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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
従士編
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第三話 残酷な手法

   Ⅲ 残酷な手法











 その男は、奇妙な人物だったのだという。

 どんなところがですか。そう問うと、一瞬の間を置いて答えが返ってきた。


 その男は医術を修めていた。

 性格は実直で勤勉。忠義心に厚かった男は、敬愛する主君の助けになるのならと、傷ついた兵を癒すために戦場へ赴いた。

 やりがいのある仕事だった。

 負傷兵を癒しては送り返し、また重傷者も明日の戦力になると信じて懸命に処置を施した。


 だが、命の危険も顧みず自らの仕事をこなすうち、男はそれだけでは満足できなくなってしまった。

 劣勢に立たされる主君のため、自身の手で戦いたいと強く願ったのだ。

 使命感のようなものにかられた男は、自身の素養と経験、そして長らく兵達に付き添って得た観察結果を活かして、独自の戦い方を考案する。


 男の活躍は凄まじかった。武器を持たず、身一つで敵陣へ乗り込み、たった一人で常軌を逸した戦果を残した。

 当然、人間が一人で大群をすべて制する事などできるはずがない。だが、英雄的な活躍をする男を見た味方の兵達は大いに勇気づけられ、彼を象徴として熱狂的に高まった士気により、最終的に華々しい勝利を得る事になったという。


 その話を聞いたとき、きっと自分の目は輝いていたに違いない。

 人々を魅了し羨望の眼差しを集める英雄物語。だが、かたりべの表情はとても不愉快そうに歪んでいた。


 「勝利を得た国にとって、この男が英雄的な行いをしたのは間違いない。けどね、その方法を初めて知ったとき、私はなにより心地が悪いと感じたんだよ」


 戦場を縦横無尽にかけ巡り、たった一人で大きな成果を残した男は、しかしただの一度も人を殺めるということをしなかったのだという。

 正確に迅速に、男が体得し実行したのは、自分の体一つで相手を殺すことなく無力化するという風変わりな手法だった。


 男が通った後には、戦意を失い一時的に行動力や判断力を失った敵兵達が残されていく。そんな彼らを生かしたままにしておけば後に再び戦力となって現れるのは必至である。

 翼をもがれた鳥達は、ただ地面をのたうちまわるだけだった。


 「戦に死はつきもの。けどね、この男は自分がやりたくない事をすべて他人にまかせたんだ。命を弄び、勝者としての義務を放棄した」


 勝利を得るという事は、同時に敗者の命を背負う事でもある。

 自然の理がそうであるように、人もまたそうでなくてはならない。

 かたりべは、めずらしく熱心な口調で自身の考えを語った。


 「この話を私に聞かせた人は、この男の事を褒めそやしていた。とても慈悲深い人だとね」


 虫の羽をもいで喜ぶ子どものように、その男は、人が生きるための力を、そして戦う意思と心を奪って、戦場に置き去りにした。

 男のしたことに慈悲などない。ただ自分の想いのために、成果と効率を求めて行動したにすぎない。

 その理念には一切の迷いがなく、そして残酷であった。

 

 「私は思ったんだ、反吐がでるような話だとね」

 最後にかたりべはそう言って、口元だけで笑ってみせた。











 ムラクモ王都は完璧なまでの雪化粧でシュオウ達を迎えた。

 きちんと除雪された街路。そこを行き交う人の多さと活気に、なつかしさすら感じる。物珍しさからシュオウに送られる視線もまた、同様であった。


 「うっへえ、相変わらずだよな、この人の多さは」

 街の中心へ続く大通りを眺めながら、ハリオが呆れたようにこぼす。

 「この、鬱陶しい虫もッ! 王都に来るとこれが嫌なんだよ――こいつ、よそにいけッ」


 人の血を吸う虫〈コキュ〉を、サブリは苛立たしげに手で追い払う。

 コキュは通常、人間の手に余るほど素早く飛び回るが、元来ずば抜けて動体視力の良いシュオウにとっては、対処するのに難儀はしない。


 「お前は肥えてるからな、旨そうな血の臭いでも漂ってんじゃねえのか?」

 ハリオはからかう調子で言った。

 「そんなのあるわけないだろ……ああ、もう、なんで纏わり付くんだ。俺虫は苦手なのに、もうッ」


 サブリは本当に不快な様子で、目でまったく追えていないコキュを遠ざけようと、手をがむしゃらに振り回している。

 シュオウは手をサッと伸ばして、サブリにまとわりつく数匹のコキュを瞬時に握り潰した。手の中で潰れたコキュを払って捨て、その様子を言葉もなく見ていた二人に声をかける。


 「行きましょう」

 先導するように前を歩き始めると、背後から二人のぼそぼそと話す声が聞こえてきた。

 「あの虫って、掴み殺せるようなもんだったのか……」

 「やっぱ、あいつ変わってるな」


 内緒話なら聞こえないようにしてほしい、とシュオウは思った。



 王都の中心に位置する、円系に大きく広がる広場には、より一層多くの人々が行き交い、あらゆる食べ物の露店が並んでいる。

 商店や屋台が多く立ち並ぶ区画まで来ると、不意に離れた所から自分を呼ぶ声が聞こえた。

 「シュオウ!」

 覚えのある男の声に反応して振り返ると、人混みの中でぽつんと一つ出た、派手なつるつる頭を見つけた。

 「……クモカリ?」


 人をかき分けるようにして出てきたのは、共に深界踏破試験を経験した仲間、巨体に厚化粧の男、クモカリであった。


 「やっぱり! 珍しい髪の色だからもしかしてって思って声かけたんだけど、間違いなかったみたいね。どうしたのよ、こんなところで? それになんだか酷い顔……」


 安定感のある落ち着いた声音と、優しく気遣うような眼差しを受けて、ひさしく感じていなかった安堵が心に染みていく。

 目頭の奥にほんのりと熱いものを感じていたシュオウに、ハリオとサブリが無神経にも水を差した。

 「なにこれ、でかッ!」

 ハリオはクモカリを見上げながらそう叫び、

 「うえ、オカマ!?」

 サブリはそう言ってハリオの背中に隠れた。


 初対面にもかかわらず、まったく遠慮のない物言いの二人を前に、クモカリの人となりを十二分に承知しているシュオウは、あまり良い気分はしなかった。


 「なによ……このムカデと饅頭みたいなの。あなたの連れなの?」

 不愉快な気分を押さえ込んだように、小声でクモカリが聞いた。

 「ここまで送ってもらったんだ」

 「ふうん、そう。まあいいけど。それより、ちょっと休んでいきなさいよ。ゆっくり話もしたいし」

 クモカリはそう言って、後ろにある店の看板を指さした。

 「あれは?」

 「あたしのお店、よ」


 立派な鉄製の看板には、白い蜘蛛の糸の絵の上に〈蜘蛛の巣〉と書かれている。


 「すごいな。もう自分の店を」


 「都合良くここにあった店が建物付きで売りに出ててね、幼馴染みの夫婦とお金を出し合って買ったのよ。といっても高かったから頭金ぎりぎりで残りの返済もたんまりとあるんだけどね。さすがに一等地だし仕方ないわ。ちょっとしたお茶や軽食を出す予定だけど、これからガンバってガンガン稼ぐつもり。……ねえ、寄っていきなさいって、あたし達の練習にもなるからお金の事は心配しなくてもいいのよ」


 クモカリのたくましい腕がシュオウの手を引く。シュオウは足に力を入れ、抵抗した。

 「悪い、今は無理なんだ」

 クモカリは一瞬きょとんとするが、真剣なシュオウの顔を見つめて、微笑み、手を放した。

 「わかったわ。あたしで力になれることがあったら――」

 最後まで聞かず、シュオウは駆け出した。去り際、ありがとう、と告げて。


 慌てて後を追いかけてくる二人は、何度かクモカリのほうを振り返っていた。

 「いいのかよ? 知り合いなんだろ」

 聞いたハリオに、シュオウは頷いて答える。

 「いいんです。また会えますから」


 あれ以上側にいると、きっと頼ってしまいたくなってしまう。

 自分を知る人間が側にいてくれるというのは心強いものだ。だが、クモカリも新たな人生を歩み出している。そんな彼の邪魔はしたくなかった。


 「あのオカマさん、飯おごってくれるって言ってたんじゃないか? 俺腹減ったよ」

 サブリはぷっくりと出た腹を押さえながら呻いた。


 二人はシュオウに付き合い、シワス砦から時間をかけて馬を飛ばしてきた間、乾いた握り飯しか食べていない。シュオウも小さな飯の塊を僅かに食べただけだ。本来なら空腹に悲鳴をあげてもよさそうな頃合いだが、それでもなお、空腹感をいっさい感じない事が不思議だった。


 胃のあたりには、どっしりと重い不快感が居座っている。

 ――この感覚。

 胃をわし掴みされているような気持ち悪さ。アベンチュリンを出て以来、それがずっとつきまとって離れない。


 ちょうど大広場を抜けた頃、サブリの腹がぐるぐると低い音を奏でた。

 食欲のないシュオウはかまわないが、流れで付き合わされている二人にいつまでも食事を我慢させるのは心苦しい。


 「ここで別れますか?」

 足を止め、二人に問いかける。

 「なんだよ。ついてくるなってことか?」

 ハリオは眉根を寄せた。

 「二人とも疲れてるだろうし、腹も減ってるみたいだから」

 「腹減った」

 間髪容れず言ったサブリに、ハリオが怒鳴る。

 「黙ってろよ! ――俺達はついて行くぜ。お前の話が本当ならアデュレリア公爵に会えるかもしれないんだろ。ちょっとおっかねえけど、そんな機会一生に一度の事だしよ」

 「俺は怖いよ……だって、あの氷姫だぜ」

 「まあ聞けよ、サブリ」


 ハリオはサブリを呼び寄せ、シュオウから少し距離をおいてひそひそと相談を始めた。

 本人達は内緒話のつもりなのだろうが、特別地獄耳というわけでもない平凡なシュオウの聴覚でも、二人の打算に満ちた話し声はまる聞こえだった。


 「あのな、俺達は上官に逆らってここまで来たんだ。それも囚われてたあいつに協力までしちまった。わかるか?」

 「わかってるよ、そんなこと……」

 「つまりだ、俺達はお尋ね者も同然。このままシワス砦に戻ったって、これまで通りに仕事ができるわけがない。あの冷たい牢獄に放り込まれるのがオチだ」

 「そうだな」

 「そこで、だ。どうせだから、このままアデュレリア公爵に顔を売って、もっとましな仕事にありつくってのはどうだ」

 「まじかよ……でも、氷姫様みたいな人が俺らなんかにかまうわけないんじゃ……」

 「その点ではあいつに賭ける」


 ハリオはこっそりとシュオウを指さした。隠しているつもりなのだろうが、全部見えていた。


 「賭けるって?」

 「あのよくわからん新入りは、少なくとも公爵から軍に誘われて個人的に手紙まで貰うような間柄だ。で、俺達はあいつをなんの得もないのにここまで送り届けた恩人、だろ」

 「そう言われれば、たしかに」

 「今のとこ、あいつの話がほんとかどうかもよくわからねえけどよ、とりあえず最後まで付き合う価値はあるんじゃねえか? ひょっとして、ご褒美にうまい飯でも食わせてくれるかもしれないしな」

 サブリは活発に何度も頷いた。

 「うん、そうだな。そうかもしれない。よし、そうしよう」


 シュオウの元まで戻ってきた二人は、心底満足気な様子だった。どうすればそこまで自分達に都合の良い考えができるのかと思う。

 「もういいんですか」

 「いいんだけどよ、公爵ってどこにいるんだ?」

 「水晶宮の近くに邸があるような事を聞いた事があります。誰かに聞ければいいんですけど」


 水晶宮のある山頂方面へ歩きながら、時折すれ違う警備隊の従士に聞くと、公爵家別邸の場所は簡単に知る事ができた。

 すぐ側に左硬軍の兵舎があるらしく、別段場所を秘密にしているというわけでもないらしい。


 時刻は夕暮れを間近にしている。真っ白な雪が薄紅色に染まり始め、仕事を終えて帰路につく男達と頻繁にすれ違うようになった。


 公爵家別邸は敷地へ近づくにつれ、一目でわかるほどの大きな邸と建物を包み込むようにして広がる立派な中庭が見えてきた。

 さらに奥には兵舎のような建物も伺える。


 公爵家の敷地の前には屈強な警備兵達が多数いる。全体が広いこともあり、それを警備するための人員も相当な数がいるのだろう。

 ざっと見渡しただけで、アベンチュリンの城を守っていた兵の数を遙かに超える兵員が置かれていた。


 シュオウ達が別邸の入口に近づくと、警備兵達は露骨に殺気立った視線を向けてきた。しだいに距離が縮まり、声が届くところまで距離が縮むと彼らの警戒はさらに強くなる。


 「そこの三人、止まれ! 許可があるまで一歩も動くな」

 零れんばかりの警戒心を発しながら、腰の剣に手を当てて近づいてくる警備兵。

 物々しい空気に、軽い緊張を感じる。


 「その格好……お前ら軍の人間か。顔に見覚えがないところをみると左硬軍の所属ではないな。ここへなんの用だ」

 「アデュレリア公爵に会わせてください」


 直球に言ったシュオウを、この馬鹿は何を言っているんだといわんばかりの呆れた顔で警備兵は睨め付けた。


 「馬鹿かお前は。望んだからといって、ほいほい会えるわけがないだろう」

 シュオウはアデュレリア公爵から渡された手紙を差し出した。

 「なんだ?」

 「公爵からもらった物です。これで証明になりませんか」


 知り合いであることの証として見せたつもりだったが、警備兵の警戒心は頂点に達したようだった。中身を確認するまでもなく、跳ねるように一歩下がり、剣の柄を握りしめる。


 「なんのつもりだ。ムラクモでも三指に数えられるの大貴族、アデュレリア公爵様が、一介の従士に文を出した等と……閣下に近づくための嘘にしては随分とお粗末だな。その髪の色からしてあやしいと思っていたが、北方の間諜ではないだろうな、貴様」


 様子がおかしくなった事を察した他の警備兵達も足早に駆けてきた。

 「おい、まったく信用されてないみたいだぞ。やばくないか、これ……」

 シュオウの耳元でハリオがそう囁いた。

 「信じてください。公爵とは顔見知りなんですッ。大切な用があって、今すぐにでも相談したいことが――」


 焦燥感に駆られて一歩を踏み出すと、警備兵はいよいよ剣を抜いた。


 突然、サブリとハリオがシュオウの両脇を抱える。

 「すいません、こいつ寂しくなると嘘をつく癖があって」

 ハリオが軽いノリで言って頭を下げる。

 「放せ――嘘じゃないッ」

 両腕にまとわりつく二人を引きはがそうと暴れるが、ろくに食べていないせいか、力はなく、思う通りに体は動かなかった。


 「おい、やめとけって。こいつら聞く耳まったくないみたいだ」

 ハリオは必死にシュオウを宥め、この場から一時的に立ち去る事を勧めた。だが当然、それを素直に受け入れるつもりは毛頭ない。この場から逃げたところで、他の方法で公爵に会う方法がわからないからだ。なにより、時間は限られている。


 「この手紙の確認だけでも!」

 「まだ言うのか。いいかげんにしろよ、立ち去る気がないのなら、この場でお前達の身柄を抑えて王都警備隊本部に突き出すぞ」


 一色触発の緊張した空気が張り詰める。なかば諦めかけていた、その時だった。


 「騒がしいぞ」

 凜とした女の声がした。すると、殺気立っていた警備兵達は即座に姿勢を正して、その場に直立する。

 「あ、あやしい男達が重将に会わせろなどと騒いでいたもので」


 警備兵達の間から現れた人の姿を見て、シュオウは安堵を覚えた。


 「カザヒナさん?」

 「あら?」

 姿を現した女輝士は、シュオウに気づくと厳しかった表情を和らげた。

 おっとりとした垂れ目に、二の腕あたりまである青が混ざった薄紫色の髪。すらっとした身長と、目を惹かれるほど美しい姿勢。

 アデュレリア公爵の副官であり、また血縁者でもあるという彼女に会うのは、これで三度目になるだろうか。


 「うわ、輝士だ……」

 カザヒナに気づいたサブリとハリオは、抱えていたシュオウを解放する。


 「こんなところでどうしました? たしか、シワス砦の配属になったと記憶していますが」

 カザヒナは落ち着いた声音で、不思議そうにシュオウを見た。

 いきり立っていた警備兵達は、親しげなカザヒナの態度を見てぽかんとしている。


 「アデュレリア公爵に今すぐ会って話をしたいんです」

 「アミュ様なら、丁度これから近場を散歩するとおっしゃられて――」


 カザヒナが後ろを振り返りながら言うと、モコモコの防寒具に身を包みながら、小さな体でとことこと少女が歩いてきた。

 その人を見て、シュオウは声をあげた。


 「アデュレリア公爵!」

 周囲で呆然と佇んでいた警備兵達が、シュオウの声に反応したかのように叩頭した。

 「ん?」

 氷長石有するアデュレリア一族の当主であるアミュ・アデュレリアは、突然の訪問に驚いている様子だった。


 しかし、この場の空気を意にも介さないサブリとハリオは、場を凍り付かせるような言葉を吐き出す。

 「アデュレリア公爵だって? これが? 嘘だろさすがに」

 とサブリが言って、

 「ちっさ!」

 とハリオが声を張り上げた。


 シュオウは当然、警備兵やカザヒナ、当のアデュレリア公爵もまた、瞬きも忘れて二人を見つめる。

 この瞬間、シュオウの頭にはある考えが浮かんでいた。


 ――この二人、いつか絶対口で失敗する。


 ある意味では勇者かもしれない二人を、アミュはとりあえず無視することに決めたようだった。


 「……ひさしいな。こんなところでの再会はちと驚かされたぞ。最後に見かけてそう時もたっておらぬが、少し髪が伸びたように見えるな」


 アミュの親しげな挨拶に安堵する。心のどこかでは、もう自分を相手にしてくれないのではないか、という不安も少なからずあったからだ。


 「聞いてほしい話があって来ました」

 挨拶もろくに返さず、シュオウは真剣な顔で言った。

 「うむ。その様子を見るに、世間話をしにきたというわけでもなさそうじゃな。まあまずは邸に入れ」


 来た道を戻るため、振り返ったアミュの小さな手を、シュオウは咄嗟に掴んでいた。その瞬間、地面に伏していた警備兵達が体を起こして剣の柄に手を当てる。


 「騒ぐな」

 アミュが厳粛に言うと、彼らは手を納めて頭を落とした。

 「急いでいるんです」

 シュオウは小さな手を放して、懐から金筒の書簡を取り出す。

 「これを見てください」

 目の前に出された書簡を不思議そうに見つめた後、アミュはそれを受け取った。


 「アベンチュリン……女王からの――」

 中身を開いて確認するうち、アミュの表情は険しさを増していく。

 「これを直接受け取ったのはそなたか?」

 「はい」

 「これを受け取って、今日で何日目じゃ?」

 「……四日目です。夜になれば、すぐに五日目になってしまう」

 「なるほどな。とにかく中へ入るがよい。外は冷えるでな」

 「待ってください! 時間がないんですッ」


 シュオウは精一杯の気持ちで叫んだ。それと同時に失望も感じる。のんきにしているアミュを見て、この人も頼りにならないのではないか、と思った。


 「それは理解しておる。じゃが、今すぐにどうこうできる問題でもない。事を起こしたのが一国の主である以上、これは国と国との問題じゃ。我に頼ってくれた期待を裏切るつもりはない。借りを返す好機でもあるからの。とにかく、まずは入って体を温めよ。口元の傷の手当てもしたほうがよいじゃろうな――カザヒナ」


