第78話 ありったけの幸運
先生を迎えに行く。そう決めたとはいえ、ぼくが具体的な方策を知っているわけではなかった。当然だ。ぼくは先生の弟子は弟子でも、あの不思議な術を教えてもらったことなど、ただの一度もなかったのだから。
それでも、まったく当てがないわけでもなかった。自信があったわけじゃない。まるきり見当違いだったかもしれない。
だけど、とにかく思いついたことは片っ端からやってみるしかなかった。なにしろ相手は先生だ。ぼくが先生に勝てるものがあるとしたら、せいぜい後先考えない勢いとか、向こう見ずさくらいしかなかったのだ。あとは年齢とか、お茶を淹れる腕前とか、家事の手際とか……あれ、結構あるな。
ロブソン親方と別れて家に戻ると、ぼくはまずキャリガン夫人に謝り──案の定、突然飛び出したぼくのことを、夫人はひどく心配してくれていた──それから、ちょうど帰ってきたキャリガン氏に、明日馬車を出してもらえないかと頼んだ。
「もしかして坊ちゃん、ケアリー弁護士をお訪ねになるんですか」
だったら自分も一緒にと申し出てくれたキャリガン夫人に、ぼくは曖昧な笑みだけを返した。いつも先生がやっていたみたいに上手くできたとは思えないけれど、夫人が渋々ながら引き下がってくれたところを見るに、そう悪い出来でもなかったのだろう。
翌日、ぼくは朝食を済ませるとキャリガン氏の馬車に乗り込んだ。いつか先生が貸してくれた大きな外套にくるまり、お守り代わりに父の手帳をポケットに忍ばせて。
「キャリガンさん」
馬車がしばらく走ったところで、ぼくは小窓から顔を出した。頭上に広がる空は久しぶりに青く高く、まるでぼくを励ましてくれているよう……なんて、空からしてみたら、ぼくの気持ちなんて知ったことじゃなかったんだろうけど。
でも、それでもよかった。こじつけでも何でもいい。あの時のぼくは、どんな些細な幸運でも味方につける必要があったのだ。ありったけの運をかき集め、足を踏ん張らなければ、これから会いに行く人とまともに渡り合えそうになかったから。
「すみません、行き先を変えてもらえますか」
キャリガン氏は道の端に馬車を停め、ぼくの顔をじっと見た。
いま思い返しても、あの人は本当に無口な人だった。ぼくは、あの人の声すらほとんど聞いたことがない。だけど、キャリガン氏の沈黙は決して居心地の悪いものじゃなかった。むしろ優しく見守られているような、がっちりと背中を支えてもらえているような、不思議な安心感がそこにはあった。
あの日も、行き先を告げたぼくに何も言わず、キャリガン氏はぼくの顔を見つめ、ややあってぼくの頭をぽんとたたいた。任せておけ、と言うように。あるいは、寒いから頭を引っ込めておけという意味だったのかもしれない。ひとつ確かなことは、固い手の平から伝わってきた温かな感情が、ぼくを大いに勇気づけてくれたということだ。
キャリガン氏のあやつる馬車は冬の街を走り抜け、やがて一軒の屋敷の前に停まった。
「ありがとうございます。あとは一人で大丈夫です」
馬車から降りたぼくに、キャリガン氏は帽子の下から穏やかな一瞥をくれると、すぐに車輪を鳴らして走り去っていった。遠ざかる馬車を眺めながら、もしかしてとぼくは思ったものだ。
もしかして、あの無口な御者の人は何もかも知っているんじゃないだろうかと。先生のことも、先生が消えたことも、この屋敷の一族の秘密も、何もかも。
「──失礼ですが」
背中にかけられた重々しい声で、ぼくの空想は中断した。
「当家に何かご用でも」
振り向いた先、門扉の向こうに年配の紳士が佇んでいた。その落ち着いた物腰と謹厳そうな表情は、まだぼくの記憶に新しかった。あの初夏の園遊会で、先生が親し気に声をかけていた紳士。おそらくこの屋敷の執事、グラハム氏だ。
ぼくは姿勢を正し、グラハム氏を見上げた。
「ぼくは……」
緊張で声が裏返り、しっかりしろ、とぼくはぼくを叱りつけた。
ばくばくと暴れまわる心臓を押さえつけ、外套の上から父の手帳を握りしめながら、ぼくは屋敷の執事に用向きを告げた。
「チェンバース卿にお話があって来ました。卿に、お取次ぎをお願いします」




