お一人様で逃避行
祈年祭三日目。
朝から薄曇りだった空は昼前に小雨を振り撒き始めた。
昨夜までの快晴と打って変わっての雨模様だが、顔を顰めるものは少ないだろう。流星はすでに流れ終えたし、祈年祭の最終日は厳粛に過ごすのが習わしだから。
私はすっかり人の声の途絶えた宿の一室で、窓ガラスに増えていく雨垂れを数えていた。
祈りの儀の開始は正午。今頃、ヴラオゴーネの子女達は各々の持ち場に付きながらこの雨に濡れているはずだ。
ナディーンはしかめっ面で雨雲を睨み付けているだろう。
アルカディアは帰りたいと喚いて周りを困らせているかもしれない。
ジュリアンの警備する神泉は森の中にあるから濡れずに済んでいるかな。
そんなことを考えながら、私は泣いていた。
全てが終わってしまったからだろうか、私はもう涙を止める術を持っていなかった。今まで堪えていた分を取り戻すかのように、愛しい人を思って私は泣いた。
部屋のドアがノックされた。優しく二回、私に気を遣うような優しい叩き方だった。
そろそろ行かなくては。ジュリアンには早々にハルロップへ戻るように言われている。なのに、ぐずぐずとこんな時間になってしまった。
「すぐに行きます、ザック」
そう返事をした次の瞬間だった。
不穏な音を聞いたのは。
階下からだ。乱暴に扉が開かれる音、続いてドタドタと複数人が踏み込んでくる足音。
何かが倒れる音、迷いなく階段を駆け上がる音。
誰かが来る。襲撃だ。鍵を閉めないと。
全ての判断が遅れた。涙でふやけた体は致命的に弾力性を欠いていた。慌てて扉に向かって走るが、
「きゃあっ」
これも遅い。開く扉に弾かれて床に転がった。どやどやと武装した兵士がなだれ込んでくる。鎧に刻まれた紋章はヴラオゴーネの『炎の鍵』。立ち上がることも許されず、乱暴に体を押さえつけられた。
「動くな、シエラ・イーロンデールだな」
「離して!」
「シエラ・イーロンデールだな!」
「そうです、離しなさい!」
必死に抵抗したけれど、そのまま縄で幾重にも縛り上げられた。まるで罪人だ。
「これはどういうことですか! あなた達、誰の命令でこんなことを」
叫んだものの半ば答えのわかった質問ではあった。ただ――。
「私だよ、シエラ」
まさか、直接本人から答えがもらえるとは思わなかった。
兵士の間を割って表れたクリスランの眼は、一昨日とは打って変わって爛々と輝いていた。
「なぜ、閣下がここに。陛下の警備は」
「祭りの酒を少し飲みすぎてしまってね、代理を立てて辞退させてもらったよ」
「いいのですか、そんな理由で王の警備を辞退なんて」
「何を言っているんだ、私が護衛から離れた方がむしろ陛下は安全じゃないか」
ああ、もう自分で言ってしまうのですか、それ。
「今さら取り繕っても仕方あるまい」
私の心を察したようにクリスランが口角を上げた。
「今回の計画は失敗だ。だが、構わん。二の矢三の矢の準備はすでにある。ジュリアンさえいればそれが可能になるんだ。だからこそ――」
ぞっとするような視線に射抜かれた。
「君が必要になるんだよ、シエラ」
「なぜ、私が。私と旦那様は愛のない政略結婚の夫婦です」
「愛のない夫婦か……」
「旦那様の女嫌いはご存じでしょう。私など眼中にありません」
「女嫌いねぇ……」
「しかも、離婚だって決まっています。もう何の関係もありません」
「では聞くが……どうしてそんなに目が赤く腫れている?」
それは――。
「今朝のジュリアンもちょうどそんな目をしていたよ」
「旦那様も?」
――ああ、バカ。
ついつい、ジュリアンの名前に反応してしまった。演技も忘れて顔を上げてしまった。
私は今、どんな表情をしていただろう。全ての感情が明け透けになったその瞬間を見逃さず、クリスランが笑みの種類を変化させた。
「やはり、そうか! そうだろうとも! 一目見て確信していたんだ、君は使えるとね。君にはジーナの面影がある」
ジーナ、ジュリアンの母親か。
クリスランは、縛り上げられ芋虫のように転がされた私の前に膝を突いた。狂喜が漆黒の眼を爛々と輝かせる。
「実を言うとね、少し不安だったんだよ。近頃、ジュリアンの中でジーナの影響が薄れていることがね。何か、別の拠り所ができたんじゃないかと踏んでいたが、そうかそうか……」
そして、狂喜は狂気となって燃え上がった。
「よくやった、シエラ。今日から君が、ジュリアンの新しい手綱だよ」
冗談じゃない。鳥肌が電撃のように背を走る。
この男は危険だ。この男は私を屈服させるためにどんな手段でも使う。どんな犠牲も厭わない。軽々と一線を越えてくる。そう確信させる狂気がクリスランの目には宿っていた。
逃げないと、どうにかして。




