霧の門は満月にしか開かない——だから捨てられた私は、門番として一人で生きていきます。え、王都が滅ぶ?知りませんけど?
「月の周期表とにらめっこして門番ごっこをする陰気な女など、王太子妃にふさわしくない。婚約は破棄する!」
煌々と輝くシャンデリアの下、王太子ロイドの声が社交界の広間に響き渡った。
扇で口元を隠した貴婦人たちが、いっせいにこちらを盗み見る。
その視線の中心にいるのが、私——セラフィナ・ヴェルンハート。辺境伯家の令嬢で、ロイドの婚約者……いや、たった今、元婚約者になった女である。
ロイドの隣には、太陽みたいに華やかな男爵令嬢ミレイユが寄り添っている。
「あら、ロイド様。そんな地味な方、早く忘れてしまいましょう? わたくしが、ずっとお隣で輝いてさしあげますわ」
勝ち誇った笑みが、これでもかと私に向けられていた。
(え……門番ごっこ?)
私は内心で首をかしげた。
(あれ、命を守る立派な仕事なんですけど。それに、周期表とにらめっこするの、私けっこう好きなんですけど)
そう、私には前世の記憶がある。
日本で、ダムの水位と気象周期を管理する防災インフラ技師をやっていた三十路の女。地味だけど、人の命を守る仕事に誇りを持っていた。事故で死んで、気づけばこの剣と魔法の世界の令嬢に転生していた。
だから、月の満ち欠けで開く『霧の門』の周期を観測する門番の仕事は、前世の延長みたいで性に合っていた。
「そうだな。ミレイユのような太陽こそ、俺の隣に相応しい。……どうした、セラフィナ。なにか申し開きはあるか?」
ロイドが顎を上げて言う。周囲がざわめく。ここで泣いて縋るのを期待しているのだろう。
私は観測ノートを小脇に抱え直し、静かに一礼した。
「いいえ。承知いたしました」
「……は?」
ロイドの顔から余裕が消えた。
(え、ラッキー。あの浮ついた王都より、私はデータと霧の門のほうが好きなんですけど)
喚くつもりも、縋るつもりもない。むしろ、心の中で小さくガッツポーズをしていた。
「な、なんですの、その態度」
ミレイユが目を吊り上げる。
「少しは悔しがりなさいよ! 王太子妃の座を失うのよ?」
「悔しい、ですか」
私は小さく息をついた。
「……申し訳ありません、そのご期待には添えかねます」
「貴様……この期に及んで、俺を愚弄する気か!」
「まさか。ただ、事実を申し上げただけです。門番ごっこ、と仰いましたが——あれは、人の命を守る仕事ですので」
「ふん、たかが門の番だろう。誰にでもできる」
ああ、この人は、なにもわかっていない。
でも、それでいい。わかってもらう必要もない。
「ええ、そう思っていただいて結構です。では、失礼いたします。婚約破棄、確かに承りました」
私は淡々と背を向けた。
背後で、ロイドが言葉を失っているのがわかった。
溜飲を下げるでもなく、ただ、清々しかった。
婚約破棄の宣言に便乗したのは、王太子だけではなかった。
「まあ、当然の報いですわ」
継母のドロテアが、上品な物腰で口を開く。
「価値のない門番など、辺境の門にでも送ってしまいましょう。それが家門のためです」
「そうよそうよ、お姉さまなんて霧の中がお似合いだわ。せいぜい月とお喋りしてらっしゃいな」
義妹のエルヴィラが、可憐な顔で無邪気に毒を吐く。
二人とも、私が黙々と積み上げてきた門番としての功績を、辺境伯家の実利として横取りしていた張本人だ。それを私は知っている。
でも——今はどうでもいい。
「では、さっそく荷造りをいたします」
私が即答すると、ドロテアの片眉がぴくりと動いた。
「……ずいぶんと物分かりがいいこと」
「ええ。辺境の門、一度きちんと観測してみたかったんです。誰にも邪魔されず、心ゆくまでデータが取れますから」
「なにそれ、負け惜しみ? 変な人。お母さま、早く追い出してしまいましょう」
(むしろ栄転では? あなたたちが横取りしてきた功績、これから誰が積み上げるんでしょうね)
荷物は少ない。ドレスより観測ノート、宝石より測量器具。私の全財産は、これまで記録し続けた王国全土の門の周期データだ。
そう、全土。辺境の門だけじゃない。
私は追放される前、この国のすべての門の周期を密かに記録し、王家に提出しようとした。誰かの命を守れるかもしれないと思ったから。
——だがその束を、ロイドは。
「おい、なんだこの束は。……なんだこの陰気な女の落書きは」
「それは、王国全土の門の周期データです。どうか、王家で保管を——」
「気持ち悪い。捨てておけ」
私の目の前で、びりびりと破り捨てた。
床に散らばる紙片を、私は静かに見下ろした。
(……ふうん。写しは、全部取ってあるんですけどね)
口には出さない。
私は微笑んで、破られた紙片を一枚だけ拾い、ノートに挟んだ。
「一枚だけ、いただいていきます。……いつか、これが誰かの命を左右する日が来るかもしれませんので」
そんな予感を、静かに胸にしまって。
