愛の狂気
「こっちです。そう、そのまま奥へ」
声を上げるな、おかしな動きをするな、そう脅されて連れてこられたのは領官邸の端の端の見たこともない部屋だった。
物置だろうか。
雑然と置かれた物の埃の被り方から考えるに、扉を開けることすら稀な部屋のようだ。
私は指で拭った埃を掌で払い、誘拐犯を刺激しないように極力穏やかな声で語りかけた。
「これはどういうことなの、イリーナ」
ジュリアン付きのメイドは重そうな物置の扉を閉めると、ゆっくりとこちらを振り返った。光源を失った部屋の中で異様な光を放つ刃は、邪悪な猛獣の牙のように見えた。
「ねえ、イリーナ?」
いくら呼びかけてもイリーナは何も答えない。ナイフに光を奪い取られたような虚ろな目で一歩を踏み出す。同じだけ後ずさって私は言った。
「落ち着いて、イリーナ。これってアルカディア様の言いつけなの?」
「アルカディア様の言いつけ……?」
その名前だけが心に届くようだ。ようやく、ナイフを握ったメイドが言葉を発する。
「そう……そうかもしれない。アルには色々言われたから」
「イリーナ?」
「奥様と旦那様の仲はどうだとか、奥様の好きな物は何だとか、奥様の嫌いな物とか、奥様の寝室の場所とか、奥様の部屋のノックの仕方とか、奥様の趣味とか、奥様奥様奥様奥様、なんで奥様ばっかりなの!」
ナイフの柄で荷を打った。埃が薄暗い空間に舞い上がる。
「アルは言ってくれたのに! 可愛いねって、綺麗だねって、素敵だねって。なのに、奥様が帰って来てからは奥様のことばっかり! ねえ、なんで? なんで奥様なの?」
「落ち着いて。アルカディア様は私に興味なんてない。アルカディア様はただ――」
「アルは私の前では、ただ微笑むだけなのに」
「え?」
「アルは私といる間ずっと微笑んでいた。奥様といる時みたいに怒りもしないし、笑いもしないし、拗ねたりもしない。昨晩みたいなアルを私は知らない!」
「イリーナ……」
そうだ、昨晩私をアルカディアの元に導いたのはイリーナだった。
『……ごゆっくり』
そう言って扉を閉じたイリーナがそのまま帰ったはずがない。好きな男と女を夜の密室に置いて、そのまま帰れたはずがない。
「イリーナ……あなた」
ずっと聞いていたに違いない。扉の向こうで私達の話を、ずっと。
どんな気持ちだっただろう。どんなに惨めだっただろう。
好きな男が別の女を口説くセリフを聞かされるのは。
「どうして? たった一晩話しただけなのに。奥様にはあんな素敵な旦那様がいるじゃない。どうしてみんな奥様なの。どうして、奥様は私から全部奪っていくの!」
「……全部?」
エイミーが言っていた。イリーナは少し前に失恋したと。もしかして、イリーナが好きだった人って。
「私……何て言ったらいいか。とにかく、ナイフを渡して。今ならまだ間に合うから」
「触らないでっ!」
伸ばそうとした手をナイフが払う。すんでの所で手を引いたけれど、指が落ちても構わないという払い方だった。
「もう、間に合うわけないじゃない。奥様を誘拐したメイドなんてもう終わりよ」
ナイフを構え直したイリーナがまた一歩を踏み出した。私も下がろうとするけれど、その足を何かの荷物に遮られる。
「奥様、一緒に死んでください」
「……イリーナ」
「誰がそんなことをしろって言ったの?」




