10.クレイとアリア
「…可愛いだろう?」
声に顔を上げれば、クレイが穏やかな顔で月の子供を見ていた。
「この子を初めて見たときも、こうやって手を伸ばしてきたんだ。
それまで泣いてたのに、俺と目が合ったら泣き止んで、心なしか笑ったような気もして。あれだけの砂埃の中にいて、それがはっきりとわかったんだ。光をまとっているような気がした。
…だから、普通の子供じゃないことは分かっていたけど…」
言い淀んで、少し躊躇うようにルティを見た。
「月の子供、というのか。よくはわからないけど…君たちと同じなのかい?」
「うん、そう。私達は月の欠片と大地がぶつかって産まれてくるの。
月から落ちてきた幸せの子供―――そう私は信じてたけど、…吉凶の源とも、言われているみたい」
「だからこの子は…赤ん坊と身を投げようと?」
そう言って心配そうにクレイが覗き込んだ先には、いまだ目を覚まさないアリアがいた。
「そうね…そう。
アリアは、辛いことをいっぱい経験したから。
自分と同じ苦しみを、味あわせたくなかったのかもしれないわ」
そう言ってクレイの顔を見る。たとえば、もしここでクレイにこれから先この村で起こることを伝えたなら、彼はどうするだろうか。
途方も無い話と信じないだろうか。
それとも月の子供を育てようなんて思わなくなってしまうのだろうか。
「吉凶の源…か。とてもそうは見えないけどなぁ」
「だけど…本当にそういうこともあるの。
大変なことを引き起こしてしまうことも、あるの」
ルティの手を握って落ち着いたらしい月の子供は、次第にすやすやと安らかな寝息を立て始めた。
―――この子が、引き起こしてしまうの。
その安らかな寝顔に、泣きたくなるほどの切なさを感じて、ルティは口を噤む。
そんなルティの頭を、ぽんぽんと大きな手のひらが叩いた。
「もし本当にそうだったとしても、それは君たちの気にすることじゃないよ。
厄災は天災と同じで神のお決めになったことだ。もし本当に月の子供のせいで何か起こったとしても、それは、そうあるべき運命だったんだろう」
「運命…?」
「どうせ枯れゆく村に月の子供が生まれる事?」
突然割り込んだ声に、驚いて振り返る。水中に体を戻した蛟が、ぶふーっと鼻から飛沫を上げて湖面を揺らした。
「どういうこと?」
「そのまんまだよ。この辺り一体はもともと水の力が弱かったけど…ここ数年それが特に顕著でさぁ。
この湖だってそうだけど…水気のものたちからどんどん弱って死んでいって、今じゃ水位が昔の半分以下なんだ。
ほとんど地下水に頼ってるここいらは、このままほっときゃそのうち土地全体が死に絶えるんだよね」
さらっと、なんでもないことのように蛟は言う。
でもそれって―――蛟自身、危ないということじゃ?
ルティの困惑を読み取ったのか、蛟の月色の目が湖面越しに煌く。
そしてやっぱり、彼は危機感の無い様子で言った。
「もちろん、このままじゃ僕だって死んじゃうけど。だから月の子供が産まれたって聞いて、これは天の助けだ、って思ったんだよねー」
そういうと蛟は、水中から舌だけ出して、ルティの腕の中で眠る月の子供をぺろりと一なめした。
「もしこいつのせいで何か起きるんだとしても、もともと先のなかった村なんだ、そういう運命ってことだろ?