 アミュの呼びかけに、カザヒナは姿勢を正して即座に返答した。

 「はい。そのように」

 「うむ。それともてなしの支度もせい。当家は客人としてこの者を受け入れる」

 アミュがそう言うと、後ろで呆然と様子を窺っていたサブリとハリオが、声をあげた。

 「あ、あの……俺たちは……」

 アミュはじっとりとした視線で二人を見た。

 「こやつらはなんじゃ?」

 アミュはそう言ってシュオウを見る。

 「シワス砦の人達です。ここまで無理をして送ってくれました」


 そう聞くと、アミュは品定めするように二人を観察して、言った。

 「まあよかろう。イチオウ客人として受け入れる。王都にいる間の滞在を許そう」

 アミュはそう言い残してさっさと邸へ足を運んだ。

 サブリとハリオは互いに顔を見合わせて、こぼれんばかりに笑顔を浮かべていた。


 邸へと続く広大な中庭を歩く。

 夜が近づき、暗くなる前に使用人達が忙しなく水を溜めた透明な容器に、夜光石の塊を落としていた。


 シュオウ達三人はカザヒナの後を付いて歩いている。

 少し離れてついてくるハリオとサブリは、いまだ興奮冷め止まぬといった様子で言葉を交わしていた。


 「やっべえ、まじで俺たちアデュレリア公爵に招待されたんだな」

 「こんなの、故郷の連中やシワス砦のやつらに言ったって信じないよ。でもさあ、俺たちろくに頭も下げてなかったけど、いいのかな?」

 サブリは不安を含めて小さく呟いた。

 「しょうがねえだろ、まさか公爵があんなちびっ子だなんてこれっぽっちも頭になかったんだからよ。俺はてっきり皺だらけで腰の曲がった偉そうなババアが出てくるもんだとばっかり思ってたからな」


 そんな失礼な物言いを続ける二人の声を聞いていると、カザヒナが苦笑しつつシュオウに声をかけた。


 「変わった人達を連れてますね」

 「なんか……すいません」

 むしょうに恥ずかしさを覚えたシュオウは、思わず謝ってしまう。

 「あなたが謝る必要はないでしょう。まあ、彼らが私の部下なら、即座に怒鳴りつけて気絶するまでこの辺りを走らせているところですけど」


 カザヒナは戯けて言うが、明るい紫色の双眸はけっして笑ってはいなかった。

 それを受け、シュオウは引きつった笑みを返すに止める。

 カザヒナが若い輝士達を勇ましく怒鳴りつけている光景を見たことがあるシュオウには、カザヒナの言っていることが冗談を言っているようには聞こえず、薄ら寒いものを感じたのだ。


 アデュレリア公爵家の邸に近づくほどに、その姿に圧倒された。外観は光沢のある美しい水色の石を正確に積み上げた建築様式の二階建て。大きな玄関には馬車をそのまま迎え入れる事ができるよう、巨大な屋根が設けられている。青い色の陶器の屋根は、雪が溜まらないよう急な傾斜がつけられていた。

 建物の入口には、剥きだしの鋭い歯で氷に食らいつく狼という、アデュレリア公爵家の紋章をあしらった旗が掲げられている。


 全体的に派手さは抑えられているが、造りそのものはしっかりしていて、おそらくシワス砦よりはるかに堅固だろうと思わせる。

 邸宅というよりは、要塞といったほうが適切な雰囲気さえ漂わせていた。


 若い女の使用人達に導かれ、建物の中に入る。

 外の印象より中は一層地味だった。

 内装は最低限の飾りがほどこされている程度で、これといって目を惹くような物はない。が、天井はほどよい高さで、建物の中だというのに不思議な開放感があった。

 最初に通された部屋は控え室のような場所で、長椅子と暖炉が設置されている広々とした空間だった。


 そこでシュオウ達三人は着替えを促される。別段臭うということもないはずだが、着っぱなしの従士服はすっかり汚れていたので、大人しく従うことにした。

 渡されたのは白の肌着と、ゆったりとした白いズボンだ。着心地は凄まじく良好だった。やや薄手なところを見ると来客用の寝巻きなのかもしれない。


 ハリオは葡萄色のを、サブリは鼠色の上下に着替え、着ていた物を若い使用人の少女達へ手渡した。

 シュオウも着ていた物を求められ、手渡そうとした時、それを部屋の入口で控えていたカザヒナが止めた。

 「それは私が――」

 シュオウの着ていた物一式を、カザヒナが横からするっと掠う。

 「カザヒナ様がそのようなッ」

 少女は慌てたようにカザヒナの手からシュオウの着ていた物を奪おうとする。が、カザヒナは巧みに一歩下がり、するりと躱した。

 「気遣いは無用ですよ。あなたはその服を洗濯室へ。これは後から私が持っていきます」

 カザヒナは使用人の少女へ微笑んでみせる。

 「あの、でしたらついでにそれも――」

 少女は再びカザヒナの手元に手を伸ばした。

 「最近運動不足なので、このくらいは後で持って行きます。あなたはそこの二人を食堂へ案内してください」


 カザヒナはしれっとした表情で言って、少女を手で制する。

 有無を言わさぬ妙な迫力が込められたカザヒナの様子に、少女は怯えた様子で頭を下げ、サブリとハリオの二人を連れて退室した。


 「さあ、こちらへ。傷の手当てを」

 カザヒナは手に持っていたシュオウの衣服をいったん置いて、用意してあった治療用の道具一式を見せた。

 「カザヒナさんが?」

 「これでも戦場へ出る身ですから。簡単な傷の処置くらいは習得しています」


 呼ばれるままに椅子に腰かける。

 カザヒナは消毒用の薬液を清潔な布へ垂らし、シュオウの口元へ当てた。

 「いっつ」

 傷口に走った浸みるような痛みに思わず声が漏れた。

 「少し膿んでいますね。これ以上悪化する前に処置ができてよかった」


 カザヒナは慎重かつ手早く処置をすませていく。

 傷口を消毒していく工程は痛いが、最初からわかったうえでしてもらっていることなら、いくらでも我慢はできた。


 「公爵は?」

 「アミュ様でしたら、調理場であれやこれやと指示をされている頃だと思いますよ」

 カザヒナはくすりと笑む。

 「突然来て、無茶を言ったりして、迷惑に思われてないでしょうか」


 「あなたについては、迷惑だなどとはかけらも考えておられないと思います。軍へ誘っておきながら、自分の手を離れてしまい、あなたに迷惑をかけたと気にされていましたからね。……それにしても、あなたもなかなか面白い方ですね」


 カザヒナは処置を続けながら、そう言った。


 「俺が、ですか?」

 「初めて見かけたときは、とても勇ましい様子で若輩の輝士達と対していました。かと思えば、次にアミュ様と会いに行った時には、風のない日の湖面のように静かで。そして今回で三度目の対面となりますが、今のあなたはとても怯えて見える。会う度にまるで別人のように見えるのですから、これは面白いという感想を抱いたとしても無理はないと思うのですよ」


 火の入った暖炉から、パチパチと木片がはじける音が鳴った。


 返す言葉が見つからず、シュオウは黙ったまま目を逸らした。

 カザヒナの言葉の通り、今の自分は、師の下を飛び出した頃とは似てもにつかないだろうということくらいは自覚している。

 視線は前ではなく下へ向き、背骨がどこかに消えてなくなってしまったのではないかと思うほど、背中も丸い。


 アイセやシトリ達が、今の自分を見たらどう思うのだろうと考えると怖かった。きっとカザヒナと同じような感想を抱くに違いない。

 ――失望するだろうか。

 定まらない心は不安を呼び、不安は恐怖や猜疑の心を招く。

 自身の精神状態がとても不味い状態であることだけは間違いない。

 どうにかしなければと思いながらも、そこから抜け出す方法がわからなかった。


 「さて、こんなところでしょうか」

 ぼうっと考え事をしている間に、カザヒナは傷の処置を終えていた。

 傷口をそっと手で触れると、ぬるりとした感触が指先に伝わる。おそらく、軟膏のようなものを塗られたのだろう。


 「ありがとう、ございます」

 「このくらいのこと、お気になさらず」

 カザヒナはシュオウの礼を軽く受け取って、治療に使った道具を片付けた。そのまま部屋の扉に手をかけると、姿勢を正してシュオウに向き合う。


 「それでは、食堂へ案内させていただきます。過度に畏まる必要はありませんが、多少の緊張感を心のすみに置いてください。アデュレリアの当主が直々に会食の相手をする機会は、そうそうあることではありません」

 神妙な面持ちで承知した事を伝えると、扉はゆっくりと開かれた。



 案内されて、だだっ広い部屋に通される。

 部屋の中心には、大きな長方形の食卓がぽつんと置かれていた。

 机の上に一列に置かれている蝋燭が、温かい橙色の炎で机上を照らしている。

 ずらりと並べられた高そうな食器には、まだなにも載せられていなかった。


 食卓のすみで、居心地の悪そうに肩を縮めて座っているのは、サブリとハリオの二人だった。あまりにも身分違いの状況に今更萎縮してしまっているようだ。


 食卓の一番奥にちょこんと座っているのはアデュレリア公爵だった。子どもにしか見えないその小柄な体のせいで、部屋に入ってすぐには姿を見つけられなかった。


 シュオウが怯えて縮こまる、サブリとハリオの近くに座ろうとしたとき、アデュレリア公爵がそれを止めた。

 「そこでは話ができぬ。こちらへ」

 後方で待機していたカザヒナに軽く背中を押され、シュオウはアデュレリア公爵のすぐ近くの席に腰をおろした。


 「あの、色々と――」

 あらためてお礼の言葉を述べようとしたとき、アミュの小さな手の平がそれを制した。

 「礼には及ばぬ。急ぎ料理を支度させているが、まだもうしばらくかかるであろう。それまでに、事の子細を聞いておきたいが、話せるか?」

 「はい。そのためにここまで来ましたから」


 見た目には、どこからどう見ても幼い少女である目の前のアデュレリアの当主に、シュオウは起こった事、見た事聞いた事のすべてを話して聞かせた。

 アミュは黙ってシュオウの話を聞いて、時折頷いたり、考え混むような仕草をみせていた。


 「なるほど。だいたいのことは理解がいった。馬鹿なことを……」

 アミュは深く息を吐いた。

 「それで……なんとかしてもらえるんですか?」

 「それは、そなたがどうしたいかにもよる」

 「……どういう意味ですか」


 アミュのクリクリとした大きな紫色の瞳が、シュオウを正面から捉える。


 「囚われた従士達を助けたいのか。もしくは、今回の件を忘れて身の安全を保証してもらいたいのか。つまりはそういうことじゃ。それによって、こちらもどのような行動を選ぶべきかを考えねばならぬ。後者であればたやすい事。そなたの身はアデュレリアの名に賭けてかならず守りきってみせると約束しよう」


 そう聞かれて、シュオウは急に湧いてきた生唾を飲み下した。

 シュオウがここまで来た目的は、女王に囚われたヒノカジとミヤヒを救出のための力を借りるためだ。なのに、アミュにどうしたいかを改めて問われて、彼らを助けたいのだと即答できなかった事に、戸惑いを覚えていた。


 「俺は、あの人達……ヒノカジ従曹とミヤヒさんを助け出したいと思ってます。そのためにここへ来ました」

 伏し目がちに言ったシュオウの顔を覗き込むように、アミュはしばらくじっとシュオウの顔を見つめていた。


 「うむ、承知した。我の管轄外の事ではあるが、囚われた従士を取り戻すために尽力することを約束する。じゃが、一つだけ言っておかねばならない」

 もったいつけたような言い方に、シュオウは返事をして続きを促す。

 「はい」

 「言いにくいことではあるが、そなたの望んでいる事を成すのは簡単な事ではない。そうするために努力をするとは言えるが、絶対に助け出すことができるとは言えぬのが現状じゃ」


 そう聞いて、疑問を覚えた。


 「待ってください。アベンチュリンという国はムラクモに屈服している国だと、そう聞いています。そんな国が、いくら女王とはいえ、勝手にムラクモの人間を監禁して、それをこの国が黙って見過ごすなんて……」


 声を荒げるシュオウを冷静に見守り、アミュは一つ頷いた。


 「うむ、もっともじゃ。じゃがな、そなたが渡された書簡を見るに、あれは正式な文書として通じるだけの説得力を有しておる。筆跡、署名、押されている印からして、どこへ出しても真実アベンチュリン女王直筆のものであると言って通用するであろう」


 「それが?」


 「つまりじゃ、これだけの事をして、なおかつそれを公式に喧伝するような文まで書いているということは、今回の件がムラクモの上層部に知られたとしても、なんら問題はないと計算したうえで、こうした行いをしている可能性が高いということじゃ。本来であれば子どもの悪戯にはガツンとゲンコツを落としてやるところじゃが、事が一国を相手にしている場合はそう簡単にはいかぬ――カザヒナ」


 アミュは視線を後方へ流して、傍らで静かに佇んでいたカザヒナを呼んだ。

 カザヒナは一歩を前へ出て、アミュから話を引き継ぐ形で語り始めた。


 「現在のムラクモは南方、および北方諸国と国境を挟んで緊張状態にあります。各国がそれぞれの思惑で牽制し合い、戦を仕掛ける好機を狙っている。そんな状態でムラクモの内部で乱ありという情報が外へ流れれば、それを好機と見て南、北の国々が呼応して攻めてくる事も考えられます。ですが、幸いな事に北方諸国と南方諸国は宗教的な根強い対立状態にあるので、そう簡単に彼らが手を結ぶとも考えられませんが、だとしても、僅かにでも自国に不利を招くような可能性を、おそらくグエン様は嫌われるでしょう」


 聞き覚えのある名前が飛び出し、シュオウは思わず呟いていた。

 「グエン……」

 カザヒナが話を終えると、アミュが再び言葉を継いだ。


 「この国の最長老であるグエン殿を、他国の者らは影の王などと呼ぶこともある。このムラクモの黎明期より王の下に仕える生きた伝説。かの人物は有能であり、民からの信頼も厚いが、石頭で融通がきかぬ。あの方が従士二人の命と国の安定を天秤にかければ、選ぶのは間違いなく後者であろう。過敏すぎるのじゃ、あの方は。いつも些細な事を気にかけ、それを理由に進むべき時にでも足を止めてしまう」


 「そんな……それじゃあ」

 絶望の淵がちらつき、顔から血の気が引いていく。


 「そんな顔をするな。状況はすべてにおいて不利というわけではない。このムラクモでは年に数度、四つの燦光石を持つ人間が集い、内々に国事を協議する四石会議というものが存在する。多くは国の行く末や、大きな決定事への事前の調整が主ではあるが、そこで出される議題になんら制限はない。我は今回の話を、その場で出してみようと思うておる」


 カザヒナが焦った様子で言葉を挟んだ。

 「閣下、ですがそれでは――」


 「みなまで言うな。現在ムラクモの王座は空位。次期継承者である王女殿下は未だ天青石をお継ぎになられていない。つまり、我を含め、会議への出席者は血星石のグエン殿、そして忌々しい蛇紋石のサーペンティア一族の当主。この三名で話し合いがされている。先に言っておくが、アデュレリアとサーペンティアは犬猿の仲じゃ。我がなにかを提案したとて、あのハゲ頭はとくに考えることもせず反対側に回るであろう」


 アミュは苦虫を百回は噛み砕いたような顔でそう言った。


 「でも、それじゃ結局」

 「そうじゃ。グエン殿の賛同を得なければならないのは同じ事。どのみちあの方を口説かねば解決策は引き出せぬ」


 無理なことをしようとしている。そう思ったが、アミュの表情は思いの外晴れやかなものだった。


 「心配するな、とまで言えぬが、こちらにもそれなりに策はある。正道ばかりが世の常ではない。そのための手段を惜しむつもりはないからな。会議は三名の都合が合致する時期を見計らって行われる。そして都合の良い事に、次の四石会議は明日の深夜の集合となっておる。その点でいえば、運はまだそなたを見放してはおらぬようじゃな」


