第70話: 二人の湯
帰り道で、父が待っていた。
全盛期を超えた源泉の湯が露天風呂に満ちる夜。その風景にたどり着くまでに、もう一つだけ越えなければならないものがあった。
馬車がミストヴァレーの谷道に差しかかった時、私は窓の外に目を疑った。
谷全体が——白い湯気に包まれている。
冬の空気の中に、温泉の蒸気がゆっくりと立ちのぼり、集落の屋根をぼんやりと霞ませていた。ノアからの伝書に「源泉、完全復活」と書いてあったけれど、ここまでとは思わなかった。出発前とはまるで別の場所だ。山の稜線が湯気の向こうに霞んで、谷底から押し上げてくる温もりが馬車の窓越しにも伝わってくる。
隣でマリカが目を覚まし、小さく息を呑んだ。
「……セラさん、あれ——」
「うん。ノアが、やったのね」
銀泉楼が見えてきた。源泉口から白い湯気が天に向かって太い柱を立てている。その光景を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
帰ってきた。
馬車が銀泉楼の手前の坂道で速度を落とした時——私は、坂の途中に立つ人影に気がついた。
くたびれたフォーマルの外套。痩せた肩。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけているが、風に乱れて隠しきれていない。靴の革が乾いてひび割れ、袖口が擦り切れている。
右手が上着の裾を握りしめていた。幼い頃、大きな商談の前に父がいつもやっていた癖だ。覚えていないと思っていたのに。
父だった。
ルヴェール伯爵。一年前、「お前には辺境のあの廃墟でもくれてやる」と言って、権利書を投げるように渡した人。
馬車を降りた。砂利を踏む音が、静かな坂道に響く。冬の風が頬を刺し、吐く息が白く散った。
父の目が泳いでいた。かつて領地経営の場で見せていた威厳は、どこにもなかった。
「セラフィーナ」
声が小さい。
「……お前がこれほどの女になるとは、思わなかった。あの、その……相談があるのだが」
視線が地面と私の顔を行き来する。何度も口を開いては閉じ、ようやく言葉を絞り出す。
「領地経営のことだが、お前の知恵を——少し貸してもらえないかと。ルヴェール家はその、少々苦しくてな」
少々。
法廷でゲルハルトの証言を聞いた。ヴィクトールがルヴェール家の取引先に圧力をかけ、融資を引き剥がしていたことを。けれど、それで父の無能が帳消しになるわけでもない。
そして何より。「厄介な経営感覚を持つ娘を辺境に封じ込めろ」。その示唆を、父は受け入れた。自分の娘を差し出した。
喉の奥がきゅっと詰まった。手袋の中で、指先が冷たくなる。
怒りが湧くと思っていた。恨みの言葉が出ると思っていた。
でも——何も出てこなかった。
この一年で、私の中はもう別のもので満たされている。銀泉楼の再建。仲間たちの顔。源泉の温もり。谷の景色。ノアの声。——帰る場所を持つ人間は、振り返らずに済む。
「お父様。お身体は大丈夫ですか」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「——それだけが心配でした」
父が目を見開いた。「あ、ああ……身体は——まあ、なんとか」
「申し訳ありません。私はもう、ルヴェール家の人間ではありません」
声は震えなかった。
「私の居場所は、ミストヴァレーです。この町と、この旅館と、この人たちが——私の家族です」
父の顔が、くしゃりと歪んだ。何を言おうとして——何も言えなかった。一年前の追放の朝と、逆だ。あの日は父が背を向けた。今日は、私が。
「お元気で、お父様」
深く一礼した。頭を上げ、銀泉楼の暖簾に手をかけた。冬の日差しに晒されて褪せた藍色の布が、指先に乾いた手触りを返す。
