第2話: 霧の谷へ
街道から外れて三日。道はどんどん細くなり、すれ違う人もいなくなった。
——通行量ゼロ。これは、まずい。
最後の宿場町で乗合馬車を降りたのは三日前だ。そこから先は馬車の通れる道がなく、徒歩で山道を進むしかなかった。
御者は「本当にあっちに行くのかい?」と心配そうな顔をしていた。「ミストヴァレーなんて、もう何年も人が行った話を聞かねぇぞ」と。
前世の私なら、こう分析していただろう。
交通アクセスの断絶は、観光地にとって死刑宣告に等しい。どれほど優れた観光資源があっても、「行けない場所」に客は来ない。
山道を歩きながら、手帳にメモを取る。
『アクセス状況:最寄り宿場町から徒歩三日。馬車不可。荷馬は通れるが実用的でない。これだけで集客は絶望的。要改善(最優先課題の候補)』
足が痛い。令嬢の靴は山道向きではない。宿場町で買った革の編み上げ靴に履き替えてはいたが、それでも足の裏にマメが三つできた。
前世では都内を革靴で駆け回っていたから、歩くこと自体は苦にならない。けれど未舗装の山道は別だ。石に躓き、木の根に足を取られ、何度も転びそうになった。
それでも、景色は美しかった。
街道を外れた途端、世界が変わった。
深い緑の針葉樹が両側にそびえ、木漏れ日が苔むした地面に落ちる。空気は澄んで、吸い込むと胸の奥まで洗われるようだった。前世のオフィスの空調とは、次元が違う。
小川がいくつも山道を横切って流れ、水は驚くほど透き通っている。手を浸すと冷たく、わずかに甘みがあった。
手帳に書く。
『自然環境:優秀。原生林と清流のポテンシャルは高い。前世の奥入瀬渓流に匹敵するか。遊歩道を整備すれば、これだけで半日コンテンツになり得る』
書いてから、苦笑した。まだ目的地にも着いていないのに、もう観光プランを考えている。これだから元コンサルは困る。
そういえば、最後にまともな食事をしたのはいつだったか。宿場町を出る前の朝に、干し肉とパンを半分ずつ齧ったきりだ。クラーラがくれた蜂蜜のクッキーも、昨日の午後で食べ尽くした。
腹は確実に空いているはずなのに、不思議と気にならなかった。森を歩くたびに頭の中で計画が膨らんで、空腹が追いつけない。前世でもそうだった。クライアントの旅館に向かう車の中で、企画書に没頭して昼食を忘れることが何度もあった。
三日目の午後。
長い上り坂を登り切ると、そこは峠だった。風化した石柱が道の脇に立っている。彫り込まれた文字を読むと——
『エルデン峠 ミストヴァレー温泉郷入口』
温泉郷入口。
その言葉に心臓が跳ねた。三日間歩いた疲労が、一瞬で消し飛んだ。
石柱の根元に花が供えてあった。もう枯れているが、誰かがここに花を置いた。この峠を通る人間がいる証拠だ。完全に忘れ去られたわけではない。
峠の先は下り坂だった。一歩、また一歩と降りていくと、足元から白い靄がわき上がり始めた。
霧が、湧いた。
突然だった。あっという間に視界を包む。冷たくはない。むしろほんのりと温かく、肌に触れると微かに湿る。
前世の知識が囁く。温泉地特有の蒸気霧だ。地中の温泉が気化して地表に漂う現象。これがあるということは、地下に温泉がある証拠。しかもこの霧の温かさと濃さから推察するに、かなり大規模な源泉がある。
霧の中を下りていく。十分ほど歩くと、突然視界が開けた。
息を呑んだ。
眼下に谷が広がっていた。
北と南を山に挟まれた盆地。中央を一筋の川が蛇行して流れ、南の斜面には段々になった棚田が連なっている。
夕方の陽が斜めに差し込み、谷全体を琥珀色に染めていた。川面が光を反し、霧がその光を拡散して、谷の空気そのものが淡く輝いている。
美しい。
前世で何百という温泉地を見てきたけれど、この景色は格別だった。
スケール感、自然の調和、光と霧の演出。計算では作れない、天然の絶景。
手帳を開く手が震えていた。
『立地評価:S。景観だけで宿泊動機になり得る。谷全体の雰囲気づくりが秀逸。これは——磨けば、化ける』
峠道を下り、谷底に近づくにつれて町の輪郭が見えてきた。
石畳の小さな広場。その周りに建物が肩を寄せ合うように並んでいる。
だが——
店の半分以上は閉まっていた。
板を打ち付けられた窓。色褪せた看板。軒先に草が伸び放題の空き家。
広場の中央に噴水があったが、水は細く、かろうじて流れている程度だ。
人の姿もまばらだった。夕方だというのに、通りを歩いているのは数人の老人だけ。
町の入口に木の看板が立っていた。
『ようこそ 霧の谷 ミストヴァレーへ』
文字は半分以上消えかけ、看板自体も傾いている。留め具が一つ外れて、風が吹くたびにぎいぎいと揺れた。
『町の現状(第一印象):人口推定八十から百。商店五軒以下(営業中)。宿泊施設なし。インフラ老朽化。高齢化率推定六十パーセント以上。活気指数……測定不能(ゼロに近い)』
書いていて、胸が痛くなった。数字にすると残酷だ。この町は、死にかけている。
広場を横切ると、一軒だけ灯りの点いた建物があった。看板には『霧亭』と書かれている。食堂のようだった。開け放たれた窓から、料理の匂いが漏れてくる。温かく、どこか懐かしい匂い。
覗き込むと、奥のカウンターで白髪の老婦人が鍋を掻き混ぜているのが見えた。背筋が真っ直ぐで、厳しそうな横顔。
三日ぶりのまともな食事の匂い。腹の虫が鳴りそうになった。
だが、足が止まらなかった。頭の中が銀泉楼のことでいっぱいだった。権利書に書かれた三千坪の敷地、大浴場三棟、木造三階建ての本館。三日間ずっと想像し続けてきたその実物が、この丘の上にある。先に見たい。先に、この目で確かめたい。コンサルの本能が空腹を押し退けていた。
目が合いそうになって、慌てて通り過ぎた。
後でちゃんと挨拶に来よう。あの食堂は町の情報収集にも使える。
看板の裏に回り込んだとき、古い案内板が釘で打ち付けてあるのに気づいた。木の板に薄く彫り込まれた文字。
『エルデン街道 → この先 通行止め』
案内板は相当古い。文字は風化してほとんど読めない。だが「通行止め」の部分だけ、わずかに塗料が残っていた。
通行止め?
