旦那様との新婚生活
「ああ、いいお天気……」
寝室の窓を開け放つと、差し込んだ朝日が体に積もった眠りの粒子をサラサラと溶かしていった。
昨晩、牧場の若草を濡らした霧雨はすっかり上がったようで、青い空には焼き立てのパンのような雲が一つ気持ちよさそうに浮かんでいる。遠くで乳牛の鳴く声がした。湿り気を帯びた若草の香りを胸いっぱいに吸い込むと、体が隅々まで潤っていくかのようだった。
「高原の朝は最高、か。こればっかりはお父様の言ったとおりね」
私とジュリアンがハルロップにやってきてかれこれ一週間が経っていた。
まさか、本当にあのまま馬車に乗せられて任地まで連れてこられることになるとは思わなかった。
振り返っても、あの日は全てが急転直下の勢いだった。
あらゆる感情が最大限の強さでごちゃ混ぜになって爆発した日。まず喜びがあり、次に驚きと怒り、そして絶望と悲しみに襲われて最後にやってきたのは…………旦那様?
私を浚ったジュリアンは、馬車を飛ばしに飛ばしてその日のうちに任地まで到着した。ハルロップは一か月前まではいとこのケビンが治める穀倉地帯のはずだったが、私が生贄巡りをしている間に急ピッチで引継ぎが行われたらしく、領官邸はすっかりヴラオゴーネ勢の人数で占められていた。
引っ越しはおろか結婚することさえ伝えられていなかった生贄令嬢についてくるイーロンデールの使用人などいるはずもなく、私はさながらヴラオゴーネの飛び地に放り込まれた捕虜のようだった。
家具が使い込まれた愛用の品だったことだけが、せめてもの救いだろうか。馬車を降ろされ奥の部屋へと案内されて待つこと数分、ベッド、箪笥、鏡台が次々と運び込まれ、最後に婚姻届が乗せられたウェザリントンのティーテーブルが運び込まれた。
サインをせよとのことだと理解した。式もなく、披露宴もなく、指輪すらない紙一枚の結婚。私とジュリアンは会ったその日に極めて事務的に夫婦となった。
そして、その日以来一度も顔を合わせていない。
食事も別なら、寝室も別、廊下ですれ違うこともなく、お庭でばったり出会うこともない。会話もなく挨拶もなく、声すら聞くことがないまま一週間が過ぎようとしているのだ。
「女嫌いもここまで徹底してると、清々しいわね」
どうやら、不死王の女嫌いは筋金入りのようだ。王の命令に背かぬよう最低限の夫婦の体裁だけ整えて政略結婚をやり過ごすつもりでいるらしい。
正直、ホッとしていた。
いきなり知らされた結婚で初対面の男と夫婦を演じろと言われてもさすがに荷が重すぎる。一応、淑女としての教育は一通り受けてはいるけれど、実践となるとからっきし。同い年の女の子達がダンスホールで殿方を誘惑する視線の送り方を習う間、私は建築現場で職人に無理を聞かせる方法や、議会の頑固なオジサマ方に舐められない立ち振る舞いを学んでいたのだから。最初の数日は毎晩震える思いでベッドに入っていたが、このまま白い結婚を貫いてくれるならこちらとしても異論はない。
……のだけれど。
「イーロンデールはどうなっているのかしら」
取り急ぎの危機が去ってしまうと考えるのはこのことばかりだ。自惚れかもしれないが、私が抜けたイーロンデールが正常に回ると思えない。私がいなくなれば誰がお父様に歯止めをかけるのか。それに新事業は? 私を信じて協力を約束してくれた人達は今頃どんな思いだろう。
やっぱりだめだ。私はこんなところにいるわけには――。
「失礼します。おはようございます、奥様」
そんな私の決意を押しとどめるように、寝室の扉が三度ノックされた。入ってきたのは奥方付のメイドの子。
「おはよう、エイミー。いい朝ね」
「はい、とってもいい朝です。って、あれ? 奥様、またお一人で着替えてしまわれたのですか?」
「うん、そうね。つい」
「ああ、髪の毛まで結ってしまわれて。どうしよう、私がやるより綺麗です」
「そうかしら。これも、ついね」
公爵次官として一人で各地を飛び回ることが多かったせいだろうか、自分のことはついつい自分でやってしまう癖がついている。お屋敷では特に何も言われることはなかったけれど、そんなに驚かれるようなことなのかな。
「そのようなことを奥様にやらせてしまっては私が叱られてしまいます。どうか、メイドの仕事はメイドにお任せくださいまし」
大きな目を潤ませて必死に両手を合わせるエイミー。ヴラオゴーネの女は活発で気が強いと聞いたことがあるけれど、エイミーはその典型から外れるようだ。確か私の二歳下だと言ってたかな。小柄だけどちゃきちゃき働く、そばかすの愛らしい女の子だった。
「わかったわ。明日こそお願いね、エイミー」
「お任せください! それでは失礼してシーツの交換をさせていただきます」
「じゃあ、代わりにお茶の準備をするわね」
「奥様、本当にご勘弁ください」
何も泣かなくてもいいじゃない。お茶を淹れるのもだめなのか。貴族のご令嬢って普段何をしているんだろう。