辺境の門番小屋は、想像以上にボロだった。
でも、静かで、月がよく見えて、最高だった。
「うん、ここでやっていける。静かで、月がよく見えて……最高」
赴任初日、私はさっそく観測ノートを広げ、月齢と門の開放周期の記録を始めた。前世のクセで、独り言のように呟きながら。
「昨夜が満月、開放は確認済み。霧の濃度は……この理屈だと水位管理と同じで読めるはず」
そのときだった。
かさり、と小屋の隅で銀色が揺れた。
振り向くと——もふもふがいた。
銀色にきらめく被毛の、狼の子。満月を映したような大きな瞳が、じっと私を見上げている。
「……わあ」
思わず声が漏れた。前世でも今世でも、こんな可愛い生き物は初めてだ。
狼の子は、おそるおそる近づいてきて、私の膝に鼻先を擦り付けた。
『きゅうん』
「え、なつっこい。国宝級かってくらい綺麗な毛並みだけど」
後で知ったことだが、この子は本当に国宝級だった。
霧の門の守護獣、銀狼の霊獣『ルーナ』。満月の夜にしか実体化できず、それ以外の夜は霧の中で気配だけの存在になる。長い長い年月を、たった一匹で門を守り続けてきた、寂しがり屋。
「ずっと、一人だったの?」
私が尋ねると、ルーナは大きな瞳を潤ませて、きゅうんと鳴いた。
『きゅうん……』
胸の奥が、じんと熱くなる。
(私も、ずっと一人だったな。家でも社交界でも、誰にも評価されずに)
だから、なんだか他人事に思えなかった。
「……じゃあ、これからは二人だね」
私がそう言うと、ルーナは尻尾をぶんぶん振って、私の腕の中に飛び込んできた。
『わふっ!』
あたたかい。
「あたたかい。……王都のシャンデリアより、この銀色のほうが、ずっと私を照らしてくれる気がする」
満月の夜。
捨てられたはずの私の、新しい生活が始まった。
「はっ、貴族のお嬢様の道楽か。三日で泣いて帰るぞ」
門番組合の老技師ゴットハルトは、初対面で私をそう鼻で笑った。
ごつごつした手に、白髪交じりの髭。長年、誰にも評価されない門番を実直に続けてきた叩き上げの職人だ。
私は気にせず、観測ノートを差し出した。
「三日後の夜、この門から小規模な魔物の氾濫が起きます。規模は中程度。時刻は月が中天に達する頃」
「……あぁ? なにを根拠に、そんな寝言を」
「霧の濃度の上昇率と月齢の変化を計算しました。私の観測術によれば、まず間違いありません」
ゴットハルトは訝しげにノートを覗き込み——そして、黙り込んだ。
「……この数字の取り方……あんた、素人じゃねえな」
三日後。
私の予測どおり、月が中天に達した瞬間、門から魔物が湧き出した。規模も、時刻も、寸分違わず。
だが冒険者たちは事前に配置につき、被害はゼロ。
「……嘘だろ。時刻も規模も、寸分違わず。五十年やってきたが、氾濫を『予定』みてえに扱うやつは初めて見た」
ゴットハルトが、震える声で呟いた。
「被害はゼロですね。事前に配置についていただいた甲斐がありました」
彼はごつごつした手で、私の観測ノートをそっと撫でた。
「あんたは本物だ。すまなかった、お嬢さん。この老いぼれ、見る目がなかった」
その日から、状況が変わり始めた。
「あんたの予測ルート、マジで死人が出ねえんだよな」
そう言って現れたのは、A級冒険者のリゼット。赤茶の短髪に鋭い眼差し、腰に双剣を差した歴戦の戦士だ。
「あなたは……冒険者ギルドの?」
「リゼット。私、身分とか評判とか、心底どうでもいいの。でも結果は信じる。あんたのデータで、仲間が三人助かった」
彼女は手を差し出した。
「組ませて。あんたの数字、うちのギルドで一番有効に使える自信がある」
私はその手を握り返した。
「こちらこそ。安全な攻略ルート、いくらでも出しますよ」
門番組合の老技師。実力主義の冒険者たち。
王都で誰にも評価されなかった私の『地味な数字』が、辺境では次々と人の命を救い、味方を増やしていく。
(派手な栄誉はいらない。人が死なないように門を守る。それが私の仕事)
その信念は、ここでようやく報われ始めていた。
その男は、辺境の門番小屋の前で、堂々と道に迷っていた。
「……ここはどこだ」
暗紅色の鱗が首筋に覗く、竜人の将軍。身長は頭ひとつ抜けて高く、切れ長の金瞳が氷のように冷たい。まさに『冷酷な戦鬼』——そう恐れられる男、アシュヴァル・ドラクレイン。
だが。
「あの、駐屯地はここから真逆ですよ」
私が指をさすと、彼は真顔で首を振った。
「いや、俺の方向感覚が正しい。こちらで合っている」
「……いえ、逆です。断言します」
「……」
沈黙。
後で門番組合のゴットハルトに聞いて仰天した。この竜人将軍、戦場では最強なのに、極度の方向音痴で有名なのだという。霧の中はもちろん、王城の廊下でさえ迷子になる。しかもプライドが高くて迷子を認めないから、堂々と間違った方向へ突き進み、被害を拡大させる。
(強キャラの見た目で、そこがポンコツなの……?)
