第1話 新しい農家の生活
タクミは、どこにでもいる普通の会社員だった。毎日12時間働き、「これがキャリアのためだ」と思って、仕方なく続けていた。
最後に覚えているのは、階段から落ちる瞬間だった。書類が舞い、後頭部に鋭い痛みが走った。そして――何もなくなった。パニックも、後悔もなかった。ただ、変な安心感があった。
「やっと仕事に行かなくていい」
彼はそう思いながら、暗闇に落ちていった。
気がつくと、真っ暗な場所にいた。何も見えない。しばらくすると、遠くから一人の老人が現れた。彼は杖にもたれかかり、書類の束をだるそうにめくっていた。
「またか…」老人は呟いた。「お前、死んだぞ。新しい世界で何になりたい?」
タクミは少し考えて言った。
「普通の農家になりたいです」
「農家? 勇者や王様じゃなくて?」
「はい。穏やかに暮らして、誰にも邪魔されたくないんです」
「わかった。その望みを叶えよう」
次の瞬間、タクミは見知らぬ場所に立っていた。
草が首をくすぐる。風が花と湿った土の香りを運んでくる。彼は起き上がり、目をこすった。手は若々しく、無骨だった。
「これ、俺の体じゃない」
なぜか、彼は笑った。
太陽が顔を照らしたので、近くにあったわら帽子をかぶった。小さな二階建ての家がある。その隣には、数区画の畑を作れそうな、柵で囲まれた土地もあった。
タクミは足元にあった鉄のクワを手に取り、家の中へ入った。
家の中はほとんど何もなかった。リビングにはテーブルとソファがあるだけ。廊下を進むと、質素な部屋がいくつかあり、広めのキッチンと屋根裏もあった。
「宮殿じゃないけど、十分住めるな」
彼は嬉しそうに言い、すぐに外へ出た。周りにはたくさんの森や川、湖が広がっていた。暖かい日和に小鳥のさえずり――異世界で農家を始めるのに必要なものは、すべて揃っていた。
彼はバケツを持って行き、水を汲んだ。そしてクワを手に取り、広大な土地を耕し始めた。
太陽が背中を焼く。手のひらは普段と違う仕事で熱を持った。鍬を振るうたびに腰が悲鳴をあげる。
「これが平和な生活か…」
タクミは額の汗を拭いながら、苦笑いした。
一時間後、ようやく一区画だけ耕し終えた。どうやらその場所は、じゃがいもを植えるための区画らしい。
「よし。ここにはじゃがいもを植えよう。くそ、めちゃくちゃ疲れた…」
タクミはインベントリを開き、大量のじゃがいもを取り出すと、次々と植え始め、水をやった。
外はすでに美しい夕暮れだった。タクミは、残りの区画は明日耕すことにして、まずはゆっくり休むことにした。
家に戻ろうとしたその時、背後から女性の声がした。
振り向くと、紫色の可愛らしいワンピースを着た、16、7歳くらいの少女が立っていた。
「こんにちは。森で道に迷ってしまって…。よかったら、数日だけ泊めてもらえませんか? お金は払います」
「金はいらないよ。でも、食いたくなったら畑を手伝ってくれ。それでどうだ?」
少女は少し迷った。
「…大変そうですか?」
「そりゃな。見てみろよ」
タクミは自分の硬くなった手のひらを見せた。
少女はため息をつき、うなずいた。
「…わかった。私はナツキ。よろしくね」
「タクミだ。よろしく」
自己紹介を終えると、二人は家の中へ入り、休むことにした。
次の朝。タクミが起きると、いくつかの場所でじゃがいもの数が増えていることに気がついた。彼は自分のスキル『快速水やり』が、野菜の成長を早めるバフ効果を持っているとは思わなかった。
タクミはしゃがみ込み、一つだけじゃがいもを食べてみることにした。もちろん、きちんと皮をむいてから。
<レベルアップ 1 → 2>
「なにっ?!」
彼は自分の手を見つめた。気のせいか? もう一つ食べてみる――変化なし。三つ目を食べると、レベルがまた上がった。
<レベルアップ 2 → 3>
「これって…バフか?」
彼のジャガイモは、食べるとレベルが上がる。つまり、この野菜を育てれば育てるほど、強くなれる。
「もし、たくさん作れたら…」
その瞬間、彼の胸に、初めて「何かになりたい」という感情が芽生えた。ただの農夫ではない。もしかすると、偉大な何かに。
こうしてタクミの、異世界で農家として暮らす毎日が始まった。