 シュオウにはもはや頷くことしかできない。アミュが何をしようとしているのか、その結果がどうなるのか、シュオウの主観ではすべてが闇の中であり、そこから抜け出すための小さな灯火すら見いだすことができないのだ。


 まるで話に一段落つくのを待っていたかのように、粛々と豪勢な料理が運ばれてきた。

 見た事もないような高そうな素材が使われた汁物。まるまると太り、香ばしく焼き上げられた魚や肉料理が所狭しと並べられる。よく見ると、食卓の中央には時期外れの甘い果物までが豪勢に皿に盛りつけられていた。外国から取り寄せたのだとしたら、これだけでも相当値が張るに違いない。


 これだけの歓待に、すっかり怯えきっているのではないかとサブリとハリオの様子を探ってみたが、二人ともさきほどまでの様子が嘘のように目を見開いて豪華な食事にがっついていた。

 気楽なものだと愚痴の一つも言いたくなったが、一心不乱にむしゃぶりつく幸せそうな二人の様子に、僅かながら癒されるような心地もした。


 「当家がこの別邸でなせる最高の食事を用意させたつもりじゃ。遠慮はいらぬ、好きなだけ腹に放り込むがよい」

 アミュはそう言いながら、皿に取り分けられた料理に品良く箸を伸ばした。

 「……いただきます」


 一番近くにあった肉料理を口に頬張る。甘やかな上品な味付けと、ほどよく油を含んだ良質な肉だ。本来なら頬が落ちるほど旨いのだろうが、いくら噛んでも野草をそのまま噛み砕いているような味気なさしか感じない。


 ――美味しくない。


 そうした感覚は、なにを食べても変わることはなかった。

 頭の中は囚われている二人の事でいっぱいになっている。

 アベンチュリン女王の、あの横暴な振る舞いを見る限り、きっとろくに食事も与えられていないはず。そう思うと、どうして自分だけが安全な場所で美味しく料理をいただけるのだろうと、ばつの悪さが胃袋を鷲掴みにするのだ。


 


 夜更けに、ふと目が覚めた。

 食後に案内された客用の寝室で、大きなベッドに体を横たえてからどれだけの時間がたっただろう。


 とめどなく溢れてくる雑多な考え事と、浅い眠りに訪れる一時の夢とも区別がつかない時間をすごしているうちに、時間の感覚がわからなくなってしまった。


 暖炉の炎は消えかかり、真冬の夜の冷たい空気が指先の動きをわずかに鈍らせている。

 少しでも眠りたいという意思とは逆に、目蓋は時間が経過するほどに軽くなっていく。

 なにもせずにいる一人きりの時間が、途方もなく息苦しい。


 ここ数日ですっかりくたびれてしまった革靴を履いて、シュオウは一人冷たい廊下へ歩を進めた。

 邸で働く人々の姿はない。皆が寝静まった頃なのか、周囲からは物音一つ聞こえなかった。


 自らの足音だけを耳に入れながら、ふらふらと邸内を歩いているうち、雪の降り積もる庭園までたどりついていた。


 風もほとんどない雪の降る夜。

 月明かりもないのに、純白の冷たい絨毯は、ぼんやりと夜の庭園を白光で照らしている。


 広い庭園の中央にある屋根のついたテラスが目に止まった。

 風がないためか、そこだけほとんど雪も当たっておらず、石造りの長椅子が、ここで休んでいけといわんばかりにシュオウの目を惹いた。


 寒さで氷のように冷やされた椅子に腰かけても、それを苦痛には思わなかった。

 ひんやりと硬い感触に背を預けて、ふゆふゆと降りてくる雪をじっと眺める。そうしていると、現実感が失われ、幻想の世界を垣間見ているような心地に囚われた。

 非現実的な世界に迷い込んでしまったかのような感覚が、今の自分にとってはなんともいえず心地良い。


 唐突に感じた人の気配が、シュオウを現実に引き戻した。


 「眠れぬか?」

 ふかふかした紫色の外套に身を包み、そう声をかけてきたのはこの邸の主であった。

 「そうみたいです」

 「他人事のように言うのじゃな」


 アミュは自身の小さな体を放り込むようにして、シュオウのすぐ側に腰かけた。


 「どうして、自分がここにいるのかわからなくなります。もっと色んな事を知りたいと思って旅に出た。そうするための第一歩を踏んで、それを無事にこなすこともできた。それでまた次の一歩を踏み出した、そう思っていたんです。だけど――」


 「踏み出した足が雲でも踏みつけたような気がするか? そう言われると、そなたをこちら側へ引き込んだ我の責任ということになるのであろうな。嘘偽りなく、申し訳なくおもうておる」


 アミュが叱られた子どものような表情でそう言ったので、シュオウは狼狽した。


 「いや……自分で決めたことですから、誰かのせいだとか、そんなことは思ってないです。そういう事だけじゃなくて、色々とわからないことが多くて」

 「わからないこと、か。よければ話してみよ。こう見えてそれなりに長く生きている。出せる答えもあるかもしれぬぞ」


 アミュは手の平に、はあっと温かい息を吹きかけた。


 「もやもやとしていてはっきりしない事が多いんです。たとえば、アベンチュリンの女王の事。あの人が多くの人を統べるような立場にある事はわかっている。けど、今回あの人がしたことにいったいなんの意味があるんですか。かなえてほしい要求があるのだとしても、今回のような乱暴なやりかたを通して、相手がそれを鵜呑みにすると本当に思っているんでしょうか」


 「細かな事情はわからぬが、少なくとも要求が通ると思ってしたことではないのかもしれぬ。ムラクモは他国からの要求をさらりと飲むようなお人好しな国ではない。我が国の従士を捕らえた場に、自国民を集めて見せ物のような事をしていたことから考えるに、強い女王の姿を見せるためにやった芝居のむきもあるのじゃろう。じゃが、それだけが理由なら、公式に通用するような書簡を持たせてまでそなたを解放した事への疑念は晴れぬがな」


 「他に目的があるということですか」

 シュオウの問いかけに、アミュは口元を引き締めて答えた。


 「であろうな。フェイ女王を遊び人の愚か者とみる風潮は根強いが、我はそこまであの者を過小評価はしていない。先王が崩御した際に、男系王族への石の継承を強く訴える家臣達を黙らせ、乱をおこすことなく早々に玉座についた手腕は評価しておる。……これは我の勝手な想像であるが、女王は量っているのではないかと推測しておる」


 「……いったいなにを?」


 「アベンチュリンという子の悪さを、ムラクモという親がどこまで許すのか。今回のようなあまりにも無茶な事を平然とやってのけたのを、我が国の近隣諸国間との不安定な情勢をみこしたうえでしている事だとすれば、まったくの無策というわけでもない。たとえそれがムラクモにとって些末な出来事であったにせよ、足場がゆるんでいると見られれば、他国は士気高く我らの領土を侵犯するやもしれぬ。であればこそ、今回のような子の悪戯にはしかたなしに目をつむる必要もある。この件がすんなりと軍の上層部に知られていたとしても、黙殺されていた可能性が高い。そうなれば今度、どの程度の悪戯をムラクモが許容するかの指標ともなるであろう。まあ、ほとんどが我の個人的な想像ゆえ、確実にそうだという話ではないがな」


 アミュの話を聞いたシュオウは、小さく息を吐き出した。

 「そんなことのために……」


 「この世界の国主すべてがそうだというわけではないが、政などというものは、そうした地味な事の繰り返しじゃ。的外れな事をする者も少なくはないがの。件の女王にしても、ただの暇つぶしで事を起こした可能性も捨てきれぬ」


 シュオウは視線を泳がせた。

 「まだ何かすっきりとしない顔をしておるな。そんなにフェイ女王の事が気にかかるか」

 「それは、別にもう。ただ、あのときの……」


 ふいに、いくつもの顔が頭をよぎった。

 考えないようにしていた事。思い出さないようにしていた事。

 今まで見た事もないような醜い表情で、暴行されるヒノカジを罵っていたアベンチュリンの民。彼らの血走った目が、今も頭から離れない。


 シュオウの様子を不思議に思ったアミュは気遣うように聞いた。

 「どうした」

 「顔です」

 「顔、とは?」

 シュオウは下唇を噛みしめた。


 「血走った目や歪んだ口元。痛めつけられる人を見て、喜んでいた人々の……。わからないんです、ただ無抵抗に嬲られていた従曹を見て、どうしてあんなに興奮して、喜んで、楽しんでいられるのかッ」

 語尾を投げ捨てるように言って、シュオウは立ち上がってアミュに背を向けた。

 今の自分の顔は、きっと泣きじゃくる幼子のように情けない顔をしている。そんな所を見られたくはなかった。


 「随分とよくないものを見たようじゃな。しかしな、その者達の気持ちも多少なりと理解はできる」

 アミュの言葉に、シュオウは慌てて振り返る。

 「苦しんでいる人を見て笑っていられるような人達の事をですか」

 シュオウの言いようには、わずかながら挑発的な色が混じっていた。


 「加虐的な行為を見て愉悦を覚えるのも、人の持つ一面でもあるのじゃ。そうと知っていれば納得はいかずとも理解はできる。その場にいたアベンチュリンの民らも、なにも元々が残虐な行いを見て喜びを感じるような趣味は持ち合わせておるまい。彼らがそれほど熱狂しておったのは、ムラクモの国民が傷つけられていたからこその事であろう」


 「どういうことですか」


 「事の始まりはムラクモがアベンチュリンを征服した頃まで遡る。この国は圧倒的な武力でアベンチュリンを手中にしておきながらも、奇妙な事に主権を奪うことをしなかった。まるで生殺しのように、彼らから軍事力だけを取り上げ、律儀に生ぬるい税だけはきっちりと納めさせた。宗主国と属国という関係は長く続き、そなたの知っている通り、今もってなおその関係は維持されておる。自国を守る力をなんら持たず、それでいて税は徴収される。そうしたことからアベンチュリンの国民は潜在的にムラクモに対して劣等感を抱くようになった。自分達の身の不幸はすべて悪辣なる宗主国ムラクモのせいだと決めつけるような傾向が目立つようになり、憎しみの感情は止めどなく膨れ続ける――」


 アミュは一度区切って、憂いを帯びた表情で息を吐いた。


 「――そもそもは、アベンチュリンを制した時に自国の一部として組み入れてしまえばよかったのじゃ。ムラクモはアベンチュリンに対して、柔軟ではないが、けして無理のない税の徴収しかしていない。その負担はむしろムラクモの国民よりずっと少ないくらいなのじゃが、小さな世界で生きている彼らにはそれが理解できんのかもしれん。あの女王はアベンチュリン国民の抱える根深い不満を利用し、自分の政に対する国民の鬱憤の捌け口として利用したのであろう。さながら、ムラクモの国民を痛めつけ苦しめる女王のは姿は、救世主のようにも見えたかもしれぬな」


 「あの人達も苦しんでいる、だから許せということですか」

 アミュはシュオウの言葉に、くすりと笑む。だが、それは決して馬鹿にしたり、見下すようなものではなかった。


 「許す許さないの問題ではない。理解し、それを頭に置いておくことができるかどうかじゃ。それが出来ていれば、少なくとも今のそなたのような状態にはならぬであろうな」


 アミュは小さな腕を伸ばし、シュオウの頬を小さく弾いて微笑みを浮かべた。

 シュオウは弾かれた頬に触れながら、小声で答えた。

 「そうできるようになるでしょうか」


 「若いうちは心で物事を考える。じゃが、年をとるにつれ、次第に人は経験や蓄えた知識で行動を決めるようになる。そなたが望まずとも、いつかはそうなるであろう。想い悩むのは若者の特権のようなもの。恥じる事なく存分に苦悩するがよい」


 アミュは勢いよく立ち上がった。


 「ここらでお開きとしよう。そなたには心外かもしれぬが、我にとっては楽しい時間であった。礼を言うぞ」

 立ち去ろうとするアミュを見送りながら、シュオウは咄嗟に声をあげた。

 「こっちこそ。押しかけたあげくに、話まで」

 「よい」

 そう言い残して、アミュは建物の中へと消えていった。


 再び、庭には自分以外の誰もいない静寂の場へと戻った。

 時間にすれば、話をしていたのはほんの一時の間。それでも、アミュと話をする前までの心にかかった霧は少し薄くなったような気もする。


 手すりにふっくらとたまった雪を手に取り、硬く握りしめた雪玉を目標もなく放り投げた。雪の塊は白い絨毯に吸い込まれるように消えて、わずかに暗い足跡を残した。

 シュオウは、来た時より僅かに軽くなった足取りで自室へと引き上げた。




 「起きてください」

 優しげな声と、体を揺する手に起こされた。

 開くのもやっとというほど重たい目蓋を持ち上げると、パリっとした輝士服に身を包んだカザヒナがこちらを覗き込んでいた。


 「カザヒナ、さん?」

 シュオウは鈍重な動作で体を起こした。

 外はまだ暗い。

 眠りについてからたいして時間もたたないうちに起こされたのだろうかと、訝しく思った。


 「なにかあったんですか」

 カザヒナは神妙な顔つきで頷いた。

 「先日お話しした通り、会議の時間が近づいています。アミュ様はぎりぎりまで寝かせておいてやれとおっしゃっていたのですが、流石にまる一日なにも食べていないのでは辛いのではないかと思いまして、少し余裕をもって起こさせてもらいました」


 「まる……一日って、それじゃあ今は」

 シュオウは跳ねるようにベッドから飛び出した。


 「大丈夫ですよ。アミュ様は今朝方より秘密裏にグエン様と事前交渉をされ、無事に終えています。詳しい事は私も聞かされていませんが、アミュ様がおっしゃるには、状況はそれほど悪くはないようです。ただ、グエン様の提示した条件として、今回の件を会議の場で直接当事者からの報告を聞いて、最終判断を下す事になったそうなので、寝耳に水の事でしょうが、あなたには急遽、四石会議への出頭命令が出されました。時間にはまだ少し余裕があります。従士服は綺麗にして乾燥もすんでいますので、それを着て、軽く食事をすませておいたほうがいいでしょう」


 突然降って湧いた役割に緊張を覚えながら、シュオウは迅速に支度を整えた。

 言われた通り、卸したてのように綺麗になった従士服を着ると、簡単な食事というわりには随分と質も量も高級な食事を、ほんの少しだけ無理矢理飲み下す。

 そうしている間に、会議の行われる水晶宮へ向かうため、邸を出なければならない時間はあっというまにやってきた。


 庭に用意されていた馬車に乗り込むと、先客がいた。

 「よく寝ていたな。そなたがあまりにもじっとして動かぬゆえ、朝食を運んだ者が慌てておったぞ」

 アミュはそうちゃかすように軽く言った。


 「疲れているときに寝ると、なかなか起きられなくて」

 「顔色を見るに、十分に回復できたようじゃな。話はカザヒナより聞いていると思うが、そなたにはグエン殿に直接事の詳細を報告する必要ができてしもうた。出来るか?」


 そう聞かれ、シュオウは即答する。

 「大丈夫です」

 「うむ。では向かおう」


 アミュは馬車の外で騎乗していたカザヒナに手で合図を送る。が、カザヒナは出立の指示を出さずに馬を降り、アミュの顔近くで小声で告げた。


 「閣下、四石会議の場にサーペンティア公爵の付き添いとして、ジェダ・サーペンティアが同席するとの報告が今し方入りました」

 そう聞かされたアミュの表情が瞬時に凍りつく。

 「不愉快じゃ。あれの顔を目に入れなければならぬとはな」

 「いかがなさいますか」

 「どうすることもできまい。今回にかぎっては優先すべき事が他にある」


 カザヒナは了解を告げ、馬上に戻って御者に出立を指示した。

 すぐにカラコロと音をたてながら、馬車は水晶宮へ向かって進み始めた。

 向かい合うアミュの表情は、怒りや不愉快を存分に溜め込んでいるように見える。僅かな間にここまで人の心を沈ませたのが、いったいどんな人物であるのか気になって、シュオウは率直に聞いてみることにした。


 「誰ですか?」

 顔をあげたアミュは、小さく息を吐いてそれに答える。


 「ジェダ・サーペンティア。蛇紋石を継ぐサーペンティア当主の末子であり、右硬軍の輝士でもある。それなりに優秀であることは認めるが、あの者は血肉を好む。敵兵を殺す手段が残虐きわまりなくてな、悪名と共にその名を知る者も多く、血なまぐさい噂話も後を絶たぬ。蛇紋石と顔を合わせるというだけで十分すぎるほど不愉快だというのに、加えて血臭の漂うあのような者まで同席するとはな。……こちらが不快に思うと知っていてわざとしているのではないかと勘ぐりたくもなる。優れた人物は出自を問わず好むところじゃが、血を浴びて笑いながら殺戮を楽しむような人間は、その範疇ではない」


 話を聞いただけで、アミュがこれほど不快感をあらわにするのに十分納得がいった。

 シュオウとしても関わり合いたいとは微塵も思わない人物だ。


 「同席を拒否することはできないんですか」


 「できぬな。四石会議では、それぞれの副官、もしくは従者一名の同席が許されておる。ジェダ・サーペンティアが同席するという報が入ったということは、すでにグエン殿も承知済のことであろう。であれば言うだけ無駄なことじゃ。まあ、そなたが気にする事でもない。かの者は狂い人というわけではないからな。ただ我にとっては、視界に入れるのも不愉快だというだけの話じゃ」


