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「外出たら、ちょっと距離あけよ」
昇降口のタイルの上で靴を履き替えていた中原さんが言った。
「なんで」
「……一緒に歩いてると、撮られることあるから」
俯いたまま、砂を噛むような声が返ってくる。その一言で、彼女が置かれている窮屈さを察した。彼女は厚底のスニーカーを軽く叩いて足に馴染ませると、僕の返事を待たずに午後の光の中へ踏み出していく。校門を出る直前、バッグのポケットから黒いマスクを取り出した。
手慣れた動きで耳にかけると、一度だけこちらを見て、すぐに前を向いて歩き出す。最初は、どのくらいの距離が正解なのか掴めなかった。近づきすぎれば歩調を緩め、離されそうになれば慌てて速度を上げる。何度か繰り返すうちに、十メートルほどの安全圏が僕たちの間に定まった。
見失わないように、彼女の背中だけを標識にして進む。困るのは、途中で人に紛れられると一気に分からなくなることだ。背丈も、髪の長さも、鞄の形も、似た人はいくらでもいる。僕が頼れるのは歩き方の癖だけで、それも人混みの中では簡単に消えてしまう。
だから僕は、彼女の肩の高さから目を離せなかった。こういう時、僕はいつも同じことを考える。もし今ここで見失ったら、僕は彼女を探し当てられない。名前を呼ぶこともできない。呼んだところで、振り返った人が彼女かどうかを確かめる手段がない。
その背中が、スマホを片手にこちらを振り返る。何かあったのかと思った瞬間、ポケットの中で振動があった。画面には「しずく」からのメッセージが出ている。いつかの昼休みに連絡先を交換したんだった。
『そのくらいで大丈夫』
顔を上げると、彼女はもう歩き出していた。大通りに出ると、人の流れが一気に増える。帰りの生徒と駅へ向かう人が混ざって、歩道が絶えず揺れていた。アスファルトは昼の熱を残していて、立ち上る熱気にシャツが汗ばむ。肩が触れそうな距離で人がすれ違い、避けるたびに歩幅が乱れる。
その合間に、中原さんが顔を横へ向けているのが見えた。通りの端。停まっている車。建物の影。視線を走らせて、すぐ前を向く。同じ動きを何度も繰り返している。ビル風が吹き抜けて、中原さんの髪が肩で広がった。その動きに目が引っ張られたまま足が遅れて、前から来た人と肩がぶつかる。
「すみません」
反射的に頭を下げた。顔を上げたときには、彼女の背中が少し遠くなっている。視線を上げたまま、人の流れを縫って歩幅を広げた。駅前を通り過ぎて人の流れが落ち着いたところで、またスマホが震える。
『右曲がるね』
カーナビみたいだな、と思いながら角を曲がると、音がふっと弱まった。さっきまで耳の奥に残っていたざわめきが、引き剥がされるように消えていく。建物の距離が近くなって、そのぶん空が高く見えた。外壁は色褪せ、閉まったままのシャッターが続いている。
足音が自分のものだけになり、景色がどんどん淋しくなっていく。このまま進んでいいのか不安になった。前を見ると、中原さんは迷いなく歩いている。立ち止まる様子もない。遅れないように同じ速さで歩き続けた。路地の突き当たりで、彼女は立ち止まった。
少し辺りを見て、それからこちらへ手を振る。その先にあったのは、コンクリートの壁に埋もれるような白い木製のドアだった。上には丸く大きな電球がひとつ取り付けられていて、曇ったガラスの中でアルファベットが浮かんでいる。足元には小さな植木鉢が二つ並び、壁際の手書きの看板が影を落としていた。
「分かりにくいな、ここ」
「でしょ」
「よく見つけたね」
「……撮影の帰りに、迷子になって」
中原さんは小さく笑いながら、金色のドアノブに手をかけた。重たい金属の音に引かれるようにして、二人で中へ入る。ドアが閉まると、背後で鈴が小さく鳴った。白いペンキで荒く塗られた壁と、グレーのモルタルの床。天井にはむき出しの梁が通り、簡素なペンダントライトがいくつか吊るされている。
深く焙煎されたコーヒーの香りに、呼吸が深くなった。
「いらっしゃい。……おや」
カウンターの奥から声がした。肩まで髪を伸ばした男性が、布巾でグラスを拭きながらこちらを見ている。声の感じはまだ若い。マスターだろう。
「珍しいね、雫ちゃんが男の子連れてくるの。彼氏?」
