第81話 愚か者と臆病者
「無理だな」
先生を迎えに行くというぼくの宣言に、チェンバース卿は無情な否定をたたきつけた。
「扉は開かん。おまえの望みが叶うことはない」
「なんでですか」
かみつくように、ぼくは反論した。
「無理って、なんでそんなことが言えるんですか。あなただって“鍵番”だったんでしょう。だったらできるはずだ。先生と同じことが……そうしたら、あとは僕が……」
「無理だと言った」
冷ややかな声が、ぼくの主張を叩き斬った。
「責めるなら、あれを責めろ。鍵を持ち去ったあれを。鍵がなければ――」
チェンバース卿はそこで口を閉ざした。あとはわかるだろう、とでも言うような眼差しをぼくにくれて。
「先生が……」
紙が水を吸うように、ぼくの胸にじわじわと絶望がひろがっていく。
鍵を持って、先生は消えた。おそらく、この世界のどこでもない場所へ。大事な大事な扉の向こうへ。
先生とともに、鍵とともに、ぼくの世界から色が消えた。そして不思議な力もまた──
「……あなたは」
麻痺したような頭をかかえ、ぼくはチェンバース卿に問いかけた。
「どうして、先生を……」
止めなかったのか、と。その言葉が口からこぼれるより先に、チェンバース卿は「おまえが」と吐き捨てた。
「おまえがそれを言うか。鍵を継がなかった、おまえが」
え、と固まったぼくに、チェンバース卿はたたみかけるように言葉を重ねた。堪えに堪えていた何かが、堰をきってあふれ出たように。
「おまえは、そのためにいたのではないのか。あれが消える前に、おまえが鍵を引き受けていればよかったのだ。そうすれば、今頃あれも……」
チェンバース卿はそこで口を閉ざした。束の間の激情をしまい込み、老紳士は「十三年」とつぶやいた。
「鍵番の務めは十三年。それを超えて鍵を持ち続けることはできん。あれは人の身には重すぎる」
十三年。ぼくの年齢とほぼ同じ、その歳月が意味するところは。
すう、とぼくの顔から血が引いた。
頭の芯がじんと痺れる。口の中がからからに乾く。手足が強張っていくのがわかる。
十三年前。ぼくが生まれる少し前、先生は戦場で僕の父に会っていた。そのときすでに、先生は鍵を手にしていたはず。
「知っていながら、あれは鍵を手放さなかった。禁を犯した者がどうなるかは、おまえがその目で見たとおりだ」
ぼくがこの目で見たとおり。ぼくがあの晩、先生が消えた晩に見た景色は何だ。
光り輝く先生の舞台。そこに現れた黒い影。渦を巻くように先生を取り囲み、輪を狭めていった黒い手形。
――わたしの一族に、余命いくばくもない者がいてね。
不意に、先生の声が頭の中に落ちてきた。いつかの春の朝。台所でお茶を飲みながら、世間話でもするような口調で語られていたその人は、他ならぬ先生自身のことだったというのだろうか。
「……先生は」
するりと、ぼくの口からひび割れた声がこぼれた。
「先生は、なんで、そんな……」
言ってくれればよかったのだ。打ち明けてくれれば、ぼくは絶対にうなずいたのに。先生がどんなに渋っても、その鍵とやらを受け継いだのに。そこにどんな危険があろうとも、どんな厄介事がついてこようとも、全部まとめて引き受けたのに。
「あれの考えなど……」
チェンバース卿はほうと息を吐き、机に肘をついた。
「あれが何を考えていたにせよ、それは問題ではない。起きたことは変わらない」
両肘に身を持たせかけるようにしているチェンバース卿は、ひどく疲れているように──失礼な言い方を許してもらえるなら、にわかに老け込んだように見えた。
「愚かなりに、あれにはあれの考えがあったのかもしれん。あれは何も語らなかったが」
やっぱり先生だな、とぼくは思った。
先生は、本当にどこまでも先生だ。けっして無口でも無愛想でもないくせに、肝心なことはあまり話してくれない。笑顔で人を煙に巻いて、軽やかに身を翻す。それは臆病だからだと先生は自嘲していた。自分は卑劣な臆病者だからと。
「あれがどんな馬鹿げた考えをもっていたのか、それを質すことも叶わん。いいかげん理解しろ。鍵ととともに、あれは消えた。誰も、あれを追いかけることはできん」
チェンバース卿が口を閉ざすと、重苦しい沈黙が書斎を支配した。
自らつくりだした沈黙に圧されるように目を伏せた老紳士を見て、ぼくはようやく、本当にようやく理解した。この人も同じなのだと。
その瞬間まで、ぼくはぼくだけが辛いのだと思い込んでいた。胸をうがつ大きな穴も、やり場のない怒りも後悔も、ぼくだけが抱えているものだと思っていた。だけど、それは間違いだった。置いていかれたのは、ぼくだけじゃなかった。
黒い霧をまとっていないチェンバース卿の顔を、ぼくは初めて見たような気がした。深いしわの刻まれた眉間、形の良い鼻と、とがり気味のあご。先生とよく似たその面差しを。
そこにいたのは、怖ろしく厭わしい老人ではなかった。肩を落とし、何かに耐えるように口を引き結んだその人は、息子を喪った一人の父親だった。