 「そうですか」


 続けて会議での振る舞いや、何を重点的に話すべきかなどの相談をしているうち、馬車は長い橋を越えて水晶宮に到着した。

 時刻は深夜にさしかかる頃。馬車を迎えた衛兵達の顔も、どこか薄惚けて見える。

 ヒノカジ達が囚われてからすでに七日目を迎えた事になるはず。

 日の出を迎え、もう一度夜が訪れた時、おそらく砂時計の砂はすべて落ちているだろう。


 ――もう時間がない。



 水晶宮の中は穏やかな夜光石の灯りに包まれていた。

 アベンチュリンの城で見たような高価な宝飾品が所々飾られてはいるが、各々が邪魔にならない程度に品良く飾られているくらいで、むしろ目に心地良い。

 長い階段をいくつも昇り、上階に設けられた会議用の部屋へアミュと共に入室した。

 その瞬間に、シュオウは肌に突き刺さるような緊張感を感じた。


 広いとはいえない小さな部屋に用意された円卓。中央の奥に鎮座する人物を見た。

 獅子の体躯と猛禽の顔面、豹のように鋭い目をした白髪の老人。手にある輝石の色は赤黒く、異様な色味を発している。


 一度だけ遠目に見たことがあるその人物は、巨木のように微動だにせず、そこに居た。

 ――吸血公。

 いつか聞いた呼び名が咄嗟に頭に浮かんだ。


 視線を横に滑らせると、落ち着きなく目を動かしているハゲ頭の中年男が居た。手の甲で光る明緑色の輝石が、おそらく蛇紋石と呼ばれる燦光石であろう。

 この人物も、シュオウは一度だけその目で見た記憶がある。アミュがその口で語るときにいつも憎々しげに表情を歪める、サーペンティア公爵だ。


 サーペンティア公爵は病人のように背を曲げて、値踏みするようにシュオウをギョロギョロと睨みつけていた。

 例えようのない嫌悪感を覚えたシュオウが彼から視線を逸らすと、サーペンティア公爵の後ろに佇んでいた人物と目があった。


 淡い黄緑色の長く伸ばした髪。切れ長の瞳にほっそりとしたしなやかな体。顔の造形は女神を模した芸術作品のように美しい。一瞬の間、シュオウは呼吸も忘れてその姿に見入った。だが――

 「僕の顔になにかついているのかな」

 見た目からはまったく想像も付かないような、どっしりとした野太い声だった。その衝撃に、おもわず後ずさりそうになってしまったのをどうにか堪える。


 「別に……」

 戸惑うシュオウは、そう返すのが精一杯だった。

 「ジェダ、ここをどこだと思っている。許可無く口を開くな」

 サーペンティア公爵がすかさず注意を促すと、ジェダと呼ばれた美青年はシュオウに一瞬微笑みかけて、一礼して口を閉ざした。


 ――ジェダ?

 サーペンティア公爵が呼んだ名を聞いて、ここへ来る途中に聞いた話を思い出したが、そのときに語られていたジェダ・サーペンティアという人物と、目の前にいる絶世の美女としか形容できない男が、とても同一人物だとは思えなかった。


 やや遅れてカザヒナが入室し、シュオウから見て左側に着席したアミュの後ろに佇むと、扉は静かに閉じられた。

 「いくつか決めなければならない事があるが、まずはアデュレリア公爵から提案された事案について片付けてしまいたい」


 重々しい語り口で、グエンが口火を切った。


 「その事ですが、私が本件を耳に入れたのはつい今し方の事。思案の時間もあたえられず、急に答えを求められるような状況は、あまり愉快とはいえませんな。せめてもう少し早く知らせてはいただけませんでしたか」


 サーペンティア公爵が上擦った声でそう言った。


 「そちらが王都へ入ったのは夜が更けてからのことであろう。それより以前にどうして伝えることができるというのか。こちらは出来るかぎりの配慮をしたつもりじゃ」


 アミュが不機嫌に言うと、サーペンティア公爵は目尻をぴくんと震わせた。


 「事前報告が遅れた事と別に、由緒ある四石会議の場に、このような下級の従士を同席させる事などあってはならないことです。聞けば、今回の話を持ち込んだ従士だとか。証言のために連れてこられたのでしょうが、私としては神聖な場が汚された心地です。グエン様も同様の思いなのではありますまいか」


 サーペンティア公爵は部屋の入口で所在なく佇むシュオウを一瞥した後、グエンに訴えかけるように顔を向けた。


 「曇りのない情報を聞いて判断するために、当事者への出頭を命じたのはこの私だ」

 グエンにそう聞かされたサーペンティア公爵は焦ったように早口でまくしたてる。

 「あ、い、いや、そういうことでしたら私としても、その、とくに不都合があるというわけでは」


 しだいに小さくなっていく背を黙って見ていたシュオウには、この人物が本当にこの国の大貴族であるのか疑わしく思えてきた。

 「サーペンティア公は納得した様子。そろそろ話を進めてはいかがか。我々が一堂に会する事の出来る時間はかぎられている」

 アミュがそう促すと、グエンは静かに頷いた。

 「異存はない。従士、発言を許可する。この度の一件の経緯を報告しろ」

 「……はい」


 シュオウはグエンにそう返し、一言ずつ慎重に言葉を選びながら、経験したことを語った。

 シワス砦へアベンチュリンの王子が来訪した事。アベンチュリンへの道中に立ち寄った宿の事。そして、アベンチュリンの城であった、女王の行いの数々と発言。

 すべてを報告し終えた時、グエンは目蓋を落とし、なにかを考え混んでいるように黙りこくっていた。


 そうした静寂がしばらく続き、堪えきれなくなったアミュが声をあげる。

 「我が軍の、そしてムラクモの国民が、理不尽な理由により監禁状態におかれている。その命にあたえられた制限時間は、こうしている間にも減り続けておる。早急に解決への手段を考えるべきであろう」


 サーペンティア公爵が、その発言に対して異論を唱えた。


 「お待ちいただきたい。この一件、そもそもが始まりからして不確かな事が多すぎます。いくらあの女王とはいえ、なんの脈絡もなしに我が国の兵に手を出すようなことをするでしょうか。この話が事実であるとすれば、かの砂金石のしでかしたことはムラクモに対する謀反に等しい。おそらく、女王からのものであろうという不確かな親書と、国籍もよくわかないような怪しい従士の報告だけで、すべてを事実として取り扱うのは危険ではありませんか」


 サーペンティア公爵の言を受け、アミュは眉間に皺を寄せて反論した。

 「言葉を慎むがよい、この者はれっきとしたムラクモの従士であるぞ」


 「そのくすんだ灰髪を見て、簡単に納得するようであれば、私は爵位を捨て隠居の身にならねばなりませんな。この者、どこをどう見ても、北国の出ではありませんか。私とて、今回の報告をあげてきた人間が十年、二十年と軍に仕えた人間であったなら、その言葉に疑いを持つようなことはしません。ですが、出身地も曖昧なうえ、軍に入って間もない一従士の言葉を鵜呑みにはできません。まずは、シワス砦への調査団を派遣し、アベンチュリンへ正式な使者を立てて真実を確認。そして、その従士の身元調査の実行を提案致します」


 地の底から這い出てきた蛇のような狡猾な瞳がシュオウを捉えた。

 アミュの小さな握り拳が、円卓を思い切り叩きつける。

 「時間がないと言うたのをもう忘れおったか、この蛇頭ッ!」


 「なッ……と、取り消していただきたい。私はただ慎重に事をはこぶべきであるという当たり前の事を言っているだけです!」


 サーペンティア公爵も、興奮した様子でつるつるの頭を押さえながらまくしたてた。


 「ふんッ。いくらか昔、宮内で道に迷って泣きべそをかいていたそなたには、まだ可愛げというものがあったがな。あの時手をさしのべてやった恩も忘れ、我の言うことにいちいち異論を唱えるのは、いささか恩知らずというものではないのか」


 「そのような大昔の事を……今思い出しましたが、あの時、まだ小さな子どもだった私の手を引いて、凍える地下倉庫に置き去りにしたのは、誰でもないあなたではありませんかッ」


 サーペンティア公爵は恨みのこもった視線をアミュに送りつけた。


 「はて、そのような昔の事は忘れてしもうた。なにか別の人物からされたことと混同しておるのであろう」

 アミュは冷めた表情で顔をそらした。


 過去の事で子どもの喧嘩のように言い合う二人。その姿は人間味に溢れ、特別な爵位や階級を持っている者でも、やはり根本の部分では普通の人々とそう違いはないのだということを教えてくれるが、その二人を仲裁する、人間味のかけらも感じさせない淡泊な声が響くと、部屋には再び厳粛な空気が戻った。


 「お二方とも、昔をなつかしむのはそのくらいに」

 グエンが手をかるくあげて制すると、二人の公爵は途端におとなしく口をつぐんだ。


 「まず、今回の件がすべて事実であるということで話を進める。そう仮定するだけの材料は十分であると判断している」

 グエンが言うと、アミュは大きく頷いた。


 「ムラクモの従士を偽るような形で招き、暴行を加えたうえで監禁した。そのうえで捕らえた従士の命を盾にして都合の良い要求をつきつけた。この事自体はれっきとした反逆行為。かの国を支配下におくムラクモとしては、相応の対処を考えなければならないところだが、私は現状では見過ごすのが妥当であると考えている」


 グエンの言葉に、心臓が跳ねた。胃に重しがつけられたように不安が押し寄せる。

 「待ってくださいッ! それじゃあ仲間を見捨てるつもりですか!」

 抑えがきかず、シュオウは必死の形相でグエンを怒鳴りつけていた。

 「貴様、誰に向かって――」

 サーペンティア公爵がシュオウを怒鳴りつけようと腰を浮かしたが、グエンがそれを押さえた。


 「従士となって日が浅い者にはわからん事かもしれないが、北、南の諸国とムラクモの間には緊張状態が長く続いている。とくに南側とはここ数年で小競り合いの数も増加している。このような状況下で、アベンチュリンになんらかの制裁を加えるような事をすれば、ムラクモの足下が揺らいでいると、相手国の開戦を望む者達を勢いづかせる結果を招く恐れがある」


 あくまでも冷静さを崩さないグエンに、シュオウは強く反論した。


 「戦えばいい! ムラクモは強国なんでしょう」

 強く睨め付けて言ったシュオウに対して、グエンの視線がわずかに力を帯びた。


 「戦えば多くの国民は命を落とす。蓄えてきた金は消費され、食料は無尽蔵に失われる。ムラクモと境界を面している相手は一つではない。南が攻め込んでくれば、好機とみて北も動きを共にする可能性が高まる。絶対に勝てるという状況ではない時に自ら進んで戦をはじめるのは愚者の行い。今回のアベンチュリンに纏わる話は、その始まりからすべてを封殺する。我が国の従士が許可なく他国へ侵入した事。無様にも罠にかかり囚われの身になったこと。そして我々がそれを知りつつアベンチュリンへの制裁をなんら行わない事を」


 「すべてなかったことにするつもりですか」

 「然り」


 グエンからは感情の揺らぎを一切感じ取ることができなかった。

 どこか超然とした態度を貫くグエンに対して、シュオウの心は苛立ちはじめていた。


 「囚われた二人を見捨てろというんですか。彼らが濁石持ちの平民だから」


 「石の色などどうでもいいことだ。私が案ずるのは、この国を支える多くの民の未来の安寧。物事には優先順位というものがある。二人のムラクモ国民がフェイ女王の軽挙により命を失うのは残念に思うが、その救出のために今のムラクモが腰をあげることは、国益を大きく損なうことになると私が判断している」


 「それじゃあ……」

 「問うてばかりいるが、お前はなにを望んでここにいる」

 突然のグエンの問いかけに、シュオウはたじろいだ。

 「なにをって……それは、あの二人を助けてほしくて……」


 「そうするつもりがないことはすでに話した。囚われた者達の命は救えないが、お前の身の安全は保証しよう。本来であれば当分の間は監視をつけて軟禁しておきたいところだが、特別に事の詳細を黙っている事と引き替えに、王都での仕事と住まい、生活にこまらないだけの金を支給しよう。軍をやめ新しい事を始めたいというのであれば、支度金の用意も検討する」


 シュオウの身分ではありえないような厚遇だった。

 グエンの話を聞く限り、本来は口止めのため、シワス砦でそうされたように幽閉されていてもおかしくはない。なのに、これだけの良い条件を提示されているのは、アデュレリア公爵との関わりがあるためなのだろうか。


 この申し出を受けるべきだ。頭の中で繰り返される声はそう言っている。

 すべてを忘れ、新たな地で再出発ができる。金の心配も住む所の心配もなく、あの退屈なシワス砦からも縁を切ることが出来るのだ。


 石ころをつめこんだように重たい胃の上に手を当てると、グググ、と自分にしか聞こえない程度の小さな音で、腹の虫が鳴いた。


 手を伸ばせば届く所に、安全でより良い未来がそこにある。


 シュオウは自嘲するように鼻で笑った。

 ――出来るわけがない。

 ほんの少し首を動かして見た先には、心配そうにこちらを窺うカザヒナとアミュの姿があった。


 シュオウは覚悟を決めて、正面からグエンを見た。

 「お断りします」

 この時、グエンは初めて眉根を寄せて不可解そうな表情を見せた。


 「なぜだ。これ以上の条件はないはず。シワス砦に配属されてまだ日も浅いだろう。囚われた者達への情もさほどないはず。それでも見捨てる事に抵抗を感じるか」


 シュオウは揺るぎない視線でグエンを見据えて、言った。

 「食べ物が、まずいんです」

 緊張した空気が消し飛んでしまうほどの間の抜けた発言。部屋にいるすべての人間が、呆気にとられた様子でシュオウを見つめた。


 「なにを――」

 「あの二人が囚われて、その命を背負わされた時から、なにを食べても土を噛んでいるみたいに味がないし、なにを飲んでも乾きが癒されない。こんな不快な状態のまま生きていくのは嫌です。だから二人を助けるために力を貸してください。どうしてもダメだというなら、自分一人でもアベンチュリンへ戻ります」


 グエンは目元を脱力させ、小さく笑みを漏らした。

 「ふッ――」

 瞬き一回分にも満たない僅かな間、グエンはたしかに表情を緩めた。その様子を驚いたように、二人の公爵が凝視していた。


 「――飯が不味くなるから、この私に考えを曲げろと言うのか」

 シュオウはためらいなく頷いた。

 グエンは視線をアミュへと流す。見間違えでなければ、微かにアミュがグエンに対して頷いてみせたように見えた。


 グエンが、紙を――と言うと、サーペンティア公爵は不満げに言った。

 「グエン様、まさか……」

 グエンはさらさらと手慣れた様子で文字を書いていく。

 「監禁されている従士達の解放、そして本件を口外しない事を条件に、遅れている食料引き渡し分の期間延長を認める。その分、税を納める民の負担にならないよう、分納も特別に許可しよう」


 「……え?」

 急に態度を変えたグエンに、シュオウは言葉を失った。

 「ただし、事が大袈裟になることを避けるために使節の派遣はしない。アベンチュリン女王より砂城へ戻る事が許されている者のみで、この親書を届ける事が最低条件だ」

 つまり、渡された書簡に対する返事を持って戻ることを命じられたシュオウただ一人で、事を成せと言っている。


 「行きます」

 当然の如く、シュオウはこの条件を了承した。

 「さらに、この場において元帥たるこの身に対して反抗的な態度をとったこと、許可なくムラクモ軍人として越境したことの罪と合わせて、シワス砦での任務を解除し、当面のあいだ謹慎を命令する。この親書を受けとった時点で、これらの事を了承したものとみなす」


 グエンは言って、三つ折りにした薄っぺらい親書を差し出した。

 シュオウはそれを受け取るために一歩ずつ歩を進めた。

 自身になんら不徳がないにもかかわらず、罰を与えられる事に不満も抱いたが、それだけの事でヒノカジ達を助ける事ができるのなら、安いものだと思えた。


 「預かります」

 シュオウはグエンの目の前で親書を受け取った。

 「お待ちください」

 アミュが立ち上がり、シュオウの受け取った親書の中身を確認した。


 「氷長石殿、なにか不都合があろうか」

 「文面にはとくに。ただ、一国を相手にした約定書としては、この紙切れ一枚ではいささか信憑性に欠きましょう。許可をいただけるなら、アデュレリア当主の名にて一筆添えたいと思いますが、いかがか」


 「……許可しよう」

 グエンが了承を伝えるとアミュは頷いてさらに続けた。

 「もう一つ、提案があります」

 「聞こう」

 「この従士が帰還した後の謹慎期間中は、アデュレリアで身柄を預からせていただきたい」

 この申し出に過敏に反応したのはサーペンティア公爵だった。

 「グエン殿は処罰として謹慎を申し渡したはず、ケジメとして地下牢にでも押し込めておくのが妥当でありましょう」


 「無駄なことじゃ。働き盛りの若い者を狭い場所へ押し込めておくくらいなら、我が領地にて雑用でもさせておいたほうがましじゃろう」

 「雑用係を欲するほど、アデュレリアが人材に困窮しているとは知りませんでした。あなたの本当の目的はなんなのです」


 「どういう意味か」


 「この従士に随分と目をかけておられるご様子。アデュレリアはここのところ人材の収集に躍起になっていると、サーペンティア領内にも噂は聞こえてきます。つい最近も、王都の有能な鍛冶職人を一族丸ごとアデュレリアへ引き抜いたそうではありませんか」


 「アデュレリアは質の良い鉱石を得やすいうえ、王都より地価も安い。ただそれだけの事であろう。この従士に縁があるのは事実であるが、かくたる証拠もないのに意図的に有能な者を手元に集めているかのような物言いは不愉快じゃ」


