初めてのお誘い
たっぷり百秒数えてから外に出ると、外には誰もいなかった。
月明かりを頼りに一人、夜の廊下を歩く。
なんだったんだろう、今の時間は。明日の交渉に向けて少しでも兄弟の緊張を緩和できればと思っていたけれど、結果として新たな拗れを産んでしまった気がする。
だめだな、私は。ジュリアンに怒るなと言っておきながら、自分もしっかり激昂してしまった。
やっぱり、今日は駄目な日だ。早く眠って終わらせてしまおう。そう思って歩を速めると、
「――シエラ?」
その足を止める声が後ろから。
「旦那様……」
振り返るとジュリアンが立っていた。初めて見る寝間着姿、暗がりに浮かび上がるゆったりとした白い装いは、夜に迷い込んだ木漏れ日の妖精のように見えた。
「何をしている、シエラ。こんな時間に」
「いえ、眠れなくて。少し歩いていました」
咄嗟に嘘をついてしまった。罪悪感はあるけれどアルカディアとの交渉をジュリアンに一任した手前、さっきの控室での一幕を詳らかにするわけにはいかない。
「旦那様は何を?」
「ああ、俺も眠れなくて。外の空気を」
そう言って、ジュリアンは開け放した廊下の窓を目で示した。
「そうですか、同じですね」
「ああ」
寝間着姿で微笑みあう。たったそれだけのことで、まるで駄目な一日が救われたような気がした。
「それでは、おやすみなさい」
今なら安らかに眠れそうだ。そう思って別れを告げたが、
「シエラ」
またジュリアンの声に呼び止められる。
振り返ると青い目はすぐに伏せられ、戸惑いがちに足元を彷徨った。それでも、私が待っていることに気付くと意を決したように顔が上がる。
「これを、貰ってくれないか」
まるで決闘でも申し込むような覚悟でジュリアンが差し出したのは、赤い紐に吊るされた小ぶりの――。
「……鈴、ですか」
受け取ったそれは、握れば完全に掌に隠れるほど小さかったけれど、しっかりとした作りを感じさせる手触りだった。
「アルカディアは、ああいう男だ。ないとは思うが寝室に忍んでこないとも言い切れない。咄嗟に声が出ないこともあるだろうし、音が鳴るものでもあれば安心できるかもしない」
「旦那様」
「……まあ、気休めにしかならないが」
「そんな、嬉しい。とっても嬉しいです。ありがとうございます」
夢の悪魔が嫌いな朝の鐘、その代りを務めてくれそうだ。
「そうか、いや、個人的に人に物を贈るのが初めてだったんだ。喜んでくれたなら俺も嬉しい」
そんな大切な物を私に? 見上げると、はにかむようにジュリアンが目を逸らす。
「それだけだ。もう戻る。シエラも早く寝ろ」
そう言ってジュリアンは背を向けた。やっとの思いで大仕事を終えたと言わんばかりにそそくさと。もしかすると、眠れないと嘘をついたのは私だけではないのかもしれない。
この鈴を渡すためにわざわざ渡ってきてくれたの? やっぱりだ、ジュリアンは私に会うために人なんて使わない。
そんな事実が嬉しくて、そんな背中がなんだか名残惜しくて……。
――リーン。
と、私の気持ちを察したように貰ったばかりの鈴が鳴った。想像よりしっかりと芯の通った澄んだ音が廊下に響き、
「……」
ジュリアンが驚いたように振り返る。
私が鳴らしたんじゃない。ただ、開け放ったままの窓から風が入り込んだだけ。
それでも、ジュリアンは気まずそうに眉をしかめ、
「眠れないなら、少し……話そう」
ぎこちなくそう言った。
多分、誰かをお喋りに誘ったのもこれが初めてなのだろう。