アシュヴァルは、私の観測ノートに目を留めた。
「その霧の濃度と迷宮内の分岐データ……正確か」
「ええ。誤差は出しません」
彼は少し考え、それから真顔で言い放った。
「では、俺はお前の数字に従う」
「はい?」
「霧の中で迷わずに済むなら、それが最も効率的だ。——君の数字は、俺の命綱だ」
真剣そのものの表情で、そんなことを言う。
好意なのか、ただの実利なのか、まったく読めない。表情筋が完全に死んでいる。
(好意なのか、ただの実利なのか、まったく読めない。表情筋が完全に死んでる)……悪い気は、しませんけど。
誰も評価しなかった私の『地味な数字』を、この国最強の将軍が、真顔で『命綱』と呼んだ。
アシュヴァルは、私の観測データに従って霧の迷宮を進み、初めて迷わずに帰還したという。
その夜、彼は不器用に、ぼそりと言った。
「また来る。……効率的な連携のためだ」
耳の先が、ほんの少し赤かった。
ルーナが私の足元で、からかうように鳴いた。
『きゅうん♪』
「……なんですか、その顔」
私は聞こえないふりをして、観測ノートに新しいページをめくった。
「大変だ! 大霧門が暴走を始めた! このままでは……皆既月食の夜に、王都が滅ぶ!」
辺境にまで、その報せが飛び込んできたのは、皆既月食を三日後に控えた夜だった。
王都近くの『大霧門』。本来なら数百年に一度の大氾濫が、皆既月食の夜に起きようとしている。王都壊滅の危機。
原因は明白だった。
王太子ロイドが、観測を疎かにした。門番を追放し、データを『陰気な女の落書き』と破り捨てた。その結果が、これだ。
王都は大混乱に陥った。
「い、いやよ! わたくしは知らないわ! 門のことも、魔物のことも、なにも……! わたくしのせいじゃないもの!」
華やかなミレイユは、真っ先に責任逃れを図った。門も魔物も防災も、彼女は何ひとつ知らなかった。太陽のような笑顔は、命を守る現場ではなんの役にも立たなかった。
「だ、誰か対処しろ! なんとかするのがお前たちの仕事だろう!」
ロイドが喚くが、誰も動けない。
「対処だと? 唯一予測できた門番を、自ら追放したのはどこのどいつだ、王太子殿下よ」
ゴットハルトが、辛辣に吐き捨てた。
継母ドロテアと義妹エルヴィラの『功績横取り』も、この騒動で露見した。辺境伯家の門番実績は、すべてセラフィナ一人の記録だったと。二人は家門から放逐された。
貴族社会は、口を揃えてロイドを糾弾した。
「唯一予測できた門番を、自ら追放した愚か者だ」
そして——王家の使者が、辺境の門番小屋にやってきた。
泥にまみれ、土下座せんばかりの姿で。
「セラフィナ様……どうか、どうか王都をお救いください……!」
私は観測ノートを閉じ、静かに顔を上げた。
「大丈夫です」
「……え?」
使者が息を呑む。
「皆既月食の門の暴走は、三ヶ月前から予測して、対策済みですので」
「そ、そんな……いったい、どうやって……!」
私は、破られた紙片を一枚だけ挟んだノートを開いた。
ロイドが破り捨てた、あの『落書き』の一片だ。
「あなた方が破り捨てた、あの落書きに。全部書いてありましたよ」
静かに。
淡々と。
怒鳴りもせず、責めもせず。ただ事実だけを、そっと置くように。
「……っ!」
使者は、床に崩れ落ちた。
私は立ち上がり、ルーナの銀色の頭を撫でた。
「行こうか、ルーナ」
『わふっ!』
窓の外では、竜人将軍アシュヴァルが——案の定、道に迷いながらも——部隊を率いて待っていた。
「セラフィナ。君の数字を、くれ」
「ええ。私の数字で、王都を守りましょう。……将軍、また道に迷ってましたね?」
「……迷っていない。部隊を率いて、正しい方向へ向かっていた」
「真逆ですけどね。まあ、いいです。ここからは私の声だけ聞いてください」
皆既月食まで、あと三日。
捨てられた門番令嬢の、静かな逆転劇が始まる。
