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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第3話: 最高の物件

 苔むした石段を登った先に、それはあった。

 崩れかけた屋根、蔦に覆われた壁、割れた窓——

 「最高の物件じゃない、これ!」


 朝だった。

 昨夜は銀泉楼の玄関脇、かろうじて屋根の残っている軒下で眠った。硬い石の床に外套がいとうを敷いただけの野宿。背中が痛い。

 でも目が覚めた瞬間、痛みなんて吹き飛んだ。


 朝靄あさもやの中にたたずむ銀泉楼は、昨夜の暗がりで見たときとはまるで違った。

 朝日が東の山から差し込み、霧を透かして建物全体を柔らかく照らしている。蔦の緑と苔の緑が重なり合い、廃墟というより——森に抱かれた古城のようだった。


 手帳を開いて、物件調査を始める。


 まず外観。

 正面の柱は四本。太さは直径五十センチ以上。前世の感覚で言えば、国産の巨木を使った本格的な和風建築——いや、この世界では魔法建築か。

 柱に手を触れた。冷たい石の表面の下に、微かな硬さが残っている。登記上は木造でも、柱材は石化強化されていて石造同等の硬度を持っている。これなら二十年の風化にも耐える。


 「基礎は生きてる……!」


 壁を叩いてみる。中空の音がしない。詰まっている。構造体は健全だ。

 屋根は一部が陥没しているが、全体の三分の二は形を保っている。修復不可能ではない。


 建物の中に入った。

 玄関を抜けると、広い土間があった。かつてはここが帳場ちょうばだったのだろう。カウンターの残骸と、朽ちかけた看板が壁に掛かっている。

 その奥に広間。天井が高い。はりが太く、そこにも魔法の残滓ざんしが感じられる。前世で見た木造旅館とは違う。この世界の建築は、魔法で材を強化するから根本的に耐久性が違うのだ。


