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夢の悪魔


「こちらへどうぞ」


 イリーナが開いたのは、普段領官邸のメイド達が控室として使用している小部屋の扉だった。

夜なのでもちろん灯は落ちていたが、イリーナは明かりを灯すことなく真っ暗な部屋の中へと私を誘う。


「……ごゆっくり」


 極力音を殺すように慎重に扉が閉められると、部屋の中で影が動く。シルエットだけなのにどこか妖艶さが漂う人影は、

「待ってたよ、お義姉さん」

 扉を腕で押さえながらそう言った。


「こんな時間に何の用ですか、アルカディア」

「……驚かないんだね。兄さんじゃないってわかってたの?」

「ええ、匂いが違いますから」

「匂い?」

「あと、旦那様なら人なんて使わずに直接訪ねていらっしゃるでしょうし」

「……何それ。愛され自慢のつもり? ムカつくんだけど」

 今の言葉でなぜそう受け取られてしまうのだろう。ジュリアンなら自分でできることにわざわざ人を使ったりしないと言ったつもりだったのに。どうにも、アルカディアとは意思の疎通が噛み合わない。


「まあいいや。腹を割って話そうよ、義姉さん」

 そう言って、アルカディアはカーテンを微かに開いて月明かりを呼び入れた。窓際には不自然な位置に置かれたティーテーブルが一つと、向かい合うように椅子が二つ。そのうちの一つにアルカディアが腰を下ろす。向かいに座れと言っているのだろう。

 アルカディアとの交渉はジュリアンに一任する約束だったけれど、昼間の様子だといつ刃傷沙汰に発展するかわからない。先駆けて少しでも緊張をほぐせれば、そんな思いで勧められるままに椅子に腰を下ろした。


 暗がりで向かい合うと、アルカディアは昔絵本で読んだ夢の悪魔を思い起こさせた。悪戯と女の子が好きで、朝を告げる鐘が嫌いな黒い悪魔。


「じゃあ、単刀直入に聞くね。義姉さんは兄さんのこと、どう思ってるの?」

「旦那様、ですか?」

「あ、立派な武人ですとか、そういうのはいらないからね。男として好きか嫌いか答えてよ」

「な、なんですか、その質問は。クリスラン閣下はそんなことを知りたがっているのですか?」

「父さん? ああ、聞き取り調査のこと? そんなのとっくに終わってるよ。使用人への聞き込みと昼間のやり取りで十分わかった」

「そうなんですか?」

「ああ、悔しいけど父さんの読み通りだった。新しい手綱は見つかったよ」


まただ。

今度はアルカディアの口から手綱という言葉が出てきた。何のことかはわからないけれど、調査が終わったというのなら今度はこっちの番とさせてもらおう。


「では、こちらかも聞きたいことがございます。あなたはクリスラン閣下のご意志をご存知ですか?」

「何、謀反のこと?」

「……やはり、ご存じでしたか」

「憲兵隊の情報網を舐めないでよね。決定的な情報はないけど、父さんの腹くらいは読めてるよ」

「であれば、話が早いです。反乱を止めるために私達に協力してください」

「やだ」


 はい?


「やーだ」

 話が早ければ、断られるのも早かった。

「な、ぜ?」


 たった二文字の言葉に詰まりながら訳を聞くと、アルカディアは薄暗い部屋を隅々まで照らすような笑顔を輝かせて答えてくれた。

「あんたが嫌いだから」

「き……らい?」

「うん、嫌い」 


 それだけで? 

眩暈がした。『ろくでなしの女ったらしの甘ったれの役立たず』、一度剥がしたレッテルをもう一度貼り付ける必要があるのかもしれない。

 ただ、やっかいだ。

公爵次官として数多の交渉に携わってきたから知っている。『個人的に気に入らない』、この理由を覆すのが一番骨が折れるのだ。


「わ、わかりました。では、直します。私のどこが気に入らないのでしょうか」

「顔かな」


 もう! お話にならない。


「りょ、領民のことを考えてください。無用の乱が起きれば苦しむのは罪のない民なんです」

「そういうのは領主の考えることでしょ。憲兵隊には関係ないよ」

 だめだ。ナディーンといい、どうしてヴラオゴーネの姉弟達はこうも領界意識が強いのだろう。

「で、でも、あの、良くないじゃないですか……反乱とか……」

 もうこんな言葉しか出てこない。どうすればいいのだろう。どうすれば、めんと向かって私を嫌いと言い切る人間を説得することができるのだろう。


また溜息をつきそうになる。

ギリギリで堪えて顔を上げると、アルカディアの楽しむような視線が私を捉えていた。やっぱり、絵本で見た悪魔によく似ている。怖くてズルくて、飛び切り美しい夢の悪魔……。

「わかったよ。じゃあ、交換条件っていうのはどう?」

 アルカディアは芝居がかった仕草でぱちんと両手を合わせて見せた。

「交換条件?」

 どんな?

「義姉さんが、俺の愛人になってくれたら考えてあげるよ」


「……はい?」


 一瞬、脳が停止した。


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