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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第91話: 涸れた谷の、聴こえない息

 涸れた谷には、涸れた谷の匂いがする。


 山を二つ越えて谷底に下り立った最初の一息で、私はそれを嗅いだ。湯気のない朝の匂いだ。土はあるのに湿りがない。前世から私は湯の濃淡を匂いで知った。ここには、その濃淡そのものがなかった。乾いた石と枯れた草の薄い匂い。生きている谷の温い靄の匂いが、すっぽり抜け落ちている。


 秋の朝だというのに、ここだけ季節が止まっていた。


 私は荷を背負い直して、谷の奥を見た。




 二日かかった。


 馬車の通れない山道を、徒歩と荷馬で。ガルドが先頭で道を切った。マリカが薬箱と帳面を担ぎ、ノアは地脈計測器を背に負った。私は受け入れ容量の覚え書きを胸に抱えて歩いた。


 「谷ごと行く」と決めた以上、私とノアだけでは来なかった。


 着いてみれば、リンドヴァルは墓のように静かだった。




 家々は残っていた。


 屋根が落ち、壁が傾いだまま、それでも建っていた。井戸の縁の石も湯桶の朽ちたたがも、人の暮らしの形だけがそっくり残されている。ただ、人がいない。誰の足音もない。


 「……ここで」とノアが、低く言った。「五年前、俺は手帳に波形を写した」


 彼は谷の一点を見ていた。崩れかけた井戸だ。


 「あの井戸の底に、手を置いた」




 私はノアの横顔を見た。


 彼の故郷。五年、墓として弔ってきた村。その村を、今日から再生の現場として見ようとしている。声は静かだったが、計測器の革帯を握る手に力が入っていた。


 「ノア。無理に、急がなくていいの」


 「急がない」と彼は言った。「だが、始める。——立てば、わかるって言ったのは、俺たちだ」


 彼は井戸の縁に膝をつき、計測器を地面に据えた。




 ここから先は、ノアの仕事だ。


 彼が地脈計測器の目盛りに目を凝らし、谷の縁の伏流を一本ずつ探り始めた。私はその横で口を出さずに見ていた。




 細脈は、聴こえなかった。


 俺は計測器の針を見つめながら、もう一度、谷の縁に手のひらを置く。地脈の脈動は手のひらで聴く。生きた脈なら、指の腹に微かな拍が伝わる。けれど、ここの土は黙っていた。


 主脈が抜かれた跡は、すぐにわかった。太い空洞のような気配が谷の底を東西に走っている。導管術で引き抜かれた跡だ。問題は、その周りに細脈が残っているかどうかだった。


 残っているはずだ。机の上では、そう描いた。割に合わないから、差配は細脈までは引ききらない——理屈は、そうだ。


 だが、針は動かない。


 俺は場所を変えた。井戸の北。反応、なし。谷の縁の岩場。微かに震えた気がしたが、計測器は閾値に届かない。五年ぶんの土砂が伏流の口を塞いでいるのか、それとも、もう枯れ尽きたのか。今の俺には区別がつかなかった。


