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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第二章「彩色」
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7

「外出たら、ちょっと距離あけよ」


 昇降口のタイルの上で靴を履き替えていた中原(なかはら)さんが言った。


「なんで」

「……一緒に歩いてると、撮られることあるから」


 (うつむ)いたまま、砂を噛むような声が返ってくる。その一言で、彼女が置かれている窮屈さを察した。彼女は厚底のスニーカーを軽く叩いて足に馴染ませると、僕の返事を待たずに午後の光の中へ踏み出していく。校門を出る直前、バッグのポケットから黒いマスクを取り出した。


 手慣れた動きで耳にかけると、一度だけこちらを見て、すぐに前を向いて歩き出す。最初は、どのくらいの距離が正解なのか掴めなかった。近づきすぎれば歩調を緩め、離されそうになれば慌てて速度を上げる。何度か繰り返すうちに、十メートルほどの安全圏が僕たちの間に定まった。


 見失わないように、彼女の背中だけを標識にして進む。困るのは、途中で人に紛れられると一気に分からなくなることだ。背丈も、髪の長さも、鞄の形も、似た人はいくらでもいる。僕が頼れるのは歩き方の癖だけで、それも人混みの中では簡単に消えてしまう。


 だから僕は、彼女の肩の高さから目を離せなかった。こういう時、僕はいつも同じことを考える。もし今ここで見失ったら、僕は彼女を探し当てられない。名前を呼ぶこともできない。呼んだところで、振り返った人が彼女かどうかを確かめる手段がない。


 その背中が、スマホを片手にこちらを振り返る。何かあったのかと思った瞬間、ポケットの中で振動があった。画面には「しずく」からのメッセージが出ている。いつかの昼休みに連絡先を交換したんだった。


『そのくらいで大丈夫』


 顔を上げると、彼女はもう歩き出していた。大通りに出ると、人の流れが一気に増える。帰りの生徒と駅へ向かう人が混ざって、歩道が絶えず揺れていた。アスファルトは昼の熱を残していて、立ち上る熱気にシャツが汗ばむ。肩が触れそうな距離で人がすれ違い、避けるたびに歩幅が乱れる。


 その合間に、中原さんが顔を横へ向けているのが見えた。通りの端。停まっている車。建物の影。視線を走らせて、すぐ前を向く。同じ動きを何度も繰り返している。ビル風が吹き抜けて、中原さんの髪が肩で広がった。その動きに目が引っ張られたまま足が遅れて、前から来た人と肩がぶつかる。


「すみません」


 反射的に頭を下げた。顔を上げたときには、彼女の背中が少し遠くなっている。視線を上げたまま、人の流れを縫って歩幅を広げた。駅前を通り過ぎて人の流れが落ち着いたところで、またスマホが震える。


『右曲がるね』


 カーナビみたいだな、と思いながら角を曲がると、音がふっと弱まった。さっきまで耳の奥に残っていたざわめきが、引き剥がされるように消えていく。建物の距離が近くなって、そのぶん空が高く見えた。外壁は色褪せ、閉まったままのシャッターが続いている。


 足音が自分のものだけになり、景色がどんどん(さび)しくなっていく。このまま進んでいいのか不安になった。前を見ると、中原さんは迷いなく歩いている。立ち止まる様子もない。遅れないように同じ速さで歩き続けた。路地の突き当たりで、彼女は立ち止まった。


 少し辺りを見て、それからこちらへ手を振る。その先にあったのは、コンクリートの壁に埋もれるような白い木製のドアだった。上には丸く大きな電球がひとつ取り付けられていて、曇ったガラスの中でアルファベットが浮かんでいる。足元には小さな植木鉢が二つ並び、壁際の手書きの看板が影を落としていた。


「分かりにくいな、ここ」

「でしょ」

「よく見つけたね」

「……撮影の帰りに、迷子になって」


 中原さんは小さく笑いながら、金色のドアノブに手をかけた。重たい金属の音に引かれるようにして、二人で中へ入る。ドアが閉まると、背後で鈴が小さく鳴った。白いペンキで荒く塗られた壁と、グレーのモルタルの床。天井にはむき出しの梁が通り、簡素なペンダントライトがいくつか吊るされている。


 深く焙煎(ばいせん)されたコーヒーの香りに、呼吸が深くなった。


「いらっしゃい。……おや」


 カウンターの奥から声がした。肩まで髪を伸ばした男性が、布巾でグラスを拭きながらこちらを見ている。声の感じはまだ若い。マスターだろう。


「珍しいね、(しずく)ちゃんが男の子連れてくるの。彼氏?」


 茶化すような口調に、隣を見られなくなった。何か言おうとしたけれど、中原さんの反応のほうが早い。


「違いまーす」


 彼女はマスクを外しながらフロアの奥へ歩き出す。僕はマスターに曖昧な会釈だけを返して、その背中を追った。店内は外から想像したよりずっと奥行きがある。入り口すぐ右手のカウンターには焼き菓子の並ぶガラスケースが置かれ、その横で銀色のノートパソコンが開かれていた。