 アミュは氷のように冷めた瞳でサーペンティア公爵を睨んだ。

 両公爵の鼻息が荒くなってきた頃、グエンが一人冷静な声音で告げた。


 「氷長石殿の提案を受け入れる。従士の次の配属を決めるまでの間、身柄はアデュレリアの管理下におくことにする」

 アミュは素早く居直り礼を言った。

 「感謝します。それと、今回の件の元々の原因を作ったシワス砦の責任者であるコレン・タールにも相応の処分をくだすべきでありましょう。非公式にでも許可をいただければ、左硬軍ですべて片付けますが」

 「……まかせよう」


 グエンの書いた親書を受け取ったシュオウは退室を命じられた。

 部屋から出ていく寸前、グエンはシュオウを呼び止めた。

 「従士、生きていれば飯が不味くなるような事はいくらでも身にふりかかる。それを忘れるな」

 説教めいた発言をして、グエンは出ていけ、と手を振った。

 最後に小さく礼をして、シュオウは会議部屋の戸を閉めた。




 「シュオウは」

 四石会議を終えて、水晶宮の出口へ向かう途中、アミュはシュオウの所在をカザヒナに尋ねた。

 「入口で待たせてあります」


 深夜ということもあって宮内は人気もなく静かだ。

 階段を下りて入り組んだ廊下を歩く。

 アミュの小さな歩幅に合わせるため、カザヒナは歩く速度を極端に落としていた。


 「それにしても、グエン様が笑顔をお見せになった事には驚きました。軍に入ってからあの方が表情を崩されるのを見たのはこれが初めてかもしれません」

 「我も同じじゃ。長いことあの仏頂面を拝んできたが、一瞬でもグエン殿が笑ったという記憶がとんと浮かばぬ。あの蛇頭も大層驚いておったな」


 ほんの一瞬の出来事ではあったが、グエンが吹き出したように笑ってみせたことは、彼を知る人間からすれば月が落ちてくる事に等しいほどの驚きだった。


 「気に入られた、のでしょうか」

 誰のことかは言わずともわかる。アミュが気にかけている青年、シュオウの事だ。

 「そうは見えなかったがな。そうだとすれば、アベンチュリンへの対応ももう少しマシなものを用意していたはずであろ。結果として、あの者を再びアベンチュリンへ送り出さねばならん」


 「その件についても驚きました。グエン様が一度言ったことをすぐ覆すなんて。いつも慎重にすぎるあの方なら、従士二名の命と引き替えにしても、波風をたてない結末を望むものだと思っていました」


 「最終的な決着をどうするかまでは言及されなんだが、元々の段階で交渉はすませてあった。我が提案した交換条件と引き替えに、出来る限りの譲歩を求めたのじゃ。もっとも、我が求めたのは力による解決で、フェイ女王の意向に沿うような軟弱な解決方法ではなかったがな」


 「何と交換を? グエン様の意見を曲げるほどのものとなると、聞くのが恐ろしくなりますけど」

 「グエン殿の長年の悩みの種を一つ預かる事にした。当面のあいだ、アデュレリアにてサーサリア王女の身柄を預かる」


 カザヒナは立ち止まった。

 「王女殿下を……」

 アミュは歩みを止めてカザヒナへ振り返る。


 「ムラクモの上層に位置する者なれば周知の事であるが、王女殿下は幼い頃より酷く心を病んでおられる。ここのところは悪い薬に夢中となり一層酷い有様であると聞いているが、どこからか漏れたそうした噂が、周辺国を勢いづかせる一因となっている。諸侯らとろくに顔も合わせぬ始末で、国外のみならずムラクモにおいても不安を言う声は大きくなってきておる」


 「アデュレリアが引き受けてどうにかなる問題でしょうか」

 「根本からどうにかしようなどとは思ってはおらぬ。ただ、サーサリア王女が遊学という形で我が領地に滞在するとなれば、多少でも健全さを装う事ができよう。我としても、王女の資質を身近で観察するのに良い機会を得られる」


 「なるほど。納得がいきました」

 「忙しくなりそうじゃ。王女のみならず、どさくさでシュオウの身柄も預かれる事になったしな」

 「はい」

 弾んだ声を、アミュはからかうように指摘する。

 「嬉しそうじゃな」


 「そうですね。初めて見たときのような猛々しい姿も面白いと思いましたけど、先日ここへ駆け込んできた時の彼は怯えて逃げ惑う小動物のようで、ついつい背中をなでてあげたくなるような可愛さを見せたり。他にも色々と興味は惹かれます。でも、なにより彼からはなんともいえない良い匂いがするんです……」


 祈るように手を合わせて瞳を潤ませるカザヒナを見て、アミュは呆れ気味に言った。


 「ほどよくお前の事は見てきたつもりじゃったが、まさかそんな趣味があったとはな」

 「私も知りませんでしたから」

 くすくすと笑いをこぼしながら、二人は再び歩き出した。


 廊下の奥にある最後の階段に差し掛かった時、王族用居住区画のある上階から人が降りてくる気配がした。

 一歩ずつ、不確かな足取りで階段を下りてくる、長い黒髪の女。白く最上級の寝巻きに身を包み、さだまらぬ視線でふわふわと現れた人物を見て、アミュとカザヒナは硬直した。


 「お……王女殿下?」

 たしかめるように声をかけても反応はなく、サーサリア王女は何もない暗がりの廊下を指さして楽しそうに笑っていた。

 「ふふ、綺麗なお花畑……ねえ、見て」

 サーサリア王女は朧気な笑みを浮かべて後ろを振り返る。が、当然そこには誰もいなかった。

 慌てた調子の靴音が上階から響く。

 駆け足であらわれた女官が、あわてた様子でサーサリア王女の肩を掴んだ。

 「殿下ッ! こんなところにお一人でッ」


 女官はサーサリアを連れ戻そうと支えながら誘導するが、王女は虚ろな瞳で廊下のほうを見つめていた。

 「まって、向こうに綺麗なお花畑があるの……」

 言いながら白く細い指先で指し示すが、女官は相手にしない。

 慣れた手つきで階段まで連れていき、アミュとカザヒナに頭だけで一礼しながら上の階へと王女を引きずっていく。


 再び静寂が訪れた頃、呆然とこれまでの様子を窺っていた二人は、顔を見合わせた。

 「……ちと、はやまったかもしれんな」

 後悔のこもったアミュの言葉に、カザヒナは深く頷いて同意した。




 特別にアデュレリア公爵専用の軍馬が貸し出される事になった。

 先に乗っていたカザヒナに支えられながら体格の良い馬の背に跨る。

 雪は降っていないが、深夜の強風は身を切り刻むように冷たい。

 羽織った外套を寄せて首元を隠すような姿勢でいると、カザヒナが気遣うように声をかけてきた。


 「寒いですか?」

 「いえ、これくらい我慢できます」


 弱音を吐くことが許されるような立場ではないと自覚していた。

 自分が、アミュやカザヒナにとって面倒事を持ち込んだ事は間違いない。

 身内なのだから助けてもらう事は当然だと、どこかで持っていた甘い考えは、ここのところの経緯を見ているうちにどこかへ消し飛んでしまった。


 ムラクモという国家を根本から動かしている人々は、自分には見えていないような状況や理由を抱えている。

 そうした事情を吹き飛ばし、シュオウは幸運にも望んでいたものに限りなく近いモノを手に入れた。

 グエンが急遽用意した親書と、内容を保証するアデュレリア公爵直筆の文を収めた書簡は、シュオウの懐に大切にしまいこまれている。


 どこかへ姿を消していたアミュは、ほどなくして六人の騎乗した輝士を引き連れて現れた。

 「輝士小隊を預ける。これをもって速やかにシワス砦を制圧せよ。コレン・タールを捕縛した後は、おって沙汰あるまでカザヒナ重輝士を長官代行として据え置く」


 アミュはテキパキと指示を出した。集まった小隊員達とカザヒナは敬礼して了承を伝える。


 「コレン・タールの処罰はどうしましょう」

 カザヒナが問うと、アミュは眉を怒らせる。

 「爵位と階級の剥奪くらいでは気がすまん。他国に部下を差し出すような愚か者に相応しい罰を用意する。フェイ女王から金品を受け取ってはいないか、他にどんな些細な事でもかまわん。すべてを洗い出して丸裸で牢に押し込めておくがよいッ」

 「抵抗した場合は?」

 「かまわん、その場で石を落とせ」


 姿に似合わない酷薄な物言いに、シュオウは初めてアミュに対してゾッとするような印象を持った。


 「シュオウ――」

 とことこと歩み寄ってきたアミュは、シュオウのズボンの裾をくいくいと引っぱる。


 「――その書簡でフェイ女王の望んでいたものは十分に得られるじゃろう。じゃが、それですべてが丸く収まるかはわからぬ。もし、それでも女王がゴネた場合、二人の命はあきらめてそなただけでも戻ってくると約束せよ。でなければ、我がここまでしたことはすべて無意味になってしまう」


 シュオウは決意を込めて答える。

 「約束します。絶対に戻って、きちんとお礼を言わせてもらいますから」

 「うむ、では行くがよい!」

 「あの、すいません、最後に一つだけ」


 小気味良いアミュの出発の合図をカザヒナが打ち消した。


 「なんじゃ、忘れ物か」

 首をかしげるアミュに、カザヒナは頷いて見せ、待機中の小隊員達に向けて声を張り上げて命令した。

 「小隊、目を閉じて耳をふさげッ!」

 カザヒナの命令に、小隊員達は戸惑いながらも従った。


 次の瞬間、カザヒナは後ろへ振り返り、勢い良くシュオウの胸の中に顔を埋めた。

 「スーハー、スーハー」

 「ちょ……え?」

 状況がよく理解できないシュオウは、自分の腰に腕をまわしてしがみつくカザヒナにただただ当惑していた。

 どこぞの鼻の利く動物のようにシュオウの臭いをしこたま吸い込んだカザヒナは、満足そうな笑みを浮かべて顔を持ち上げて言った。


 「ぷはー……すいません、ずっと我慢していたもの――でッ!」

 カザヒナが言い終えるのと同時に、どこからともなくカザヒナの頭上に現れた氷塊が、鈍い音とともにカザヒナの頭をゴツンと殴りつけた。

 落ちてきた手の平大の氷塊は、すっぽりとシュオウの手の中に収まった。


 「カ、カザヒナッ! お前はいつから男の臭いを嗅いでうっとりするような女になったッ」

 本気で怒ったアミュの怒声が深夜の王都に響いた。

 「わ、わかりませぇん……」

 両手でコブを押さえながら悶えるカザヒナは、息も絶え絶えにそう答えた。

 「もうよい、さっさと行けこの馬鹿者が」

 アミュが背伸びして馬の尻をペシペシと叩くと、馬は渋々といった様子で足を出し始める。


 カザヒナはすぐに姿勢を正して、命令通り耳と目を閉じたままの小隊員達に指笛で合図を送った。

 「行ってまいります」

 平素のように整えた声で一礼して、カザヒナは馬を出した。


 あわてた様子で後に続く小隊員を引き連れて走り出すと、見送るアミュの姿はあっと言う間に小さくなっていった。

 街中の中央広場に差し掛かった頃、カザヒナは馬の速度を落として、小隊員達に指示を飛ばす。


 「私は可能なかぎり先行し、コレン・タールを押さえる。貴様らは後からついてこい」

 小隊員達が了解したことを確認する間もなく、シュオウとカザヒナの乗る馬は急激に速度をあげた。

 後ろへ引きずられていると錯覚するほどの速さ。耳が千切れそうなほど冷たい空気を切り裂きながら直進する。

 「ちょっと速すぎませんか」

 「このくらい、この子には準備運動にもなってません。それにこのくらいでないと間に合わなくなってしまいます。白道に入ればさらに速くなりますから、今のうちに覚悟を」

 少しずつ激しくなる揺れに耐えるように、シュオウはカザヒナの体に思い切りしがみついた。




 「カザヒナさん、これを見てもらえますか」

 シワス砦へと続く白道を、尋常ではない速度で疾走している。経験したこともない速さに肝が冷えたが、小一時間も走っているうちに徐々に慣れてきた。

 シュオウが片手で差し出して見せたのは、出発前にカザヒナにつっこみを入れた氷塊である。手の中に飛び込んできてから、なんとなく捨てる機会を失って持ってきてしまったのだ。

 氷塊は両手で包み込める程度の大きさで、よくよく見てみると、その形はただの塊ではなく、精細に彫り込まれた狼の頭の形をしていた。


 「それは……さっきの?」

 カザヒナは手綱を握りながら、視線を流して確認する。

 「これってアデュレリア公爵が作ったんですよね」

 「それは、もちろん。それがどうかしましたか?」

 「……こんな事、晶気を使える人間ならだれでもできるんでしょうか」

 牙を剥きだしにして口元に皺を寄せる狼の頭。一級の工芸品としても通用しそうなその出来に、シュオウは舌を巻いた。


 「まさか、一瞬でそれだけの造形物を作り出すことは、燦光石を有している方々にとっても難度の高い技なんですよ」

 「それって、アデュレリア公爵が特別優れているって事ですか」


 「アデュレリアは氷長石の継承者を一族の中から広く選出します。我々の一族は個人の力や才を特に重視していますので、当主の座が空位となった時、その時代の中で最も優れている者が継承者として選ばれるんです。アミュ様のお姿を見ればおわかりと思いますが、あのお方は、物心がついてたいしてたっていないにもかかわらず、氷長石の継承者として長老方に選ばれました。そうなった理由は、あの方が幼い頃から傑出した才能を有していたためなのです」


 カザヒナはどこか誇らしげに語った。


 「……凄いんですね」

 「元々の才能に加えて、氷長石の力を継承されたのですから、それはもう。――ところで燦光石の力はとても大味だということをご存知ですか」

 「いえ、初めて聞きます」


 「あの特別な石は膨大な力を秘めています。当然持つ者は相応の力を得るわけですが、そのあまりに強大な力は御すだけで精一杯になってしまい、自在に操るのには元々の才能や修練が必要になる。大きな事象を引き起こす事はできても、その氷の塊のように力を一点に集約させるのには、本当に高度な技術が必要になるんです」


 聞いていくうち、シュオウは安堵を覚えていた。

 手の中にある氷塊を、アミュが瞬時に作り出してみせたとき、なんら特別な動作なくそれを行った事にも驚いたが、その氷の塊が微細な部分にまで作り込まれた造形物であったと知ったときに、怖いと思ったのだ。同じ人間でありながら、こうまで出来る事に差があるか、と。


 アイセやシトリのような若輩の輝士にさえそれに似た思いを抱いたことはあるが、アミュのそれとはやはり次元が違った。

 アイセ達並の輝士は、晶気を使う際になんらかの予備動作がかならず見てとれた。

 万が一にもそれらに対する場合に、的確に対処する方法を模索できるが、アミュのようになんの予兆もなく人の頭上に氷塊を降らせる事が出来る相手に対しては、どう対処して良いのかまったく想像ができない。


 ――馬鹿馬鹿しい、子どもじゃないかまるで。


 シュオウは自嘲する。

 出会う相手すべてに戦いを挑んだ時の事を考えるなんて愚かだ。人の世界は腕っ節がすべてではない。


 燦光石を持つ者が、すべてあのような技術を持ち合わせているかもしれないと考えると焦燥を感じたが、それも無駄な事だと自身に言って聞かせる。


 「なにか得るものがありましたか?」

 黙っていたシュオウに対して、カザヒナがそう聞いた。

 「はい。アデュレリア公爵が凄い人だということがわかりました」

 「ふふ、アミュ様が聞いたらきっと喜ばれると思いますよ。結構単純なお方ですから」

 カザヒナはアミュが褒められたのを自分の事のように喜んでいた。


 「王の石とも呼ばれている燦光石。あの石は国家を代表する旗であり、民の誇りであり、敵を寄せ付けない最後の砦でもある。ですが、それを持つ者もまた普通の人間であることを忘れないでください。敬う事をしても、卑屈になったり恐れる必要はありません」


 手の中の氷狼の頭をもう一度だけ見つめて、シュオウは森に向けて、力いっぱい放り投げた。

 「そういえば……」

 暗闇に飲まれていく氷塊を眺めていた時に、なんの脈絡もなく唐突に思い浮かんだ二人の男の顔。

 アデュレリア邸に到着してから長く眠りこけていたせいですっかり忘れていた、サブリとハリオの事を今更思い出した。


 「なにか?」

 「俺と一緒に来たあの二人の事を忘れてて。彼らは?」

 「ああ……」

 カザヒナの声は一段低くなった。

 「なにか、あったんですか?」

 恐る恐る聞くと、カザヒナは脱力した声で答えた。


 「あの最初の晩の後の事です。どうも食後に酒が欲しいと調理場の人間に頼んだようで、その者が、アミュ様がシュオウ君に対して賓客として迎えると宣言したのを、あの二人にも当てはまると勘違いしたらしく、地下の酒造部屋へ案内してしまったらしいのです」


 続きは聞かなくてもほとんど予想がつくが、シュオウもげんなりとした調子で聞き返した。

 「……それで?」

 「アデュレリアが来客用や贈答用として用意していた名だたる名酒を、あの二人が一晩かけてお腹に入れてしまったようで、それを知ったアミュ様はそれはもうお怒りに」

 「でしょうね……」

 「ちょうど当面の間左硬軍でシワス砦を管理することになったので、今回の件も含めて報告書の作成のため、飲んだ分は書記の手伝いをさせる、とアミュ様はおっしゃっていました」


