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黄昏の幻術師  作者: いろは
第八章
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第89話 取引の結末

「さあ、これで」


 にこやかな声に、ぼくはのろのろと顔をあげた。相変わらず暗い視界に映ったのは、かるく両手をひろげた貴婦人の姿。黒いヴェールの端からのぞく、しわの寄った口元。


「わたくしたちはお友達になれたわね」


 そんなわけあるかと、言い返すだけの気力も残っていなかった。長い年月を牢獄で過ごした囚人のごとく、ぼくはただ深い無力感にうなだれるばかりだった。


「お友達のあなたに、ひとつお願いがあるの。ああ大丈夫よ。とても簡単なことですからね」


 こういうの、どこかで読んだことがあるなと、錆びついた頭の片隅でぼくは思った。


 アッシェンの孤児院長がぼくらにすすめた、ありがたい説話集か何かだったろうか。聖人が石をパンに変えたという話には、どうせなら砂糖衣の揚げパンにしてくれればいいのに、なんて罰当たりな感想を抱いたことくらいしか覚えていないけど、それより印象深かったのは悪魔と取引をした亡国の王様……あれ、破産した商人だったかな。まあどちらでもいい。そのときぼくはこう思ったのだ。馬鹿だなあ、と。


 馬鹿だな。なんて愚かなんだろう。こんな相手と取引したって、絶対うまくいきっこないのに。そんな簡単なこともわからないなんて、この王様、はたまた商人は、よっぽど頭の悪い人に違いない……


 当時のぼくの幼稚さ、傲慢さには、まったく赤面する思いだ。あの頃のぼくにはわからなかったんだ。寄る辺を失くした人間が、どんなに弱くて脆いものかってことを。


「“鍵”をとってきてちょうだい」


 忘れ物の手袋を、と頼むくらいの気軽さで、イザベラ女王はその願いを口にした。


「もともとあの“鍵”は坊やのものなのよ。だってアーサーがそう決めたんですもの。あなたが次の“鍵番”だとね。なのにあの子ときたら、自分で決めたことも放って逃げてしまうなんてねえ。でも、おかげで坊やが来てくれたのだから、結果的にはよかったわね」


 先生は、と言いかけたぼくの口は、弱々しい吐息をもらしただけだった。先生は逃げたんじゃない。たぶんぼくは、そう反論するつもりだったのだろう。


 だけどぼくの口も身体も、まるでぼくの思い通りにならなかった。いや、違うな。何をどうしたいのか、あの時のぼくにはもうわからなくなっていたのだ。


「ほら、坊や」


 イザベラ女王はぼくを指差した。正確には、ぼくの背後を。振り向いたぼくは、あっと目を見開いた。いつからそこにあったのだろう。ぼくのすぐ後ろに、一枚の扉が姿を現していた。


「そこからお行きなさい。行って、アーサーから“鍵”を受けとるといいわ」


 イザベラ女王の声を背中で聞きながら、ぼくは呆然とその扉を見つめた。あまりにも突然で、にわかには信じられなかった。先生が、あれほど探していた先生が、たった一枚の扉をへだてた向こうにいるなんて。


「あら、気がすすまないようね。でも、そうやって立っていても、どうにもならないわよ。“鍵”がなければ、あなただって戻れないもの。それとも、ずっとここでわたくしとおしゃべりをしていましょうか? それも楽しそうねえ。わたくしはどちらでも構わなくてよ」


 かつて孤児院の片隅で、古びた本を抱えていたぼくにはわからなかったことが、もうひとつある。たぶん悪魔との取引は、持ち掛けられたときから結末が決まっている。逃げる道も選べるカードも、そんなものは最初はなから存在しないのだ。


「どちらでもいいけど、早く決めたほうがよいのではなくて? ほら、急がないと、それもじきに消えてしまってよ」


 イザベラ女王の言うとおりだった。ぼくの目の前にたたずむ扉。それがふっと揺らいだかと思うと、みるみるうちに輪郭を失いはじめたのだ。まるで濃い霧に溶けていくかのように。


 ぼくはとっさに手をのばし、扉の取っ手をつかんだ。遠くで鐘の音が聞こえた気がした。長く尾を引く鐘の音。いつか耳にした、振り子時計の鐘の音が。


「いってらっしゃい、坊や」


 鐘の残響に背中を押されるように、ぼくは一歩踏み出した。


 扉が開く。

 視界がゆがむ。

 新しい闇がぼくを呑みこみ、深い淵に突き落とす。


 すでに身体に馴染みつつある感覚を、ぼくは目をつぶってやり過ごした。


 数秒か、数分。いっそ数時間と言われても驚かない。あの扉の向こうでは、時間すらもねじれてしまう。何もかもが熱い飴みたいにぐにゃりと歪み、思いもよらない形に冷えて固まる。


「──来るべきじゃなかった」


 感情を欠いた声が耳を打った。よく知っているはずなのに、初めて聞くような冷えた声。目を開けるのが、ほんの少し怖かった。


「きみは、来るべきじゃなかった」


 暗がりの中で、先生はその言葉をくりかえした。




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