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黄昏の幻術師  作者: いろは
第七章
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第79話 一流の執事

 ひとまずこちらへ、とグラハム氏が通してくれたのは玄関脇の小部屋で、ぼくは最初に目についた椅子に沈み込み、大きく息を吐いた。


 正直、ここまですんなり通してもらえるとは思っていなかった。ぼくみたいな子どもが訪ねたところで、まともに相手をしてもらえないだろうと。だったらなんで正面突破をしかけたんだって? まあ、そこは喧嘩の師匠ヘレンさんの教えに従ってみたといったところかな。喧嘩は最初が肝心、まずはがつんと一発食らわせてやるんだよ、てね。


 冗談はさておき、ぼくが門前払いされずに済んだのは、身にまとっていた先生の外套のおかげかもしれない──と、その時のぼくは考えていた。かなりぶかぶかの、だけど見るからに上等そうな外套が、グラハム氏のぼくに対する信用度をちょっとばかり引き上げてくれたんだろうと。


 身なりは武装、というダリルさんの言葉をぼんやりと反芻はんすうしていたぼくの耳に、階段を降りてくる誰かの足音が届いた。落ち着いた中にも、わずかな不規則さが混ざるその音に、ぼくはてっきりチェンバース卿がやって来たのかと思って立ち上がったのだが、


「お待たせいたしました。クルス様」


 予想に反して現れたのはグラハム氏だった。


「旦那様にお取次ぎいたしましたが、お会いにはなれないとのことでした。どうぞお引き取りを」


 淡々と告げられた内容は、半ば予期していた通りだった。だからといって傷つかなかったわけじゃないけど。


「……どうして、会えないと」

「なにぶん旦那様はご多忙でいらっしゃいますので」

「だったら」


 ぼくは足を踏みしめ、グラハム氏を仰ぎ見た。


「お待ちします。卿のお時間が空くまで、いつまででも」

「残念ですが、いくらお待ちいただいても、旦那様がお会いになることはありません」


 取り付く島もないとはあのことだった。丁重に、かつ有無を言わせず、グラハム氏はぼくを小部屋から連れだした。肩を落として続いたぼくは、グラハム氏が少しだけ右足をひきずるような歩き方をしていることに気づいた。


 そういえば、とぼくは思い出した。以前この屋敷を訪ねたとき、先生がグラハム氏に足の調子はどうかと声をかけていたことを。あの時は大丈夫そうだったのに、また悪くなっちゃったのかな、なんてことを考えながら玄関ホールに出たところで、ぼくははたと立ち止まった。


 玄関ホールから二階へ続く大きな階段。そこを登った先に、チェンバース卿の書斎があることを、ぼくは知っていた。だったら──


「クルス様」


 不審げに振り向いたグラハム氏の顔と右足、それから絨毯敷きの階段に、ぼくは目を走らせた。広いホールにいるのは二人だけ。ぼくと、足を痛めた老執事だけだ。


 だったら、今ならいけるんじゃないだろうか。馬鹿正直に案内を頼む必要なんてない。この階段を駆け上がってしまえばいいのだ。グラハム氏には止められるだろうけど、足を悪くしているこの人が相手なら逃げ切れる、きっと。


「どうかなさいましたか」

「……いえ」


 だめだな、とぼくは頭の中の空想を塗りつぶした。


 だめに決まっている。ぼくを捕まえようとした老執事が転びでもしたらどうする。酷い怪我をさせてしまうかもしれない。もしかしたら命にかかわるような。そんな可能性がちらとでも頭をよぎってしまった以上、グラハム氏をふりきって階段を駆け上がるなんてことは、ぼくにはとてもできなかった。


「すみません、なんでもありません」


 仕方ない、とぼくは頭を切り替えた。大人しく帰ったと見せかけて、後でこっそり忍び込むのはどうだろう。うろ覚えだけど、チェンバース卿の書斎の位置は見当がついている。いつか先生が爆破した、あの二階の部屋だ。塀を乗り越え、生垣をまわりこんで、蔦をたぐって壁をよじ登れば……


「失礼ながら、クルス様、あまり危ない真似はなさらない方がよろしいかと」


 苦笑のにじんだ声に、ぼくはぎょっとして立ちすくんだ。


「……なんで」


 なんでわかったのかと、口をぱくぱくさせているぼくに、「さて」とグラハム氏は品よく首をかしげてみせた。


「この年になりますと、自然と見えてくるものもございまして。クルス様のようにお若くてお元気な方ですと、特に」


 うわ、とぼくは頭を抱えたくなった。考えていることが顔にでるたちだということは自覚していた、というか先生に自覚させられていたぼくだったが、まさかここまでだったとは。


 ぼくなりの奥の手をあえなく看破され、恥ずかしさと失望にうなだれながら、玄関の外へ足を踏み出しかけた、その時だった。


「おや、わたくしとしたことが」


 目の前で扉が閉まった。同時に、芝居がかった独り言が降ってくる。


「すっかり忘れておりました。旦那様の書斎の暖炉に薪が足りているか見てこなければ。ですが、今日はことに階段を上がるのが難儀ですな。というわけで、クルス様」


 グラハム氏はぼくに片手を差し出した。


「恐縮ですが、いっときわたくしの杖代わりになってくださいませんか」


 ぼくは呆気にとられてグラハム氏を見上げた。そこにあったのは、相変わらず執事の見本のような謹直な顔。だけど、ぼくは見逃さなかった。しわのよった目元に漂う、ほんのわずかな茶目っ気を。


「喜んで!」


 ぼくは勇んでグラハム氏の手をとり、階段に足をかけた。本当に足を悪くしていたらしいグラハム氏を支えながら、一段ずつ慎重に歩を進める。


「怒られませんか」


 半分ほど登ったところで、ぼくはそっとグラハム氏に尋ねてみた。グラハム氏のいきな計らいにはたいそう感謝していたが、そのせいでこの親切な老執事の立場が悪くなることも同じくらい気がかりだった。


「執事は常に主人の意を汲み、さらにその一歩先を見越して動くものでございます。言われたことを漫然とこなしているだけでは、とても務まるものではございません」

「……つまり、チェンバース卿も本当はぼくに会いたがっている?」

「さて、それはどうですかな」


 おっと、とぼくは心中でよろめいた。


「ですが、クルス様をご案内することは、当家にとって必要なことであるように思えました。なぜかはわかりかねますが、そう、強いて言うなら……」


 ちょうど階段を登りきったところで、グラハム氏はぼくを見て目を細めた。


「クルス様のお召し物に、見覚えがあるような気がいたしまして」


 ぼくは思わず外套の胸元をにぎりしめた。かつて先生がまとっていた外套、もしかしたら、かつてはこの老執事がいつも先生の肩に着せかけていたかもしれない外套を。


「詮無きことを申しました。ご容赦ください」


 ぼくにかるく頭を下げ、グラハム氏は先に立って歩きはじめた。少しだけぎこちない、だけど迷いない足取りで進み、ほどなく一つの扉の前で立ち止まる。


「失礼いたします」


 扉を開けたグラハム氏に続いて、ぼくも薄暗い室内に足を踏み入れた。


「──何のつもりだ」


 聞き覚えのある声が耳を打った。先生とよく似た、だけど先生よりずっと険しい声の主は、窓を背にした机につき、冷ややかな視線をぼくに突き刺した。





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