くぐった。
背後で父が何か呟いたが、振り返らなかった。
暖簾の向こうは——温かかった。源泉の湯気が肌を撫で、硫黄と銀泉草と磨かれた木の匂いが鼻腔を満たす。帰る場所の匂い。足裏に伝わる板張りの温もりが、靴越しにも感じられた。
小さく息を吐いた。
「……さよなら、お父様」
玄関を入ると、ハンナが立っていた。両手でお茶を包んでいる。その目は——全部見ていた。
「お嬢。よく言ったね」
お茶を差し出される。指先に温かさが伝わる。
「——泣いてもいいんだよ」
「泣かないわ」
お茶を一口。銀泉草の茶だ。ほんのりと甘く、温かい。
「だって、私は——帰る場所があるから」
ハンナが目を細めた。皺の奥に、柔らかい光があった。
「お帰り、お嬢」
「ただいま、ハンナさん」
夜。虫の声はもうない。冬の静けさの中に、源泉が湯口から注がれる音だけが響いている。
銀泉楼の露天風呂に、星の光が落ちていた。
修復を重ねた露天風呂は、谷を一望できる絶景の場所にある。ガルドが組んだ銀泉御影石の浴槽。ノアの建築魔法で強化された縁石。湯口から絶え間なく注がれる乳白色の温泉。
脱衣場で髪をほどき、手拭いだけを持って湯船に向かった。
裸足の足裏に、石の温もりが伝わる。地脈の熱で温められた石。真冬なのにひんやりしない。この露天風呂に立つだけで、大地が生きていることがわかる。
湯に右足を入れた。
——温かい。
じわりと。足首から脛を包み込む温もりが、皮膚の内側に沁み込んでくる。
もう片足を入れる。腰まで沈める。胸まで。肩まで。乳白色の湯が全身を包んだ。
「……っ」
声にならない吐息が漏れた。
法廷の緊張。ヴィクトールの銀灰色の目。ゲルハルトの証言。父の痩せた肩。判決の瞬間。何日分もの疲れと感情が、湯に溶けるように、じわりとほどけていく。
肩の力が抜けた。首の後ろの強張りが消えた。指先まで血が巡っていくのがわかる。
「……あったかい」
銀泉草の香りがする。微かな硫黄。湯面に漂う白い湯の花。肌にまとわりつくように柔らかい湯は、前世で入ったどの温泉より濃く、深い。東脈は三本の地脈で最も太い。二十年間絞られ続けた反動で、全盛期を超える魔力が大地から湧き上がっている——ノアからの伝書にそう書いてあった。大地が、二十年分の温もりを返してくれているのだ。
星を見上げた。冬の星座が鮮明に見える。ミストヴァレーの空は王都より何倍も星が近い。湯気が立ち上り、星の光をぼかして、また晴れる。ゆらり、ゆらり。白い息と白い湯気が区別もつかないまま、冬の空に溶けていく。
前世で200軒の旅館の温泉を見てきた。箱根も、別府も、草津も、有馬も。日本中の名湯を知っている。泉質を分析し、適温を計算し、浴場の動線を設計した。どの湯も素晴らしかった。
だけど——どの湯にもなかったものが、この湯にはある。自分の手で蘇らせた源泉。仲間が守ってくれた温泉。数字では測れない温もりが、肌の内側に沁みていく。
自分の宿のお風呂に、お客として入るのは、初めてだ。
前世の最後の日を思い出した。宮原咲良、34歳。過労で倒れた病院のベッド。天井の蛍光灯を見つめながら——「一度でいいから、自分の手で宿を作りたかった」と思った。あれが、最後の願いだった。
今、その願いの中にいる。
自分が作った宿の。自分が蘇らせた源泉の。自分の——
涙が一筋、頬を伝った。
温かい。湯も涙も同じ温度で、頬の上で溶け合って、湯面に落ちた。波紋が静かに広がり、乳白色の湯に消える。
泣くつもりはなかった。だけど止まらなかった。涙が次から次へ、音もなく落ちていく。湯気の中に溶けて、消えていく。
「……いいお湯」
声が掠れた。
いいお湯だ。世界で一番、いいお湯だ。
