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潜入! 生贄令嬢


「ひぃ、冷たい」


 春先の川の水は太腿を食いちぎるほど冷たかった。

 橋が占拠されている以上、村に近付くには渡渉あるのみ。歯を食いしばり、牙を立てるような水をざぶざぶとかき分ける。


 うう、こんなのへっちゃらだ。生贄令嬢を舐めないでいただきたい。お父様に出鱈目な地図を掴まされて三日三晩雪山を彷徨ったこともある。あの時に比べたらこんな川の水なんんて、むしろ温かく感じるくらいだ。

いや、温かく感じるのはまずいかも。感覚が麻痺し始めている。気を確かに持て、足を止めるな。止めれば死ぬぞ。頑張れ、私……。


 何とか根性で渡り切った。ガタガタ震えながら草陰に身を伏せて耳を澄ませる。どうやら、橋の守護兵にはバレていないようだ。よかった、今はなるべく目立たずに村の中央まで移動したい。

「というわけで……」

 まず行うのは変装だ。こんなびっしょびしょのドレスでは動きにくいし、目立って仕方がないし、何より寒くて本当に死にそう。


川っぺりの民家の壁に張り付いて、外から様子をうかがってみる。案の定、人の気配はまったくない。村人達はみんなどこか一か所に集められているに違いない。

なので、中へ失礼して野良着を拝借することにした。

誰の物かは知らないが、運よくサイズはピッタリだった。我ながらよく似合う。着てきたドレスなんかよりもよっぽど顔に馴染んでいる。よかった、生まれつきの地味な顔で。いや本当に。負け惜しみとかではなく。泣いてないから。

 とにかく、この仕上がりながら見咎められることなく穏便に中心地まで行けるはず。そこでリーダーを説得して撤退させる。このまま行けるところまで――。

「おい、そこで何をしている!」

 行こうと思ったら、民家を出た瞬間に見咎められた。


巡回中の守備兵だろうか、野良姿で槍を携える二人組。心臓が止まりそうなほど驚いたけれど、ここは冷静に予定通りに、

「す、すみません。私、忘れ物を取りに来て」

 村娘を演じるだけだ。

「ああ? 忘れ物? しょうがねえな。さっさと集会所に戻れよ」

「すみません」

「もう出歩いちゃだめだぞ」

「すみません」

 拍子抜けするほどあっさりと二人組は去って行った。

読み通りだ。あの二人は野良着こそ着ているものの、村人の顔を覚えていない。つまり、あの守備兵達は――。


「この村の人間じゃないということか」


 突然、物陰から声をかけられて今度こそ一瞬心臓が止まった。

嘘でしょ、この声は。恐る恐る振り返ると、

「随分と野良着姿が似合うじゃないか、シエラ」

 天使のように美しい公爵子息が民家の壁にもたれてこちらを見ていた。

「旦那様! どうしてここにいるんですか」

「シエラの後をつけてきた。驚いたか?」

 当たり前でしょう。気を失いそうなほど驚きました。

「近頃はシエラには驚かされっ放しだったからな、その顔が見られて満足だ」

「言ってる場合ですか。守備兵に気付かれます、早く戻ってください」

「確かにこの格好では目立つか。俺も野良着に着替えるとしよう」

「そうじゃなくて! 帰ってください、あっちに!」

 丘の上を指差して怒鳴り声にならないギリギリの声量で訴える。しかし、当のジュリアンはまるで自宅で音楽でも聞いているかのように悠々と私の主張を聞き流し、

「なぜ、躍起になって返そうとする。やっぱり何か隠しているな?」

「べ、別に何も隠してなんか……」

「では、どうして俺と離れようとする? なぜ、一人で全部やろうとする?」

「そ、それは、その……契約だからです」

「契約?」

「そうです。私は旦那様から離婚達成の依頼を受注いたしました。ですから、離婚の障壁を取っ払うのも私の仕事です。旦那様にしゃしゃり出られて慰謝料を減らされでもしたらかないません」

「言うに事欠いて……なんだ、そのくだらない理由は」

「く、下らなくないです、お金は大事です!」

 呆れたような顔が悔しくてついつい声が大きくなった。


「言ったでしょう、この慰謝料は大事な事業費なんです。イーロンデール家を立て直すための」

「なぜ、立て直す必要がある」


「え?」


「あの家は、お前を散々軽んじてきたんじゃないのか」

「それは……」

 余裕綽々だったジュリアンの声色が微かに変わった。

「お前が有能なのをいいことに散々こき使い、消耗させ、あげく支度金目当てに売っ払ったんじゃないのか。そんな家を、どうしてお前が立て直してやる必要がある」

「旦那様……」


 こんなに感情を露わにするジュリアンを初めて見た。冷淡と言ってもいいくらいに感情を表さない青い瞳が、初めて荒々しい激情で波立っている。

「……確かに、奇妙に見えるかもしれませんね」

 だから、私も初めて自分の気持ちを言葉にした。

「仰る通り、私はずっとあの家で酷い扱いを受けて参りました。お母様がなくなられてから、いえ、ご病気になられてからずっと」

 もしかすると、あの時からすでにお父様とお義母様は繋がっていたのかもしれない。

「虐げられ、軽んじられ、無視され続けて来ました。上のそういう態度は下にも伝わるもののようで、使用人達の目も冷ややかでした。一応、私なりに頑張ってきたつもりなのですが、そうですね……辛かったです」

「当たり前だ。だから連れ出した」

「ありがとうございます。思えば、私が公爵次官の仕事に打ち込んでいたのは、あの家にいたくなかったからかもしれません」

お母様の思い出が残るあの家で、あの三人が幸せそうにしているところを見ていたくなかったから。


「でも、だからって、私が抜けた家が傾いてザマアミロというわけにはいかないんです」

「なぜだ」

「公爵家が傾いた皺寄せは必ず弱い領民にいくからです」

「……」

「今までは領民に害が及ばないように私が何とか食い止めて参りました。でも、今のイーロンデール家は何をするかわからない」

「だから、事業を起こすと」

「もちろん、うまくいく保証はありません。でも、成功すれば財政は回復するし、雇用だって生まれます。領民の生活は向上して、みんな幸せになれるんです。だから、私にはどうしてお金が必要なんです!」

 ああ、だめだ。こんなに大きな声を出しちゃ。今は斥候中なのに。でも、感情が抑えられない。ジュリアンはそんな私をじっと見つめ、

「結局また、シエラに驚かされてしまったな」

 いつもの静かな口調でそう言った。


 その時である。鋭い警戒の声が飛んできた。

「おい、誰かいるのか!」

 隠れなきゃ。そう思った時にはもう、物陰に引きずり倒されていた。

 ジュリアンに背中から抱すくめられて。


「旦那様?」

「喋るな」

 囁き声が耳に浴びせられた。一瞬で顔が熱くなる。

嫌だ、放して。もがこうとするけれど、できない。たくましい二本の腕が身じろぎも許されないほど強く私の体を締め付ける。

「じっとしていろ」

 顔が近い。意識した途端心臓が弾けそうに暴れ出した。嫌だ、聞こえる。恥ずかしい。


 ……お願い、気付かれないで。


 誰に何を願ったのか、自分でもよくわからなかった。


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