9.水神の滝
「アリアのところに案内して!」
小妖精はルティの言葉に泣き顔のまま頷くと、すぐに背を向け羽ばたきだす。
ぐずぐずしている暇など、なかったのに。
走り駆け出したルティの後を、わけが分からないながらもクレイもついてくる。
きっとこの先に、赤ん坊がいると直感しているのだろう。
ルティは泣きたい気持ちで先導する小妖精の背を見た。
きっとこれが、アリアにとって最良の道。それがたとえ、過去の自分を殺すことだったとしても。それでも、アリア自身が望んだこと。
ルティは走っている。
アリアが赤ん坊に手をかけてしまわないように。止めるために。
―――でも、それは正しいの?
赤ん坊を助けることは、クレイを殺すこと。
今生きている村人たちを何十年か先、見殺しにすること。
そして。
―――アリアの心に、深い傷をつけること。
「―――ルティ!?」
急に立ち止まったルティに、ミレーシャが驚いたように振り返った。
先を行く小妖精も慌てて振り返り、心配そうに見ている。
「どうしたの?早くアリアを探さなくていいの?」
探さなくてはいけない。それは分かってる。でも。
「分からないの…」
どうしていいかわからない。言った途端、顔がくしゃりと歪む。
目頭が熱くなって涙が溢れた。
「アリアを見つけて、どうすればいいのかわからない…アリアはただ守りたいだけなのに。
自分の大事な人を守りたいのに。どうやって止めたら良いの…?
そこまで必死なアリアを、どうしてあげたら良いの?」
自分の命よりも守りたいものがあると決めたアリアを、どうして止める権利があるんだろう。
アリアの深い苦しみを、あの哀しげな横顔を知っているから、ルティは動けない。
「―――行こう?」
その時、一緒にアリアを追っていたクレイが背を押した。
「君たちになにがあったのかは分からないけど…
今は、彼女を追いかけよう?
どんな理由があれ、あの子供に何かをする気なのだとしたら、俺たちはそれを止めないといけないと思う」
難しく考えすぎるなとクレイの優しい目が言ってる気がして、ルティはまた泣きたくなった。
それと同時に気付く。
いくらアリアの前世といえど、あの月の子供はアリアとはまた別の一人の人間。
アリアが勝手に奪っていい命ではないはずだ。
―――アリアに月の子供を殺させたくない。
それが例え、残酷な願いだとしても。
ルティは頷き涙をぬぐうと、再び走り出した。
**********
山の頂から零れ落ちるようにして降る水が、夜のしじまを振り払うように断続的な水音を響かせていた。
乾いた土地にあってよくこれだけの水が集まったと感心してしまうような水面には、揺れる半月が綺麗にその姿を映し照らしていて、その場所が二倍にも明るくなったように感じてしまう。
滝と呼ぶには少し規模が小さく感じてしまうのは、やはり水の勢いが弱いせいだろうか。
よく見れば近辺に転がる岩に乾いた水草も張り付いていて、常より水位が低いことを物語っていた。
「…ここは水神の滝?」
クレイが辺りを確かめるように頭を廻らせていった。
―――スイジン?
ルティが首を傾げた所で小妖精がちょいちょいと服の裾を引っ張る。
焦った表情で水の流れ落ちてきている頂近辺を指差した。
「アリア!」
小さな人影。
頂よりはいくらか低い岩の出っ張りに、滝つぼを眼前にして一人たたずむ姿があった。
―――月の子供は!?
思わず焦ってしまったが、アリアの手にしているものを見てひとまずほっと息をつく。
その手には一抱えもある大きな包み―――月の子供を抱いていて、アリアはなにやらじっと包みの中を覗き込み、立ちすくんでいた。
「アリア!!」
叫んだ声に、びくりと反応があった。
アリアは声の先を探すように辺りを見回すと、やがて自分の遥か足元にいるルティたちを見つけ、息を呑んだ。
アリアの哀しげな視線がルティにぶつかる。
「どうしてルティ…、クレイまで…」
クレイに目をやったアリアに、明らかな狼狽の表情が浮かんだ。来て欲しくなかったのに。そう、彼女の揺れる瞳が言っていた。
「アリアお願い…月の子供を彼に返してあげて」
「だめよ。私が何をしたいのか、わかってるんでしょう?」
遠目にも、アリアの決意を込めた瞳は揺るがない。それが分かった。
「アリア…帰ろう?ジスが、待ってるわ」
ルティの言葉にアリアの顔がくしゃりと歪んだ。
けれどアリアは頑なに首を振る。
「この子を殺してしまったら、私ももうジスの元へは戻れない。
…でも、それでいいの。戻ったってきっとまたジスに迷惑をかけることになる。
どこに行っても、結局私は異質なの。言わないだけで、皆がそれに気付いてる…!」
―――ねぇルティ、月の子供にとって人の中で暮らすことは幸せじゃないのかな?
