愛の狂気 2
「誰がそんなことをしろって言ったの?」
不意に物置の扉が開かれた。外光を背に浴びて戸口に立つのは、
「アルカディア!」
「ねえ、君に頼んだのは姉さんを中庭に連れ出すことでしょ。誰がこんな真似しろって言ったの」
「アル……」
イリーナが怯えたように後ずさった。アルカディアはそんなイリーナを冷たく見据え、
「僕の言うことが聞けないの?」
「ち、違……」
「なら、もういらなくなっちゃうよ」
「そんな、アル!」
「待って、アルカディア! イリーナはあなたのことを――」
「触るなっ!」
咄嗟にアルカディアに駆け寄ろうとしたのが不味かった。
冷静さを失ったイリーナの目に自分がどう映っているのか、それがすっぽりと抜け落ちていた。イリーナから最後の理性が消え去ったのがわかった。ナイフを構えて私にむかって駆け出すイリーナ。
――嘘でしょ。私はもう止まれない。
「危ないっ」
誰かの声が耳を突いた。次に飛び込んできた誰かに視界を奪われる。私はなす術もなく、その誰かの胸に倒れこんだ。
「ひっ」
直後に短い悲鳴が上がり、血塗れのナイフが床を打つ。
「義姉さん、落とすって約束したんだから刺されたりしないでよね」
「ア、アルカディア、それ……」
苦しげに笑って見せるアルカディアの脇腹が血に染まっているのが、薄暗い部屋の中でもはっきりと見て取れた。
「嘘、私を庇って……?」
「あれ、さっそく落ちちゃった? 安いなぁ」
余裕の発言と反対に、ズルズルと崩れ落ちるのはアルカディアの方だ。膝を突くことすらできずに床に伏した。
「イリーナ、人を呼んできて!」
「アル……なんでよ、なんで奥様を庇うの」
「早く!」
「うるさいっ!」
怒鳴り声を上げて駆け出すイリーナ、扉を押し開けて外に出て、また閉める。
なぜ? なぜ閉める必要がある? そう思うと同時に、
――ガチャリ。
と、外から施錠の音が聞こえた。
「そんな! 開けて!」
すぐに扉に縋り付いたけれど重い扉はびくともせず、走り去る足音だけが聞こえてきた。
「どうしたの、義姉さん。イリーナは?」
「わからない、外から鍵をかけられたみたい」
「マジで? なるほど……最後にいい仕事してくれるじゃん。義姉さんと二人きりにしてくれるなんて」
「言ってる場合ですか!」
横倒しの姿勢でウィンクを飛ばしてくるアルカディアに駆け寄ると、手早く服を脱がせて傷口を確かめた。
「酷い。すぐに血を止めないと、ちょっと我慢して」
「やだ、我慢は嫌い」
この期に及んで駄々をこねるアルカディアを無視してスカートを裂いた。即席の包帯を作り上げ、傷口をしっかりと締め上げる。
「いってぇ。もうちょっと優しくしてよ」
「優しくして血が止まるわけないでしょ。もう一回締めるから、我慢して」
「痛いのやなんだけど。そっとやってよね」
「一応、やってみます……そぉぉー」
「痛い痛い痛い! 言ってるだけじゃん」
「これで少しは楽になるから。あとは自分で傷口を押さえておいて」
「え、なに、これ本当に楽になってんだけど。なんでこんなことできんの?」
「それは、まあ、生贄令嬢ですから。一年中、一人で領内を駆け回ってたら自然と応急処置くらい身に付くものよ」
「絶対付かんから普通は。意味わかないんだけど」
そう言って、アルカディアは笑った。
人を籠絡するでもなく、挑発するでもない純粋な笑顔。こっちまで引き込まれそうになる子供のような笑顔。この笑顔もイリーナは知らないのだろうと思うと胸が締め付けられるようだった。
「まったく。飽きさせないなぁ、義姉さんは。兄さんの心を掴めた理由がよくわかるよ」
「だから、掴んでませんから」
ちぎったスカートの切れっ端で額の汗を拭ってあげながら言う。
「すでに調査済みなんでしょ、私達の間に愛はありません。私達離婚しますから」
「は? 離婚? なんで?」
「慰謝料をいただくためです。そのお金で私はオリーブの国産化事業を始めるの。だから、イーロンデールから離れることはできません」
「女のくせに事業? 止まらないなあ、義姉さんは……ああ、くそう」
緩んでいたアルカディアの声に緊張が戻った。同時に苦しそうに顔を顰める。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない……義姉さんが苛めるから……」
