた。
マルケは鋭くジェダを睨みつけ、
「そちらこそ、なにか焦っているように見受けられるがね。まるでボウバイト将軍が到着するより先に片付けてしまいたいことでもあるようだ」
「部外者が気にするようなことではないさ、雇われの身として、分をわきまえた言動を心がけたほうが身のためだ」
ジェダは言って腰に手を当て、相手を見下すように顎を上げ、口元に冷たい笑みを浮かべる。
マルケは一目でわかるほど気分を害し、
「〈セプ・ティック〉め、口の効き方も知らないか」
聞き慣れない言葉にシュオウが眉間に皺を寄せた直後、ネディムが耳元に顔を寄せ、
「――リシアの古語で背教者を指す強い侮蔑の言葉です」
マルケに対するジェダは、微笑の温度をさらに下げ、
「他人の作法を問う前に、鏡で自分の姿を見てみたらどうなんだい、将軍閣下」
マルケは歯を剥き、
「こ、これは急いでいたせいで――こんな時間にたたき起こしたのはいったい誰だ、よくもそんなッ」
やり取りに熱が入ってきたところでシュオウが、
「ジェダ、止めろ」
その名を聞いた途端、マルケは露骨に顔色を悪くした。
「ジェ、ダ……? ジェダ・サーペンティア……」
声を萎めながらぶつぶつとその名を呟いた。
ジェダは前に進み出て、微笑を浮かべたまま外套のフードをはずし、露わになった明るい黄緑色の髪をかき上げる。
マルケは引きつった顔でジェダの輝石と髪を注視し、突然怒りの気配を消して、身をひいた。
シュオウの鋭い視線を受け、ジェダは微笑を消し、マルケに頭を下げる。
「マルケ将軍、口が過ぎました、失礼をお詫びします」
声音はわざとらしく、言葉ほどには、誠意のかけらも感じられない謝罪だった。
マルケは唾を嚥下し、
「い、いや」
渋面で唇をすぼめ、ジェダとシュオウを交互に見やった。
両者の間に散っていた火花の収束を見て、シュオウはネディムの手から命令書を取り、改めてミスクの前に差し出した。
「…………」
ミスクはシュオウと顔を合わせようともせず、差し出された命令書に手を伸ばそうともしない。
「受け取るつもりはないか」
シュオウの問いに、
「…………」
ミスクは汗を浮かべながら無言を貫く。
シュオウは方向を変え、マルケに向けて命令書を差し出した。
「カトレイは俺の司令官着任を認めるか」
マルケは苦々しく、
「アリオトの兵よりも先に我らに指揮下に入れと?」
シュオウは頷き、
「そうだ」
マルケは命令書を一瞥して、
「そんなこと出来るはずが――」
言いかけで、突如骨張った細い腕がするりと伸び、差し出されたままの命令書を受け取った。
マルケは手を伸ばした人物を見て驚き、
「クロン殿?!」
クロンは命令書を開き、モノクルを取り出して詳細に中身を調べ始めた。
「我々の雇い主はアリオトではなく、ターフェスタであり、契約を遵守するためには常に正統に目を向けなければなりません…………なるほど、たしかにターフェスタ大公のご意志は、そこの御仁に司令官の座を与えるとある。内容を考慮するに、すでにこの令状は効力を持っていると思われる。マルケ将軍、こちらのお方は現時点において正統なアリオトの司令官であると私は判断いたします」
「待ってくださいッ?!」
ミスクが慌てて声上げた。
マルケは仏頂面でクロンを見つめ、
「この私に従え、と」
クロンは顔色を変えず、
「将軍、このカトレイ派遣軍においてあなたは最高意思決定権を持つお方で、私はただの付き添い人にすぎません。ですが、私がここに寄越された理由と、本部の意思は重々ご存じのはずです」
マルケは目の下をぴくりと震わせ、
「……だめだ……だめだ……だめだ」
呟くようにその言葉を繰り返す。
その時、ネディムが進み出て、シュオウの前で一礼した。
「あの件について先方にお伝えすることをお許しいただけますか」
シュオウは首肯し、許可を与えた。
首を傾げる面々を前に、ネディムはカトレイ陣営の二人に向けて語り始める。
「我々から一つ、カトレイへの要請を伝えます。本件の契約内容に基づき、派遣軍の指揮官交代を求めます」
クロンは眉を上げ、マルケは鼻の穴をふくらませた。
「なッ?! 私では不足であるということかッ」
ネディムは冷静にマルケの怒声を受け止めて頷き、
「マルケ将軍、あなたは常から非リシア教徒に対して軽蔑の心を持っておられるという噂を耳にしています。そしてそれを裏付けるように、先ほど准砂の部下に対して差別的な呼称を用いられましたね」
マルケは喉を詰まらせ、
「ぐ、それは……」
「准砂を含め、配下の者達の多くはリシア教徒ではありません。これに対して悪意ある接し方をする人間を派遣軍の統率者として置くのは、先の行動に不安を感じます、よって契約に含まれる特約条項に鑑み、指揮官の交代、及び次の人選をこちら側の意思によって行うことを認めていただきたいのです」
マルケが憤懣を押し殺したような顔で歯を擦り合わせる、直後になにかに気づいたように視線を送り、
「不遜な奴らめ……私は幾百、千の兵を指揮し、歴戦を渡り歩いた将だ、くだらん脅しに怯えて屈すると思ったら大間違いだぞ」
彼の言った言葉に心辺りのないシュオウは眉を顰め、
「脅し?」
「しらじらしい……」
マルケは言ってシュオウの後方を指さした。
振り返ると、そこにはアガサス家の輝士達がいた。一方は重輝士のバレン・アガサス、そしてその息子のレオン・アガサスである。この二人は、時に喧嘩を売っているようにしか見えない事があるほど人相が悪かった。疲れを溜め、さらに緊張した今の場面においての二人の顔は、まるで殺気に満ちあふれた殺人者のようである。
極めつけに、二人の側にクロムが醜く顔を歪めながら、手にした短剣の刃に舌を這わせてマルケを睨みつけていた。その目は寝不足と疲れが原因で、割れたガラスのように血走っている。
「クロム」
シュオウが呼びかけるとクロムは、
「はい、我が君ッ」
舌を伸ばしたまま不気味に笑みを浮かべて頷いた。
「……やめろ」
シュオウの一言にクロムは黙って舌をしまい、短剣を鞘に戻して、皆の視線を一身に受けながら、まるで何事もなかったかのようにすました顔で佇む。
状況を察したアガサス家の二人は、所在なさげに一歩退き、隠すように自らの顔を下げて俯いた。
クロンは咳払いをし、腰に下げた巻物を広げ、
「たしかに、契約内容と今の申し出に矛盾はありません」
マルケが声を荒げ、
「クロン殿、まさか私に……」
クロンはじっとりと湿った視線でネディムを見つめ、
「しかしこの条項、履行のためには相応の料金が発生することをご存じなのでしょうな。失礼ながら、決して少なくない額を請求することになりますが」
ネディムは微笑んで、
「もちろん存じております」
クロンは今にも爆発しそうなマルケの腕を掴み、
「少々検討のお時間をいただきたい、あまり待たせません」
ネディムがシュオウに視線をやる。
シュオウは頷き、
「わかった、ここで待つ」
その一言を合図に、マルケとクロンは足早に部屋を後にした。