 ――よかった。

 あの二人の図太さには呆れるが、おそらくアミュなら悪いようにはしないだろう。


 たくさんの人達の努力や想いが込められている小さな書簡を胸に、シュオウは想う。

 ――あの二人を連れ戻して、かならず戻ろう。

 と。


 空にはうっすらと明かりが差し始めていた。




 朝陽が昇りきる頃、シュオウとカザヒナはシワス砦の門前にまで到着していた。

 めずらしく曇りのない空は、容赦なくギラギラとした陽光を浴びせかけてくる。

 陽の光を感じるのが、随分と久方ぶりのように感じた。


 「ここまで来ているのに、なんの反応もないなんて……」

 カザヒナは失望したように嘆息した。


 シュオウの知っている範囲では、深夜時間帯でもきちんと当直の従士が仕事をしていたはず。だが、外から見える範囲には、見張り台等に人影は一切見られない。


 「まさか、この時間まで全員寝ているなんてことはないですよね?」

 カザヒナは当惑した様子でシュオウに聞いた。

 「この時間なら食事をすませて、それぞれ担当部署で働き始めている頃なんですけど」

 「だといいんですけど――」

 カザヒナは胸一杯に空気を吸い込んだ。

 「――開門せよッ!!」

 雷が落ちたかと思うほどの分厚い怒鳴り声。コロコロと態度を急変させるカザヒナのこうした一面には、いまだ慣れることができない。


 僅かな間をおいて、扉の奥から声が返ってきた。

 「現在シワス砦は封鎖中である。一端引き返し、後日改めての訪問を」

 「王都よりの使者である。アデュレリアの輝士をこのまま門外に放置するつもりかと責任者に問うがいい!」

 すると、対応した従士の焦った声が返ってきた。

 「お、お待ちくださいッ!」

 扉の奥から感じる人の気配が遠ざかっていく。


 反応を待っている間、シュオウは気になっていたことを聞いた。

 「たしか、アデュレリア公爵はシワス砦の制圧を、と言ってましたよね。手荒な事になるんですか」

 「砦の従士達がコレン・タールをかばいだてるような事になれば、そうなります。あなたから見て、コレン輝士は人望の厚い人物でしたか?」

 そう聞かれ、保身に走り、シュオウを牢に閉じ込めるように命じたときのコレン・タールの顔を思い出した。


 「……いいえ。その心配はないと思います」

 扉の奥から忙しなく駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。

 「す、すぐに開けさせますッ! お、おい早くしろ馬鹿共がッ」

 上擦った中年男の声がそう言った。

 両開きの重たい扉がじわじわと開かれていく。

 丁度馬一頭が通れるほどの隙間が出来た瞬間、カザヒナは掛け声とともに馬を進め、そのまま一気に中庭まで突っ切った。

 中にいた男達は突然の事に驚き、尻餅をつく。


 慌てて後を追ってきた男達の先頭には、コレン・タールがいた。

 顔中に擦り傷があり、シュオウが押しつぶした鼻は赤く腫れ上がり、ぬめぬめとした軟膏のようなものが塗られている。


 騒ぎを素早く聞きつけた砦の従士達は、皆で中庭まで出てきていた。シュオウ、カザヒナ、コレン・タールを取り囲むように人の輪が出来ている。

 コレン・タールはヒィヒィと息をきらせながら、ぎこちなくカザヒナに敬礼した。


 「こ、このような辺地に……い、いったい王都から何用で――」

 上げた視線がシュオウと合う。

 「――お、お前ッ!」

 断末魔の悲鳴でもあげそうな形相でシュオウを指さした。

 それとほぼ同時に、カザヒナは長剣を抜き払い、切っ先をコレン・タールの喉元に差し出す。


 中庭に集まった従士達の間にどよめきが起こった。

 「シワス砦長官、コレン・タールは貴様か」

 額に脂汗を浮かべながら、コレン・タールは答えた。

 「わ、私ですが……」

 「アベンチュリンとの間に起こった一連の騒動に心当たりはあるだろうな」

 「さ、さあ、なんのことか――」

 「とぼけるな!」


 カザヒナの怒鳴り声に、驚いたコレン・タールは盛大に尻餅をついた。


 「ひぃ……あ、あの……」

 「アデュレリア重将閣下は貴様のしでかしたことに大変お怒りである。すでに元帥閣下の承認を得て、左硬軍取り仕切りによる貴様の捕縛命令が下された。大人しく従うか?」

 だが、コレン・タールはあきらめなかった。

 「そんな、なんの調査もなく、い、いきなり罪に問われるのか。それはあまりにも……」


 カザヒナは冷酷な瞳で見下ろし、冷笑を浮かべる。


 「不服か? 抵抗したいのなら止めはしない。腰にさげたものが錆び付いていないのなら今すぐ抜くがいい。だが一つだけ言っておく。私は貴様の拘束に際して生死を問わずという命令を受けているぞ」

 脂ぎった中年輝士の顔は、しだいに青ざめていく。


 ゆっくりとした動作で、コレン・タールは剣を抜いた。

 事態を見守る従士達の間に緊張が走る。

 だが、コレン・タールは立ち上がる事なく剣を地面に置き、頭を垂れた。

 「従います……重将にはなにとぞ、なにとぞよしなに……」

 「協力的だったと伝えよう」


 コレン・タールが無抵抗の意を示すと、カザヒナは素早く身柄の拘束を命じた。

 誰にと指名されたわけではないのに、砦の従士達は我先にとコレン・タールを押さえにかかる。従士達の中には恨みのこもった表情で、コレン・タールの小太りの体をグイグイと地面に押しつけている者までいた。


 この砦の長から、カザヒナの登場により突然無抵抗な虜囚になった彼の姿を見て、シュオウは僅かながらに同情を感じていた。


 誰かが持ってきた縄で、後ろ手に縛られたコレン・タールは、私兵二人と共に地下へ連れて行かれた。おそらく、シュオウが入れられた牢獄と同じ場所に入るのだろう。

 一仕事終えたカザヒナは、馬上で集まった従士達に状況を説明していた。


 「これより、しばらくの間は私が当拠点の長官代理を務めるッ」

 高らかにそう宣言すると、従士達の間からオオオと地鳴りのような歓声が沸いた。皆の表情は明るく、男達が多い事もあって、急遽やってきた美人の女輝士を歓迎しているようだった。


 「連絡は以上。それぞれの業務にとりかかれ。私の管理下で怠惰な振る舞いは許さない。急げ!」

 カザヒナの一喝。従士達は慌てた様子で散っていく。

 シュオウを気にして残っていた従士達が数名いたが、カザヒナに睨まれるとそそくさと退散していった。


 「ふう……」

 人心地ついたカザヒナに、労いの言葉をかける。

 「おつかれさまでした」

 カザヒナは微笑みを返し、

 「いえ、これからですよ。シワス砦の現状について細かく調べあげて報告をあげなければ。すこしすれば部下も追いつくでしょうから、これから彼らを使って一仕事です」

 と肩を叩きながら言った。


 「あなたは、このままこの子に乗ってアベンチュリンへ向かってください」

 カザヒナは馬を降り、馬上にシュオウ一人を残した。

 突然独りぼっちになったシュオウは、寒さを感じるとともに不安から両手で馬の腹を掴んだ。


 「無理です、馬は……」

 「この子は健脚なだけでなくとても賢い。一度背に乗せた相手を振り落とすような真似はしません。私がしていたように、見よう見まねでも目的地まで運んでくれますよ。夜までにはアベンチュリン王都に到着できるはずです」

 ――本当か。

 どこか血走ったようにも見える馬の瞳が、見上げるようにシュオウを見つめている。公爵の軍馬だけあって気位は高そうだが、どことなく乗せてやってもいいぜ、と言っているようにも見えた。


 おそるおそるつま先を鐙に乗せて、軽く腹を蹴ると馬はとぼとぼと前へ進み始めた。

 一人での騎乗は不安だが、何度か人の後ろに乗ってきた経験もあり、体は対応できつつある。

 カザヒナが歩きながら手綱を引き、東側の門へ誘導する途中、なにげなく見上げた建物の中から、心配そうにこちらを見つめるヤイナがいることに気がついた。

 互いの視線が重なった瞬間、シュオウは一回だけ強く頷いてみせる。

 ヤイナも同じく頷き返して、両手を祈るように組んで目を閉じた。


 「残念ながら、私が同行できるのはここまでです」

 カザヒナはアベンチュリン側へと通じる扉の前で、歩みを止めた。

 「ありがとうございました。色々と、本当に……」

 「最後まで付き添いたいところですが、私には一本の線を自分の意思で越えることができません。こんなときは、立場というものが嫌になりますね」

 カザヒナは下唇を噛みしめて、視線を落とした。

 「十分すぎるほどしてもらいましたから」

 馬上にいなければ、しっかりと頭を下げたいほど感謝していた。が、またここへ戻れば、いくらでも礼を言う機会はあるだろう。


 「無事を祈ります」

 カザヒナは姿勢を正して敬礼した。

 どうしてだか、敬礼で返す気にはなれなかったシュオウは、頷くのみに止めた。

 「待っててください」

 そう言い残し、履いた鐙を強く蹴ると、馬は力強く地面を蹴って走り出した。


 もう何度目かになる東に向かって延びる一本の道を、一人行く。

 これが最後になれば良いと願いつつ。




 アベンチュリン王都、夜の砂城。

 女王であるフェイ・アベンチュリンの私室の戸を叩く音がした。

 「入りなさい」

 「……失礼致します」


 静々と入室してきたのは、先代から勤めている老宰相のエキだった。齢八○にも届きそうな年寄りではあるが、めぼしい後継者がいないこともあり、未だに細々と政に携わっている。ここのところ城に出てくる日もまばらだが、今日は重要な取り決めを片付ける必要があったため、朝から城に来てあれやこれやと雑務をこなしていたのだ。


 フェイはエキの事などおかまいなしに、手にとった泥のパックを顔に塗りたくる。

 「あによ、しなければならないことはすべてすませたはずでほ」

 泥パックに皺を作りたくないフェイは、口をなるべく動かすことなく言った。結果、間の抜けた喋り方に聞こえる。


 「姫様、それがその、珍客の訪問がありましてなぁ……」

 エキはフェイが子どもの頃から身近にいた。その時からの癖で、王位を継いだ今となっても姫、と時々口から出ているが、特段それを咎めようとも思っていない。


 「こんな時間に?」

 フェイは泥を塗る手を一瞬止めた。が、僅かに考えてすぐに手を動かす。

 「明日にさせなさい」

 「いえ、それがどうしたものか」

 ふわふわと定まらないエキの態度に、初めて違和感を覚えた。

 「なによ、誰が来てるっていうの」


 フェイは完全に手を止め、かしこまって佇むエキのほうへ振り向いた。


 「もう六日か、七日ほど前になりますか。陛下がムラクモの従士達にした事を覚えておられましょう」

 「……当然だわ」

 本当は思い出すまでに僅かに時間を要したが、当然そんなことはおくびにも出さない。


 「ええ、それがその、その時に陛下が無理難題――ではなく、ムラクモへの要求をしたためた親書を渡した男の事は」

 「そうね、たしか妙な格好の男だったかしら」

 「その者が、まいっております」


 フェイは首を傾げた。


 「見間違えではないの?」

 「見た者の記憶に痕を残す容姿です。その者に見覚えのあった者らが確認をしたので、まず間違いなく」

 「そう――」


 フェイはめずらしく困惑していた。

 仲間を痛めつけ、無理矢理書簡の届け役に命じた男の事は覚えている。たしかに期日を設けて戻ってくるように言いはしたが、本当にその通りにするとは思ってもいなかった。

 命の危機を感じ、逃げ出したにしろ、事の次第を上に報告したにしろ、再びその姿を見ることはないと思っていたのだ。


 「仲間と一緒に死にたい、ということかしら。それとも偽りの回答でも用意した、とか。それか、金品で機嫌をとって仲間を返せ、とでも言うつもりかしら」


 捕らえた二人の従士は、宣言した通り、祭の催し物として処刑してしまおうと考えていた。その場に一人追加されるとしても、とくに不都合はない。どのような結果にせよ、役立たずの平民の死体が一つ増えるだけだ。


 「それが……件の従士はムラクモのグエン公からの親書を持ってきたと言っているのです」

 フェイは失望を感じた。

 「なによそれ、もうすこしマシな嘘をつけないのかしら。アベンチュリンからの公式な親書にさえ返事をいただけなくなって久しいというのに……まったく、平民とは愚かな生き物だわ。無駄なことだけど、中身は確認したのでしょうね」


 エキは首を振った。


 「いえ、陛下に直接渡すと言うものですから。この後の事は、姫様の判断をうかがってからと思い、今は見張りをつけて謁見の間にて待たせてあります」

 「いいわ、会いましょう。どんなしたり顔で嘘をついてみせるのか、楽しみになってきた」


 フェイはすっくと立ち上がり、赤い薄手の外套を一枚羽織った。

 「お待ちください、その格好でいかれるおつもりで」

 寝支度をすませていたため、フェイの格好は人前にでるのに相応しいとはいえないものだった。

 自慢の黒髪には香油を塗り、専用の丸い帽子を被せている。服は薄い桃色の寝巻きで、顔には泥が塗りたくってある。

 客観的に見れば仮装遊びででもしないような珍奇な格好だが、あいにく、フェイは自分を客観的に見るということが大嫌いだった。


 「いいでしょべつに、体裁を気にするような相手ではないわ」

 「せめて、お顔のものを落としてからでは……」

 「いやよ。肌を美しくするイベリス産の泥なんだから。高かったのよ」

 エキはそれ以上注意をあきらめたのか、黙ってフェイの後に続いた。

 足をはずませながら自室を後にしたフェイの心中には、突然舞い込んできた珍事に対する期待が膨らみつつあった。




 どうにか慣れない馬にしがみつきながら、シュオウは夕陽が落ちてからしばらくしてアベンチュリン王都に到着していた。

 衛兵に事情を説明すると、驚いた様子で老宰相が応対した。敵地に乗り込んできたつもりのシュオウにとって、初対面となるはずのこの老宰相の態度は意外なものだった。威圧的というわけでもなく、まるで孫の苦労話を聞く好々爺のように耳を傾けていた。


 一通りの話を終えると、不快な思い出しかない謁見の間に通された。

 悪趣味な調度品の数々は相変わらずのようだ。

 広大な空間に一人佇んでいると無性に居心地の悪さを感じる。


 さらさらと流れる砂時計の中の砂を見つめて、シュオウは安堵した。

 砂はまだ落ちていない。

 残された量は僅かではあるが、たしかにシュオウは言われた通りの制限時刻までに戻ることに成功したのだ。


 玉座を正面から捉えているシュオウから見て、左奥の扉が開かれた。

 シュオウにあれこれと説明を求めた老宰相を連れて現れた女王、フェイ・アベンチュリン。その姿は異様の一言につきる。


 ――なんのつもりだ。


 物腰だけは優雅に、横長の玉座に腰かけて、足を組んでみせる。

 さらに後から入ってきた四人の輝士達が玉座の横に控えた。

 輝士達には全員見覚えがある。四人のうち二人はシュオウ達をアベンチュリンへ案内した女輝士と強面の輝士だ。

 シュオウを見る彼らの表情は、一様に見下したようににやけている。それを不快に思いながらも、黙って受け止めた。


 フェイは泥のようなものを塗りたくった顔で、あまり口を動かす事なく喋りはじめた。

 「おやまあ、本当に戻ってきたなんて――」

 フェイの言葉はドタドタと響く足音に遮られた。

 謁見の間の入口から、駆け足で現れたのはシュウ王子だ。シュオウの姿を確認して、とても驚いているようだった。


 「ほ、ほんとうにッ!?」

 シュウ王子の大きな声が部屋中に木霊する。

 「シュウ……まったく、だれから聞いたの。黙っていられるのなら同席を許すわ。静かにしていなさい」

 シュウ王子はなにか言いたげに唇を噛んだ。が、結局姉の顔色を窺い、黙ってシュオウの傍らに立ちすくんだ。


 「水をさされてしまったけど、続きといきましょう。なにか持ってきていると聞いているわ。早く渡しなさい」

 「渡す前に――」

 シュオウは懐に大切にしまい込んでいた書簡を取り出して見せた。

 「――人質になっている二人の無事を確かめたい」


 フェイの親衛隊の輝士達が顔色を変えた。一介の平民であるシュオウが条件を突きつけた事が面白くないのだろう。


 「もったいつけるわね。いいわ、ここへ戻った勇気に報いましょう」

 フェイは輝士の一人に、囚われた二人を連れてくるように指示を出した。


 それからすぐに連れてこられた二人は、家畜にでもするように首に縄をかけられ、両手を拘束された姿で現れた。

 ヒノカジは輝士達に痛めつけられた時の傷が、痛々しい痣となって顔中に残り、ミヤヒのほうは目立った傷跡などは見られなかったが、最後に見た時からは想像もつかないほどやつれていた。


