第6話: コンサルタントの設計図
手帳のページが足りなくなった。
壁に直接、炭で書き始める。気づいたら、朝になっていた。
窓から差し込む初夏の陽光が、壁一面の文字と図表を照らし出している。ミストヴァレー四日目の朝。銀泉楼二階の空き部屋の白壁が、いつの間にか巨大な黒板に変わっていた。
昨夜、手帳の残りが二ページになった時点で、私の中の何かが弾けた。手帳じゃ収まらない。もっと大きな画面が要る。前世ならホワイトボードを三枚並べて会議室を占拠していた場面だ。
炭筆を握り、壁に向かった。そこからは覚えていない。
ただ、気がつけば三面の壁が埋まっていた。
正面の壁。中央に大きく四つの箱が縦に並んでいる。
『フェーズ1:証明』
一室だけ修復する。最小の投資で、最大の成果を見せる。客を一人迎え、「この宿にはポテンシャルがある」と証明すること。必要経費、ほぼゼロ。労働力は自分の手。期間、二週間。
『フェーズ2:基盤』
五室と浴場一つを復旧。小規模営業を開始する。リュカの厨房、ガルドの修繕技術。ここで初めて収益が発生する。損益分岐点は月間宿泊客十五組。
『フェーズ3:拡張』
全館修復。大浴場の復旧。本格営業。季節ごとの献立、体験型の観光コンテンツ。ここまで来れば、口コミだけで客が回り始める。
そして。
『フェーズ4:町』
旅館を核にした地域一体型の観光まちづくり。棚田の景観、渓流釣り、チーズ作り体験、霧茸狩り。農林漁業から加工、販売、体験まで一つに繋げる。谷全体が一つの宿になる。
四つの箱を矢印で繋ぎ、それぞれに必要な人材、資金、期間を書き添えた。右の壁にはミストヴァレーの略地図を描き、銀泉楼を中心に棚田、渓流、牧草地、霧杉の森との関係を線で結んだ。左の壁にはキャッシュフローの試算表。初月の赤字から始まり、フェーズ2で黒字転換する曲線。
壁三面を使い切った。
腕が痛い。首も、腰も。いつの間にか座り込んで、壁の下のほうにも書き込んでいたらしい。炭で真っ黒になった指先を見て、小さく笑った。
前世でこんなことをしたら、ビルの管理会社に怒られる。でも、ここは私の旅館だ。壁だって使い放題。
部屋の隅で丸まって仮眠を取ったらしい。目を覚ましたのは、足音が聞こえたからだった。
廊下を歩く音。革靴の、規則正しい足取り。ノアだ。
ノアは朝が早い。地脈の計測は早朝のほうが精度が高いとか何とか言っていた。普段ならこの部屋の前を素通りするはずだ。
足音が、止まった。
扉は開けっ放しだった。昨夜、換気のために開けたまま忘れていた。
「……何だ、これは」
低い声が、静まり返った朝の廊下に落ちた。
振り返ると、ノアが入口に立っていた。深い緑色の目が、壁一面の設計図を端から端まで追っている。表情は読めない。ただ、いつもの無関心な顔ではなかった。
「おはようございます、ノア」
「……あんた、これを一晩で?」
「手帳が足りなくなったので」
ノアは一歩、部屋に入った。正面の壁の前に立ち、フェーズ1から4までの計画を読んでいく。視線が、数字のところで止まる。キャッシュフローの試算表に移り、ミストヴァレーの地図を確認し、また正面の壁に戻る。
長い沈黙だった。
やがてノアが、壁に手を触れずに、フェーズ4の「町」の文字を指さした。
「……本気か」
「本気です」
「旅館一軒の修復ですら前途多難なのに、町全体だと?」
「だからフェーズを分けているんです。いきなり全部はやらない。まず一室。たった一室から始める」
ノアが振り返った。私を見る目が、データを検証する研究者のそれに変わっている。
好都合だ。この人には感情論は通じない。数字と論理で話す。
「プレゼンさせてもらっていいですか」
「……勝手にしろ」
腕を組んで壁にもたれる。聞く気はある、という姿勢だ。前世の経験が教えてくれる。腕を組むのは拒絶ではなく、「納得させてみろ」の合図。
立ち上がって、壁の前に立った。
前世で何百回とやったプレゼンテーション。クライアントの前に立ち、データを示し、論理で道筋を描く。今、目の前にいるのはクライアントではなく、この旅館に住むもう一人の人間。でも必要なことは同じだ。
「まず、この旅館の最大の武器から。ノア、あなたの泉質分析データを使わせてもらいます」
壁に書いた数値を指す。
「源泉の硫黄含有量、メタケイ酸濃度、遊離炭酸量。あなたの計測によれば、弱体化した現在でも、王国の登録源泉の上位三パーセントに入る泉質です。これが、銀泉楼の最大の武器」
ノアの眉がわずかに動いた。自分のデータが正確に引用されたことへの反応だろう。