 至る所が古びているのに、荒んだ感じはしない。どれも清潔に保たれていて、手入れが続いていることが伝わってくる。僕たちはフロアの隅のテーブル席に腰を下ろした。中原さんが三つ折りのメニュー表を開く。右の人差し指に、小さな絆創膏(ばんそうこう)が貼ってあった。台本の紙で切ったのだと、この間言っていた。


「レモンスカッシュ」や「クリームソーダ」といった見慣れた名前に並んで、「ばらの花」や「銀座」という不思議な名前がひっそりと息づいている。名前の下には詩のような紹介文がついていた。


「これ、何」

「飲んだことない。名前だけずっと気になってるんだけど」


 言葉の響きだけで、どんな味なのか、どんな見た目なのかが知りたくなる。


「ここのコーラフロート、すっごく美味しいんだよ」


 中原さんが顔を寄せて(ささや)いた。宝物を見つけた子どもみたいな熱がこもっている。


「コーラも上のアイスもマスターの手作りなの。クラフトコーラっていうのかな。スパイスが効いてて、甘さも控えめで……とにかく、市販のとは全然違うんだ」


 有無を言わさない響きだった。それだけ言うなら、と(うなず)く。彼女は満足そうにメニュー表を閉じ、背もたれに体を預けた。


「はい。お冷とおしぼりね」


 マスターがグラスと丸めたおしぼりをテーブルに置く。滑らかな曲線のグラスの表面に、店内の光を吸い込んだ水滴が並んでいた。


「そういえば、雫ちゃん」

「はい」

「この間、雫ちゃんがファンだって言ってた人が来たよ。『黒川瑠依(くろかわるい)』さんだっけ」

「えっ……!」


 椅子が鳴って、彼女の体が前のめりになる。


「ほんとに!? く、黒川さんが、ここに?」

「ああ。あともう一人、女の子も一緒だったな。ボブぐらいの髪で……名前は忘れちゃったけど」


 中原さんの動きが止まった。


「……ボブの子」


 声の温度が変わった。さっきまでの弾んだ響きが消えている。彼女はカバンからスマホを取り出すと、何かに取り憑かれたような速さで画面を叩き始めた。カチカチと爪が鳴る。やがてスマホをマスターへ突き出す。


「これ、白石小春(しらいしこはる)さんですか」

「ああ、うん。この子だよ」

「……嘘でしょ」

「ホント」


 中原さんはスマホを裏返して机に置いた。両手を膝に置いて、姿勢を正す。


「二人、何を飲んでました」

「ええっと……黒川さんはアイスコーヒーで、もう一人の子はカフェラテだったかな」

「なるほど。黒川さんはやっぱりイメージ通りですね」


 言いながら、彼女は背筋をぴんと伸ばした。


「今日はアイスコーヒーでお願いします」

「あれ、今日はコーラフロートじゃないのかい」

「はい。今日はアイスコーヒーがいいんです」


 鉄の芯を無理やり通したような声だった。


「……僕はコーラフロートをお願いします」


 僕がそう付け足すと、マスターは少しおかしそうに鼻を鳴らし、はいよ、と短く答えてカウンターの奥へ戻っていく。静けさが戻ってきた。窓から差し込む西日がモルタルの床をオレンジ色に焼き、中原さんの影を僕の足元まで伸ばしている。


「……神崎(かんざき)くん、さっき笑ってたでしょ」

「笑ってない」

「絶対笑ってる。今も声が笑ってるもん」


 図星だった。声の端に(にじ)むものを、彼女もまた拾っている。僕は誤魔化すように冷たいグラスを手に取った。やがてカウンターの向こうで氷がぶつかる音がして、マスターが二つのグラスを運んでくる。僕の前に置かれたのは、深い茜色のコーラに丸いアイスが浮かんだコーラフロート。


