名前はもう聞きました
往路と同じくルーヘンの村で一泊し、領官邸に帰り着いたのは翌日の昼過ぎだった。
馬車を一歩降りたジュリアンはたちまち執事に捉えられ、休む間もなく応接室に連行されていく。なんでも、急な来客が一昨日からジュリアンを待っているそうだ。
「部屋で旅の疲れを癒せ」
別れ際にジュリアンにそう言いつけられたけれど、部屋でじっとしている気になれず庭に散歩に出ることにした。
「奥様、お散歩ですか。お供します!」
並々ならぬ気合を漲らせて、散歩に付き添おうとするエイミーを部屋に残して。
「そ、そんな! お一人でなんて危険です。もし何かあったら――」
ごめんね、大好きなエイミー。今はむしろ一人になりたいの。誰もいない場所で自分の気持ちを見定めたい。
「いけません、エイミーも参ります! 聞いていただきたい話もあるんです。メイド友達のイリーナが少し前に失恋したのですが――」
ありがとう、また今度聞かせてね。母犬に縋る子犬のようなエイミーを、無理矢理引き剥がして部屋を出た。
人気を避けるように歩いていると、足は自然と中庭へ向かう。一人で考え事をするのに庭は絶好の場所だ。周囲からの目が遮られ、使用人が立ち入ることもほとんどない。人の出入りが激しい領官邸の中で見つけた唯一と言ってもいい一人っきりになれる場所。
『――あっ、だめです』
そんな中庭から、人の声が聞こえてくるから困ってしまう。
『――だめです、こんなところでは』
それも何やら、ただならぬ声が。
『――もう……バカ』
えっーと。これは、どういう状況なのだろう。
中庭の入り口で立ち止まって考えた。
領官邸の中庭は金のかかりまくったイーロンデール公爵家と違い、要はただの野原に近い。前述の通り人の目が遮られるので血気盛んな男女にはおあつらえ向きの逢引場ともいえるかもしれないが……。
『――ねえ、だめよ。アルカディア』
だめなのは、あなたです。何をしているの、人の家の中庭で。
勘弁してよ、もう。木立の暗がりから漏れてくる甘ったるい嬌声に追い立てられるようにして踵を返した。なぜ、自分の家の庭で足音を忍ばせないといけないのか。こういう時、こっちが悪いことをしている気になってしまうのはなぜだろう。頼むから見つからないでくれと祈りながらこそこそと足音を忍ばせてしまうのはなぜだろう。
そして、こういう時、細心の注意を払って運んだはずの足の下に突如枯れ枝が出現し、
――バキッ。
と、必ず大きな音を立てるのは、本当になぜなんだろう。
ひっと短い悲鳴が上がった。
木立から飛び出てきたのは、見慣れた顔の若いメイド。ジュリアン付きのメイドだが、エイミーと楽しそうに話しているところを何度も見ている。ついさっきも話題に上った最近失恋したという、
「イリーナ……よね?」
「あ、お、奥様。お散歩ですか?」
「え、ええ、そうよ。今から部屋に帰ろうと思ったところ」
「そ、そうですか。では、私も仕事に戻ります。し、失礼いたします」
汗だくのイリーナは乱れた髪を整えながらそそくさと中庭から駆けて行った。エプロンの着崩れた後ろ姿を呆然と見送る。
「……なんで出てきてしまったの」
そう呟かずにはいられなかった。気まずいったらありゃしない。せっかく気を使って帰ろうとしていたのに。できれば、私が去るまで待っていて欲しかった。
「おや、まずいところを見られちゃったかな」
だから、出てこないでって言ってるでしょう。
もちろん、うら若き乙女は一人屋外で汗だくになったりはしない。当然、相手が一緒にいる。だから、私言いましたよね『今から部屋に帰る』って。貴方に向けて言ったんです。木立の中に隠れているであろう、もう一人のあなたに。
しかし、男はそんな私の気も知らず平気な顔でのこのこと姿を現す。
「でも、あんたが帰ってきたということは、兄さんの方も帰って来たってことかな?」
あまつさえ、領官夫人を『あんた』呼ばわりしながら。
「一昨日から退屈しててさ、彼女に色々案内してもらってたんだ。ええっと、自己紹介が必要かな?」
「……いいえ、結構です」
名前はもうイリーナの口から聞きましたから。飛び切り甘ったるい声で。
確か、『ろくでなしの女ったらしの甘ったれの役立たず』様でしたっけ? 突然やって来た急な客とはあなたのことだったのですね。
もはや、誰だと問う気も起きなかった。初めてナディーンを見た時と同じ感覚、一目でジュリアンの親族だと確信が持てた。
切れ長の目、高い鼻、シャープな顎、高い背丈――容貌の美しさは、もはやヴラオゴーネの家名を表す家紋のようですらあるが、笑みを浮かべて立つ男性にはその見た目以上に視線を引き付ける何かがあった。崩れる寸前の積み木を見るような、ロープを渡るピエロを見るような危険な引力。
「では、行きましょうか、アルカディア様。恐らく旦那様がお探しのはずですから」
「はーい、お義姉さん」
ヴラオゴーネ家の末弟であり、軍の規律を正すべき憲兵隊の総隊長のアルカディアの悪魔的な笑顔は、ヴラオゴーネに出向く手間が省けたと素直に喜ぶことが不可能なほどに、危うい香りを放っていた。




