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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第5話: この町の人々

 人口八十七人。平均年齢、推定五十二歳。主要産業なし。営業中の商店、四軒。

 前世の私なら、この数字を見た瞬間にスライドの右上に「撤退推奨」と赤字で打っていた。クライアントに「投資回収の見込みがありません」と報告書を出し、翌月には別の案件に移っている。

 でも今、手帳を広げた私の胸は高鳴っていた。

 この町には、数字だけでは見えないものがある。前世のコンサルは数字を見て判断した。今世のコンサルは、数字の向こう側を見に行く。


 ノアに声をかけてから出た。


「町を回ってきます。何か必要なものは?」


「ない」


 予想通りの素っ気ない返事だった。ミストヴァレーに着いて三日目。初夏の朝の空気はまだ肌寒い。ノアとの会話は相変わらず必要最低限だ。顔を合わせれば「おはよう」の代わりに地脈のデータの質問をし、「おやすみ」の代わりに分析結果を交換する。

 奇妙だが、ビジネスパートナーとしては悪くない関係かもしれない。


 石段を下り、町に向かった。




 最初の発見は、町外れの廃屋の裏だった。


 路地を歩いていると、微かに煮込み料理の匂いがした。こんな場所で? 誰もいないはずの区画だ。

 匂いを辿ると、崩れかけた石壁の裏に小さな焚き火があった。三脚に吊るされた鉄鍋から湯気が立ち上っている。

 鍋の前に、少年が一人座っていた。


 栗色の短髪に、大きすぎるエプロン。真剣な顔で鍋を覗き込み、木の匙で味見しては首を振っている。何度も、何度も。


「あの、すみません」


 少年が跳び上がった。驚いた拍子に匙を落とす。


「わっ! なっ、だ、誰!?」


「ごめんなさい、驚かせて。いい匂いがしたから」


「い、いい匂い?」


 少年は警戒しながらも少し嬉しそうな顔をした。後でリュカ・トルネと名乗った。


「味見、させてもらってもいい?」


 リュカは迷ったが、新しい匙を差し出した。


 鍋の中は谷鱒たにますのアラと根菜の煮込みだった。琥珀色の出汁にアラの旨味が溶け込み、素朴だが食欲をそそる匂い。スープを一口すくって口に含んだ。


 目を閉じた。


 旨味の層が、三つ。いや、四つある。魚のアラの深い味、根菜の甘み、それと……


「……この香りは何?」


銀泉草ぎんせんそうっす。源泉の近くに生えてる草で、親父がよく使ってた」


 銀泉草。清涼感のある、微かに甘い香り。スープの奥から立ち上って、鼻腔に広がる。前世で食べた箱根のある旅館の出汁に、よく似ていた。

 思わず笑みがこぼれた。この味を知っている舌を持つ少年が、こんな町外れで鍋を振っている。コンサルとしての直感が、背筋を走り抜けた。


「でも全然ダメなんす」


 リュカが悔しそうに言った。


「親父の味には全然届かねぇ。何が違うのかわかんねぇ……」


「お父さん?」


「ヨハン・トルネ。銀泉楼の料理長だった人……っす」


 銀泉楼の料理長の息子。


「リュカ。一つ試していい?」


「え?」


「塩を、最後に入れてるでしょう? 最初にも少し入れてみて」


 リュカが怪訝な顔をしたが、言われた通りにした。鍋に少量の塩を加えて混ぜ、しばらく煮てから味見する。


 リュカの目が見開かれた。


「え……嘘だろ……味が、締まった……」


「塩は味を引き出す触媒なの。最初に少し入れることで、食材の旨味が出やすくなる。最後の塩は味の調整」


「なんでそんなこと知ってるんすか!?」


「コンサルの勘よ」


 本当は前世の知識だ。二百軒の旅館を回れば、料理人の技術論も自然と覚える。舌で味を理解し、理屈で原因を突き止める。コンサルの真骨頂だ。


 手帳にこっそりメモした。


 『人材発見(1):リュカ・トルネ、16歳。銀泉楼・元料理長の息子。味覚は本物。出汁の層が四つ聞き分けられる舌を持っている。技術は未熟だが、素材への感覚は天才的。父のレシピ手帳あり。育てれば、この旅館の厨房を任せられる逸材』