アリアの叫びに、ジスの呟きが思い出された。あれは、アリアのことを言っていたのか。
―――アリアにとって、人の中で暮らすことは幸せじゃないのかな?
ジスは、そう言いたかったんだ。そう、心配していたんだ。
「ルティ…、
私のいる村もね、ほんとはそんなに水に恵まれた土地じゃないの。
恵まれた土地じゃ、なかったはずなの…。
ジスは必死に私のことを隠そうとしてくれてる。ただの人の子供としてみてくれてるのに…どうしても皆、おかしいって気付くの。
どんなにひっそり暮らしていても、変な噂が立つの。妖精たちは放っておいてはくれないの。
雨を降らせて欲しいって…
また、ここでのことを繰り返そうとするの!」
興奮して叫んだアリアの足元から、パラパラと砂塵が落ちてくる。
ぐらりとアリアの上体が揺れた気がして、ルティは息を呑んだ。
「やめて、アリア…降りてきて…」
「良いのよルティ…これでいいの。
私も一緒に行ってあげる…これできっと、皆うまくいくわ」
独り言のように、あるいは自分に言い聞かせるように呟いたアリアの頬には、一筋の雫。
アリアはふらふらと絶壁に寄ると、水面に向かって叫んだ。
「水源と流れを守る水底の蛟…!聞こえているんでしょう、その姿を現して!」
ずん、
かすかな地鳴りとも呼べる振動が来た。
「なに…?」
次第に揺れは大きくなり、足元が揺れる。
水面にいく層もの波が現れ、しぶきが飛ぶ。振動とともに波は大きくなり、岩場にいたルティ達にも踊り狂った波の雫が飛散して来た。
水面が荒立つに連れ、見えてきたものに、ルティは我が目を疑った。
「…なに、これ…?」
「まさか、これは―――」
ルティのつぶやきとほぼ同時に、クレイも水面に現れたものを見て呟いた。
月明かりを淡く受けた水面いっぱいに広がったもの、それは―――巨大な影。
長い体を水中いっぱいに広げたその姿は、時としてルティを脅かすことのある蛇を思わせた。
こんな生き物、見たことがない。
「そんな…これは竜神?」
クレイの言葉を肯定するように小妖精が頷いた。
「ミ、ミ、ミ、ミレーシャぁ?
りゅ、リュウジンってなに!?」
思わず傍で成り行きを見守っていたミレーシャにしがみついてしまう。
―――だっておっかないんだもん!
「ん~、あれはねぇ…いうなれば昔からこの滝に住み着いてる主、ってやつよ。
ここら辺の人からは守り神みたいな感じで拝まれてたりしてるし…まぁ私達とはベッカク、ってやつね」
「ひゃあぁ…」
今いるところからじゃ巨大な影としか見えないけれど、あれ、出てきたらどうなるのかしら。
そんなことを考えてぞっとした。
…出てこなくていいかもぉ!
崖の上のアリアは、そんな水面を見てしばらく動かなかった。
気のせいか、その目には懐かしささえうかがえて、ほんの一瞬、穏やかな微笑が浮かんだのをルティは見た。
「蛟…いえ、竜神様。
私たちの身を糧として、乾いた村に豊かな水を与えて下さい――――」
グラリ、アリアの体が大きく傾いだ。
「―――妖精たち、力を貸して!」
パン、と両の手を打ち鳴らし、叫ぶ。風が、水が、大地がざわめいた。
風もないのに木々が煽られ、水しぶきがまるで意思を持っているかのように跳ね回る。
たくさんの気配はすぐそこにあるのに、だけど上手く掴めない。皆が一歩、萎縮するように引いている。
どうして!?
間に合わない、と叫びそうになった時、ふいに凛とした空気がルティの傍を駈け抜けていった気がした。
まるで、すれ違いざまに声をかけられたように。
―――良いよ。
顔を上げても、どこにも声の主は見当たらない。
けれどその声に応えるかのように、次の瞬間、水面が大きく盛り上がり始めた。
辺りを揺るがし、一面をその飛沫で白く染めるほどの勢いでその姿を現したのは竜神。
月光に滑らかに照らされた鱗の一つ一つが見える程の巨体を現した竜神は、次の瞬間、落ちてくるアリアめがけて重力に逆らうようにその体を持ち上げると大きな口を開いた。
―――たっ、食べられちゃうっ!!?