 手帳に書き殴った。骨格は生きている。再建コストは新築の三分の一以下——これだけで目が輝く。


 一階を歩き回る。厨房、客間、広間、廊下——。

 廊下が長い。折れ曲がり、階段を上がり、また折れ曲がる。


 「動線が……回遊式だ」


 思わず声が出た。

 この建物は、客が歩いて楽しめるように設計されている。廊下の曲がり角ごとに窓があり、それぞれが異なる方向の景色を切り取っている。

 北の山。南の棚田。東の渓谷——。

 計算された配置だ。設計した人間は、この谷の景観を知り尽くしていた。


 二階に上がる。客室が並んでいた。

 障子しょうじは破れ、畳に相当する敷物は朽ちている。だが部屋の広さ、天井の高さ、窓の位置——一つとして同じ間取りがない。


 「全室、景色が違う……。これは、相当な腕の建築家が手がけてる」


 手帳のページが足りなくなりそうだった。三階まで見て回ると、全三十室。うち半分は修復可能と見た。残り半分は大規模な手入れが要る。


 次は大浴場だ。

 本館から渡り廊下を通って、別棟に向かう。渡り廊下の床板が何枚か抜けていて、慎重に歩いた。


 一つ目の浴場——壱の湯。

 扉を開けた瞬間、声が出た。


 「……嘘でしょ」


 岩風呂だった。

 巨大な自然石を組み上げた浴槽が広がっている。天井はなく、屋根は崩落して空が見えた。だがそのおかげで——


 目の前に、谷を一望するパノラマが広がっていた。


 湯船に浸かれば、正面に棚田と山々、眼下に渓谷と川。朝なら朝霧の中に浮かぶ絶景、夜なら満天の星空。

 前世でも、これほどのロケーションの露天風呂はそうそう見たことがない。


 震える手で手帳に書いた。たった一言——『一泊の価値がある風呂』。


 の湯の霧杉風呂、さんの湯の蒸し風呂。どちらも造りは丁寧だった。修復すれば使える。


 そして——地下への階段を見つけた。


 暗い石段を、灯り一つで降りていく。空気が変わった。湿度が上がり、微かに硫黄いおうとは違う、鉱物質の匂いがする。


 地下は回廊のようになっていた。苔むした石壁の通路が奥へと続いている。壁の苔の一部が、微かに——本当に微かに——光っている。地脈の魔力だ。


 通路の突き当たり。

 小さな石室があった。中央に窪みがあり、そこから——


 湯が、湧いていた。


 ほんの少し。指先を浸せる程度の、細い細い流れ。だが確かに、温かい水が地中から湧き出ている。


 指を浸した。


 じわり、と熱が指先から腕に伝わった。温かいだけではない。肌がすべすべになる感覚。微かな魔力の波動が、体の芯に届くような心地よさ。


 「……いい泉質」


 つぶやいてから、目を閉じた。


 前世で何度も経験した。源泉に指を浸す瞬間。温泉の「格」は、一秒で分かる。

 この源泉は——上等だ。本物の、一級品。

 弱まっている。明らかに全盛期の何分の一かしか湧いていない。でも、泉質そのものは生きている。


 目を開けた。暗い地下室で、一人。

 涙が、勝手にこぼれた。


 ——前世の夢が、ここにある。


 すぐに拭った。泣いている場合じゃない。

 手帳を開いて、震える手で書いた。


 『源泉:生存確認。湧出量は微弱だが泉質は一級。これが最大の武器。源泉が生きている限り、この旅館は蘇る可能性がある。要調査:湧出量の減少原因、回復の可能性、泉質の詳細分析』


 地下から出て、朝の光の中に立った。深呼吸。霧の混じった空気が肺を満たす。


 「やる」


 声に出した。誰もいない廃墟の前で、一人。


 「この旅館を、蘇らせる」




 町に下りた。

 まっすぐエミール町長の家に向かう。


 町長の家は、広場に面した石造りの二階建てだった。一階が役場を兼ねていて、磨りガラスの窓に『ミストヴァレー町長 エミール・ヴァイス』と掲げてある。文字は丁寧だが、建物そのものがくたびれていた。