 二人は、すぐにシュオウの存在に気づいた。

 ミヤヒは目に涙を溜めて力なく笑顔を浮かべた。

 一方ヒノカジのほうは、喜んでいるというより狼狽しているように見えた。

 僅か七日間。その間幽閉されていた彼らは、一年間牢獄に放り込まれていた囚人のように痩せ衰えていた。

 きっとろくな食事も与えられていなかったに違いない。


 「満足かしら」

 無神経なフェイのその言葉に、シュオウは強く苛立ちを感じた。

 手にしていた書簡を突き出すと、輝士の一人が受け取るために前へ歩み出る。が、シュオウはそれを無視して、玉座にのさばるフェイに向けて書簡を放り投げた。

 「あッ」

 書簡は狙い良くフェイの手元まで届いた。

 輝士達はシュオウを睨んだが、むしろ睨みつけたいのはこちらのほうだ。

 フェイもまたシュオウの態度に機嫌を損ねたようだが、それでも好奇心のほうが勝ったらしい。


 「まあいいわ。いったいなにを持ってきたのやら――」

 フェイは親書の入った筒を開けて中身を取り出した。

 にやけた顔で簡素な紙を眺めるフェイ。そこに書かれている内容を確かめていくうち、しだいにその表情が険しくなっていった。


 「なによ、これ」

 余裕のないその声に、謁見の間にいるすべての人間の視線がフェイに集中する。

 「陛下、どうかなさいましたか」


 玉座の傍らに控えていた老宰相が歩み寄ると、フェイは険しい顔つきで親書を突きつけた。

 老宰相は目を細め、顔を遠ざけながら中身を確認する。


 「なんと……」

 「まさか、本物ということはないでしょうね」

 「見たところ押されている印はたしかなもの。それに、この滑らかな筆筋はたしかに見覚えがあります」

 フェイは苛立たしげに親指の爪を噛んだ。


 「いったいなにが書いてあるのですかッ」

 痺れを切らしたシュウ王子が叫んだ。

 フェイは玉座から立ち上がった。

 「遅れている食料の納入分を分割で納める事が許されたわ。それもグエン様直々の裁可によってね」

 どよめきが走った。


 「そんなまさか」

 シュウ王子も驚愕して眼を見開いている。

 ――そんなに驚くようなことなのか。

 彼らの様子を見て、シュオウは奇妙に思った。

 フェイはシュオウを指さし、怒鳴りつけた。

 「どういう事か説明しなさい!」

 だが、シュオウは首を傾げる事しかできない。

 「いったいなにを?」


 「何代にもわたり、アベンチュリンはムラクモに対して幾度となく交渉を繰り返してきた。その歴史の中で、ムラクモが我々の要求を聞き入れた事が何回あると思っているの。アベンチュリンの願いをあの国が了承したことなんて、ただの一度すらなかった。それがなぜ、たかだか平民二人を人質にとったからといって、突然これほどの好条件を提案したのか。説明しなさいと言っているのよッ」


 「あなたから渡された親書を王都の人間に渡し、仲間を助け出すために協力を頼んだ。それだけです」

 「そんなことだけで、あの国がこれほどの決定を下すはずがない。なにかあるはずよ、そうきっと何か裏が――」

 フェイがまくし立てるのを、老宰相が止めた。

 「陛下、入れ物中にもう一枚ございました」


 手渡された文に目を通したフェイは、晴れ渡った空のようにスッキリとした声で言った。


 「そう、そういうこと……。エキ、信じがたい事だけど、どうやらその男、アデュレリア公爵のお気に入りのようだわ」

 渡された文を受け取り、確認した老宰相は、ほう、と感心しながら呟いた。

 「わからんもんですな」

 「ええ、でもこれでわかった。お前、アデュレリアに縁のある者だったのね」


 アデュレリア公爵が、文になんと書いたのか、正確なところをシュオウは知らなかった。


 「どういう意味か――」

 「わからないはずがないでしょう。公爵からの文には、グエン様の約定を保証する内容と、なにがあろうとお前の身の安全を保証するように、と書いてある。ただの従士に対して、なんら関係がないのにその身を守るような文言をアデュレリアの当主が書くはずがない」


 ――そんな事を書いたのか。

 ありがたいと思う反面、囚われた二人についてはなんら触れていない事に、不満も感じる。彼女もまた、本質的な部分では二人の従士の命になど関心はないのかもしれない。


 「まあいいわ。どちらにせよ、これで事情は大きく変わったというわけね」

 フェイはグエンからの親書と公爵の書いた文を老宰相から取り上げて、再び元の入れ物の中にしまい込んだ。


 「やり直しよ。こんなに簡単に要求が通るのだと知っていれば、もっと大きな譲歩案を求めていたわ。もう七日猶予をあげるから、もう一度アデュレリアへ泣きつきなさい」


 そう告げて、フェイは書簡をシュオウの足下へ投げつけた。

 カランコロンと無機質な音をたて転がる入れ物を、シュオウはただ呆然と見つめる。


 「陛下、どうかここまでで満足なさいませ。あのムラクモから譲歩を引き出せただけで十分でございましょう。グエン公よりいただいたご提案は、我が国の現状には非常にありがたいものです。それに、これ以上ムラクモの名に泥を塗るようなまねをすれば、さすがに見過ごしてはもらえぬやもしれません」


 老宰相は主君に対して窘めるように言った。

 だが、我の強い女王の耳には、まったく届いていないようだ。


 「この後に及んで何を言っているの。ムラクモが大事になる事を嫌っているのは火を見るよりあきらかだわ。それに、目の前に極上の宝石が吊されているというのに、手を伸ばさないなんて私には無理。主導権はまだこちらにあるんだから」


 フェイは呆然と佇むシュオウを指さして、告げた。

 「内容を改めた親書を渡す。もう一度それをムラクモに届けなさい」


 ――もう一度。

 繰り返せと言っているのだ、同じことを。

 ――いやだ。

 目の前に転がる、たった一通の紙切れを受け取るまで、多くの人々の助けがあった。

 最終的な決定権を有していたグエンが、この件への介入を嫌っていたことも知っている。

 仲間を助け出すための一手を得られたのは、水面下でのアデュレリア公爵の努力の賜であろうことも知っている。

 自分の立場や身の安全を捨てて、シュオウの脱出に協力してくれた二人の従士もそう。

 シュオウが女王に渡したものは、所詮モノにすぎないが、多くの努力や覚悟が詰まっているのだ。

 それを、アベンチュリンの女王は投げ捨ててやり直せと言った。

 ――ふざけるなッ!

 沸々と湧き上がる怒り。

 押さえがきかなくなった感情を、もはや心中に止めておく事などできるはずがなかった。


 「ふざけるな」

 低く重たい声で吐き出すと、周囲の空気は凍り付いた。

 「……今、なにか言った?」

 空耳でも聞いたかのような素っ頓狂なフェイの声。

 シュオウは声を張り上げる。

 「ふざけるなと言った。やり直しなんて絶対にしない。今すぐ二人を解放しろ」


 フェイは後ずさり、呟く。

 「なんですって……」

 すかさず、輝士の一人がシュオウに詰め寄った。

 「貴様、誰にものを言っているのかわかっているのか!」

 睨みつけられた視線を、それ以上の怒気を含めて睨み返す。


 輝士の左手が伸びた。


 その手がシュオウの襟首を掴んだ瞬間、輝士の手首を捻り上げ、素早くしゃがみ込んで相手の肘を肩に乗せる。そのまま肩を支柱として、本来肘の関節があってはならない方向へ思い切り力を加えた。


 「ああッあああああ!!」

 グシャリという感触とともに、輝士の腕はぶらんぶらんと力無く空中に揺れる。

 輝士は左腕をかばうように倒れ込み、床の上を転がりながら悲鳴を上げていた。

 その様子を見下ろしながら、シュオウは思った。


 ――脆い。


 師の手によって幾度となくこの身に叩き込まれてきた数々の手法。それを実際に自らの手で他人の身にためしたのは、これが初めての経験だった。

 関節を逆方向へ極められる痛み。骨を折られる苦しさは身をもって経験してきた事だ。床の上で転げ回る輝士の苦しみは痛いほどよくわかった。


 突然起こった出来事に、皆瞬きも忘れて沈黙している。

 ――やってしまった。

 今になってようやく自分のしでかしたことを認識できる程度には冷静さが戻りつつある。

 ――だけど。

 アベンチュリンの輝士に手をあげるという暴挙をしてしまったというのに、驚くほど心は軽くなっている。


 圧倒されるほどの広く感じていた謁見の間。

 今になって、あらためてそこを見渡した。


 ――こんなに狭かったのか。


 人生の大半を深界で生きてきたのだ。

 ここは所詮人の作り出した場所にすぎない。

 どんなに広くても、どんなに豪華な装飾がされていても、壁も床も天井も、人の常識が収まるよう作られた、ただの箱にすぎないのだ。

 シュオウは一つ、ゆっくりと深呼吸をした。鼻を通って肺を満たす香油の甘い臭い。


 ――ここの空気の臭い。今はじめて気づいた。


 転げて呻く輝士を見下ろして、シュオウは思った。


 ――いつからだ。


 輝士に逆らってはいけない。

 言われた通りに行動しなくてはいけない。

 女王に無礼を働いてはいけない。


 自覚もないままに、いつのまにかしてはいけないという自戒の楔を、心の中に撃ち込んでいた。

 呆然とシュオウを見る、ヒノカジとミヤヒに視線を流す。目に入った薄茶色の従士服を見た時、シュオウは朧気ながら理解していた。


 ――そうだ、あの服を着たときから。


 軍という組織に入り、制服を着せられて従士という役割を負わされた瞬間から、気づかぬうちに〈新入りの従士〉という役を演じてしまっていたのだ。


 見知らぬ土地へ行ったにもかかわらず、どこかで古参従士のヒノカジを頼りにし、自身で警戒することも怠っていた。


 ――もっとうまくやれたのに。


 ボロボロな姿でくたびれはてた二人を見るうち、女王への怒りではなく、自分への後悔の念が湧いた。

 彼らがこんなめにあっているのは自分のせいだ、と。


 シュオウは決意を込めてフェイを見据えた。その後ろにある巨大な砂時計は、未だに時を刻んでいる。流れ続ける砂と同じように、時は待ってはくれないのだ。この僅かな間に次の一手を思考しなければならない。


 このまま二人を解放してもらい、自分も含めて無事に城を出してもらえる可能性は。

 ――ありえない。

 シュオウは女王の部下に手を出した。今更どう取り繕ったところで、彼女の怒りを買うのは必至だろう。

 ――それなら、力尽くで。

 もっともわかりやすく単純明快な答えが導き出される。

 それが正しいかどうかも考える余裕のない状況で、シュオウは素早く行動に移した。


 「言われた事はやった。約束通り、今すぐ二人を解放しろ」

 あえてぶっきらぼうに言い放つと、女王の細長い瞳が揺れた。

 「な、なにを……お前、誰を相手にしているのかッ――」


 最後まで言わせる事なく、シュオウは人差し指をフェイに向けて、挑発するように声を張り上げた。

 「お前に言っている! 王としての矜持がかけらでもあるのなら、約束を守れアベンチュリンッ!! それもできないのなら、お前はただの嘘つきだ」


 女王の顔が醜く歪んだ。と、同時に顔面に塗りたくられた泥がビシビシとひび割れていく。

 「おのれ、ゆるさんッ! 殺せ! 殺しなさい、今すぐにッ!!」

 そう怒鳴り散らしながら靴を踏みならすと、三人の輝士達は慌てて剣を引き抜いた。


 一人目の輝士が先頭をきってシュオウに斬りかかるが、その動きは緩慢だ。

 本来なら三人同時に攻撃をしかけてこなければならないような状況だ。しかし、シュオウが彩石を持たない一従士であるということが彼らの油断を誘っている。それが現状にあって、これ以上ないほどに有利な条件を生み出していた。


 両刃の剣による袈裟懸けの攻撃。シュオウは半身を後方へずらし、体を細めるようにしてこれを躱す。そのまま相手が次の行動を取る前に、すばやく剣を持つ右手をひねりあげ、切り込んできた勢いをそのまま利用して地面に引きずり倒した。


 ガッチリと掴んだ手首を捻り上げると、輝士は苦しげに声をあげて剣を手放した。

 脱力した腕を一本の棒のようにひっぱり、肘の部分を踏みつけにして、そのまま手首を天井に向かって持ち上げる。ゴキリ、という鈍い音が響いて輝士は悲鳴をあげた。


 ――一人目。


 突然襲った猛烈な痛みと、自らの体の一部を破壊されたという恐怖。その恐ろしさからくる混乱をシュオウは知っている。腕をへし折られたこの輝士も、しばらくの間は立ち上がる気にさえならないだろう。


 幼い頃から多くの苦しい修練と引き替えに得た技術。

 人体の根幹を成す骨子。骨や関節に痛打を与えることで、殺さずして瞬時に相手の戦意喪失を狙う方法。

 生かしたまま多くの敵を制圧する、という理念の本、受け継がれてきたこの技の基本的な形は、敵の攻撃を待ってこれを最小の労力で躱し、反撃に転ずるという事だ。

 人体は痛みになにより弱い。

 体が苦痛を感知すると、生存するための機能は素早く働く。集中力は散漫となり、無意識のうちに手は患部を守るように動く。結果大きな隙が生じる。

 足は擦る事で安定を維持し、手は瞬時に敵を掴むことができるよう自由でなくてはならない。

 身一つで、武器や盾を持たずに敵と相対するため、躱すという行動が特に重要視される。


 師が幼かった頃のシュオウの才に気づき、後継者に選んだ時の気持ちが、今になってよくわかった。

 並外れた動体視力を持つシュオウにとって、躱すという選択肢は自身の能力を最大限生かすことのできる技術なのだ。

 時間がゆっくりと流れているとさえ錯覚するほどの眼の力は、未熟な実戦経験を補ってあまりあるほどの優位さを発揮している。


 後にこの技術を伝えた初代は、人の心を読むことに長けていたのだという。次におこす相手の行動を予測して攻撃を躱し、勝機を得たという話だが、あまりにも昔の話なので信憑性はない、と師は笑いながら話していた。


 どこかで余裕を見せていた輝士達の顔色が変わった。

 次に向かってきたのは女の輝士。その顔には見覚えがあり、アベンチュリンへの案内役として同行していた輝士の一人だった。

 

 女輝士は手に持った細剣の利を生かし、慣れた動作で鋭い突きを放つ。

 鳥でさえ落としてしまえそうなほどの素早い一撃だったが、狂鬼の放つ人間離れした攻撃でさえ躱すことのできるシュオウにとっては、胸の中心を狙った一突きをすれすれで避けることに、なんら労力を必要としない。

 逆に一歩を踏み出しながら攻撃を躱したシュオウは、素早く女輝士の懐に潜り込み、両手で髪を掴んで引きずり倒した。


 「きゃあッ!?」

 女性らしい悲鳴が聞こえ、一瞬の戸惑いを覚えたが、手は止めない。

 女輝士の左手を捻りあげ、左肩に手を置いて全体重をかける。その体が痙攣したように悶えると、大木が真っ二つに割れるような感触が伝わり、女輝士の体から魂が抜け出てしまったかのように力が抜けた。あまりの痛みに気を失ったのだろう。


 ――二人目。


 残す一人を睨みつける。

 最後の一人、シュオウにとってもっとも印象深いその男は、七日前のあの時に自分の顔面に蹴りを入れた強面の輝士だった。

 ここへきてようやく、目の前にいるのがただの従士ではないと気づいたのか、強面の輝士は左手を翳して晶気を使う動作に入る。だが――


 ――遅い。


 すべてが遅いのだ。始めからシュオウを過小評価して戦いを挑んだ時点で、勝利は得たも同然だった。

 輝士として活かせる最大の武器を今更抜いたところで、相手は所詮あと一人だけ。


 屈んだ姿勢のまま、シュオウは晶気を練る輝士まで一瞬で間合いを詰めた。

 晶気を使うと見せればシュオウが怯えるとでも思っていたのか、逆に立ち向かってきた事に驚いた強面の輝士は、晶気を放つどころか、混乱してそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。


 輝士を見下ろすシュオウ。


 二人の視線が合わさると、強面の輝士の表情に強い怯えの色が浮かんだ。

 相手の生死を握る立場になった途端、された事への仕返しをしてやりたいという幼稚な欲求が芽生えた。

 輝士の顔面目掛け、足を踏み上げる。


 「やめ――」


 心底恐怖する輝士の顔を見た瞬間、頭の中は薄暗い欲望から漏れ出てくる快感で満たされていた。

 本来、拳や足での殴打はするなと言われてきた。戦闘時に重要な手足を差し出すような真似は、手傷を負う機会を無駄に増やすことになるからだ。


 だが、まだ若いシュオウにとって、復讐の鉄槌を振り下ろす事になんら躊躇はない。

 全力で踏み降ろされたシュオウの足は、輝士の顎を踏み砕いた。

 強面の輝士が白眼を剥いて気絶したのを確認したシュオウは、深く息を吐き出した。


 ――三人目。


 女王を守る四人の輝士は制圧した。が、敵をすべて封じたわけではない。この場でもっとも手強い相手であろう砂金石を持つフェイ・アベンチュリンは、未だ健在なのだ。


 ――どうしよう。


 フェイに対する対処方法をなんら考えていなかったシュオウは、一仕事やり終えた爽快感とともに呆然とした。

 唯一の救いは、シュオウが披露してみせた一連の出来事に、信じられないものでも見たように、フェイが絶句して佇んでいる事だ。彼女もまた予想していなかった事態を迎えて混乱しているのだろう。


 戦うか、逃げるか。二つの選択肢が頭に浮かんだ。

 砂金石という名の燦光石。その石にどれほどの力があるのか、シュオウは知らない。

 砂時計の中にあった大量の砂を持ち上げてみせていた事と、砂金石という名から察するに砂に関連した晶気を持つのだろう。だが、その規模や速さ、正確さ等については適当な想像すらできないほど情報が不足している。


