第88話 ねじれた嘘
その瞬間、ぼくの頭の中は真っ白になった。雲とか霧とか、そんなやさしい色じゃない。空を裂く稲光の白だ。目もくらむような怒りに突き動かされ、ぼくは何かを叫んだのだと思う。ふざけるな、とか、嘘をつくな、とか、そんなことを。
「嘘じゃないわ、坊や」
わざとらしい心外さをまとった声が、ぼくの身にからみついた。
「わたくしたちはお友達でしょう? お友達に嘘はつかないわ」
そんなものになった覚えはなかったが、そうと指摘するだけの余裕もなかった。あのときのぼくは、ただ怒りに震えながら黒いヴェールに隠れた顔をにらみつけるのが精一杯だったのだ。
「わたくしとあの子はね、取引をしていたの」
ぼくの視線など意に介したふうもなく、イザベラ女王は語りつづけた。
「以前に話したかしら。わたくしたちはね、どちらか一方が利益を得る関係ではないの。お互いの持ち物を交換しながら付き合ってきたのよ。何を望み、何を差し出すかは、そのときの“鍵番”次第。アーサーが新しい“鍵番”として現れたときの交渉は、とてもおもしろかったわ。わたくしは、あのうんざりする戦争を終わらせたかった。アーサーは、わたくしとの関りを断ちたかった。これを最後に、もう放っておいてくれというわけよ」
思い出し笑いでもしたように、イザベラ女王のヴェールがかすかに揺れた。
「ずいぶんな望みではなくて? 歴代の“鍵番”の中でも、あの子ほど変わった者はいなくてよ」
たしかに、先生は変わり者と呼ばれるに値する人だったかもしれない。先生も、自分で自分をひねくれ者だと言っていたし。まあ、いくら変わっていてもひねくれていても、ぼくは全然かまわないんだけど。
「あの晩のアーサーの訴えは、最初に交わした約束を反故にすることと同じだったわ。取引相手にそんなことを持ちかけられて、素直にうなずけるわけがないでしょう。だから、わたくしはこう答えたの。いいわよ、ただし──」
そこにつづく言葉はだいたい決まっている。よろしい、わかった。その代わり──
「“鍵”を手放しなさいな」
イザベラ女王は腕をあげ、ぼくを指さした。おそらく、いつかの先生に対してもそうしたように。
「契約を違えるというなら、“鍵”を次の者にお譲りなさい。そうすれば、あなたのお仲間は助かるわ、とね」
そこで言葉を切り、イザベラ女王はかるく両手をひろげた。
「アーサーがどちらを選んだかは、坊やにもわかるわね」
そんなものはでたらめだと、あなたの話は嘘ばかりだと、そう言えたらどんなによかっただろう。だけど、ぼくは知っていた。先生が“鍵”を手放さなかったことを。それはほんのひと月前まで、先生の側にあった。ぼくのポケットに収まっていた。おそらく金縁の眼鏡の形をとって。
「わたくしはどちらでもよかったの。だから選ばせてあげたのよ。あなたにとって、より大事な方をとればいいとね」
より大事な方。先生にとって、それは“鍵”だった。仲間より、友人より、ぼくの父さんより。
息苦しさに、ぼくは胸を押さえた。暗い視界が奇妙にかしぎ、ぼくを押し潰そうと迫ってくる。ねじれた世界から逃れるように、ぼくは固く両目をつぶった。