何も起きなければそれでよし、なんか起きたらそれまでってことだよね。
だから、こいつちゃんと置いてってもらえる?」
軽い口調だったけれど、有無を言わせないとその声は言っていた。
「知ってると思うけど、今日こいつが産まれて俺たちほんとに喜んだんだよね。
別に雨を降らせるとか、そんなん関係なしに…とりあえず、理屈とかじゃなくてさぁ。
理屈じゃなく、嬉しくてこいつが大事だとおもったの。
だから、連れてかれんのはすんごい迷惑」
「…ばかじゃないの」
ひどく弱弱しい、今にも消え入りそうな声が聞こえて、ルティははっとした。
いつの間に気がついたのか、アリアが睨むように空を見上げたまま呟いたのだ。その目から溢れるのは、一筋の涙。
「昔から知ってたけど、ほんとにほんとに蛟ってばか。大ばか者よ。
何であなたってそうなの。これからどうなるかわかってないくせに。あなたが一番怒るくせに。
守り神のあなたが、なにをやらかすと思ってるのっ」
がばりと身を起こしたアリアは、再び溢れ出した涙を隠すこともせず、蛟に向かって叫んだ。
そんなアリアの言葉に蛟は舌をちろりと出しただけで、相変わらずの態度。
「…ばかばか五月蝿いなぁ。
僕はこれからどうなるかなんて、興味なんて無いし別に知りたくも無いね。
どんな結果になろうが、後悔する気もなければ大事なものを手放す気も無いし。
それはそこのおにぃさんも一緒だろ」
と、それまで蛟の言葉が分からずルティとアリアを心配そうに見守っていたクレイに矛先を向けたものだから、いきなりルティとアリアからの視線を浴びて、クレイは戸惑ったように目を瞬いた。
「君たちは…この月の子供を連れて行くの?」
クレイの遠慮がちな問いかけに、アリアが俯く。
うんともいいえとも言えず、ただどうしていいかわからないのだろう。
だけど、やがて消え入りそうな声で呟いた。
「この子供は…あなたを不幸にするわ」
「…そうなの?」
アリアの言葉に、クレイはただ少し困ったように笑った。
笑った、だけ。
月の子供を見るその瞳の優しさは、何も変わらない。
「それでも俺は、初めて見たときにこの子に必要とされてると感じたんだ。
出来ることなら、連れて行かないで欲しい」
そんな様子に苛立ったように、アリアが声を荒げた。
「ダメよ!この子供はとんでもない疫病神なの。一緒にいたら、いつか必ず後悔するわ。
あなただけじゃない、蛟だって、村の人だって…いつかきっと、こんな子供いなければよかったと、後悔することになるんだから!」
ねぇ、後悔した?
辛そうに叫ぶアリアがそういってる気がした。
ねぇ、クレイは村人の手にかけられてしまう瞬間、アリアを拾ったことを後悔した?
「後悔なんて、してないと思うわ…」
知らず、こぼれた涙とともにそう言っていた。
ねぇアリア、本当はもう分かっているんじゃない?
クレイも蛟も、最後までアリアのことを思ってた。
アリアを逃がそうとして殺されてしまった。アリアを思って村を沈めてしまった。
例えそこで二人の命が終わってしまったんだとしても、この二人は後悔なんてしていない。
最後まで、アリアの―――月の子供のことが好きだった。
「アリア…ねぇ、もう自分を責めるのはやめて。
分かったでしょう?
皆、自分で自分の未来を選んでる。アリアがジスの為に月の子供と身を投げてもいいと思ったように、あなたの好きな人たちは誰もアリアのことを責めてもないし、恨んでも無い。
きっと、後悔なんてしてないと思うの」
ねぇ、あなたが大好きだったの。
これから先、この村で起こることなんて何も分かってないルティだけど。
でも、これだけは分かる。
「無責任なこと…っ!」
怒鳴りかけたアリアを、ふいにクレイが優しく抱き寄せた。
すっぽりとアリアの小さな体を包んで、癇癪を起こした子供でもあやすように、安心させるように、何度もその頭を優しく撫でる。
「今まで、辛かったね。
もう良いよ、君は十分苦しんだから…もう、大丈夫だから」
その瞬間、アリアの動きが止まった。
呼吸さえ止めてしまったんじゃないかというくらいの静寂の後、唐突にその両目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
足の力が抜けてしまったように崩れ、アリアはそのままクレイにしがみついて泣いた。
…多分、ずっとアリアが言って欲しかった言葉。
もう二度と聞けないはずの人からの、許しの言葉。
この瞬間に、アリアは解放された気がした。辛い過去から。自らの過ちから。
「ごめ、ごめ…なさ、い、ごめ…っ」
アリアはクレイの腕の中で思いきり泣きながら、言葉にならない言葉を伝えようと、何度もそう繰り返していた。
**********
「ねぇ五月蝿い月の子供のお嬢さん。
君たちって未来から来たの?」
二人から離れたところで鼻をずびずびやっていたら、岩場によってきた蛟が声をかけてきた。
「えっ…えっとぉ」
「別に変な気遣いは良いよ。
あっちの月の子供のほう、今日産まれた子供と同じ気配だし、あんだけ言ってりゃピンと来るものあるし」
これって言っちゃっていいのかしら?
