第1話: 追放の朝
「お前に残すものなど何もないが——まあ、あの廃墟の権利書くらいはくれてやる」
父の声を聞きながら、私の頭はもう別のことを考えていた。
——廃墟。立地は? 築年数は? 周辺環境は?
早朝のルヴェール伯爵邸は、まだ薄闇に沈んでいた。庭の白梅がようやく綻び始めた頃。朝の空気にはまだ冬の名残があって、吐く息がうっすらと白い。
使用人たちが動き始める前の、しんと冷えた時間。私は自室で最後の荷物を詰めていた。
荷物と言っても大したものはない。動きやすい服が三着。下着の替え。洗面具。それと——革表紙の手帳が一冊。
宝飾品は一切持ち出さなかった。持ち出す気もなかった。宝石は食べられないが、知識は腐らない。
手帳は前世から持ち越した唯一の武器だ。いや、この世界に転生してから自分で買ったものだけれど、中に詰め込まれた知識は確かに前の人生のもの。旅館の動線設計、顧客分析の手法、価格戦略の基礎——コンサルタントとして十年間、二百軒の宿を見て回った記録の断片。
三ヶ月前のことを思い出す。
父が再婚したのは、私が十七のときだった。新しい母——イルマは商家の出で、金銭感覚に長け、何よりも野心の塊のような女性だった。
彼女が連れてきた娘、クラーラは私より二つ下。柔らかな金髪に青い瞳、令嬢然とした物腰。社交界の花と呼ばれるのにそう時間はかからなかった。
対する私は——数字ばかり追いかける変わり者の長女。領地の会計帳簿を読み、税収の最適化案を父に出し、商人との取引条件を交渉する。来月の領地税収報告書だって、実質的に書いていたのは私だ。予算管理の台帳、商会との契約更新の段取り、すべて私の手帳に記されている。
伯爵令嬢としては、まったくもって型破りだった。
イルマはそんな私を目障りに感じたのだろう。決定的だったのは、三ヶ月前の秋の収穫祭の晩餐会だ。イルマが客人の前で「クラーラが領地の会計を学びたいと申しております」と切り出した。父が「そうか、ではセラフィーナに教わるといい」と言ったのを受けて、イルマは微笑んだ。
——「いえ、セラフィーナ様にはもう十分ご負担をかけました。クラーラに引き継がせ、セラフィーナ様には辺境でゆっくりご静養いただくのがよろしいかと」
衆目の前で、退路を断つ一手。見事だった。父は頷くしかなかった。
そして三ヶ月——領地経営の会議から外され、社交の場にも呼ばれなくなり、最後には追い出される日が来た。
「セラフィーナ」
書斎の扉を開けると、父が椅子に深く腰掛けていた。窓の外はまだ暗い。机の上の燭台だけが、疲れた顔を照らしている。
父は昔から決断の遅い人だった。でも、いったん誰かに流されると止まらない。今の父を動かしているのは、イルマの意志だ。
「これが権利書だ」
差し出された羊皮紙を受け取る。古びた封蝋には、見覚えのない紋章が押されていた。
「ミストヴァレーの温泉郷にある旅館の——まあ、二十年前に潰れた廃墟だがな。お前の母方の祖母の縁で、うちの家に権利だけが転がり込んできた」
父の目は私を見ていなかった。視線は机の上の書類に落ちている。罪悪感があるのかもしれない。でも、それを表に出すほどの強さも、この人にはない。
「辺境も辺境だ。使い道なんぞないが、お前の好きにしろ」
好きに、しろ。
その言葉が不思議と軽く響いた。
権利書を広げる。黄ばんだ紙の上に、几帳面な文字で記されていた。
——所在地:ミストヴァレー温泉郷。物件名:銀泉楼。構造:木造三階建、別棟二棟、大浴場三棟。敷地面積:約三千坪。
三千坪。
大浴場が三つ。
——心臓が、跳ねた。
同時に、胸の奥で何かが弾けた。前世の血が沸騰するように全身を駆け巡る。三千坪に大浴場三棟——これは小さな温泉旅館じゃない。本格的なリゾート施設の規模だ。
最高じゃない、これ。
「……父さま」
「なんだ」
「この旅館、全盛期の客室数は?」
「は? そんなこと知るか。古い廃墟だぞ。行くだけ無駄だ」
数字で見てみると——
つい口に出していた。
「敷地三千坪で木造三階建てなら、客室は二十から三十。大浴場が三つもあるなら、それぞれコンセプトが違うはず。露天、内湯、蒸し風呂——」
父が怪訝な顔で私を見た。
「……お前、何を言っている」
しまった。つい、前世の分析癖が出た。
伯爵令嬢が旅館の客室数を逆算するのは、確かにおかしい。でも口が止まらなかった。前世の血が騒ぐ。
「いえ、なんでもありません。ありがたく頂戴します」
権利書を丁寧に折り畳み、大切に手帳に挟んだ。父は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
それが、私と父の最後の会話だった。
——私が抜ければ、来月の税収報告書は誰が書くのだろう。商会との契約更新も、秋の収支決算も。クラーラにそれができるとは思えない。いや、イルマが引き継ぐのか。あの人は計算には強い。だが領民との信頼関係は数字だけでは買えない。
まあ、もう私の問題ではない。
邸の裏口から出る。正面玄関は使わせてもらえなかった。イルマの指示だろう。
廊下を歩いていると、角でクラーラと擦れ違った。義妹は寝巻き姿で、目元が少し赤い。泣いていたのだろうか。手に何かを握っている。
「……お姉様」
クラーラが私の前に立ち塞がった。しばらく口を開いたり閉じたりしていたが、やがて意を決したように手を差し出した。
小さな菓子包みだった。薄紙に包まれた焼き菓子が三つ。領地の名産である蜂蜜のクッキー。