驚きに目を瞠ったのもつかの間、アリアとその腕に抱かれた月の子供の小さな体は、竜神のその裂けた大きな口の中に落ちていってしまった。
「アリア!!」
ばしゃりと、土砂降りの雨のような飛沫を撒き散らして、竜神が水面へと戻る。
その様子を呆然と見つめて、ルティはへたりとその場に座り込んだ。
「…そ、そんな…、
食べられちゃったの?」
言うと、ジワリとまぶたが熱くなる。
何も出来なかった無力感と、助けられなかったことと二人が死んでしまったという絶望感で頭が真っ白になった。
ただ、もう自分にはどうすることも出来ない、という現実だけがありありとしていて、ルティは余計に悔しくて悲しくなった。
「な、何で食べちゃうのよぅ!
竜神って守り神じゃなかったのっ、人食いなんてそんなの神様のすることじゃないじゃない!
アリアはジスのとこに帰らなきゃいけないのに、なんで、なんで…!
アリアを返してよ、返しなさいよっ
…返せばかー!!」
こうなったら、怖いとかいってられない。
竜神だろうがなんだろうが、お構いなしにルティは思いっきり泣き叫んだ。
多分、ミレーシャやクレイのほうが聞いていて青くなっただろう。
「…五月蝿いなぁ」
りん、とぐしゃぐしゃになった頭の中に響いた透明な声。
水面にいく層もの波が立ち、それがルティの目の前で止まった。
皆底から覗く大きな影。その影に線が入ったかと思うと、ゆっくりと開き、月の色によく似た巨大な目が二つ、ルティを見上げてきた。
さすがに、目があい言葉を噤む。
でもその両目から感じたのは、畏怖や恐怖ではなく、どこか安心するような暖かさだった。
竜神がすい、と水面を盛り上げ近付いてくる。
慌てたように近くにいた小妖精は逃げ出して、ミレーシャも怯えたようにしり込みしたが、ルティは反対に水際にさらに近付いた。
肩にそっと手が乗せられて、振り向けばクレイもその場に留まっていてくれた。
さすがに顔がこわばってはいるけれど、その目はじっとあがってくる竜神を見据えていた。
激しいしぶきを上げて竜神がその頭身を出す。その目だけでルティの頭一個分はありそうな巨体を前にすると、さすがに迫力があった。
「なんだかめでたい夜だって言うから起き出してみれば…一体なんだって言うのさ。
しかもそっちから呼び出しておいてバカ呼ばわりとは、迷惑極まりないね」
凛とした声が頭に響く。
―――まさかこれは…竜神?
「―――そんなことよりアリア!
アリアと月の子供は!?まさか本当に食べちゃったのっ!?」
ルティが詰め寄ると、蛟は鼻からぶふーっと水を吐き出した。
きっと人間なら両手で耳を塞いでるに違いないと思われる嫌そうな雰囲気で、それからおもむろにその巨大な口を開けた。
「きゃあっ、ルティ!?」
「危ないっ―――!」
ルティが食べられるとでも思ったのか、慌てたようなミレーシャとクレイの声が響いて、かばうようにクレイがルティを抱いた。
そんなクレイの腕の奥から、ルティは蛟の不ぞろいな牙の並ぶ口の中を正面から見つめ、あっ、と声を出す。
蛟の鋭利な歯と真っ赤な口内の間に、白い塊があった。
「アリア!」
思わず自分から蛟の口の中に飛び込んで、ぐったりと横たわるアリアの元に寄った。
「うげっ」
蛟のうめく声が聞こえたが、アリアが無事という安堵のほうが大きくて、構ってられなかった。
ルティの呼びかけにアリアが僅かにまぶたを動かし、反応した。その腕には月の子供もしっかりと抱かれていて、アリアと同じようにぐったりとはしていたが、確かに生きていた。
「早く、出てくんない?」
憮然とした様子で蛟が言って、ルティは慌ててクレイに手伝ってもらい、アリアと月の子供を運び出した。
水際にアリアを横たえて、その顔を覗きこむ。先ほどはかすかな反応を示したアリアだったが、相変わらず意識は戻らないようだった。
アリアとは逆に、ルティが抱えた月の子供はうっすら目を開けて何かを探すように手を泳がせた。
ルティがその手をとると、安心したように小さな手のひらでぎゅう、とルティの指先を握り締めてきた。
この子が、すべての始まり。そう考えて、自然俯いていたときに。