 日が、山の端から谷の底まで降りてきていた。




 「どう?」と私は、夕方になってようやく訊いた。


 ノアは計測器から顔を上げた。額に土埃と汗が筋になっている。一日中、地面に這うようにしていた。


 「微弱な反応が、二箇所」と彼は言った。「だが、確かな脈とは、まだ言えない。一日かけて、これだ」


 「残ってるかもしれない、ってこと?」


 「かも、だ」とノアは正直に言った。「断言はできない。塞がってるのを掘り起こせば出るのか、もとから死んでるのか——もっと測る。何日も」


 机の上では、細脈は確かにあった。現地では、まだ影しか掴めていない。




 その夜、私たちは朽ちた一軒の土間に火を焚いた。


 ガルドが落ちた梁を割って薪にし、マリカが湯を沸かした。煮炊きの湯は、山道で汲んできた沢の水だ。この谷には、沸かせる湯すら、もうない。


 「嬢ちゃん」とガルドが、火を見ながら言った。「家の骨は、まだ生きてる。柱の何本かは据え直せば保つ。だが——」


 彼は土間の隅の、涸れた炊事場を顎で指した。


 「湯がなきゃ、骨だけ直しても、人は戻らねぇぞ」


 「わかってる」と私は言った。「だから、湯から始めるの。建物は、その次」




 火の向こうで、マリカが帳面をめくっていた。


 「セラさん」と彼女が、静かに言った。「裏帳簿の写しを照らし合わせたわ。——リンドヴァルにも、アンカーがある」


 帳場の卓で見たのと同じ、差配の供給先リストの写しだった。


 「碧泉宮への管は、もう死んでる。向こうが涸れて閉じたから」とマリカは言った。「でも、この村のアンカーそのものは、まだ地中に埋まったまま。撤去された記録は、どこにもない」


 「現役、ってこと?」


 「装置として、生きてるかもしれない。少なくとも、抜かれた記録はない」


 ノアが火を見つめたまま、低く言った。「明日、それも探す。——撤去か、迂回かは、現物を見てからだ」




 差配のアンカーは、まだそこにある。


 その事実が土間の火の上に重く垂れ込めた。沈黙が煤けた天井からゆっくり降りてきた。私たちは差配と正面から向き合ってもいないのに、この谷の地中で、もう向き合わされている。


 細脈は掴めない。アンカーは生きている。机の上で整っていた図の前提が、二つとも、現地でぐらついていた。


 けれど、いちばんの壁は、その夜のうちに、外からやって来た。




 土間の戸が、軋んで開いた。


 ガルドが立ち上がりかけたのを、マリカが手で制した。火明かりの外に痩せた人影が一つ立っていた。継ぎの当たった上衣。伸びかけの亜麻色の癖毛。少年だ。十七くらいだろうか。手に古い湯桶の柄の破片を御守りのように握っている。


 灰青色の目が、火を背にした私たちを醒めた色で見回した。


 「あんたら」と少年は言った。「何しに来た」




 「あなたが——ヨナス?」と私は訊いた。


 少年の眉が、わずかに動いた。


 「おれの名、誰に聞いた」


 「ヘルマンさん、っていう行商の人。この村の、湯守の家系の生き残りだ、って」と私は言った。「私はセラフィーナ。ミストヴァレーで旅館をやってる。——この村の湯を、もう一度戻しに来たの」


 言った瞬間、ヨナスの口の端が皮肉に歪んだ。




 「湯を、戻す」とヨナスは繰り返した。「……はっ。どうせ、また涸れる」


 「ヨナス——」


 「いいか」と彼は私の言葉を遮った。「この村に、湯を戻すって言った大人が、今まで何人いたと思う。役人も、学者も、商人も。みんな来て、地面を測って、紙に何か書いて——それで、帰った。誰一人、湯を一滴も戻さなかった」


 彼の声が、わずかに上ずった。


 「期待、させんなよ」




 ヨナスの目が、火の横のノアで止まった。


 計測器を抱えたノアを、彼はしばらく見ていた。それから、ふっと、息を吐くように言った。


 「あんた、学者か」


 「ああ」とノアが答えた。


 「五年前にも、来たな。そういうの」とヨナスは言った。「報告書、書くんだろ。地面に手ぇ置いて、難しい顔して、紙に書く。——あの時も、いた。報告書ばっかり書いてる学者先生が」


 ノアの肩が、火明かりの中でほんのわずかに強張った。




 ヨナスは、ノアの顔を覚えていなかった。


 幼く、混乱の中で村を出た少年に、五年前の学者の顔など残っていない。彼が口にしたのは恨みではなかった。ただの諦めだった。よそ者と、学者と、紙の上の約束への深い諦め。