茶化すような口調に、隣を見られなくなった。何か言おうとしたけれど、中原さんの反応のほうが早い。
「違いまーす」
彼女はマスクを外しながらフロアの奥へ歩き出す。僕はマスターに曖昧な会釈だけを返して、その背中を追った。店内は外から想像したよりずっと奥行きがある。入り口すぐ右手のカウンターには焼き菓子の並ぶガラスケースが置かれ、その横で銀色のノートパソコンが開かれていた。
至る所が古びているのに、荒んだ感じはしない。どれも清潔に保たれていて、手入れが続いていることが伝わってくる。僕たちはフロアの隅のテーブル席に腰を下ろした。中原さんが三つ折りのメニュー表を開く。右の人差し指に、小さな絆創膏が貼ってあった。台本の紙で切ったのだと、この間言っていた。
「レモンスカッシュ」や「クリームソーダ」といった見慣れた名前に並んで、「ばらの花」や「銀座」という不思議な名前がひっそりと息づいている。名前の下には詩のような紹介文がついていた。
「これ、何」
「飲んだことない。名前だけずっと気になってるんだけど」
言葉の響きだけで、どんな味なのか、どんな見た目なのかが知りたくなる。
「ここのコーラフロート、すっごく美味しいんだよ」
中原さんが顔を寄せて囁いた。宝物を見つけた子どもみたいな熱がこもっている。
「コーラも上のアイスもマスターの手作りなの。クラフトコーラっていうのかな。スパイスが効いてて、甘さも控えめで……とにかく、市販のとは全然違うんだ」
有無を言わさない響きだった。それだけ言うなら、と頷く。彼女は満足そうにメニュー表を閉じ、背もたれに体を預けた。
「はい。お冷とおしぼりね」
マスターがグラスと丸めたおしぼりをテーブルに置く。滑らかな曲線のグラスの表面に、店内の光を吸い込んだ水滴が並んでいた。
「そういえば、雫ちゃん」
「はい」
「この間、雫ちゃんがファンだって言ってた人が来たよ。『黒川瑠依』さんだっけ」
「えっ……!」
椅子が鳴って、彼女の体が前のめりになる。
「ほんとに!? く、黒川さんが、ここに?」
「ああ。あともう一人、女の子も一緒だったな。ボブぐらいの髪で……名前は忘れちゃったけど」
中原さんの動きが止まった。
「……ボブの子」
声の温度が変わった。さっきまでの弾んだ響きが消えている。彼女はカバンからスマホを取り出すと、何かに取り憑かれたような速さで画面を叩き始めた。カチカチと爪が鳴る。やがてスマホをマスターへ突き出す。
「これ、白石小春さんですか」
「ああ、うん。この子だよ」
「……嘘でしょ」
「ホント」
中原さんはスマホを裏返して机に置いた。両手を膝に置いて、姿勢を正す。
「二人、何を飲んでました」
「ええっと……黒川さんはアイスコーヒーで、もう一人の子はカフェラテだったかな」
「なるほど。黒川さんはやっぱりイメージ通りですね」
言いながら、彼女は背筋をぴんと伸ばした。
「今日はアイスコーヒーでお願いします」
「あれ、今日はコーラフロートじゃないのかい」
「はい。今日はアイスコーヒーがいいんです」
鉄の芯を無理やり通したような声だった。
「……僕はコーラフロートをお願いします」
僕がそう付け足すと、マスターは少しおかしそうに鼻を鳴らし、はいよ、と短く答えてカウンターの奥へ戻っていく。静けさが戻ってきた。窓から差し込む西日がモルタルの床をオレンジ色に焼き、中原さんの影を僕の足元まで伸ばしている。
「……神崎くん、さっき笑ってたでしょ」
「笑ってない」
「絶対笑ってる。今も声が笑ってるもん」
図星だった。声の端に滲むものを、彼女もまた拾っている。僕は誤魔化すように冷たいグラスを手に取った。やがてカウンターの向こうで氷がぶつかる音がして、マスターが二つのグラスを運んでくる。僕の前に置かれたのは、深い茜色のコーラに丸いアイスが浮かんだコーラフロート。
アイスの上には緑のミントとシロップ漬けのチェリーが飾られている。中原さんの前には、混じり気のない漆黒のアイスコーヒー。
「お待たせ。コーラは下にシロップ溜まってるからよくかき混ぜてね。……雫ちゃんは、本当にこれでいいんだね」
「もちろんです」
彼女は迷いのない動作でストローを手に取り、一息に啜った。直後、身体が微かに硬直する。ストローを通る液体が途切れ、喉が小さく動いた。
「…………」
