第82話 最後の勝負
目を伏せるチェンバース卿を前に、ぼくはただ立ちつくすことしかできなかった。
何か声をかけるべきだったかもしれない。だけど、何を言ったところで、この老紳士にとっては煩わしい以外の何物でもなかっただろう。
息苦しい沈黙は、そう長くは続かなかった。屋敷のどこかで時計の鐘が鳴ったのだ。
ボーンと一回、振り子時計の鐘の音が。低く尾を引くその音は、ぼくの頭の中で震え、反響し、そして、ひとつの影を落として消えた。
それは、ひどく馬鹿げた思いつきだった。根拠はない。確証もない。だけど、ぼくはそれを手放す気になれなかった。蜘蛛の糸のように細く儚いその可能性を、ぼくは全力でつかみ、たぐりよせた。
鐘の音が完全に消え去ると同時に、チェンバース卿は机の上の呼び鈴に手をのばした。
「待ってください」
とっさにぼくは声をあげた。
それを鳴らされたら終わりだということはわかっていた。呼び鈴が鳴らされたら、きっとすぐに執事のグラハム氏がやってくる。そして今度こそ、ぼくはこの屋敷から追い出されるだろう。ぼくの背後で閉じた扉は、二度と開くことはないだろう。
「あなたのお話はわかりました」
ぼくは両の拳を握りしめ、チェンバース卿が口をひらく前に急いで言葉を継いだ。
「もう何も訊きません。そのかわり──」
その願いを口にするのは、かなりの勇気が必要だった。できればぼくはもう二度と、あそこへは行きたくなかったから。だけど、他に選べる手もなかった。祈るような気持ちをこめて、ぼくは最後のカードを切った。
「……馬鹿なことを」
ぼくの願いを聞いたチェンバース卿の第一声がそれだった。
「そんなことをしてどうする」
「わかりません」
今思えば馬鹿正直にもほどがある回答を、ぼくは胸を張って投げ返した。
「どうするかは、あとで考えます。だからお願いします。これさえ叶えてくれたら、ぼくはもうあなたのお邪魔になるようなことはしません。二度とここを訪ねませんし、あとは……」
あとは何だと、焦りがぼくの喉をつまらせた。ぼくが持っているもの、ぼくがさしだせるものは何だ。古びた鞄を逆さにして、ポケットを全部ひっくり返せば、一つくらいは何かあるだろう。この人にうんと言わせる価値のある何かが。
「……家を」
まったく情けないといったらなかったよ。結局のところ、ぼくが提示できるものといったら、先生が与えてくれたものしかなかったのだから。
それでも、どんなに情けなくても、みっともなくても構わなかった。ちっぽけな矜持もろとも、ぼくはぼくの持ち物すべてを交渉のテーブルにぶちまけた。
「先生がぼくに家をくれました。学校に行くお金も。それ、全部いりません。全部あなたにお返しします。だから、どうか」
かたく目を閉じ、頭を下げて、ぼくは相手の返答を待った。しんと静まりかえった部屋の中で、ぼくの心臓だけがうるさいくらいに脈打っていた。
「……くだらんな」
十秒か、せいぜい二十秒。短い沈黙の後にチェンバース卿は苦いつぶやきをもらした。
「じつにくだらん。そんなものでわたしが取引に応じると思ったか」
絶望に平手打ちされて顔を上げたぼくに、呼び鈴を手にとるチェンバース卿が映った。
「まっ……」
ちりん、と呼び鈴が鳴った。固く、冷たく、いっさいの希望をねじふせる音が。
「お呼びでしょうか、旦那様」
静かに扉が開き、あらわれた老執事に「グラハム」とチェンバース卿は口をひらいた。
「この小僧を連れていけ。これの望むところへ」
ぼくは、にわかに自分の耳が信じられなかった。ぽかんと立ちすくむぼくの視界で、グラハム氏がうやうやしく腰をかがめた。
「承知いたしました。旦那様」
「……ありがとうございます!」
お礼の言葉を口にすることができたのは、我ながら奇跡だと思う。息せきってグラハム氏へ駆け寄ったぼくは、ふとチェンバース卿を振り返った。
「今度」
あのとき、どうしてあんなことを言う気になったのかはわからない。あの人にとっても先生にとっても、まったく余計なお世話だったと思う。ただ何となく、あのまま立ち去る気にはなれなかった。ただ、それだけだ。
「今度、先生の舞台を観にきてください」
ぼくたちが、先生が戻ったら。
それだけ言い残し、ぼくは部屋を出た。顔を上げ、胸を張り、外套の胸元を強く強く握りしめながら。




