さよならのキス
「旦那様、ご依頼は達成したと思ってよろしいでしょうか」
「……そうだな」
長い長い沈黙の後に、ジュリアンはそう答えた。
生贄令嬢と不死王の仮初の結婚が今、終わった。
「短い間でしたがお世話になりました」
「……ああ」
「最初はどうなることかと思いましたが、結構楽しかったですよ」
「俺もだ。シエラに出会えて女への見方が少し変わった気がする」
「そうですか」
「シエラと暮らしてみたわかった、俺の女性像は全て母が元になっていたんだ」
「ジーナ様、でしたっけ?」
「ああ。男に縋り、男に媚びることでしか生きてこれなかった母だった」
「……」
「物心着いた時から何度も言われてきたよ。『お父様の役に立て』、『お父様を喜ばせろ』、『そうしないと生きていけない』と」
「……女にできることは限られています。ましてや、妾の立場なら」
「そうだな。誰もがシエラのようになれるわけじゃない。今思うと母も母なりに必死だったんだろう。父もそれがわかっていたから、そんな母を利用した。俺が少しでも父に背く素振りを見せれば母は露骨に冷遇される。その度に母は狂ったように泣いた。不思議なものだな、あんな母親でも……」
ジュリアンはそこで一瞬言葉を詰まらせると、
「泣いている姿を見るのは、辛かった」
バルコニーの手摺を握る指に力を籠めてそう言った。
「不思議なんかじゃありませんよ」
だから、ジュリアンは言われるままに戦場に立ち続けたのか。どんな過酷な任務も断わらず、不死王と呼ばれるまでに酷使されて。
「俺が命令に従えば父は母に笑いかける。母も本当に幸せそうに笑い返す。そうして気が向いたら、母は俺にも笑顔をくれるんだ。おこぼれのような笑顔でも嬉しかったよ。母の愛が感じられた気がした」
「……旦那様」
見上げたジュリアンの表情は変わらない。それは逆に胸の中に折り重なった黒い感情の強固さを物語っているように見えた。どんな思いだっただろう。自分を父親からの愛情を得るための道具としか捉えていない母親、そんな母親から僅かばかりの愛を求めて生きるのは。
「この結婚もその一環だった。母を守るために父に従っただけの結婚だ。それだけの関係の妻に情の湧きようもないと思っていたが、父に利用される『手綱』が増えるのも困る。ことさらに遠ざけて愛するつもりは全くなかった……そのはずだったんだがな」
そこでようやく、ジュリアンは指の力を緩めて私を見た。
「シエラと過ごすうちに考えが変わったよ。俺の見ていた世界がどれほど狭いものだったか知らされた。俺が母の愛だと思っていたものは……そうだな、アルカディアの言う通りだ。あれは、呪いだったのかもしれない」
「旦那様……」
「母のことがどうでもよくなったわけじゃない。ただ父の言いなりになるのは、もうやめだ。呪縛を解いてくれたのは、シエラだ。女性についても、結婚というものについても、考え方が変わったよ」
「お役に立てたのなら幸いです。そのままリンシャ様のことも大事にしてあげてくださいね」
「……」
今度の沈黙はいくら待っても答えが返ってくることはなかった。顔を見上げると、ジュリアンの青い目が私の心を覗いている。
私の想いは、もう全て見抜かれているのだろう。
ディミトリスの前で詳細に語ってしまったから。いや、それ以前に伝わっていたはずだ。
この想いが隠せていたはずがない。こんなに強い想いが見抜かれていないはずがない。
ジュリアンは、まだ私を見つめている。
澄んだ湖のような青の底に、同じ感情が見えた。私と同じ、強くて暖かくて揺るぎない感情が。
それでも――。
「ご依頼、ありがとうございました。お支払いは両替商を通じてお願いいたします」
それでも、私達はここまでだ。
私達には、これ以上を望むことは許されない。
私にもジュリアンにも守る物が多すぎるから。私はイーロンデールの領民を、ジュリアンはヴラオゴーネの領民を、それぞれの父親から守らなくてはならない。
そのためにはもう一緒にはいられない。私はハルロップに引っ込むわけにはいかないし、何よりジュリアンの新たな弱点になるわけにはいかないのだ。
もし、私達が心のままに振る舞えば、クリスランはきっと私を母親に代わるジュリアンの新しい手綱と捉えるだろう。やっと呪いの解けたジュリアンの足を私が引っ張るわけにはいかない。そして、ジュリアンもまた私を危険に晒すような決断をするはずがない。
だから、私達はここまでだ。
「シエラ、初めて会った時のことを覚えているか」
長い長い沈黙を経て、ようやくジュリアンがそう言った。
「はい、もちろんです」
忘れられるはずがない。私の人生が変わった、あの日を。
「あの時の旦那様は、まるで天使様のように見えました」
「俺には、シエラが危うく見えた。誰かが助けなければ折れる寸前に見えた」
「旦那様が助けてくださいました。ハルロップに赴任した時のことは覚えていますか?」
「悪くない。そう思ったよ」
「でも、全然構ってくださいませんでした」
「すまない」
「反吐が出るとも言われました」
「父に目を付けられるのを防ぎたかったんだ」
「わかっていました。でも……傷つきました」
「すまない」
「……」
「すまない、本当に」
「では、あれは覚えていますか。私がルーヘンの川を渡っていた時」
「こんなに根性のある女がいるのかと驚いた」
「じゃあ、私がナディーン様と対決した時は?」
「止めることのできない自分を殺したくなった」
「じゃあ、領官邸の応接室にアルカディアを連れてきた時は?」
「嫉妬に狂いそうになった」
「じゃあ……」
「シエラ」
重ねようとした質問を遮って、ジュリアンが私を抱き締めた。初めだけ強く、あとは優しく包むように。
「旦那様……」
涙が溢れた。こらえ切れず溢れ出した。歪んだ視界の端で夜空に光が流れる。
一つ、二つ、三つ――。
流星だ、バルコニーの下から歓声が上がるのが聞こえた。
誰もが待ち望んだ流星群だった。
恋人達が永遠の愛を望んで見上げる流星。
農夫が豊かな実りを願って見上げる流星。
聖女が祈りを込めて見上げる流星。
きっと今頃、ナディーンやアルカディアやリンシャやザックも空を見上げていることだろう。ディミトリスやハイセン卿やクリスランだって見上げているに違いない。お父様やお義母様やリディアやケビンだって見上げているかもしれない。エイミーもイリーナもきっとそう。
誰もが願いを込めて空を見上げる中、
「シエラ」
ジュリアンだけは私を見つめていた。
涙に崩れた青い目で私だけを見つめていた。
「……シエラ」
言葉に応えるように一斉に星が流れた。
全ての星が空に留まる力を失ったように。
祈りの雨のように。神様の涙のように。
――結びの流星。
恋人の契りを永遠に約束する流星群に見守られながら、私達は最初で最後の口づけを交わした。
「……ジュリアン」
これから流星を見るたびに、私の心は痛むのだろう。