「道中、お腹が空いたら。その……長旅になるでしょう?」
クラーラの声には、同情でも悪意でもない、よくわからない感情が混じっていた。この子自身は、たぶん悪い子ではない。母親の駒にされているだけだ。
「……ありがとう、クラーラ」
受け取って、荷物に入れた。菓子包みは温かかった。焼きたてだ。こんな早朝にわざわざ——いつから起きていたのだろう。
「お姉様、本当に行くの? あんな辺境に一人で……」
「ええ。行ってきます」
いつか分かる日が来るだろう。私がいなくなった領地がどうなるか。帳簿の数字が狂い始め、商人との交渉が行き詰まり、領民の不満が溜まっていく。そのとき初めて、この子は母親がやったことの意味を知る。
でも今は、そんなことを言葉にする必要はない。
「元気でね」
それだけ答えて、足を止めなかった。
まだ暗い中庭を横切ると、厩舎の脇に馬車が一台停まっていた。辺境行きの乗合馬車だ。御者は欠伸をしながら馬に水をやっている。
「お客さん? ミストヴァレー方面は途中までしか行けねぇぞ。あの辺、もう街道が通ってねぇから」
街道が通っていない。
——つまり、公共交通の終点から先は自力。アクセスの悪さは集客における致命的なボトルネック。
また分析してしまう。
「構いません。途中まででお願いします」
「本当にあっちに行くのかい?」
御者が馬の首を撫でながら、怪訝そうにこちらを見た。
「ミストヴァレーなんて、もう何年も人が行った話を聞かねぇぞ。昔は賑わっていたらしいがな、もう二十年は前の話だ」
「二十年前までは賑わっていた?」
「ああ、俺が駆け出しの頃は、あの温泉郷行きの便が週に何本もあったもんだ。旅人も商人も、こぞって行ったもんだが——いつの間にか街道が付け替えられてな。理由は知らねぇ。お偉いさんの都合だろうよ」
街道の付け替え。やはり、それが衰退の引き金だ。
——だが二十年前まで週に何本も便があったなら、需要自体は存在していたことになる。インフラさえ整えば、ポテンシャルはある。
「若いお嬢さんが一人で行くような場所じゃねぇが……まあ、お客さんの行き先に口は出さねぇよ」
御者は肩をすくめて、馬車の扉を開けてくれた。
荷物を載せ、馬車に乗り込む。硬い木の座席。隙間風。王都の豪華な馬車とは比べるべくもない。
窓の外にルヴェール邸の灯りが見えた。三階の窓に、人影が一つ。クラーラだろうか。あるいはイルマか。
——振り返る必要はない。
手帳を開いた。新しいページに、炭筆で書き始める。
『物件調査——ミストヴァレー、温泉郷(元)。所在:王国東端・山間盆地。まずは現地確認。チェック項目:泉質、建物の構造的健全性、周辺インフラ、地域人口、競合施設の有無』
書きながら、前世の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
宮原咲良。三十四歳。旅館コンサルタント。
十年で二百軒。赤字旅館を黒字に変え、廃業寸前の宿を予約の取れない名宿に変えた。数字を読み、戦略を立て、人を動かす。それが私の仕事だった。
でも——いつも「見ている側」だった。いつか、自分の手で、宿を作りたい。一から。自分の理想を全部詰め込んだ、世界で一つだけの宿を。
恋愛どころではなかった——いや、興味がなかったわけじゃない。ただ、旅館のことを考えている方がずっと楽しかった。クライアントの図面を引いているときの高揚は、どんなデートにも勝った。我ながら、業の深い人生だったと思う。
その夢は叶わなかった。三十四歳の冬、デスクの上で意識を失い、そのまま目を覚まさなかった。過労死。たった一行で片づけられる、味気ない結末。
次に目を開けたとき、私は赤ん坊だった。
異世界の伯爵令嬢、セラフィーナ・ルヴェール。魔法があり、温泉があり、地脈と呼ばれる大地の力がある世界。前世の記憶は成長するにつれて鮮明になり、気づけば私は領地の経営を数字で回す「変わった令嬢」になっていた。
そして今。
追放。廃墟の権利書。辺境の温泉郷。
普通なら、泣くところだろう。
令嬢が何もない辺境に一人で送られる。理不尽だ。悔しい。惨めだ。
——でも。
馬車の小さな窓を開けた。早朝の冷たい風が頬を撫でる。白梅の香りがかすかに届いた。
でも私は、笑っていた。
ただ、笑いながらも指先は冷えていた。前世で一度、夢のために体を壊した。あの蛍光灯の白い光の下で終わる結末だけは、もう二度と選ばない。
今度は走り方を間違えない。夢に殉じるんじゃない。夢と生きる。
廃墟だろうと何だろうと構わない。大浴場が三つもある旅館の権利書が、今この手の中にある。温泉郷。地脈の魔力。三千坪の敷地。
前世で叶えられなかった夢が——今まさに、目の前に転がり込んできた。
手帳のページをめくり、次のページに大きく書いた。
『プロジェクト名:銀泉楼再建』
その下に、小さく。
『——今度こそ、自分の手で』
馬車が走り出す。王都の石畳が砂利道に変わり、景色が平野へと開けていく。
隣の席で商人が居眠りしている。荷台には樽と布の包みが積まれ、馬車が揺れるたびにがたがたと音を立てた。
窓の外を流れていく景色——麦畑、果樹園、小さな集落。どこにでもある平凡な風景が、今日はやけに輝いて見えた。
追放された。何もかも失った。でも——手帳がある。知識がある。そして目的地がある。
振り返らなかった。
前を向いた。手帳を握りしめて、ただ前だけを。
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