エルデン街道は、かつてこの町を通る主要街道だったはずだ。それがルート変更された。権利書の添付資料にそう書いてあった。
街道のルート変更。それが町の衰退の原因とされている。
だが、なぜ?
街道のルート変更は、通常、地形の問題か政治的な判断で行われる。峠道を歩いた感覚では、地形的に通行不能な場所はなかった。むしろ、ルートとしてはこの谷を通る方が自然だ。
政治的な判断……。誰が、何のために?
首を傾げながら先に進む。今は情報が足りない。後で調べよう。
町を抜け、ゆるやかな坂道を登っていく。石段が現れた。苔に覆われて滑りやすいが、段の一つ一つが広く、造りがしっかりしている。
石段を登りながら数えた。二十段、四十段、六十段……。全部で百段ほどあった。前世なら「エレベーターの設置を検討してください」と進言するところだ。だが異世界にエレベーターはない。
石段自体は立派だった。一段ごとに丁寧に切り出された石が使われ、両脇には灯籠の台座が並んでいる。灯りは消えているが、かつてはこの石段全体が照らされていたのだろう。
導入演出としては悪くない。石段を登るという行為自体が、日常から非日常への切り替えスイッチになる。前世でも「階段のある旅館」は評価が高かった。
息を切らせて石段を登り切ると、丘の上に出た。
振り返れば、谷全体が一望できる。夕焼けに染まる棚田、蛇行する銀色の川、霧に煙る山々。
そして前を向くと。
霧の向こうに、巨大な建物のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
崩れかけた屋根の輪郭。蔦に覆われた壁。割れた窓から覗く暗い内部。
正面の柱は太く、苔が張りついているが、まだしっかりと建っている。玄関の上には、風雨に晒されて読めなくなった扁額が掛かっていた。
目を凝らす。
銀泉楼。
かろうじて、三文字が読み取れた。
膝が震えた。疲労のせいではない。
前世の記憶がよぎった。蛍光灯の下、デスクに積まれたクライアントの企画書。二百軒の旅館を再建した。数字と戦略を武器に、他人の夢を形にし続けた。でも自分の宿は結局、一軒も作れなかった。企画書だけが増えていって、三十四歳の冬にあの白い光の中で終わった。
目の奥が、熱くなった。
あの日、最後に思ったこと。「一度でいいから、自分の手で宿を作りたかった」。
それが今、目の前にある。廃墟で、蔦だらけで、屋根は崩れかけていて。でも確かに、ここにある。
三日間歩いて、ようやくたどり着いた。これが、私の旅館。
霧が流れて、建物の全容が一瞬だけ見えた。
三階建ての本館。その左右に延びる別棟。奥に大きな浴場らしい建物が複数。庭は荒れ放題だが、広い。
手帳を取り出す手が、また震えた。でも今度は、興奮だった。
前世では「見ている側」でしかなかった。コンサルタントは所詮、助言者だ。どれだけ完璧な戦略を描いても、宿は自分のものにはならない。
でも今度は違う。この権利書の名義人は、セラフィーナ・ルヴェール。私だ。
『現地到着。物件外観調査——第一印象。規模:想定以上。建物の基礎構造は生きている可能性あり(柱が残っている)。敷地面積:権利書の記載通りなら三千坪。景観:谷を一望。東に棚田、北に山、南に連山。これだけで一泊の価値がある。明朝、内部調査を実施する』
最後の一行を書き加えた。
『最高の物件かもしれない』
日が沈みかけている。今夜はこの建物のどこかで一晩を明かすしかない。
荷物を下ろし、崩れた玄関をくぐった。そのとき、ようやく腹の虫が盛大に鳴った。あの食堂の匂いを思い出す。三日間ろくに食べていなかったことを、今になって体が訴えている。
手帳を閉じて笑った。まったく、食事も忘れて物件に夢中になるなんて。前世から何も変わっていない。
足元に気をつけながら、暗い内部に踏み入る。月明かりが壊れた窓から差し込んで、埃の粒子が銀色に舞っている。
埃と苔の匂い。そしてそれに混じって、微かに温かい空気が、地下から立ち上ってきた。
足元を探ると、石畳の隙間からほんのりと熱を帯びた風が漏れている。もしこれが源泉由来のものなら。
その「もし」が胸を締めつけた。期待と不安が等分に混ざっている。二十年前に潰れた旅館だ。源泉が枯れていたとしても、おかしくはない。
明日、確かめよう。地下に降りて、この目で。
壁に背をもたせ、外套を引き寄せた。石の床は固くて冷たいが、不思議と心は凪いでいた。
窓の外に、霧に滲んだ星が見える。前世のオフィスの窓からは、ビルの灯りしか見えなかった。
ここで眠ろう。
明日、全てが始まる。この温かい空気の正体を確かめるところから。
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