軽口を叩く余裕があるのは結構だけれど、汗の量を見る限り応急処置で済ませられる傷じゃないことは明白だ。
「誰か! 開けて! 誰かいないの!」
力一杯扉を叩くが私の声は空しく庫内に響くだけ。それでも諦めずに扉を叩くとアルカディアの咳き込む音が重なった。
「大丈夫、アルカディア?」
「余裕だって……大袈裟なんだ……義姉さ……」
軽口を言うなら最後まで言い切って欲しい。余計に不安が増すだけだ。
「どうしよう。旦那様……」
「こんな時に……兄さんのことなんか……言わないでよ」
アルカディアの声がどんどん力を失っていく。もう一刻の猶予もない。何かないか、この扉を破れるもの、扉の鍵を開けれるもの、中から助けを呼べるもの。
「義姉さん、もし僕がこのまま死んだらさ」
お願いだから縁起でもないこと言わないで。
「直前に……これを飲むから……」
荒い息をつきながらアルカディアは血に濡れた人差し指で自分の頬を示した。いや、指しているのは奥歯? それってまさか。
「毒薬?」
「一応、憲兵隊の総隊長だからさ……いつでも自害できるように……奥歯にね」
アルカディアは血の付いた頬をニヤリと持ち上げて見せた。
「賊に浚われそうになって潔く……ってことにしといてよ……女に刺されたとか、カッコわるいから」
「アルカディア……」
「間違ってもイリーナの名前は……出さないでね」
それだけ言ってアルカディアの瞼が落ちた。
まずい。本当に、今すぐ何とかしないと。圧倒的なパニックに襲われる。
この時の私はよっぽど錯乱していたのだろう。こんな時にジュリアンからもらった鈴を取り出してしまったのだから。こんな小さな鈴の音が外まで聞こえるはずがない。そんなことは誰が考えてもわかることなのに。
それでも鳴らしてしまったのは何の勝算もない、ただのお祈り。
「旦那様、助けてくださいませ……」
そんな思いを込めただけの、ただの神頼み。だから――。
「そこにいるのか、シエラ!」
それが届いたことに心の底から驚いた。
扉の向こうから聞こえたのは、今まさに心に願った通りのジュリアンの声。
「旦那様! いるんですか、そこに」
「いる! 無事か、シエラ!」
「います、無事です。ここを開けてください、旦那様」
「下がってろ、今斬る」
「はい!」
斬る? 開けるじゃなくて? などと思いながら扉から離れると、
――ギャン。
と耳障りな金属音が耳を突き、
「シエラ!」
分厚い扉を真っ二つに切り割ってジュリアンが飛び込んできた。
改めて思う、この不死王が戦場で追い詰められるような事態が本当にあったのだろうかと。ジュリアンは散らばった扉の破片や荷物をばきばきと踏み越えて駆け寄ってくると、
「怪我はないか」
そのまま私を抱き締めた。
「旦那様」
「すまない、救出が遅れた」
体が熱かった。肩で荒い息をついている。まるで、必死に私を探し回ってくれていたかのようだ。
「許してくれ」
ジュリアンの腕にまた力が籠った。ジュリアンは背が高い。耳に当たる心臓がどくどくと激しく脈打っているのが直接聞こえた。こんなに焦るジュリアンを初めて見た。
「ありがとうございます、旦那様。私は大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「え?」
「シエラはいつも大丈夫だと言う。でも、本当はそうじゃないんだろう。俺は頼りにならないかもしれない。シエラを笑わせることもできないし、今日みたいに大事な時に遅れてしまう。でも、追いつく。シエラがどこにいても必ず追い付く。だから……」
「旦那様」
「せめて、夫婦でいる間は俺を頼ってくれ」
またジュリアンの腕に力が籠る。痛いほどに強かったけれど、不思議と苦しくはなかった。許されるのであればこのままずっとこうしていたかった。
でも、できない。
私達は仮初の夫婦だから。
私達の間に愛などないから。
そして、何より――。
「旦那様」
「どうした?」
「アルカディア様が……死にそうです」
そろそろ本当に、アルカディアが危なから。
「アルカディア! お前そこで何をしている!」
ジュリアンはそこでようやく足元に転がる弟に気付いたように飛び退くのだった。