 次は町の酒場だった。


 昼間から暖簾のれんが出ている小さな店。中に入ると、薄暗い店内で大柄な男が一人、カウンターに突っ伏していた。

 白髪交じりの短髪に鉢巻き。がっしりした腕に無数の傷跡。職人の手だ。


「すみません、銀泉楼を知っている方を探しているんですが」


 男がのろのろと顔を上げた。鉄色の目が、焦点の合わないまま私を見た。酒臭い。


「……銀泉楼だと?」


「はい。私、銀泉楼の新しい所有者で」


「知ってるも何もねぇ」


 男——ガルド・ヘフナーは、酒杯を掴んだまま低くうなった。


「じいさんが建てて、親父が直して、俺が風呂を広げた。あの建物は俺の血だ」


 三代の大工が手がけた旅館。ガルド自身が大浴場の増築をしたという。


「直す?」


 ガルドが鼻で笑った。


「馬鹿言え。あんな廃墟、もう手遅れだ。柱は腐り、壁は崩れ、屋根は穴だらけだろうが」


「柱はまだ生きていました」


 ガルドの手が止まった。


「……何だと?」


「正面の柱四本、全部叩いて確認しました。魔法建築の恩恵で、芯はしっかりしています。二階のはりもです。外側は風化していますが、構造体は健全です」


 ガルドの鉄色の目が、一瞬だけ別のものになった。職人が建物の話を聞いたときの——あの目だ。

 でもすぐに視線を逸らし、酒をあおった。


「……素人の見立てなんぞ、あてにならん」


 それ以上は話してくれなかった。背中を向けられ、会話を打ち切られた。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。リュカの時のような発見の喜びはなく、厚い壁に跳ね返された感覚だけが残った。

 でも、あの一瞬は見逃さない。あの目は、建物をとっくに諦めた人間の目ではなかった。


 『人材発見(2):ガルド・ヘフナー、52歳。大工棟梁。銀泉楼を三代で建てた一家の当主。腕は一級。酒浸りだが、建物の話になると目が変わる。心の奥ではまだ銀泉楼を気にかけている。「柱は生きている」という言葉に反応した。ただし、今は近づけない。時間が要る』




 昼食はハンナの「霧亭」で取った。


 小さな食堂。カウンター六席と、奥に座敷が二つ。白髪の老婦人——ハンナが一人で切り盛りしている。

 定食を頼んだ。根菜の煮物、焼き魚、漬物、味噌汁。シンプルだが、一口食べて背筋が伸びた。


 旨い。

 箸が止まらなかった。煮物の味が口の中に広がる。根菜の甘み、出汁のコク、醤油の深み。この一皿だけで、作った人間の腕がわかる。


 素材の味を殺さない、堅実な味付け。前世で言う「おふくろの味」……いや、それ以上だ。料理人としての確かな腕が、何気ない定食の一品一品に宿っている。


「ハンナさん」


「何だい」


「この煮物、火の入れ方が絶妙ですね。根菜の芯がほんの少しだけ残してあるでしょう? 食感を殺さないための計算だ」


 ハンナが私を見た。灰色の目が、初めてちゃんと私を捉えた。


「……料理がわかるのかい、お嬢」


 声のトーンが変わった。ハンナが初めて私に興味を示した瞬間だった。


「少しだけ。銀泉楼を再建するつもりなんです」


「そうかい」


 ハンナは無表情のまま背を向けた。冷たいが、追い出さない。


「……ローザ様もね」


 ぽつりと、背中越しに聞こえた。


「あの方も、料理の火入れにうるさかったよ。芯が残っているのを見つけると、黙って自分で鍋の前に立ったもんさ」


「ローザ様?」


「昔の話だよ」


 それきり口を閉ざした。でも、その横顔に浮かんだ表情は、さっきまでの無愛想とは明らかに違っていた。ほんの一瞬、灰色の目に淡い光が宿ったのを、私は見逃さなかった。


 奥で皿を洗う人影が見えた。黒髪の長身の女性。地味な服を着ているが、立ち居振る舞いが異様に洗練されている。皿を持つ手の角度、歩く姿勢。客がカウンターの湯呑みに手を伸ばす直前に、さりげなく水差しを差し出す——あの動きは訓練された接客のプロだ。

 目が合いそうになると、女性はすっと視線を外して奥に引っ込んだ。


 あの人、何者だ?