しばらく、何も考えなかった。ただ湯に浸かっていた。星が瞬く。湯気が漂う。源泉の湯音だけが、静かに響いている。
入浴後。テラスで髪を乾かしていた。
湯上がりの火照りが頬と首筋に残っていて、冬の夜風がそこを冷ましていく。その温度差が心地いい。濡れた髪を手拭いで押さえながら、テラスの手すりにもたれる。
眼下に銀泉楼の屋根が見える。灯りの点いた窓はまだ少ない——客室6室のうち、今夜は客がいない。だけど帳場の灯り、厨房の灯り、ハンナの部屋の灯りが、冬の闇の中に温かく浮かんでいる。
足音がした。聞き慣れた、軽くて確かな足音。
「……風呂、どうだった」
振り返ると、ノアが立っていた。
泥だらけの上着は着替えているが、目の下に隈がある。こめかみの横に、石柱の紋様の薄い跡が残っていた。あの地下水路で戦った証。
「最高」
笑いが込み上げた。
「この泉質は——前世の言葉で言うなら、日本一」
「日本?」
「あ、えっと……とにかく最高ってこと」
ノアがテラスに出てきて、手すりの横に立った。一歩分の距離。いつもの距離。藍色の髪が夜風に揺れている。
「セラ。裁判、よくやった」
低い声。抑揚が少なくて、素っ気なくて——だけど温かい。
「ノアの証言がなければ勝てなかった。地脈学会を動かしたのも、東脈のアンカーを解除したのも——あなたの力」
「……俺は、地脈のデータを出しただけだ。アンカーを壊しただけだ」
ノアの視線が谷を見ている。湯気に包まれた暗い風景を。
「人を動かしたのはお前だ。ディートリヒを、マリカを、エミールを、ゲルハルトを、町の人々を——」
沈黙が降りた。星が瞬く。源泉の湯気がテラスの足元をゆっくりと這い、二人の間を白く漂っている。遠くで湯口に注がれる湯の音が、途切れることなく聞こえていた。
「ノア。私ね、前世ではコンサルタントだった。人の旅館を立て直す仕事」
「……知ってる。なんとなく」
「200軒やった。でも自分の宿は、一軒も作れなかった。作りたかった。ずっと」
星を見上げた。息が白い。
「——それが今、ここにある」
ノアを見上げた。10センチ以上の身長差。見上げないと目が合わない。
「あなたがいなければ、この宿は作れなかった」
ノアの目が——わずかに揺れた。目を逸らした。耳が赤い。暗がりの中でもわかる。
「……俺も。お前がいなければ、ここにいなかった」
声が低い。いつもより、もっと。
「リンドヴァルで町を守れなかった。地脈が壊れて、人が散った。あの日から——ずっと一人で償うつもりだった。誰にも近づかないつもりだった」
ノアの手が手すりを握った。長い指。石柱の紋様の跡がまだ薄く残っている。
「お前が来た。廃墟の旅館に目を輝かせて、馬鹿みたいに真っ直ぐで。……放っておけなかった」
黙って聞いた。風が湯気を巻き上げて、二人の間を通り抜けていく。
「源泉を戻すのも、アンカーを壊すのも——全部、この町のためだと思っていた。でも途中から——お前のためだった。お前が笑っている顔を見たかった。それだけだった」
心臓が跳ねた。ノアの横顔が、湯気の中にぼんやりと見えている。深い緑の瞳。
「ねえ、ノア」
「……なんだ」
「あの嵐の夜に言ってくれたこと、覚えてる?」
ノアの肩が強張った。横顔が固まったまま、視線が手すりの一点に落ちる。喉が、小さく動いた。
「……覚えてない」
「嘘。覚えてるくせに」
笑った。自然に笑えた。この人の前では、いつも自然に笑える。
「『俺は——お前を守りたい』って」
沈黙。ノアが動かない。
「——私も、同じだよ」
言葉が、自然に出てきた。ずっと胸の中にあった言葉が。
「あなたを守りたい。あなたの隣にいたい」
冬の風が二人の間を通り抜けた。湯気が巻き上げられて、星空に散っていく。
ノアの目が大きく見開かれた。深い緑の瞳に、星の光が映っている。
