お父様の裏切り
「縁談……?」
床がぐらりと歪んだ気がした。
「縁談が来ているのですか……私に?」
強烈な眩暈をどうにかこうにか歯を食いしばって抑え込む。
「来ている――ではない。もう決まったのだ」
ああ、だめだ。やっぱり全然収まらない。今度は壁まで揺れ出した。
「形式上は婿入りということになるが、新婚夫婦に余計な付き添いがいても邪魔だろう。お前のいとこのケビンが治めているハルロップを新たに任せるから二人で暮らせ。いいところだぞ、高原の空気は最高だ。お前の荷物も送ってある。わかったな」
「待って待って、わかりません。いくらなんでも話が急すぎます」
「なんだ、わしの決定に文句があるのか? お前も貴族の娘なら自分の務めを果たせ」
「それとこれとは――」
話しが別でしょう、そう言いたかったけれど言えなかった。
お父様の言い分にも正しいところはあったから。貴族の婚姻はお家の繁栄のための政治行為、当主であるお父様が決めたのであれば娘の私に拒む権利などない。私だって時期が来ればと覚悟はしていた。
でも、だからって。こんなに急なことありますか、縁談って。今はまずい。今じゃないんです。今だけは例え相手が誰だろうと……。
「相手はヴラオゴーネ公爵家の長男だ。かの家のことは知っているな」
もちろん知っている。
大陸から海に腕を突き出したような形のヴィシュカ王国、その根本に位置するのがヴラオゴーネ領だ。
位置的に代々隣国との防壁の役割を任されており、『武の家』として隣国にも名を馳せている。
一方で、王都から遠く、内政に一切関わっていないため、口さがない都の人々は蔑みをこめて彼らを『野蛮の壁』と呼んでいた。
その長男ということは……。
「不死王ですか?」
戦事に疎い私でもその二つ名は耳に入っていた。国境防衛に留まらず積極的に打って出て領土を切り拡げる異端の将軍。とても生存が望めないような困難な作戦をいくつも成功させ、必ず生還する戦の鬼。その戦いぶりは、敵はもちろん味方ですら怖気を振るうという。
その不死王が、なぜ私と?
不死王はその戦果と同じくらい女嫌いでも有名だ。イーロンデールとヴラオゴーネに特別な交流などなかったはずなのに、いったいどうして。
「不死王の名を聞いて怖じ気付いたか。くどいようだが断ることは許されんぞ。この縁談は国王陛下の肝煎りなのだからな」
「ディミトリス陛下がですか?」
ますますもってわからない。国王陛下がなぜ一公爵の縁談に口を出すのか。まして私は社交界から存在を忘れられた生贄令嬢だというのに。
「悪い話ではないだろう。支度金もたくさんもらえるそうだ。我が家の財政も大助かりだ」
――財政。そう、財政だ。
その言葉で呆けた頭に喝が入った。
「だ、だめです、お父様。やはり、私は行くわけにいきません」
「貴様、これ以上父の言葉に逆らう気か」
「違うんです。聞いてください。以前から言っていた新事業にようやく目途が立ったのです。だから、今私がここを離れるわけにはいかないんです」
「新事業? なんだ、それは」
散々説明したでしょう! 叫び出したいのを我慢して私は書類の束を差し出した。
「これです、これ。この計画書の事業です。これが軌道に乗れば我が家の財政も立て直せます。ねえ、初めて見るような顔をしないでください。何度も説明いたしました。事業の運営資金も必死で集め……て」
突然、今までとは比較にならないほどの強烈な眩暈に襲われた。
雷撃にも似たそれは、頭の中で蟠っていた疑問を粉々に吹き飛ばした。
「まさか、お父様……」
ジワリと両目に涙の膜が張る。滲んだ視界に映るのは誇らしげに青空を指す中庭の鐘楼。
そうだ、ずっと不思議だったんだ。火の車のはずのイーロンデール家の中庭を、なぜこんなにも豪華に改装できたのか。そんなお金がどこにあったのか。
「お父様……亡くなったお母様のお部屋に入っていませんよね?」
「んん? アリアデールの部屋か? なぜ、そんなことを聞く?」
整えられた口髭が厭らしい角度に持ち上げられた。
お父様が私の事業費の存在を嗅ぎ付けていることは知っていた。だから、隠した。お父様が決して足を踏み入れない場所に。
「お答えください、お父様。お母様のお部屋に入ったのですか?」
五年前、流行り病を患ったお母様をお父様は躊躇なく遠ざけた。屋敷の北の一番端、一番粗末な小さな部屋に。元々政略結婚で結ばれた仲だ、愛などなかったのだろう。その証拠に、お母様が亡くなるまで一度もお見舞いに現れることはなかった。私の我儘で部屋は当時のまま残してあるけれど、お父様は今でもそんな不吉な部屋には近付かない。私とお揃いのショーターの衣装箪笥、その奥に隠してある物に気付いているわけがない。
そうですよね、お父様。そうだと言ってください。
「馬鹿にするなよ、シエラ。このわしが女の部屋にこそこそ入るような真似をするか」
……お父様。
「ただ、ポリーナとリディアの行動までは知らんがな」
二人の女の嘲笑う声が耳を突いた。
ああ、終わった。絶望が世界規模の重さで降ってきた。
信じられない。この数年の苦労が、努力が、希望が水の泡だ。
信じられない。こんなことがあっていいのか。自分の迂闊さが許せなかった。
気が付くと膝から崩れ落ちていた。全身の骨が抜き取られたかのようだ。視界に白い靄がかかり、音がどこかに飛んでいく。絶望が体中の神経を凍らせていた。
だからだろう。
「イーロンデール公爵閣下!」
突然使用人が部屋に飛び込んで来ても私は何の反応も出来なかった。
「何、今か――だと? ふざけるな――は何も聞いておら――ぞ」
「し、しかし、もうすで――」
何を話しているのだろう。ただならぬ剣幕でお父様が使用人を叱りつけている。
「ええい、もうい――通せ! 何を考え――るんだ――の若造め。いきなり来――顔合わせ――だと。おい、シエラ! いつまでぼーっとしてるんだ!」
お父様の怒鳴り声が鈍く響いた。いったい何が起きているんだろう。
考える暇もなく執務室の扉が開いた。
「――え?」
そこに立っていたのは、とてつもなく美しい男の人だった。