 聞こうとしたが、ハンナが定食のおかわりを無言で出してきたので、そちらに集中した。食べっぷりを見て、ハンナの口角がほんの少しだけ上がった。ほんの一瞬だったが、確かに見えた。


「ごちそうさまでした。本当に美味しかった」


「ふん、お世辞なんて要らないよ。腹が減ったらまたおいで」


 ぶっきらぼうだったが、その声にはどこか温かいものが混じっていた。ガルドに壁を突きつけられた後だからかもしれない。ハンナの言葉が、じわりと胸に染みた。


 『人材発見(3):ハンナ・ベルクヴィスト、推定70代。霧亭の店主。料理の腕前は確か。銀泉楼の記憶を持っている——「ローザ様」の名前を口にした。元スタッフの可能性大。現時点では非協力的だが、敵意はない。「またおいで」は受け入れの兆し。要・関係構築』


 『気になる人物:霧亭の手伝い。黒髪長身の女性。名前不明。客の動線を先読みして動ける所作。王都の高級旅館で見るような接客のプロ。何か背景がありそう。要観察』


 食後、町をもう一周歩いた。

 川沿いの廃墟が続く通りに、一軒だけ花の咲いている家があった。窓辺に小さな鉢植え。誰かが水をやっている。衰退した町にも、暮らしの温もりは残っている。

 その先で荷車を修理していた老人に声をかけると、目を逸らされた。

「店を開く気はないんですか?」と聞くと、老人は小さく笑った。

「昔、甥がパン屋を始めようとしてな。書類が足りねぇって何度も突き返されて、最後は税まで上がった。挑む奴から先に潰れる町だよ」

 言い終えると、老人は金具を打つ音をわざと大きくした。これ以上は話すな、という合図だった。


 胸の奥が冷えた。旅館の再建だけじゃない。この町には、挑戦そのものを阻む構造がある。前世で何度も見た光景だ。衰退した観光地の共通パターン。新規参入のハードルが異常に高く、残った住民は諦め、若者は出ていく。

 本当にできるのか。この町を、私一人の力で変えられるのか。

 手帳を握る指先に、一瞬だけ力が入りすぎた。


 ……いや。一人じゃない。リュカがいた。ガルドの目があった。ハンナが「またおいで」と言った。




 夕方。石段を登って銀泉楼に戻る。


 ノアが研究室にいた。今日は地下で計測をしていたらしく、靴が泥で汚れている。


「ただいま」


「……ああ」


 廊下の窓辺に腰掛けて、手帳のメモを整理する。ノアが通りかかったので、今日の調査結果を共有した。


「数字で見てみましょう。人口八十七人。平均年齢、推定で五十二歳。主要産業なし。営業中の商店が四軒。普通に見たら絶望的な数字ね」


「だろう」


「でもね、この町、人材がいる」


 ノアが足を止めた。


「料理人の卵がいた。十六歳で、味覚が天才的。元料理長の息子で、父のレシピ手帳も持ってる。建築の棟梁もいた。銀泉楼を三代で建てた職人の当主。酒浸りだけど、腕は一級」


「それが何だ」


「人材は最も替えの利かない資源よ。箱は作れても、人は作れない。この町には、旅館を蘇らせるための人が眠っているだけで、ちゃんといる」


 ノアは何も答えなかった。ただ一瞬だけ、地図を見る目と同じ——何かを測るような目で、私を見た。


 夜。手帳の新しいページを開いて書いた。


 『収支計画(初月)。収入:ゼロ。支出:食費・日用品=銀貨15枚(自炊と野草採集で極限まで切り詰める)。修復費:ゼロ(労働力は自分一人)。課題:初期投資の原資がない。解決策……まず一室だけ直して、最小限の宿泊サービスを実証する。客一人でいい。一泊の売上が立てば、全てが始まる』


 炭筆を置いた。数字を並べた手帳を見つめる。

 たった銀貨15枚の持ち出し生活。手元の資金は有限で、時間も限られている。客が来なければ、この計画は数ヶ月で干上がる。

 それでも。

 鍋を振るリュカの真剣な目。ガルドの一瞬の揺らぎ。ハンナの「またおいで」。

 この町には、まだ火種がある。あとは、それに息を吹き込むだけだ。


 明日から、一室の修復に取りかかる。自分の手で。

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