 女王のいる玉座までの距離は短いとはいえない。どれだけ全速力で詰め寄ったとしても、反撃を思考するだけの余裕は与えてしまうだろう。


 問答無用に二人を連れて逃げ出したところで、手負いで体力も落ちている人間二人と共に無事に逃げ出せる保証もない。


 ――手詰まり、か。


 最後の手段として、決死の覚悟での突撃を考えたときだった。

 ちらりと流した視線の先で呆然とシュオウを見つめるシュウ王子の存在に気づいた。

 考えるまでもなく、シュオウの足は動いていた。


 一歩、二歩、三歩。


 大股で全力疾走し、ただ立ち尽くしていたシュウ王子を羽交い締めにする。

 慌ててフェイは手を伸ばすような仕草をしたが、遅かった。


 「二人を今すぐ解放しろ。逆らえば、王子の命をこの場で断つ」


 シュウ王子の手を背中へ回し、動きを封じた後に、シュオウは右手で王子の首を締め付けた。最初はゆるく、徐々に締め付けを強くして気道を塞いでいく。

 フェイは怒りに震えながらヒステリックに声をあげた。


 「王族に手を出してただですむと思っているのか!」


 ――さあ、どうする。


 頭の上から溶岩でも吹き出しそうなほどに猛るフェイとは逆に、シュオウは氷のような落ち着いた心でフェイの動向を見守っていた。


 これは最後の賭けだ。弟を人質に取られたフェイが、彼の命をかけらも惜しまなかったとしたら、彼もろともに命を狙われる可能性もある。

 予想できる未来には二つの結果しか思い浮かばない。


 ――生か死か。


 シュオウの顔には、無自覚に微笑が浮かんでいた。


 我ながら、これほど不確かな状況で戦いに望んでいることが可笑しくなったのだ。

 場違いな笑みを見せたシュオウに対して、フェイは困惑したように後退った。


 最後の決断を煽るため、シュオウはシュウ王子の首を絞める手にさらに力をこめた。すでに正常な呼吸を妨げるだけの締め付けを与えている。


 「ぐぐ……がッがが……」

 拘束された王子は、それでも必死に苦しみから逃れようと、苦しげな声を漏らしながら藻掻いた。自由なままの右手が首を締め付けるシュオウの右手に重ねられる。


 フェイは歯を食いしばり、いまだ迷いの中にいた。


 「陛下、ここまでで十分でしょう。王子殿下が命を落とすような事になれば、事態はより悪化し隠しておくことも難しくなる。ムラクモも今回の件を知らぬふりで通すことができなくなります。そうなれば、我が国の歴史はあなたの代で終いになるかもしれませぬぞ」


 フェイの傍らにあって、静かに事態を見守っていた老宰相は諭すように言った。


 「ただの平民に、王族を殺す度胸などあるはずがないッ」

 フェイはまるで自分自身に言って聞かせるように呟いた。

 「姫様……目の前をよくご覧ください――」

 老宰相は前方で腕を押さえて芋虫のようにもがく二人の輝士と、完全に気を失い微動だにしない二人の輝士を指し示して、言った。


 「――ただの平民が、これだけの事を一人で成したのです。現実から目をそむけるのはおやめなさい。王子の命と引き替えにしてあの者の命を奪ったとて、得るものはなく、失うものは大きすぎる」


 フェイは目の前に広がる光景をゆっくりと視界に納めた後、苦しげに藻掻く弟を見た。

 下唇を破けそうなほど強く噛みしめたフェイは、急に脱力してしまったかのように玉座に座り込んだ。


 「二人の従士の解放を認める。追っ手は出さないから、好きになさい……」

 シュオウはその言葉を聞いて、シュウ王子の首に巻き付けていた手を離した。

 「げほッ、ごほごほッ――」

 王子は苦しげに何度も咳を吐いた。


 シュオウは王子を拘束したままヒノカジとミヤヒの下まで行き、二人を拘束していた縄を解いた。

 「大丈夫ですか」

 気遣うように聞くと、ヒノカジは縄の後がついた手首をさすりながら、答える。

 「あ、ああ……」

 どこか余所余所しい態度を不思議に思いながらも、同様にミヤヒにも声をかけた。

 「私は大丈夫。それよりあんた――」

 「話は後で。はやくここを出ましょう」

 「うん、そうだねッ」

 ミヤヒは力強く頷いた。

 「二人は先に出てください」


 ヒノカジとミヤヒが先に謁見の間を後にしたのを確認し、シュオウは王子を引き連れたまま、後に続く。


 部屋を出る間際、女王がシュオウを呼び止めた。

 「待ってッ! シュウを……王子を解放しなさい!」

 「安全を確保できるところまでは連れていく」

 「追っ手は出さないと言ったはずよ!」

 不満を漏らすアベンチュリンの女王を睨みつけ、シュオウは言った。

 「信じると思うのか」

 そう問われたフェイは言葉を失った。


 その瞬間、フェイの後ろで時を刻んでいた砂時計は、すべての砂を落としきった。


 最後まで警戒を解かぬまま、シュオウは忌々しい箱の中から脱出した。


 城の外で待っていた二人と合流した。

 抵抗するかもしれない、と思いながらもシュオウはシュウ王子を解放した。

 始めからどことなく敵意を感じなかった事もあるが、いざとなっても制するだけの自信があったからだ。


 両手が自由になったシュウ王子は地面に手をついて盛大に咳をした。

 「すいませんでした」

 謝罪を述べると、シュウ王子は頭を振った。

 「い、いえ……謝らなければならないのは、こちらの、ほうですから……」

 敵意がないことに安堵しつつ、シュオウは四つん這いの王子へ手を差し伸べた。だが、シュオウの手を見たシュウ王子は、蒼白な顔でそれを振り払った。


 「あ……」

 気まずそうに自分で立ち上がったシュウ王子は、悲壮な表情で城門の左奥を指さした。

 「あちらに皆さんの馬を停めてあります。姉に追っ手を出させるようなことは絶対にさせませんから。どうかお気を付けて」

 シュオウは頷き、ヒノカジに肩を貸して、一度も振り返る事なく厩を目指した。


 結局、シュウ王子は解放されてから後、一度たりともシュオウと目を合わせようとはしなかった。




 月光を背負い、白道の上を馬で疾走する。

 来た時と同じように、ヒノカジが一頭に跨り、シュオウはミヤヒの後ろに乗っていた。


 筋状に薄く伸びた雲が膜を張ったように月を朧に見せていた。

 雲の波が通るたび、揺れて見える月は、湖の中を泳いでいるようだった。


 シュオウをここまで運んできた軍馬は、無人でありながらきちんと後をついてきている。カザヒナの言った通り本当に賢いのだと感心した。

 ミヤヒはしばらくの間、緊張からか黙りこくっていたが、アベンチュリン王都から大分距離が離れると次第に落ち着きを取り戻していった。

 「なにから聞けばいいのかわからないけど、あんた本当にシュオウ、だよね?」

 シュオウは苦笑しながら答える。

 「当たり前じゃないですか」


 「そうだよな。でも、なんだか別人みたいに見えるよ。とにかく、シワス砦に戻ったら色々聞かせてもらうからな。あーあ……さっきあんたがした事をみんなに話したって、信じてもらえないだろうなあ」


 ミヤヒは先の事を考えているようだが、それはおそらく訪れる事はないだろう。

 シュオウはシワス砦での任を解かれている。ムラクモへ戻り次第、とりあえずは王都へ向かわねばならないだろう。


 ヤイナの食事や、ミヤヒにかまわれる事がなくなるのだと思うと、一抹の寂しさも感じるが、それもしかたのないことだ。


 シワス砦という名の小さな箱の中。そこは、シュオウの居場所ではなかった。

 求めるものは知識や経験。

 欲しい物はこれから探せばいい。

 軍には所属しているが、そこを出ることは自由だ。シュオウには自力で脱するだけの力がある。


 ――もうしばらく、もう少しだけ。


 あと少し、この国を見てみようと思った。それに、恩を返さなければならない人もいる。 砦での生活に未練はないが、ただ一つ、剣を教えてくれると言っていたヒノカジの事を思うと、心残りだった。

 王都を出てから一度もシュオウと目を合わせようとはしないヒノカジ。

 今は背中しか見えないが、後で事情を説明し謝らなければならないだろう。

 










     『その後』











 ムラクモ王都。

 サーペンティア公爵家別邸の執務室にて、若き輝士、ジェダ・サーペンティアは父であるサーペンティア公爵に呼び出され、顔をつきあわせていた。

 「急用だとか、王都を出る寸前でしたよ」

 「頼みたい事がある」


 サーペンティア公爵は重苦しい声で言った。


 「父上直々に、とは。またいつもの仕事なのでしょうね」

 「今回にかぎってはそうとも言い切れないが、やっかいであることは間違いない。四石会議で見た大きな眼帯をした従士を覚えているだろうな」

 「忘れるわけがありませんよ。グエン公に真っ向から意見を述べる人物というのを、氷長石以外で見たのは初めてでしたから。それも、食べ物が不味くなるから言うことを聞けと言ってのけたのですからね」


 ジェダは薄く笑んだ。


 「あの従士、どうにも気にかかる」

 「アデュレリアが肩入れしている事がですか」


 サーペンティア公爵は頷いた。


 「あの方が、今更従士二人の命を心底惜しむはずもない。なのに今回アデュレリアは平凡な従士二名の救出のために多くの労を背負い込んだ。それはなぜだ」

 「あの従士が、それを望んだからでしょう。本人もそのような事を言っていましたし」

 「そうだ、望みを叶えたのだ。大国ムラクモでも屈指の大貴族が、素性もはっきりしない従士一人の願いを聞いた。それほどのなにかが、あの従士にあるのだとしたら、それを知らずに捨て置くわけにはいかん」


 「僕に調べろと? たしか、彼の次の行き先は」

 「アデュレリア」

 他人事のように軽く言う父を見て、ジェダは苦笑した。


 「サーペンティアである僕に、単身で氷犬共の巣へ行けというのですか。裸で敵地のど真ん中へ行けといわれたほうがまだマシだと思える命令ですよ」


 「……アデュレリアには当分の間、サーサリア王女殿下もご滞在なさる。滅多に外と触れあわぬ殿下に顔を売る好機になろう。お前の容姿ならば、良い印象を得られるかもしれないし、無駄にはするな」


 ジェダは深い溜息を吐いた。


 「北方方面の砦へ緊急時のための援軍として詰めろと言われたときには、ひさしぶりに楽な仕事だと喜んだのですけどね」

 ジェダは嫌味を込めてそう言った。

 「……仕方のないことだ。北へはお前の兄姉達から適当に選んで送ればすむ」

 目を逸らした父に、ジェダは呟いた。

 「また、伯母上からの命令ですか」

 「黙って行けッ!」

 突然激高したサーペンティア公爵は、執務机の上にあるものを盛大に払い落とした。

 ガサガサと騒がしい音をたてながら、ペンや紙が部屋中に散らばる。


 「拝命致しました。折を見て報告を入れましょう」


 ジェダは微笑を浮かべ、息を荒げる父に向けて敬礼した。

 これから行かねばならない先は、この世でもっともサーペンティアの名を忌み嫌う者達の本拠地なのだ。

 ある意味、死地へ赴くに等しいほどの仕事といえる。

 だというのに、ジェダの整った顔から微笑が損なわれる事はなかった。






 アデュレリアの当主、アミュは怒りにまかせて文を破り捨てた。

 「よろしいのですか、アベンチュリン女王からの書簡にそんなことをして」

 破り捨てられた紙片を拾い集めながら、カザヒナはそう聞いた。


 「かまうものか! この後におよんで何を言ってくるかと思えば、働き手が減ったからシュオウを寄越せと言ってきおった。まったく馬鹿馬鹿しいッ」

 アミュはまくし立てながら執務机を拳で叩きつけた。

 カザヒナは破かれた文をすべて拾い集め、元の形に繋ぎ直して文言を確認する。


 「重傷が二名。他二名の内、一人は精神的な問題から輝士としての職務を放棄。もう一人は一生涯固形物が食べられないかもしれず、再起可能かも定まらず……ですか。なにをすればこうなるんでしょうね」


 「単身で狂鬼を屠る男じゃ。そのくらいは当然であろう」

 アミュはそう言い、満足気に頷いた。

 シュオウが戻ってから早半月。

 シワス砦で送り出してから、シュオウが二人の従士を救出して戻ってきたのは翌早朝の事だった。

 なぜだかスッキリとした表情で戻ってきた彼は、多くは語らず、ただ一悶着あったとだけ説明していた。

 今は王都の別邸にて、アデュレリアへ発つ日を待つ身だ。


 カザヒナは文をさらに読み進めた。

 「女王陛下は、高給を用意して彼を護衛官として雇いたいと言っていますね。これって凄いことなんじゃ」

 「復讐したさに蜜をちらつかせているだけかもしれん。どちらにせよ、あれがただの護衛官などに収まるものか。間違いなく、シュオウは多くの者達の先頭に立つような人物になる。安月給で砂の城に押し込めておく理由など微塵も見いだせぬわ。かまわん、そんなものはさっさと捨ててしまえ」


 一国の主からの文を、そんなものと言い捨てる上官を可笑しく思いながら、カザヒナは言われた通りに破かれたアベンチュリン女王からの書簡をくずかごの中に入れた。


 「閣下の望まれた通りになりましたね」

 「うむ」


 明後日には、王都での仕事を終えて故郷であるアデュレリアへ向かう事になる。その後からサーサリア王女も来ることになっているため、迎えのための支度に骨が折れそうだと今から覚悟せねばならないだろう。


 「滞在中、シュオウの世話はお前にまかせるぞ」

 「かしこまりました。建前では謹慎中ということになっていますが、どのように応対すればよろしいのでしょうか」


 「好きにさせればよい。媚びる必要はないが、あの者が望んだモノはすべて与えよ。金や手間を惜しむ必要もない。まだ未熟さが残る今だからこそ、恩を売って売って売りまくれ。時が経った後、本人が望んでも返しきれぬほどに、な」


 「おおせのままに」


 アミュはシュオウの忠誠を求めている。はっきりと言いはしないが、そういうことであるとカザヒナは理解していた。

 意図して貸しを与えるのなら、まだ若く汚れのない今が絶好の機会になるだろう。


 親愛の情を得るのはたやすいこと。そう思いながらも、心のどこかでは、一国の主をやり込めて涼しい顔で戻ってきたシュオウに、手綱を付けることなど出来るのだろうか、という不安も湧いてくるのだった。






 「あの時は……助けてくれて……どうも、ありが――」

 慣れない手つきで文字を書いている孫を見つけ、ヒノカジは怒鳴りつけた。

 「ミヤヒ! その手紙、だれに書いてる」

 「誰にって、そんなのシュオウに決まってるだろ。戻ってからお礼を言う暇もなく出て行っちゃったからさ、せめて手紙でもって」

 ミヤヒがそう言うと、ヒノカジは目を剥いて書きかけの文を掴み、くしゃくしゃに丸めた。

 「ちょっと、なにすんだよ!」

 「いいか、二度とあの男に関わろうと思うな」

 「なんで?」

 「なんでもだッ」


 「別に手紙の一枚くらい……あたしらを助けるためにシワス砦をクビになったらしいしさ、ちゃんとお礼くらい言っておきたいよ」

 ミヤヒは懇願するようにそう言った。

 いつもは口やかましく言っておきながらどこか孫に甘いヒノカジだが、今回ばかりは認めなかった。


 「お前、まさか惚れたんじゃあるまいな」

 ヒノカジが聞くと、ミヤヒは咄嗟に視線を逸らして黙り込んだ。これでは認めているのと同じ事だ。

 自分の孫の不器用さと単純さを可愛く思いながらも、ヒノカジは眉根を寄せながらミヤヒの肩を掴んだ。


 「忘れろ、あれはお前にどうにかできるような男じゃねえ」

 「……でもさ、じっちゃん、いつも早く男見つけろって」

 「あれはもういい。あんなもんに肩入れするくらいなら一生独り身のほうがましだ。いいな? 何度でも言うぞ。二度と関わろうと思うな」


 祖父の態度を不審に思いながら、ミヤヒはぶつくさと言いながら自室へ引き上げていった。

 ヒノカジは食堂に残り、残しておいた酒をあおる。


 ――笑っていたんだ。


 自分が小僧呼ばわりしていた新入りの従士。

 女王の前で輝士を相手にし、生死を賭けたあの場面で、うっすらと笑顔を浮かべながら戦っていた。


 ありえないと思った。

 自分以外になんら頼れるものがなかったあの状況で、どうしてあれほど堂々とした振る舞いをとれるのか。


 シュオウは平民と貴族の間にそびえる大きな壁を、軽々と飛び越えてみせた。

 目の前で輝士達を倒していく姿を見て、年甲斐もなく興奮も覚えたが、同時に湧いた恐怖のほうが勝ったのだ。


 ヒノカジにとっては、傍若無人に振る舞う輝士達よりも、平民であり年若い従士の身でありながら、あれほどの振る舞いをして見せたシュオウのほうが理解の外にいる生き物だった。


 助け出された事には心底感謝していた。

 しかし、それ以上に関わり合いになりたくないという気持ちのほうが常に勝ってしまう。


 ――剣を教えるだと?


 あの夜の事を思い出して自嘲するように嗤った。

 あれだけの事が出来る人間に、凡夫である自分がいったいなにを教えられるというのか。


 今にして思えば、シュオウに対して貴族の娘達が頻繁に贈り物を寄越していた理由にも思い当たる。

 おそらく、彼女達は知っていたのだろう。シュオウという人間の本質を。


 ヒノカジの胸に、ちくりと苦い針が刺さった。


 ――なんなんだ、この気持ちは。


 自分では絶対に手が届かないものを持つものに対する羨望。


 嫉妬を覚えるにしては、ヒノカジはすでに老いすぎている。

 どう処理することもできない感情を抱え、ヒノカジは途方に暮れる。

 今はただ、酒を腹に流し込んでごまかすことしかできないのだった。





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― 新着の感想 ―
読み返して見ると、サーペンティアのオッサンもけっして無能ではないことがわかりますね。
[一言] 自分では絶対に手が届かないものを持つものに対する羨望... まさにコレなんだわ 俺もずっと同じこと主人公に対して思いながら読んでた 俺はむしろサプリとハリオに感情移入してしまう 何で…
[良い点] グエンの書簡を携えたシュオウはアベンチュリンからすれば 「宗主国の特使」とも言ってもいい立場。 特使に無礼を働いたと知れれば今度こそ只では済まない以上、穏便に済ませるしかない。 実際の所、…
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