公爵令嬢のたしなみ
「ありがとう。ここでもう大丈夫よ」
寝室の前で立ち止まり、後ろを振り返った。
「奥様、私……」
エイミーの目はまだ不安げに潤んでいる。付き添いが必要なのはこの子の方なのかもしれない。
「明日の朝も着替えを手伝ってくれるかしら?」
「は、はい!」
愛おしいメイドが少しでも安らかに眠れるよう私は精一杯の笑顔で扉を閉めた。
「――っ」
そして、そのまま窓に直行する。
一息で窓枠を飛び越えて庭に下り、月明かりを頼りに夜の庭を素足で駆けた。
公爵次官時代にハルロップは何度も訪れたことがある。当時領官を務めていたいとこのケビンは鷹揚な武人で、酔うといろんなことを明け透けに教えてくれたものだった。ハルロップの名物料理や、周辺の小さな村の小さなゴシップ、そして――。
「あった、ここね」
主人の部屋から庭に通じる領官邸の抜け道まで。
無造作な庭にポツンと置かれた不釣り合いな女神像、その後ろ側に回り込むと台座に小さな穴が開いている。本来は鍵が必要だが、
「ごめんね、エイミー」
エイミーが指してくれたヘアピンを引き抜き、ひん曲げて鍵穴に差し込んだ。
よし、開いた。公爵次官時代にアジジ商会に仕込まれた錠前破りの技術はまだ錆びついていないようだ。盗賊からイーロンデール一の商会に成り上がったアジジ商会、その会長に気に入られた結果面白がって叩き込まれた潜入技術がこんなところで役に立つなんて。人生ってわからない。
ドレスが汚れるのも構わずに四つ這いになって穴を潜る。中は真っ暗だが夜目の利かせ方もアジジ会長に仕込まれ済みだ。そのまま直進して梯子を上れば二階の主人の部屋の壁裏に出る。中に入る必要はない。会話が聞ければ十分だ。
盗み聞きは気が引けるけれど、元公爵次官として領官の妻としてこの暴挙は看過できない。さあ、愛しの旦那様とお義父様はどんな会話を楽しんでいるのだろう。
「答えろ、ジュリアン!」
……どうやら想像以上に盛り上がっているようだ。
「式を挙げずに書類一枚で婚姻を済ませおって、どういうつもりなんだ」
大声を張り上げているのはクリスランだろうか。ついさっき挨拶を交わした紳士とは別人のような怒鳴り声だ。
「申し訳ございません。王からは可及的速やかにイーロンデールに婿入りせよとのご命令でしたので。両家の準備を待っていれば命に反すると判断しました」
「だとして、式まで省略するやつがあるか! こっちは入念に準備を進めていたんだ。王も招待するつもりでな」
「爵位もない一若造の結婚式に陛下を招くのは無礼かと思いまして。お命を狙う不貞な輩がいないとも限りませんし。全ては陛下のご無事のだめです」
「陛下のご無事だと」
「はい」
「お前、何を企んでいる。まさか、ヴラオゴーネを離れて自由を手に入れたと思い上がっているんじゃないだろうな。お前を潰すことくらい容易いのだぞ」
――潰す。なんだ、この会話は。まるで家族同士の話と思えない。
「どうなんだ、ジュリアン!」
「滅相もございません。私は忠実な手駒です。いつだってヴラオゴーネと、国王陛下に忠誠を誓っております。父上と同じように」
「……そうか」
「……」
「まあいい。ところでどうだ、新婚生活は。なんでもかなり強引に嫁を奪っていったそうじゃないか、噂になっているぞ。あんなに嫌がっていたくせに、お前もついに女を愛でる喜びを知ったか?」
「とんでもない」
言下にジュリアンが言い切った。
「私の女嫌いはご存知でしょう。あんな芋くさい女など触れたくもなく、顔も見たくありません」
……え?
「父上の命令だから仕方なく一つ屋根の下に暮らしておりますが、毎日反吐が出る思いです。もし離縁させてくれる者がいるならいくら恩賞を払っても惜しくありません」
…………え?
「ふん、相変わらずだな。だが、離婚は許さん。これ以上勝手な動きをするな。わかったな」
「お帰りですか? 泊まっていけばよろしいのに」
「こんな田舎くさい屋敷に泊まれるか。忘れるな、お前の急所は俺が握っているんだぞ」
それで話は終わったようだ。ガタリと席を立つ音が聞こえる。ジュリアンも見送りに立ったようで連れ立って廊下に出る音がする。
私も寝室に戻らなきゃ。
一人になった不死王が曲者の気配を察せないとは思えない。
わかっていても足は動かなかった。ジュリアンの放った言葉の衝撃が強く体を揺さぶっていた。だめだ、戻れ。ここにいてはいけない。脳はしきりにそう命令していたけれど、
「旦那様……」
「シエラ?」
体は真逆に動いていた。