「次に立地。王都から遠い。街道はルート変更で迂回している。アクセスは最悪です。普通なら致命的な弱点」
「その通りだ。だから客が来ない」
「でも、逆に考える。『たどり着きにくい場所にある極上の湯』。私の知識では、これを『秘湯』と呼びます。アクセスの悪さそのものが、ブランドになる」
ノアの目が細くなった。
「続けろ」
「最大の問題はキャッシュフローです。数字で見てみましょう。私の手元資金では、自炊で月の食費を銀貨十五枚に抑えても三ヶ月が限界。大規模な修復は不可能。だから、フェーズ1は金をかけない。一室だけ直して、一人の客に泊まってもらう。たった一泊の成功が、次の投資の原資になる」
壁に描いたキャッシュフローの曲線を指でなぞる。
「フェーズ2で五室と浴場を復旧すれば、月間十五組の損益分岐に乗る。一組あたり銀貨二十五枚の宿泊料として、月商三百七十五枚。食材費と維持費を差し引いても、利益が再投資に回せます」
一息ついて、ノアの反応を待った。
腕を組んだまま、彼は動かない。けれど視線は壁の数字を追い続けている。検算しているのだ。この人らしい。
「……劣化率を甘く見ている」
来た。反論だ。
「壁と柱の修復だけで済む前提だが、二階の床板は魔法建築の基礎ごと劣化している箇所がある。南西の区画が特にひどい。フェーズ1で一室だけ直すにしても、その一室がどこかで難易度が変わる」
「だから東側を選びます。あなたの構造メモ、読ませてもらいました。東側の二室は比較的状態がいい。窓からの眺望も、谷を一望できる最高のビューです」
ノアが一瞬、目を見開いた。
「……俺のメモを読んだのか」
「散らかっていたので、目に入りました。すみません」
「……まあいい。事実だ。東側は確かに状態がいい」
反論の矛先が折れた。すかさず次の論点に入る。
「次の懸念は?」
「地脈の異変だ」
ノアの声が低くなった。
「源泉の湧出量は自然な減衰カーブから大きく外れている。二年調べてもわからない。仮に旅館を修復しても、源泉が完全に枯れれば全てが無駄になる」
「それは承知しています。だからこそ、あなたの地脈研究が鍵なんです。源泉のリスクは、調査が進めば見積もれるようになる。経営計画にリスク要因として組み込めば、対処の選択肢も見えてくる」
「……簡単に言うな。地脈は経営の数字とは違う」
「だから、あなたの専門領域なんでしょう」
沈黙が落ちた。ノアの緑の目が、私を正面から見据えている。
「人手はどうする。あんた一人で旅館は回せない」
「この町で三人、見つけました。料理人の卵、元棟梁、そして元仲居。まだ口説き落とせていませんが、素材は揃っています」
ノアがふっと息を吐いた。笑ったのではない。ただ、何かが肺の奥から押し出されたような音だった。
「……お前、何者だ」
呼び方が変わった。「あんた」ではなく、「お前」。
些細な違い。けれど私の耳は、それを聞き逃さなかった。他人から、対等な相手へ。無関心から、認識へ。
「伯爵令嬢が知る数字じゃない。キャッシュフロー、損益分岐、ブランディング。どこでそんなものを学んだ」
心臓が跳ねた。答えをどこまで言うか、一瞬だけ迷った。
「私には……前世の、経験があるんです。魔法のようなもの、と言えばいいでしょうか。旅館の経営を、たくさん見てきた記憶がある。二百軒以上の宿を分析して、再建を手伝った記憶が、この頭の中にあるんです」
「前世」
「信じなくても構いません。でも、この壁の数字が論理的であることは、あなた自身が検算したはずです」
ノアはしばらく黙っていた。壁を見て、私を見て、また壁を見た。
「……数字は筋が通っている。泉質データの引用も正確だ。出所が前世だろうが何だろうが、論理が正しければ関係ない」
研究者だ。この人は徹底して研究者だ。情報の出所よりも、情報の正しさを見る。
ありがたい。
「ただし」
ノアが壁から背を離して、真っ直ぐに立った。
「条件がある」
「フェーズ1の修復に、俺の建築魔法を使う」
予想外だった。ノアの方から協力を申し出るとは。
「その代わり、地脈調査への全面的な協力を確約しろ。この旅館の地下には源泉回廊がある。二年間一人で調べてきたが限界がある。修復作業と並行して地下の通路を開放し、計測ポイントを確保する。旅館の経営と地脈の調査を、両輪で回す」
「……つまり、取引ですか」
「そうだ。俺にとっても旅館が機能しているほうが地脈調査に都合がいい。廃墟のままでは地下へのアクセスが制限される。合理的な判断だ」
合理的な判断。この人は、自分の協力を「感情」ではなく「合理性」で説明する。不器用だ。でも、嘘がない。