 けれど、その「報告書ばっかり書いてる学者先生」が、目の前のノアその人だということを、ノアだけが知っていた。


 ノアは、何も言わなかった。




 私は、口を開きかけた。


 ノアの代わりに、何か言おうとした。けれど、ノアが先に計測器を土間に置いて立ち上がった。


 「その学者先生は」とノアは、静かに言った。「俺だ」


 ヨナスが、目を見開いた。


 「五年前、この村に来て、報告書に三月かけた学者は、俺だ。間に合わなかった」




 土間が、しんとした。沈黙が、火の爆ぜる音の隙間に固く挟まった。


 ヨナスは、ノアを見たまま動かなかった。何か言い返そうとして、言葉が見つからない、という顔だった。火が一度、ぱちりと爆ぜた。


 「……なんで」とようやく、ヨナスが絞り出した。「なんで、戻ってきた。今さら」


 「弔いに来た」とノアは言った。「だが——弔いだけのつもりじゃ、なくなった」




 ノアは、ヨナスの手の湯桶の柄の破片を見た。


 「五年、俺は思ってた。俺が遅かったから、村は涸れたんだと」と彼は言った。「先日、それが違うとわかった。俺が間に合っても、間に合わなくても——この村は最初から、抜かれてた。制度に」


 「制度?」


 「いつか、ちゃんと話す」とノアは言った。「今は一つだけ。——もう一度、測らせてくれ。この村にまだ流れが残ってるかもしれない」


 ヨナスは、答えなかった。




 彼は、しばらく火を睨んでいた。


 それから、湯桶の柄を握り直して、ぼそりと言った。


 「……勝手にしろ。どうせ、無駄だ」


 言い捨てて、彼は戸の外へ消えた。軋む戸が閉まり、土間に、また私たち四人だけが残された。


 拒絶ではなかった。けれど、承知でもなかった。「勝手にしろ」——それは、期待しないための、彼の予防線だった。




 戸の外は、星だけが明るかった。


 おれは、すぐには帰らなかった。土間の戸に背を向けて、涸れた井戸のあたりで足を止めた。中から、火の爆ぜる音と低い話し声が漏れてくる。


 あの女将と学者が、何か喋っている。湯を戻す。——また、その話だ。


 おれは湯桶の柄を握り直した。じいちゃんから受け継いだ、村の最後のかけらだ。「いつか帰る」と、じいちゃんはまだ言っている。山向こうの狭い借家で、毎晩のように。馬鹿だ、と思う。帰る村に、湯はもうない。湯のない村は、ただの石ころの谷だ。


 それでも。


 おれは、涸れた井戸を覗き込んだ。底の石が、星明かりに白く見える。子供の頃、この井戸の縁で、湯気を吸って育った。指がまだ覚えている。あの温かさを。


 戻る、なんて、思っちゃいない。期待すれば、また失う。だから、信じない。


 ——なのに、足が、ここを離れなかった。


 おれは舌打ちをして、星の下を、借家のほうへ歩き出した。あの学者の言葉が、耳に残っていた。「間に合わなかった」。あんな顔で、そう言う大人を、おれは初めて見た。




 「セラ」とノアが、火を見たまま言った。「あの子の言うことは、正しい」


 「ノア」


 「役人も学者も、来て、測って、帰った。俺も、その一人だった」と彼は言った。「机の上の図を、あの子は信じない。当たり前だ。図じゃ、湯は出ない」


 私は、しばらく黙っていた。火の粉が煤けた天井へ昇っては消えた。


 「ねえ、ノア」とやがて私は言った。「私、二百軒、見てきたって言ったでしょう」




 「再建で、いちばん難しいのは、いつも人なの」と私は言った。


 「人?」


 「壊れた建物より、減った客より——いちばん動かないのは諦めた人の心だった」と私は言った。「ヨナスは何度も裏切られた。だから信じない。それは弱さじゃない。あの子なりの、賢さなの」


 火が、私の頬を温めた。けれど、この谷の地中には、その温もりがない。


 「だから」と私は言った。「信じさせるんじゃなくて——見せるしかないの。図じゃなくて、湯気を」




 「湯気は、まだない」とノアが言った。


 「ない」と私は頷いた。「細脈は掴めてない。アンカーは生きてる。ヨナスは信じてない。——三つとも、まだ壁のまま」


 言葉にすると、現実の重さがはっきりした。山を二つ越えてきて、私たちが今日掴んだのは、微弱な反応が二箇所と、生きているかもしれないアンカーと、少年の一言の拒絶だけだった。