 扉を叩く。


「は、はいっ!」


 慌てた声がして、しばらくガタガタと物音がした後、扉が開いた。

 目の前に立っていたのは、痩せた中年の男だった。薄くなった茶髪を丁寧に整え、くたびれたフォーマル服を着ている。眼鏡を神経質に直しながら、私を見た。


「あの……どちら様で? 旅のお方ですか? いえ、この町に旅の方が来るのは珍しいもので……」


「セラフィーナ・ルヴェールと申します。こちらの町長さんでしょうか?」


「え、ええ。エミール・ヴァイスです。ルヴェール……伯爵家の?」


 権利書を差し出した。エミールの薄い青色の目が大きく見開かれる。


「銀泉楼の……権利書?」


「はい。先日、父からこの物件を譲り受けました。所有権の確認と、各種手続きをお願いしたいのですが」


 エミールは権利書を何度も読み返した。封蝋の紋章を確かめ、署名を確認し、日付を見る。

 そしてようやく顔を上げた。困惑と、微かな恐怖が浮かんでいた。


「あの……ルヴェール様。この権利書が本物であることは、確認できました。ですが——あの建物を、どうなさるおつもりで?」


「再建します」


 即答した。エミールが固まった。


「は……?」


「銀泉楼を修復して、旅館として再建します。源泉はまだ生きています。建物の骨格も健全です。再建のポテンシャルは十分にある」


 エミールの眼鏡が、かくんとずり落ちた。


「い、いえ、あの……お気持ちはわかりますが、ルヴェール様。あの廃墟を再建するなんて——無理ですよ。人も、お金も、何もかも足りません。この町にはもう……」


「足りないのは知ってます」


 手帳を開いて見せた。今朝書いたばかりの分析結果。


 強みと弱みが、一枚のページに並んでいる。


 『【強み】泉質(一級)/ 建物基礎(魔法建築で堅牢)/ 景観(SSS級)/ 立地(谷全体の観光ポテンシャル)』

 『【弱み】アクセス最悪 / 資金ゼロ / 人材ゼロ / 源泉弱体化 / 知名度ゼロ』

 『【機会】競合不在 / 食材資源(調査中)/ 温泉需要は普遍的』

 『【脅威】衰退する町の空気 / 原因不明の源泉弱体化 / 不明な政治的要因(街道ルート変更の謎)』


「客観的に見れば絶望的です。弱みと脅威が強みを大きく上回っている」


 エミールの顔が、やはりそうかと言いたげに歪んだ。


「でもご覧ください——強みも確かにある」


 指でページを叩いた。


「泉質は一級。建物の基礎は魔法建築のおかげで生きている。何より、この谷の景観。あの露天風呂から見える景色だけで、一泊の価値があります」


 大事なのは、磨けば光る「核」があるかどうか。源泉と、景観と、建物の骨格——三つ揃っている。二百軒の旅館を見てきた私が言うのだから、間違いない。


「は、はあ……」


 エミールは圧倒されていた。手帳に書かれた数字と図表を、ぽかんと見つめている。


「もちろん、一度にやるつもりはありません。まず一室だけ修復して、最小コストで『この宿にはポテンシャルがある』と証明する。フェーズを分けて段階的に——」


「あ、あの、ルヴェール様」


「セラフィーナで構いません」


「セラフィーナ様。その……お一人で、ですか?」


 ふ、と笑った。


「今は一人です。でも、数字は嘘をつきません。ポテンシャルがある場所には、人が集まります」


 エミールはしばらく黙っていた。神経質に眼鏡を直し、視線を手帳と私の顔の間で行ったり来たりさせている。


「……所有権の確認手続きは、私の権限でできます。台帳に登録すれば、正式に銀泉楼はあなたの所有物件になります」


「ありがとうございます。それと、もう一つ。営業許可の手続きについても教えていただきたいのですが」


 その瞬間、エミールの顔が曇った。

 明らかに、何かを恐れている。


「営業許可は……その……」


 言い淀む。視線が泳いだ。


「この地域で旅館を営業するには、王国の巡回監査官の承認が必要でして……」


「巡回監査官?」


「はい。ディートリヒ・ハイネ殿という方です。定期的にこの地域を巡回されていて、商業施設の営業認可は全てハイネ殿の管轄で……」


 エミールの声が小さくなっていく。


「あの方が来ると、いつも何かが止まるんです。新しい商店を出そうとした人がいたんですが、認可が下りなくて……結局、諦めて町を出てしまいました」

「去年は薬草店を開こうとした夫婦がいたんです。申請は受理されたのに、追加書類が三度も来て……半年待っても許可は下りなかった。借金だけ残って、北の町へ移りました」


「どんな方なんですか? その監査官は」


 エミールの目が揺れた。答えを探すように、天井を見上げる。


「……悪い人では、ないんですが」


 歯切れの悪い答えだった。何かを言おうとして、飲み込んでいる。


「エミールさん」


「はい?」


「その監査官のことは、追々調べます。まず今日は、所有権の登録をお願いできますか?」


 エミールはほっとしたように頷いた。台帳を取り出し、慣れた手つきで手続きを進める。事務作業は確実だった。こういう人なのだろう。善良で、有能で、でも——何かに怯えている。


 手続きの最後に、エミールが呟くように言った。


「……この町に、新しい灯りが点るといいのですが」


 弱々しい声だった。でも、その目は手帳から私の顔をまっすぐ見ていた。ほんの一瞬だけ——町長としての矜持きょうじが滲んだ。


 手続きを終えて町長宅を出ると、夕方になっていた。

 西の空がだいだい色に染まっている。町の広場を横切りながら、手帳に追記した。


 『要注意人物:巡回監査官ディートリヒ・ハイネ。エミール町長が明らかに恐れている。営業許可の壁になる可能性。要情報収集。なぜ新規の商業活動が止められるのか? 街道ルート変更との関連は?』


 石段を登って銀泉楼に戻る。百段の石段も、二度目は少し楽に感じた。


 旅館の前に立つ。夕焼けに照らされた廃墟が、不思議と温かく見えた。


 「ただいま」


 言ってから、自分の言葉に驚いた。ただいま。ここに住み始めて一日も経っていないのに。

 ——でも、そうだ。ここは私の宿だ。私の場所だ。


 玄関をくぐり、昨夜と同じ軒下に荷物を置いた。今日は奥の客室を一つ、仮の寝床にしよう。埃を払えば、まだ使える部屋があるはずだ。


 廊下を歩く。自分の足音だけが響く。

 一階の突き当たり、厨房の隣にある小部屋——元は仲居の控え室か何かだろう——の戸に手をかけた。


 そのとき。


 奥の廊下の先に、灯りが見えた。


 ——灯り?


 微かな光。蝋燭ろうそくではない。もっと冷たい、青白い光。廊下の角を曲がったあたりから漏れている。


 人の気配がした。


 息を潜める。荷物を静かに下ろし、壁に手をつきながら光の方へ近づいた。

 廊下を進む。角を曲がると、光はさらに奥から漏れている。二階への階段を上がり、奥まった一室——


 扉が半開きだった。


 隙間から覗き込む。


 部屋の中には、本が積まれていた。大量の本と、見たことのない計測器具。革の鞄から溢れた地図。壁に貼られた図面。蝋燭ではなく魔法の灯りが、部屋全体を青白く照らしている。


 そして——部屋の奥に、人影。


 誰かが、ここに住んでいる。


 私の旅館に。

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