「もう一つ。源泉の調査を最優先にしろ。旅館の営業が地脈に悪影響を及ぼす場合、俺が止める権限を持つ」
「当然の条件です。受けます」
「それと、俺はあくまで地脈学者だ。宿屋の従業員ではない」
「わかっています。あなたは研究者で、私はコンサルタント。それぞれの専門を持ち寄る対等な関係」
私は手を差し出した。
「取引成立」
ノアはほんの一瞬だけ戸惑い、それから短く私の手を握った。硬い手だった。研究者の手というより、元冒険者の名残を感じる手。
「ところで、あなたの建築魔法ってどこまでできるの?」
「見せたほうが早い」
ノアが部屋の東側の壁に歩いていった。天井まで走るひび割れがある。幅一センチ、長さは二メートル以上。二十年の風化が刻んだ亀裂だ。
ノアが右手を壁にかざした。
緑色の光が、指先からこぼれた。
柔らかく脈打つ光がひび割れの表面を這い、石の断面が微かに震える。粒子が引き寄せられるように動き始め、ぱき、ぱきと小さな音が連なった。石が、再び繋がっていく。
数秒。ノアが手を離すと、ひび割れは消えていた。壁の表面はなめらかで、まるで最初から亀裂などなかったかのように見える。
ノアが振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、得意げ、という表現が一番近い。普段の無表情からは想像もできない、自分の技を見せる時の職人の顔。ほんの一瞬だけだったが、私は見逃さなかった。
「……すごい」
声が震えた。壁が蘇った。二十年の傷が、この人の手で消えた。
「この魔法で一室の壁と床はやれる。天井は二日かかるが。ただし、見た目は直せても建物の骨格は直せない。構造を理解していない状態で表面だけ直すと、かえって弱くなる」
「それなら大丈夫です。この旅館の骨格を隅から隅まで知っている棟梁が、この町にいますから」
ノアは少し驚いた顔をして、それから目を細めた。
「……なるほど。だから酒浸りの大工を調べていたのか」
「コンサルタントの基本は現場調査です」
壁の前に二人で立っていた。ノアの魔法で蘇った壁。その隣には、私が一晩かけて描いた設計図。直せる力と、描ける力。二つが揃えば、この旅館は動き出す。
「……最高の共同経営者、見つけた」
「共同経営者とは言っていない」
ノアは目を逸らした。でも、口元がわずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。
ノアが地脈調査に出かけた後、私は一人で壁の前に立った。
今度の数字は、誰かのためじゃない。私の宿のためのものだ。
壁の右下、まだ余白が残っている隅に、炭筆で小さく書いた。
『銀泉楼。女将:セラフィーナ』
書いた文字を見つめて、唇を噛んだ。涙は出なかった。代わりに、胸の奥で静かに火が燃えるのを感じた。
階下で、扉が鳴った。
窓から覗くと、石段を登ってくる人影がある。大きな体。重い足取り。
ガルドだった。
酒場ではない方角から、銀泉楼に向かって歩いてくる。その手に、道具箱のようなものが見えた。
私はまだ、彼を口説き落としてはいない。それでも彼は、ここに来た。
フェーズ1が、始まろうとしている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「コンサルタントのプレゼン」がメインの回でした。前世で培った知識を異世界の旅館再建に注ぎ込むセラの姿を、壁一面の設計図という形で描きたかったのが、この話の出発点です。
フェーズ分けの事業計画は、現実のスタートアップでいう「MVP(Minimum Viable Product)」の考え方がベースになっています。いきなり全部やるのではなく、最小単位で価値を証明し、そこから段階的に広げていく。ビジネスの世界では当たり前の発想ですが、異世界の廃旅館に当てはめると、それ自体がファンタジーになるのが面白いところでした。
書いていて一番楽しかったのは、ノアの呼び方が「あんた」から「お前」に変わる瞬間です。台詞上では一文字の違いですが、二人の関係が「他人」から「対等なパートナー」に動いた証。ノアは感情ではなく合理性で人を認める人間なので、セラの数字と論理が彼の心を動かした、という構図が気に入っています。「最高の共同経営者見つけた」「共同経営者とは言ってない」のやり取りも、二人の距離感が出た台詞かなと。
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