 机の上の図は、何一つ湯気に変わっていない。


 それでも。




 「明日、もう一度、谷の縁を測る」とノアが言った。「五年前、絶望で見落とした伏流が、二箇所あった。今度は、見落とさない」


 「私は、ヨナスと、もう一度話す」と私は言った。「あの子、村の地形を体で覚えてる。井戸の在り処も、湯桶の在り処も。——あの記憶が、ノアの計測の近道になるかもしれない」


 「説得できると、思うか」


 「わからない」と私は言った。「でも、わからないから明日がある。今日ぜんぶわかってたら、来た意味がないでしょう」


 ノアが、ふっと息だけで笑った。




 火が、低くなった。


 マリカが薪を一本、足した。ガルドは壁にもたれて、もう寝息を立てている。山道二日の疲れが土間に重く積もっていた。


 私は外套にくるまって、土間の天井を見上げた。屋根の隙間から、秋の星がいくつか覗いていた。生きている谷の夜なら、湯気がこの星を滲ませる。けれど、ここの星は、くっきりと冷たく乾いて見えた。湯気のない夜空だった。


 まだ、何も戻っていない。




 翌朝、私は一人で、井戸のところへ行った。


 昨夜ヨナスが立っていたあたりに、足跡が残っていた。彼は、戸の外で、しばらく動かなかったらしい。「勝手にしろ」と言い捨てたあと、すぐには帰らなかったのだ。


 涸れた井戸を、私は覗き込んだ。


 底に、五年前にノアが手を置いたという石が見えた。乾いて白っぽく、ひび割れている。耳を澄ましても、水の音はしない。湯の気配もない。井戸は、長いあいだ口を開けたまま、何も湧かせずに、ただ乾いていた。




 私は、井戸の縁にそっと手を置いた。


 ノアのように、地脈の脈は私には聴こえない。けれど、ローザさんの言葉を、ハンナさんから聞いていた。——涸れた湯にも、まだ息はある。聴いてやれる者が、いないだけ。


 その息が、私には、まだ聴こえない。ノアの計測器にも、まだ届かない。ヨナスは、もう聴くのをやめてしまった。


 それでも、ここに来た。聴きに来た。


 乾いた井戸の底の石が、初秋の朝の光を、何も映さずに、白く乾いていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八章の十一話目。前回、机の上で「奪わない湯」の設計図を描き上げた二人は、谷ごとで山を二つ越え、ついにリンドヴァルへ着きました。けれど、図というのは、現地に立った途端、不思議なほど無力になります。今回は、その机上の理屈が初めて現実の土と人にぶつかる回でした。


壁は三つ。細脈は一日かけても確かな脈を一本も掴めません。差配のアンカーは、まだ地中に生きている。そして——いちばん厚かった壁は、人でした。湯守の家系の生き残り、ヨナス。何度も大人に裏切られ、「どうせまた涸れる」と達観の仮面をかぶった少年です。彼にとって、地面を測って紙に書いて帰る学者は信じるに値しない存在でした。皮肉なことに、その「報告書ばかり書いていた学者先生」こそ、五年前のノアその人だったのですが。


ノアが、自分からそれを名乗る場面を、今回いちばん大事に書きました。弔いの相手と、再生のために向き合う——前回乗り越えたはずの自責が、現実のヨナスを前に、もう一度試される瞬間です。ここで彼を無双の救世主にはしませんでした。図では湯は出ない。それはヨナスの言うとおりで、ノアもそれを認めるのです。


そして、この回では、湯は戻りません。掴めない細脈、生きたアンカー、信じない少年。三つの壁は、まだ三つとも壁のまま夜が明けます。それでも二人は諦めません。セラが二百軒の再建で学んだのは、いちばん動かないのは「諦めた人の心」だということ。信じさせるのではなく、湯気を見せるしかない。けれど、その湯気がまだ一筋もないのです。


次回(第九十二話)、いよいよクライマックスです。掴めなかった細脈は、はたして甦るのか。ヨナスは、もう一度、湯を信じることができるのか。——涸れた井戸に、湯気は戻るのか。どうか、その瞬間を見届けてください。


それでは、また次回。

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