 アイスの上には緑のミントとシロップ漬けのチェリーが飾られている。中原さんの前には、混じり気のない漆黒のアイスコーヒー。


「お待たせ。コーラは下にシロップ溜まってるからよくかき混ぜてね。……雫ちゃんは、本当にこれでいいんだね」

「もちろんです」


 彼女は迷いのない動作でストローを手に取り、一息に(すす)った。直後、身体が微かに硬直する。ストローを通る液体が途切れ、喉が小さく動いた。


「…………」

「……中原さん?」

「ぐうっ……ああっ……」


 そんなナイフで刺されたみたいな声を出さないでほしい。マスターに聞こえるから。中原さんは喉元を両手で押さえながらこちらを向いた。


「想像の三倍は苦い……。こんなに容赦ないの……?」

「無理するから。ガムシロップもらおうか」

「いい。大人の味だから」

「大人は無理して飲まないと思う」

「うるさい。今、私は大人になってる途中なの」


 彼女は悲壮な気配を漂わせて、もう一度ストローに口をつけた。今度も、肩を小さく震わせる結果に終わったらしい。その影が、どこか恨めしそうに僕のグラスのほうへ揺れている。


「……交換する?」


 僕が言うと、彼女の身体がぴくりと反応した。


「え、でも」

「コーヒー、嫌いじゃないし。それに」


 少し言い(よど)む。


「コーラフロート勧めてるときのほうが、中原さんらしかったから」


 彼女の指が、グラスの縁で止まった。グラスを見ているのか、僕を見ているのかは分からない。


「……そういうこと、言うのずるいよ」

「え」

「なんでもない」


 グラスを引き寄せる音がした。ストローの位置を直しているのか、指先が少し手間取っている。


「じゃあ。神崎くんがどうしてもって言うなら」

「どうしてもとは言ってないけど」

「言ったの。今、言った」


 グラスを入れ替える。彼女のアイスコーヒーが僕の前に来た。一口飲んでみると、確かに脳を直接叩く鋭い苦味がある。けれどその奥には焙煎された豆の香ばしさがあって、嫌な味ではなかった。


「あー……やっぱこれ。生き返ります」


 中原さんの声が一気に体温を取り戻す。


「黒川さん、これ飲んでたんだよね」

「うん」

「……やっぱり遠いなあ」


 彼女は僕の前のアイスコーヒーを眺めながら、自嘲(じちょう)気味に(つぶや)いた。


「いつか黒川さんと共演するのが夢なんだけど。まだ無理かな」


「僕も、中原さんのこと笑えないよ。安田(やすだ)さんたちのデッサン見て、いつも自信なくしてるし」

「そうだね。お互い、道のりは長そう」


 中原さんは、ふと思い出したように顔を上げた。


「あ、さっきの白石さん。中学のときに『ゴースト』ってドラマで共演したことあるんだ。彼女が主演で、私はその妹役」

「へえ」

「美人なのはもちろんなんだけど、とにかく演技が凄くてさ。その場にいるだけで全部持っていくっていうか」


 そこで彼女は少し黙って、氷を鳴らした。


「……あの人みたいになりたくて、ずっと真似してたんだ。歩き方とか、間の取り方とか」


 自慢するでもなく、恥じるでもない。ただ事実を置いただけの声だった。


「今サブスクにあるはずだから、暇なときにでも見てみてよ。私の言ってること、すぐ分かると思う」

「分かった。探してみる」

「あ、私のシーンは飛ばしてもいいからね」


 照れ隠しのような言葉に、僕は小さく笑った。


「飛ばさないよ。中原さんが出てるなら」


 中原さんはストローの先を弄びながら、喉の奥でくすりと笑う。


「……神崎くんって、過保護だよね」

「そうかな」

「うん。妹にでもなったみたい」


 西日はさらに傾いて、店内の白い壁を赤く染めていく。モルタルの床の上で、僕たちの影はさっきよりも少しだけ近くに並んでいた。中原さんが手洗いに立った隙に、僕はカウンターのほうへ目を向けた。マスターはグラスを拭きながら、こちらを見ている。


 たぶん、さっきからずっとだ。


「絵、描くの」


 唐突に言われて、僕は自分の指を見た。第二関節のあたりに鉛筆の粉が残っている。


「……分かるんですか」

「手が汚れてたのと、雰囲気でね。あと、うちのメニューをあんなに真面目に読む子は珍しい」


 マスターは布巾を畳んで置いた。


「メニューに変なやつがあるだろう。あれ、名前は借り物なんだ。僕が考えたわけじゃない」

「ばらの花、とかですか」

「そう。あれはね、注文されたことがほとんどない」

「どうしてですか」

「分からないものは、頼まないからね。みんな」


 それだけ言って、彼はまた別のグラスを取り上げた。僕はメニュー表をもう一度開いた。


 「ばらの花」の下には、短い文章が書いてある。味の説明はどこにもないし、何が入っているのかも書いていない。ただ、読んだあとに何かが残る文章だった。いつか頼んでみようと思った。今日ではなく、いつか。

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