ルティはこれからこの村で起こることを言うべきか躊躇った。
そうすれば自然最終的にはものすごく言いにくい結果に終わるわけだけど…でもこれから起こることを伝えればそうならないように出来るからむしろ言ったほうが良い…?
悩みあぐねていると、それを見透かしたように蛟が言った。
「別に先のことを聞きたいわけじゃないから言わなくていいよ。
どうせ聞いたって、僕のやることは一つしかないからね」
「それって、なに?」
「今日産まれた月の子供の成長を見守ることさ」
誇らしげに言って、蛟はその巨大をくねらせたかと思うと水底へとその姿を消した。
空を見上げると、湖面に映るままの綺麗な半月。だいぶその高度は落ちてきて、西の空が心なしかしらじみ始めていた。
「どうしたのよ、黄昏ちゃって」
ぱちん、と目の前に現れたミレーシャが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「うん…私たち、どうやってもとの場所に帰ればいいのかしら」
「ああ…、そういえばここじゃない時から来たんだっけ。
いいじゃない、ここに残っちゃえば。
…あ、でもここってそう長くないんだっけ。じゃあ私と新しい土地を探せばいいわ」
「新しい土地って…、ミレーシャはここから離れるの?」
言うと、ミレーシャは複雑そうな表情でルティを見上げた。
「土地が死んでしまったら、私も生きていけないもの。
土や草や、水気のものたちみたいに私は土地に縛られているわけじゃないし」
ミレーシャの属性は光。光である彼女は、新しい土地を得、そして遠い未来のどこかでルティと会うんだろうか。
「ダメよ。私には父さんや母さんや、…ミレーシャも、待ってるもの」
ルティの言葉を不可解そうに聞いたミレーシャは、けれど諦めたように首を振ってうなずいた。
それまですやすやと眠っていた月の子供が、ルティの手の中で身じろぎした。
起きたのかと目をやれば、うっすらと目を開いてまだ眠たげな目をぱちぱちと瞬いている。その子供の首筋に赤い線跡が残っているのに気付いてルティはぎょっとした。
―――アリアが、月の子供の首を絞めようとしたあと。
本気の、跡。
痛々しくて、思わずその跡を指先で撫でた、その時。
月の子供が、びくりと身を震わせ、そしていきなり火がついたように泣き出した。
アリアが月の子供を連れ出したときに聞いたような、あの切羽詰った泣き声。
「ルティ?」
それまで泣いていたアリアも、思わず心配そうに近寄ってきた。
「!!」
月の子供に触れている場所から、淡く光りだす体。
「ど、どうしたの!?」
アリアが驚いたように目を瞠り、ルティの肩を掴む。
途端に、二人を激しいほどの光が包んだ。この光には、覚えがある―――そう、この場所へ来る前の、あの月に引き込まれそうな光と一緒。
ルティは抱いたその月の子供が、身の危険を感じて二人を拒んでいるのを感じた。
視界が、白で染まる。何も、見えなくなる。
それから…体が、ぐらりと揺れて、ルティは落ちていくのを感じた。




