旦那様って、どんな人?
当たり前だが、ジュリアンと結婚してハルロップに赴任してからというもの、私の生活は激変した。
山のような雑務に追われることもなく、突然どこかに呼びつけられることもなく、書類に目を通しながら馬車で食事を済ますこともない。
日中の私がやることといえば、柄でもないプロムナードドレスに身を包み、お茶を嗜み、本を読み、飽きたらのんびりとお庭を散歩するくらい。
「見てください、奥様。白樺の新緑が眩しいですよ」
「本当ね」
もちろん、エイミーと手のかかり過ぎていないお庭や草木や遠くの山々を眺めるのは楽しいけれど。
「奥様、羊飼いのジョバンさんが手を振ってますよ。おーい」
「お勤めご苦労様ですー」
牧歌的なハルロップは人が良いのか土地が良いのかイーロンデールにしては珍しく公と民の関係が良好のようだ。ハルロップの肥沃な大地が生み出す豊かな実りが人々に余裕を与えているのだろう。
「やっぱり、国の基盤を支えるのは一次産業なのよね」
「どうしました、奥様?」
そうとわかればやはりぐずぐずはしていられない。
「ねえ、エイミー。私、実家でやり残したことがあって。一か月、ううん、二週間でもいいからイーロンデールのお屋敷に戻れないかしら」
「え、それは……ちょっと。何かお忘れ物でも?」
「忘れ物というか、やり残した仕事があって」
「仕事?」
エイミーは大きな目をさらに大きく見開くと、
「ええ、そうよ。とっても大切な仕事なの。最悪一週間でもいいから――」
「奥様、もういいんです!」
涙ながらに私の手を取った。
「お可哀想な奥様。失礼ながら奥様のお噂はかねがね伺っておりました。ご実家でボロ雑巾のようにこきつかわれていたことも」
ボ、ボロ雑巾って。
「でも、ここではもういいんです。奥様は奥様らしくあってください。お仕事なんてしなくていいんです。お好きなように過ごしてジュリアン様の癒しになってくだされば十分ですから」
「癒し? 私が?」
無理でしょう。ろくに顔を合わせることもないのに。こんな夫婦がどこにいるのだろう。本当に、私と旦那様ってどうして結婚できたのかしら。
「どうしてって、王様のご命令だからじゃないですか」
心の声が漏れ出てしまったのか、エイミーがすかさずそう答えた。
「でも、どうして国王陛下がわざわざ公爵家の結婚に口を出すの?」
「それはもう、ジュリアン様がすごいからですよ!」
迷うことなく言い切ってエイミーは薄い胸を張る。
「ジュリアン様って本当にすごいんです。元来、守りを旨とするヴラオゴーネの伝統に風穴を開けた英雄なんです。隣国にガンガン攻め込んで、しかも負け知らずなんですから。とても生還が望めないような作戦を次々と成功させることからついた二つ名が――」
「不死王……よね」
「ご存知でしたか、嬉しいです」
「で、その不死王がなぜ結婚を?」
「王様からのご褒美だと聞いています。ジュリアン様が命を懸けて頑張ったことへの」
「ご褒美……」
それを額面通り受け取るのは、いくらなんでも無邪気が過ぎないだろうか。
「というか、そんなすごい武人を前線から引き上げて大丈夫なの?」
「それは……そうですね。ガンガン取り返されています、奪った領地」
ああ、やっぱり。
「いいんですよ。さっきはああ言いましたけど、私達ヴラオゴーネはやっぱり守りの民なんで。『己を曲げず、他を侵さず』が性に合ってるんです。それに……」
「それに?」
「ジュリアン様が戦場から離れて安全に暮らせるならその方が嬉しいですしね。そういうことも含めてのご褒美だと思います。ジュリアン様、本当にすっごく頑張ってこられましたから……えっと、すみません、喋り過ぎましたね」
「気にしないで。楽しいわ」
「ありがとうございます」
エイミーはそう言って傍らに咲くヤマユリよりも華やかな笑顔を浮かべて見せた。
意外といっていいのか、私の旦那様はヴラオゴーネの民に慕われているらしい。妻としては喜ぶべきなのだろうか、わからないから私も笑ってごまかすことにした。
「でも、やっぱりわからないわ。ご褒美なんだとしたら尚更どうして私なんだろう。私なんかより妹のリディアの方がずっと美人なのに。そうよ、今からでもリディアと交代することはできないかしら」
「何を仰ってるんですか。奥様はこんなにお綺麗じゃないですか。おまけに優しくて気立てが良くて慎ましくて最高の奥様ですよ」
「褒めすぎよ。エイミーだってリディアを一目見たら気が変わるわ」
「いいえ変わりません。きっと奥様の方がお綺麗です。何より他ならぬジュリアン様がメロメロなんですから。聞きましたよー、愛の略❤奪❤劇❤」
「略? 奪? 劇?」
何それ、私が聞いてない。
「結婚まではまだまだお日にちがあったのに、こんな家に奥様は置いておけないって強奪してきたそうじゃないですか。立ち塞がる公爵様や妹様をばったばったと切り伏せて」
「切り伏せてはいないけれど……」
まあでも、概ねその通りかもしれない。
「女嫌いのジュリアン様がここまでするなんて奇跡ですよ。私達メイド全員、奥様には期待してるんです。奥様ならきっとジュリアン様の女嫌いを治してくれるって」
「ごめんなさい、自信がないわ。それこそリディアの方が向いていると思う」
「お世継ぎ、お待ちしております」
「真顔で何を言ってるの」
お世継ぎって、そんな露骨な。まあ、ジュリアンを敬愛するヴラオゴーネの民達が世継ぎを待望する気持ちはわかるけど。
でも、残念ながらメイド一同の期待に応えることは難しいだろう。毎日ベッドのシーツを変えているエイミーならわかっているはずだ。私とジュリアンの度を越えた清い関係、紙切れ一枚が繋ぐ非常に危うい夫婦関係を。
世継ぎなど望むべくもない。何より私はイーロンデールに帰らなきゃ。期待に輝くエイミーの目から逃げるようにそっと顔を背けると、
「……あ」
心臓がどくりと強く脈打った。
逸らした視線の先に件の不死王がいたからだ。
「あ、奥様! ジュリアン様です! いけない、指差しちゃった」
エイミーの不作法な指が示すのは領官邸二階のバルコニー。一週間ぶりに見る旦那様が朝日を浴びてまるで一枚の絵画のように収まっていた。
「素敵ですね、ジュリアン様」
「……そう、ね」
さすがにそこは認めないわけにはいかない。祝福するような陽光を背に受けて、輪郭を黄金色に縁どられたジュリアンはこの世の人間とは思えないほどの神々しさを放っていた。
何を考えているのだろう、愁いを帯びた青い瞳が――あ、目が合っちゃった。こちらに気付いたジュリアンがふいと踵を返した背を向ける。
「照れてらっしゃいます。やっぱり、ジュリアン様は奥様にぞっこんなのですよ」
そうかしら。まるで虫の死骸でも見たかのように顔を顰めていたけれど。
やっぱり、私にはメイド達の期待に応えることは難しいようだ。今日もまた旦那様とは口も利かずに一日が終わるのだろう。
もちろん、そんな私の予想はその日の夜に早くも崩れることとなるのだけれど。