「……中原さん?」
「ぐうっ……ああっ……」
そんなナイフで刺されたみたいな声を出さないでほしい。マスターに聞こえるから。中原さんは喉元を両手で押さえながらこちらを向いた。
「想像の三倍は苦い……。こんなに容赦ないの……?」
「無理するから。ガムシロップもらおうか」
「いい。大人の味だから」
「大人は無理して飲まないと思う」
「うるさい。今、私は大人になってる途中なの」
彼女は悲壮な気配を漂わせて、もう一度ストローに口をつけた。今度も、肩を小さく震わせる結果に終わったらしい。その影が、どこか恨めしそうに僕のグラスのほうへ揺れている。
「……交換する?」
僕が言うと、彼女の身体がぴくりと反応した。
「え、でも」
「コーヒー、嫌いじゃないし。それに」
少し言い淀む。
「コーラフロート勧めてるときのほうが、中原さんらしかったから」
彼女の指が、グラスの縁で止まった。グラスを見ているのか、僕を見ているのかは分からない。
「……そういうこと、言うのずるいよ」
「え」
「なんでもない」
グラスを引き寄せる音がした。ストローの位置を直しているのか、指先が少し手間取っている。
「じゃあ。神崎くんがどうしてもって言うなら」
「どうしてもとは言ってないけど」
「言ったの。今、言った」
グラスを入れ替える。彼女のアイスコーヒーが僕の前に来た。一口飲んでみると、確かに脳を直接叩く鋭い苦味がある。けれどその奥には焙煎された豆の香ばしさがあって、嫌な味ではなかった。
「あー……やっぱこれ。生き返ります」
中原さんの声が一気に体温を取り戻す。
「黒川さん、これ飲んでたんだよね」
「うん」
「……やっぱり遠いなあ」
彼女は僕の前のアイスコーヒーを眺めながら、自嘲気味に呟いた。
「いつか黒川さんと共演するのが夢なんだけど。まだ無理かな」
「僕も、中原さんのこと笑えないよ。安田さんたちのデッサン見て、いつも自信なくしてるし」
「そうだね。お互い、道のりは長そう」
中原さんは、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、さっきの白石さん。中学のときに『ゴースト』ってドラマで共演したことあるんだ。彼女が主演で、私はその妹役」
「へえ」
「美人なのはもちろんなんだけど、とにかく演技が凄くてさ。その場にいるだけで全部持っていくっていうか」
そこで彼女は少し黙って、氷を鳴らした。
「……あの人みたいになりたくて、ずっと真似してたんだ。歩き方とか、間の取り方とか」
自慢するでもなく、恥じるでもない。ただ事実を置いただけの声だった。
「今サブスクにあるはずだから、暇なときにでも見てみてよ。私の言ってること、すぐ分かると思う」
「分かった。探してみる」
「あ、私のシーンは飛ばしてもいいからね」
照れ隠しのような言葉に、僕は小さく笑った。
「飛ばさないよ。中原さんが出てるなら」
中原さんはストローの先を弄びながら、喉の奥でくすりと笑う。
「……神崎くんって、過保護だよね」
「そうかな」
「うん。妹にでもなったみたい」
西日はさらに傾いて、店内の白い壁を赤く染めていく。モルタルの床の上で、僕たちの影はさっきよりも少しだけ近くに並んでいた。中原さんが手洗いに立った隙に、僕はカウンターのほうへ目を向けた。マスターはグラスを拭きながら、こちらを見ている。
たぶん、さっきからずっとだ。
「絵、描くの」
唐突に言われて、僕は自分の指を見た。第二関節のあたりに鉛筆の粉が残っている。
「……分かるんですか」
「手が汚れてたのと、雰囲気でね。あと、うちのメニューをあんなに真面目に読む子は珍しい」
マスターは布巾を畳んで置いた。
「メニューに変なやつがあるだろう。あれ、名前は借り物なんだ。僕が考えたわけじゃない」
「ばらの花、とかですか」
「そう。あれはね、注文されたことがほとんどない」
「どうしてですか」
「分からないものは、頼まないからね。みんな」
それだけ言って、彼はまた別のグラスを取り上げた。僕はメニュー表をもう一度開いた。
「ばらの花」の下には、短い文章が書いてある。味の説明はどこにもないし、何が入っているのかも書いていない。ただ、読んだあとに何かが残る文章だった。いつか頼んでみようと思った。今日ではなく、いつか。




