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黄昏の幻術師  作者: いろは
第八章
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第85話 子どもの言い訳

 戦争。その言葉の持つ物騒な響きに、ぼくはどきりとした。いったい何の話をしているのだろう、この人たちは、と。


「頼むから、アーサー」


 あんなに辛そうなダリルさんの顔を、ぼくは見たことがなかった。いつも陽気で自信満々で、肩で風を切るようにして歩くダリルさんにはまったく似つかわしくない、それはひどくやるせない表情だった。


「一人で何もかも背負い込むな。おれだって上手くやれる。おまえほどじゃなくても、それなりに上手く立ち回ってみせる。頼むから、信じてくれ」


 はたで聞いているこちらの胸が痛くなるような懇願を、ぼくに背を向ける白髪の紳士はゆるく首をふって払いのけた。


「きみは誤解している」


 感情を封じ込めたような先生の声は、ぼくがつい先ほどまで対峙していた老紳士のものによく似ていた。


「わたしはきみを信じていないわけじゃないし、ましてや自分さえ犠牲になればいいなんて、安っぽい感情に浸っているわけでもない。わたしはね、ダリル」


 ほんの少し、言葉を探すような間をはさんで先生は言った。


「結局、嫌なんだろうな」


 虚をつかれたような顔をしたダリルさんだったが、すぐに「なんだそれは」を目をつり上げた。


「子どもみたいな言い訳しやがって」

「悪いね。でも本当なんだから仕方ない」


 ひょいと肩をすくめる先生の背中は、さっきより少しだけ無防備に見えた。


「昔から嫌だった。いや、怖ろしかったのかな。自分もいつかああなるのかと思うと。嫌で嫌でたまらなかった。何度も逃げようと思ったよ。何もかも捨てて逃げてしまえればどんなにいいかと」

「だったら逃げればいい。そんなに嫌なら本当に逃げちまえばよかったんだ。なんでそうしなかった」

「……さあ」


 かるく首をかしげた先生は、きっといつもの笑みを浮かべていたに違いない。はぐらかすような曖昧な笑みを。もうこれ以上は踏み込ませるつもりはないという、先生なりの意志表示だ。


 不思議だな、とぼくは思った。顔が見えていないほうが、先生の考えていることがよくわかる。


「今となってはどうでもいいじゃないか、そんなことは。過去のことをくよくよ思い悩むより、これからのことを考えたほうがいい。たとえば、きたるべき冬の時代を、われら一族はどう乗り越えていくべきか、とかね」

「それこそどうでもいい話だろう。気の利いたやつは生き残る。そうじゃないやつは沈む。ただそれだけのことだ」


「めずらしく同感だが、きみ、口で言うほど簡単に割り切れないだろう。きみの世話好きは筋金入りだ」

「馬鹿にしているのか」

「ほめているんだよ。だから安心できるんだ。きみが残ってくれると思うとね。そのときがくれば、わたしの名はこの世界から消えるだろう。皆の記憶から消え失せる。チェンバースもシグマルディも……」


 希代の幻術師、アーサー・シグマルディも。女王陛下の英雄、アーサー・チェンバースも。


「名前だけか」

「名に結びつくありとあらゆるものが。名とは存在だ。名もなきものは存在しないと同じ……そう言えばきみ、哲学も苦手だったね」

「おまえは文学で一回落第したな」

「あれは教授の嫌がらせだ」


 脱線気味の思い出話を聞きながら、ぼくはああそうかとうなずいた。あの活版屋の親方が、どうして先生のことを覚えていたか。忘れなかったのか。


 それはきっと、あのひとが先生の名を知らなかったせいなのだろう。あの親方の記憶に残っていたのは、ある夕暮れどきに出会った白髪の紳士。ただそれだけだ。たとえそのことを他の誰かに話したとしても、返ってくるのは気のない相槌だけだったろう。へえ、そうか。それは大変だったな、なんて。そう、他の誰か、ぼくではない誰かに話したとしたら。


「ダリル」


 なだめるように、からかうように、先生は同年の従弟の名を呼んだ。


「そんな顔をしないでくれ。べつに惜しむほどの名でもない。わたし一人消えたところで、この世界は何も変わらない」


 一瞬、ぼくはダリルさんが先生に殴りかかるのではないかと思った。爆発的にふくれあがった怒りは、次の先生のひと言で冷えて固まった。


「皆を頼むよ、従弟どの」


 軽い口調に隠された真摯なひとかけらに、きっとダリルさんも気づいたことだろう。なにしろぼくよりずっと付き合いの長い、同い年の従兄弟なのだから。


 ダリルさんはしばらく先生を見つめていたが、ややあってテーブルに両肘をつき、組んだ指に額を押し当てた。長い長い道のりを歩き疲れた旅人みたいに。


「……なあ」


 うつむいた姿勢のまま、ダリルさんは先生に問いかけた。


「おまえの言う皆の中に、あいつは入っているのか?」


 不意打ちのような問いは、ぼくの胸をとんと撃ち抜いた。それは先生も同じだったらしく、こちらに向けた背中がわずかに震えた。


 先生、とぼくは思わず呼びかけた。相変わらず声は出なかったが、ぼくの動揺を感じとったかのように先生が振り向いた、そのときだった。


「──あら、坊や」


 しゃがれた声が耳を打った。視界が暗転する。先生の姿が消える。ダリルさんの姿も消える。灰色の世界が真っ黒に塗りつぶされ、ふたたびぼんやりした光をとりもどしたとき、ぼくの前では一人の貴婦人が椅子に腰かけていた。


「のぞき見はいけないわよ」


 いつかと同じように、そのご婦人──イザベラ女王は、黒いヴェールの向こうから笑みを含んだ声をぼくに放った。


「また会えて嬉しいわ、坊や」



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