8.覚悟
「いない…」
枯れかけた沢からすくい集め、芭蕉の葉に包んで慎重に持ってきた水を手にしたまま、ルティは呆然と呟いた。
アリアがいないっ。
座っていたはずの木の根元には、その影も形もなく、ただ踏まれた草がぺしゃんと潰れているだけだった。
「どっ、どこに行っちゃったのかしらっ。えぇっ、どうしよう!」
慌てて近くを見回すが、動きを見せる人影どころか生き物の気配すら探すのは一苦労だ。
辺りを見回ってきたミレーシャが戻ってきて、困ったように肩をすくめた。
「どこにも見当たらないわ。
森の中に入って行っちゃったのかしら?」
そんなぁ…と途方にくれかけたルティの視界に、木の根元でもぞもぞと動く小さな影が映る。
「あれ…さっきの」
窺うようにおどおどと姿を現したのは、先程アリアを心配そうに眺めていた小妖精。
泣いてどこかに消えたと思っていたのだが、どうやらこっそり近くで見守っていたらしい。小妖精はぱたぱたとルティの前で静止すると、困ったように眉根を寄せて何もいわず闇の中を指差した。
「アリアの居場所を知ってるの?」
その問いに小さく頷いた妖精は、ぱたぱたと羽ばたいてついて来いというようにルティを振り返る。
「村に戻ったのかしら?」
妖精の後を一緒に追いながら、ミレーシャが首を傾げた。
ミレーシャのその言葉に、なんだか言い知れない不安を感じた。
ルティたちがついてきているか確認するように何度も振り返る妖精は、心なしか焦っているように見える。
はやく、はやく、と振り向くたびに言っている気がした。
森が、ざわめく。空気が、変わる。辺りの異様さに足を止めた瞬間。
どこからか、赤ん坊の盛大な泣き声が聞こえた。
「なに!?」
目前と迫った村から聞こえる、尋常ではない泣き声。
夜泣きや空腹を求めるものとはまったく別の、身の危険から助けを求めるために叫んでいる。
「あれは…月の子供が泣いてるわ」
ミレーシャが狼狽したように村のほうを見た。
「月の子供に何かあったの?」
「分からない…でもそんなこと。月の子供は、同じ気質のもの達が守っているもの」
そういった彼女は、先導していた妖精を振り返る。
ミレーシャの視線を受けて、妖精は哀しげに顔を歪めると、口を閉ざして首を振った。
何も話すことは出来ないと、暗に告げていた。
そうこうしているうちにも、泣き声は烈火のごとく勢いを増す。
辺りの木々がざわめいて、あちこちから心配そうな妖精たちが顔を出してきた。
これは勢いを増すというより、近付いてきている?
「とりあえず村に―――きゃっ」
進もうとしたところで、思いがけず暗い藪の中から飛び出してくるものがあった。
途端に響く大音量の泣き声。
ルティは赤ん坊を抱えた人影に、思わず目を瞠った。
「―――アリア!?」
名を呼ばれ、驚いたようにルティを見返したアリアだったが、すぐに踵を返すと闇のひしめく森の中へと駆けていく。
「待ってアリア―――!」
追いかけようとしたところで、もう一度、藪の中から人影が飛び出してきた。
驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔―――クレイ?
「―――子供は!?」
ルティを見るなり詰め寄ってきた彼は、どうやらアリアと勘違いしているんだろう。ルティの手をとって、弾む息のまま叫んだ。
「えぇっ、私しらな…っ」
言いかけたところで、ぱちんと光がはじけた。淡い光がきらきらと辺りを照らし、落ちていく。
顔を上げるとミレーシャが人の顔の判別が出来るくらいには、光の粒子を撒き散らしていた。
突然のことに驚いた様子のクレイは、ルティを掴んだ手に力を込めるのも忘れ、呆然と辺りを見回していた。
それからすぐに我に返ったように自分が掴んだ腕の先を見た。
「君は…」
思い出すように瞬いて、それからすぐに自分の過ちに気付き、慌てて手を離す。
「ごめん…、君と一緒にいた女の子、見なかったかい?
赤ん坊を連れて行ってしまったんだけど」
クレイの言葉に、ルティは息を呑んだ。
赤ん坊の切羽詰った泣き声と先程のアリアの様子から、多少の見当はついていたものの驚かずにはいられない。
クレイは連れて行った、なんて易しい表現をしているけれど、それってつまり誘拐―――!?
「な、なにがあったんですか!?」
思わず掴みかかって尋ねてしまう。
それに対してクレイは困ったように眉根を寄せて、話すことを躊躇うそぶりを見せた。
うわ。聞きたくないかも。
「俺もよくは…。
ただ、寝ていたら物音がして、赤ん坊のところにあの子がいたんだ。
子供を見に来たのかと思って、声をかけようと思ったんだけど…」
クレイが言いにくそうに口籠った。
傍にいた小妖精は、ぽろぽろと泣き始めた。
「…どうしたの?」
ルティが促すと、クレイは重い口を開いた。
聞いた後で、やっぱり聞かなければよかったと思う。
「あの子―――赤ん坊の、首を絞めたんだ。
慌てて止めに入ったんだけど、そのまま赤ん坊を連れて逃げてしまって」
サーッと顔から血の気が引いていくのが分かる。
首を絞めた?
アリアが?
月の子供なんかが産まれたばっかりにと、叫ぶアリアの泣き顔が浮かんだ。
やり直したいと思っていたというアリアの横顔が浮かんだ。
―――ああ、なんてこと!
本来なら傍で見守っているという同じ気質のものたちも、赤ん坊と全く同じ性質、気配を持つアリアの行動をとめることはできなかったのだろう。
ぽろぽろと涙を流す小妖精は、悔しそうに肩を震わせて泣いていた。
そうとわかればぐずぐずしてなどいられなかった。
アリアは未来を変えることを望んだ。
村を沈めないとか、水害を起こさないとか、きっとそんなことじゃなく―――ただきっと、クレイを助けることを望んだ。
そのためにやるべきこともはっきりしている。
きっとアリアは、囚われた塔の上でずっとこうすることを望んでいたんだろう。
やり直せたなら、こうしたいと思っていたんだろう。
すべてをやり直し、誰も苦しむことも悲しむこともないようにするには。
その方法はあまりにも簡単で明瞭。
月の子供さえ、いなくなってしまえばいいのだ。




