あの女って、誰ですか?
「やあ、久しぶりだね、兄さん」
突如として中庭から現れ大手を振って応接室に通されたヴラオゴーネ家の次男坊は、驚いたことにイーロンデール、ヴラオゴーネの両家から正式に訪問の許可を得ているようだった。
「だからといって、ヴラオゴーネの人間がイーロンデールの領内をフラフラと出歩くな、アルカディア。それが憲兵隊のやることか」
全くの正論である。
ジュリアンは、誰に勧められるでもなくソファに腰を下ろしたアルカディアを窘めるように言った。
「ただの散歩だよ、散歩。いいでしょ、僕はこんな田舎で三日間も兄さんを待ってたんだから。それくらい許してよ。ねえ、義姉さん?」
アルカディアの甘えるような視線が飛んでくる。どこの世界に他家のメイドと汗だくで逢引する散歩があるんだと、怒鳴り散らしたくなる衝動に襲われたが、
「そうですね。散歩くらいなら」
今は何よりアルカディアを説得して仲間に引き入れることが先決だ。大事の前の小事、私は噛み砕く勢いで歯を食いしばって余所行きの笑顔を光らせた。
「ほら、義姉さんもこう言ってるよ。イリーナもそう思うよね?」
だからって、ここでイリーナの名前を出さないで。
「……はい、アルカディア様」
あなたも答えなくていい、イリーナ。
どうしよう、食いしばりすぎて奥歯が歯茎に埋まりそうだ。
「……そうか、まあいい。ちょうど俺もお前に用事があったところだ。訪問してくれたことは素直にありがたい」
さすがにジュリアンも何事かを察した様子だったけれど、とあえずは諸々飲み込んで和やかに説得を進める方向に舵を切ってくれた。部屋の誰もが複雑な感情を腹に収めて笑う中、
「へー、兄さんから感謝されるなんて初めてかも。こりゃ明日は槍が降るね」
アルカディアだけが無邪気に仰け反って笑っている。降ってきた槍が全て突き刺さればいいのに。
「では、先にお前の用事を済ませようか。こんな田舎まで何をしに来た、アルカディア」
「んー、別に大した用じゃないよ。兄さんが結婚したって聞いたからさ、お嫁さんの顔が見たくてね」
「まあ、嬉しい。遠路はるばるありがとうございます」
わざわざ両家の許可を取ってまで? 憲兵隊の総隊長様が? 仲の悪い兄嫁の顔を見に来たと? どうやら、本音を明かすつもりはないらしい。
「それにしても、そうかぁ。あなたが兄さんのお嫁さんかぁ、そうかそうか」
他ならぬイリーナが淹れてくれたお茶を口に含んだアルカディアは、意味深な笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
アルカディアの黒い瞳はまるで夜空を切り取ったかのようで、じっと見つめられると心の一番柔らかい部分を揺さぶられているようで落ち着かない。視線から逃げるようにお茶を啜るが、
「なるほどねー」
カップを置いてもまだ視線は私の頬に張り付いたままだった。初対面だということ考えると、そろそろ失礼に差し掛かる長さではある。
「いやあ、あの女嫌いの兄さんが婚約を受け入れたっていうから、どんな美女が出てくるか楽しみにしてたんだよね。でも、ちょっと期待し過ぎたかなー」
おっと、失礼なのは視線だけじゃないようだ。一瞬カップを持つ手が震えたけれど、この手の男のこの種の発言は公爵次官時代に飽きるほど浴びている。聞こえないふりで流すのが一番だ。
「アルカディア、妻に侮辱は許さんぞ」
しかし、ジュリアンにはその耐性がないようで、敏速に反応して乱暴にカップを置く。
「はぁ? 妻だって?」
再び兄に窘められると、アルカディアが笑みの種類を僅かに変えた。黒い瞳に濡れたような光が散らばる。
「なんだ?」
「いや、別に。夫婦ごっこ頑張ってるなって思ってさ」
「夫婦ごっこだと?」
旦那様、お気を付けください。声が怖くなっています。
「違うの? 王様の命令で渋々の兄さんと、財産目当ての義姉さん。これってごっこじゃないの?」
「……侮辱は許さんと言ったぞ、アルカディア」
旦那様、お気を付けください。眼も怖くなっています。
「おー、こわっ。義姉さんも大変だね、こんなおっかない兄さんと無理矢理夫婦にさせられて」
「いえ、別に怖いと思ったことはありませんよ。旦那様には大変よくしていただいています」
「本当かなぁ? 寝室も別でつい最近までは食事も別だって聞いてるけど」
誰に聞いた?
私とジュリアン二人分の視線を受けて壁際に控えていたメイドの一人が目を逸らした。もちろん、イリーナだ。どうやら、アルカディアは夫婦不在の三日間ですっかり情報収集を終えているらしい。
「無理しなくていいよ、二人共。いいじゃん、貴族の政略結婚なんだからさ。愛なんてない、互いに興味なんてない。珍しくないって。義姉さんだってそうなんでしょ、金さえ貰えれば別に兄さんじゃなくてもよかったんだろ?」
「そんなこと――」
――ない。
危うくそう口走りそうになった自分に驚いた。なぜだろう、言い方は悪いが確かにアルカディアの言う通りのはずなのに。なぜ私は。
「冗談が過ぎるぞ、アルカディア」
「だから、冗談なんて、言ってないから」
アルカディアの声に苛立ちが混じった。常に余裕綽々だった仮面にピシりと一筋ヒビが入る。
「なんなの、兄さん。何で認めないんだよ。本当はこんな女どうだっていいんだろ。まさか情が湧いたなんて言わないよな。あ、待てよ。言われてみれば、あの女にちょっと似てるかも」
……あの女?
「アルっ!」
突然、ジュリアンの怒鳴り声が爆発した。