皆既月食の夜。
大霧門は、赤黒い月光を浴びて、これまでにない量の魔物を吐き出していた。数百年に一度の大氾濫。
だが、私は落ち着いていた。
三ヶ月前から予測していた。対策も練り上げていた。破り捨てられたあのデータの、すべての写しが私の頭の中にある。
「リゼット、第三区画へ! 氾濫のピークは月が完全に隠れる十二分後!」
「了解! あんたの数字なら、外れっこない!」
リゼット率いる冒険者たちが、寸分の狂いもなく配置につく。
「アシュヴァル将軍、あなたは西門を。——地図は見なくていいです、私の指示だけ聞いてください」
「承知した。君の声だけを信じる」
方向音痴の戦鬼が、私の声だけを頼りに、迷わず戦場を駆ける。彼が動けば、魔物は面白いように討ち取られていった。
そして、私。
両手を掲げると、鑑定ギフト『月読』が覚醒した。
「月読——起動。霧の濃度、限界値まであと三パーセント。放出のタイミングは——今!」
門の周期、魔石の質、霧の危険度——すべてが数値として、光の文字となって視界に浮かび上がる。
その瞬間。
私の足元で、ルーナが咆哮した。
『——ォオオオオン!』
満月の力を解放したルーナは、子犬の姿から、本来の霊獣の威厳を纏った巨大な銀狼へと変貌していた。
「ルーナ、いけっ! 銀の光で、霧を全部浄化して!」
月光を集めた銀の光が、暴走する霧を一気に浄化していく。
私の『数字』と、ルーナの『力』と、アシュヴァルたちの『剣』。
すべてが噛み合い、数百年に一度の大氾濫は——完璧に、鎮圧された。
「見ろよ、数百年に一度の大氾濫が……完璧に鎮圧されていく。あんた、本当に化け物だな」
リゼットが呆れたように笑う。
「化け物じゃありません。ただの——観測する者ですよ」
王都は、救われた。
夜明け。
王家は、私に王太子妃の座を、名誉を、あらゆる褒賞を差し出した。ロイドは廃嫡され、無様に頭を下げた。
「セ、セラフィナ……頼む、俺が悪かった……! あの落書きに、すべての対策が書かれていたなんて……」
私は、彼を静かに見下ろした。
「落書き、ではありませんでした。あなたが、そう呼んで破り捨てただけです」
それだけ言って、私は背を向けた。もう、この人に費やす言葉はない。
「セラフィナ様! 王家はあなたに王太子妃の座を、名誉を、あらゆる褒賞を——!」
使者が縋るように叫ぶ。
だが、私は静かに首を振った。
「王太子妃の座も、名誉も、いりません」
ざわめく貴族たち。
「な……なぜですか!?」
「私がいただきたいのは、『霧の門の総監督官』——現場の実務職です。それだけで結構」
(玉座より、私はこの観測小屋と満月の門がいい)
ルーナがすり寄り、アシュヴァルが不器用に隣に立つ。
「……なら、俺もその辺境に配属を希望する」
「効率的な連携のため、ですか?」
「……ああ。そういうことにしておいてくれ」
耳の先が、また赤い。
「ふふ。……また耳が赤いですよ、将軍」
私は思わず笑ってしまった。
こうして、捨てられた門番令嬢は、玉座ではなく、満月の門と、もふもふと、不器用な戦鬼のいる辺境を選んだ。
——それから、しばらく経った、ある新月の夜。
これまで一度も開いたことのない『黒い門』が、皆既月食の余波を受けて、わずかに軋む音を立てた。
ぎ、ぎぎ……と。
「……ん? ルーナ、黒い門、ちょっと気になるね」
『……くぅん』
ルーナが、初めて見せる緊張の表情で、黒い門を見上げていた。
私は観測ノートを開き、新しいページに、その音を記録した。
次なる周期の、予兆。
でも——大丈夫。
「次なる周期の、予兆……でも、大丈夫。私は、観測する者だから。どんな門が開こうと、その周期を読み解いてみせる」
満月が、静かに私たちを照らしていた。
王都のシャンデリアなんかより、ずっと、ずっと、あたたかい光で。




