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黄昏の幻術師  作者: いろは
第八章
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第90話 帰るべき牢獄

 ぼくが先生の言いつけ──というものでもないけれど、明らかに先生の意志に反した行動をとったことを、ぼくは反省も後悔もしていない。そもそも悪いことだとさえ思っていない。ぼくがチェンバース邸に乗り込んだのも、いくつもの扉をくぐったのも、ひとえに先生と喧嘩をするためだったのだから。


 だけど、実際に冷ややかな怒りとも無関心ともつかない空気をまとわせた先生を前にすると、当初の威勢もどこへやら、ぼくは叱責に怯える落第生のようにその場に立ちつくすしかなかった。


 床に腰を下ろし、見えない壁にもたれるように足を折り曲げている先生は、ぼくが初めて見る格好をしていた。詰襟で肩章つきの軍服姿だ。相変わらず黒と白と灰だけで構成された世界では、その色までは判別できなかったが、もとの生地の色がなんであれ、その軍服がひどく汚れていることは見てとれた。


「残念だよ。こんなことになって」


 つぶやくように言って顔を上げた先生は、ぼくの記憶にある先生よりいくぶん年若く、そして眼鏡の奥の眼差しは、ぼくが見たこともないほど暗かった。


 チェンバース大尉、という言葉が喉元まで出かかったところで、ぼくはにわかに寒気を覚えて身震いした。すさんだ目をした軍人が、いつかの冬の寒さを連れてきたようだった。


 ぼくは外套の襟をかきあわせ、奥歯の間から別の言葉を吐き出した。


「先生」


 ごめんなさいとか許してくださいとか、詫びるつもりはさらさらなかった。いや、ぼくの行いが先生の気を悪くさせてしまったのなら、ちょっとは謝ったほうがいいのかなとも思ったけど、それより先に言うべきことがぼくにはあったのだ。


「迎えにきました。一緒に帰りましょう」


 謝罪も喧嘩も、すべてはここを出てからだ。こんな、暗くて寒くてわけのわからない場所とは、一刻も早くおさらばしたかった。もちろん先生と一緒に。


「無理だ」


 即座に、そして淡々と、先生はぼくの言葉を否定した。ひとかけらの熱もなく、ただ手元の文書を読み上げるように。


「それはできない。きみもわかっているだろう」

「わかりませんよ」


 早くも喧嘩腰で、ぼくは言い返した。寒さのせいで少し気が立っていたのかもしれない。先ほどまでのイザベラ女王とのやりとりで、いい加減うんざりしていたせいもあったのかもしれない。だけど、そんなことがなくたって、遅かれ早かれぼくの感情は決壊していたことだろう。


「わかりっこないですよ。だって先生はなんにも話してくれないんですから。そんなの、わかるわけないじゃないですか」


 公平に見て、先生はまったく何も話してくれていなかったわけじゃない。先生なりの誠意をもってぼくに接してくれていたこともわかっている。だから、あのときのぼくの訴えはほとんど言いがかり……いや、恥を忍んで言ってしまえば、駄々っ子がわめき散らしているのと何ら変わりはなかった。


 なんて子どもっぽい、と呆れられることはわかっている。でもまあ、そこは勘弁してもらえないかな。久しぶりに、本当に久しぶりに先生に会えて、先生の声が聞けて、だけど当の先生はまるで見知らぬ他人のようによそよそしくて、ぼくはもう自分が嬉しいのか悲しいのか、怒りたいのか泣き出したいのか、ぐちゃぐちゃの感情に爆発寸前だったのだ。


「勝手なことばかり言わないでください。先生こそわかってないじゃないですか。ぼくがどれだけ……」

「ルカ君」


 先生がぼくの名を呼んだ。その呼びかけに、ぼくは自分でも驚くほどほっとした。よかった、と鼻をすすりながらぼくは思った。よかった、ちゃんと先生だ。ぼくの知っている先生と少し違うけど、ここにいるのは間違いなく先生なんだと。


「わたしはもう、どこへも行けない」


 ついさっきぼくを安堵させた声が、今度はぼくを絶望の沼に突き落とした。


「最初から決まっていたんだ。わたしは、いずれここに帰ってくると。ここ以外に帰る場所はない。ここがわたしの終着駅、わたしの──」


 無意識の所作のように、先生は指の先で眼鏡の縁をなでた。


「わたしのための、牢獄だ」




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