そして、ゆっくりと。不器用に。ノアの手が動いた。
私の手に触れた。指が重なった。ノアの指は冷えていて、私の湯上がりの温もりがそこに流れ込んでいくのがわかった。手のひらに地下水路の仕事でできた薄い胼胝の感触。大きな手が、少し震えていた。
「……お前は、いつもそうだ。俺が言おうとすることを、先に言う」
声が掠れていた。
「だってあなた、遅いから」
「……うるさい」
指が絡んだ。ノアの手が、私の手を包み込んだ。温かい。震えが、ゆっくりと止まっていく。
「これからも、ここにいてくれる?」
「……ここ以外に、どこに行くんだ」
最高に不器用で。最高に温かい人。
涙が出そうになった。さっきの露天風呂の涙とは違う。嬉しくて、安心して、ずっとこの手を離したくないと思う——そんな涙。
でも、笑った。笑いながら、ノアの手を握り返した。
二人で手すりにもたれて、銀泉楼を見下ろした。
源泉の湯気が建物を包み、わずかな灯りを柔らかくぼかしている。谷の向こうに棚田の水面が月光を映して、銀の階段のように光っていた。遠くに町の家々のぽつりぽつりとした灯り。どこかでフクロウが鳴いた。冬の夜の谷に、温泉の匂いが満ちている。
肩が触れている。手は繋いだまま。
「ねえ。この宿の名前、本当に『銀泉楼』でいいかな」
「……何が不満だ」
「不満じゃないの。ただ——ローザさんの銀泉楼と、私たちの銀泉楼は、同じだけど違う」
手すりから身を乗り出して、湯気に浮かぶ屋根を見つめた。
「同じ名前で、新しい宿を作りたい。ローザさんの想いを受け継いで、でもローザさんの時代とは違うものを。前世の200軒で学んだことと、この谷で出会った人たちと、この源泉と——全部混ぜて」
ノアが黙って聞いていた。夜風が藍色の髪を揺らしている。
「……いいんじゃないか」
低い声が、穏やかに言った。
「名前が同じで中身が変わる。——温泉と同じだ。源泉は変わらない。でも湯は毎日、新しい」
源泉は変わらない。でも湯は毎日、新しい。
この人らしい。地脈学者らしい。そして、とてもいい言葉だ。
「いつからそんな気の利いたこと言えるようになったの」
「前から言えた。言う相手がいなかっただけだ」
不意打ちだった。胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
ノアが気づいたように首の後ろをかいた。視線がふいと夜空に逃げて、口元がきまり悪そうに引き結ばれる。気の利いたことを言った自覚はあるらしい。
笑った。声を立てて、笑った。ノアが「何がおかしい」と低い声で言ったけれど、笑い続けた。湯気の中に笑い声が溶けていく。
手は繋いだまま。
冬の夜のテラスで。源泉の湯気が二人を包んでいる。
恋が実った。宿が蘇った。
——あとは、全てを完成させるだけ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
露天風呂の場面は、この作品の中でも特に長く温泉に筆を寄り添わせた一幕です。旅館の物語でありながら、主人公が「自分の宿の湯に、一人の客として浸かる」時間は、これまでずっと巡ってこなかった。セラはずっと「女将」として走り続けていたから、湯に肩まで沈むだけの余白がなかったのです。ようやく、彼女に静かな時間を渡せた気がしています。
ノアの言葉——「源泉は変わらない。でも湯は毎日、新しい」。この一言は、銀泉楼という場所そのものに重なって響いてくれたら嬉しい。受け継ぐものと、新しく生まれるもの。その両方が、温泉の湯気の中で穏やかに共存する夜でした。
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