第77話 徒弟の心得
「で、何やってんだ、おまえ」
ロブソン親方に改めて問われ、ぼくは言葉に詰まった。
本当に、自分でも何をやっているのかわからなかった。わからぬまま、ただ衝動的に家を飛び出してきただけだ。キャリガン夫人もさぞ驚いたことだろう。そしてきっと、すごく心配してくれているだろう。
夫人のことを思うとぼくの胸は痛んだが、だからといって早く帰ろうという気にもなれなかった。いま思えば、ぼくはただ怖かったのだ。先生のいない家、誰も先生のことを覚えていない家が。
「もしかして、逃げてんのか?」
うなだれたままのぼくに、親方は重ねて問いかけた。
「何やらかしたんだ。まさか本当に掏摸でもしてんのかよ」
さすがにそれは、と顔をあげると同時に「んなわけねえか」という声がふってきた。
「おまえみてえに小綺麗な掏摸がいてたまるかってんだ。けど、ちっと薄着すぎんな。そんな格好でうろついてるってことは、おまえ家をおん出てきたんだろ。あの旦那に叱られでもしたか?」
親方が、おそらく何気なく発したであろうその言葉。それはまるで大きな鉄鍋みたいな重さをもって、ぼくの頭に落ちてきた。
「なんだ、それも違うのか」
「いえ、あの……」
ぐらぐら揺れる頭の中で、ぼくは散らばった言葉を必死にかき集めた。
「いま、なんて……」
「はあ?」
親方は顔をしかめてぼくを眺め下ろした。
「あいつと喧嘩でもしたのかって言ったんだよ。何があったか知らねえが、さっさと帰って詫びるこった。徒弟ってのはな、親方の言うことは何でも素直に……」
「あの!」
みなまで聞かず、ぼくはロブソン親方の腕に飛びついた。
「覚えてるんですか!?」
ぎょっと身を引く親方に、さながら溺れかけの人間のようにしがみつく。
「覚えてるんですか……先生のこと」
「何言ってんだ、おまえ」
しかめっ面に困惑をにじませながら、親方がぼくの手を振り払った。
「先生って、あいつだろ。あの胡散臭い慈善家気取りの。忘れるわけねえだろうが。だいたい、あいつがしゃしゃり出てこなけりゃ……」
ロブソン親方には申し訳ないが、後ろの方の話はまるでぼくに届いていなかった。しびれたような耳の奥で、同じ言葉がぐるぐると駆け巡る。忘れるわけがない。忘れるわけがない。忘れるわけが……
「ロブソンさん」
「んだよ」
話の腰を折られた親方は、不機嫌そうにぼくをにらみつけた。ぼくがこの親方の徒弟だったら、すかさず拳が飛んできたに違いない。だけど、あいにく、と言うべきか、ぼくは印刷所の徒弟ではなかった。ぼくの親方、ぼくの先生は──
「その人、髪が白かったですよね」
「ああ? 男の髪色なんざいちいち覚えてねえよ。けど、たしかに白髪だったな。まだそんな年でもなさそうなのによ」
「背が高くて」
「そうだったな。くそ、思い出したら腹が立ってきた。おれのこと見下ろしやがって」
「金貨の入った財布を投げた」
「そうとも、あのペテン師野郎!」
ぼくはたまらず笑い出してしまった。おかしくて嬉しくて、全身の力が抜けるような安堵につつまれて、ぼくは笑った。よかった、という思いを噛みしめながら。
よかった。本当に。先生を忘れていない人がいて。ぼく以外にも、ちゃんと先生を覚えている人がいて。たしかに先生が、アーサー・シグマルディという人がいたのだと、ぼくに証明してくれる人がいてくれて。
「あの財布のせいでおれがどれだけ……って、おい、腹でも痛いのか」
肩を震わせて笑うぼくに、ロブソン親方は気遣いと気味悪さが入り混じった声をかけてきた。大丈夫ですと答えて、ぼくは笑いすぎて涙のにじんだ目をこすった。
「すみません。もう大丈夫です」
「そうかよ」
ロブソン親方は渋い顔で首をひねった。
「おまえ、あいつのイカサマの片棒かつがされてんじゃないだろうな。もしかして、それが嫌になって逃げてきたのか? だったら一緒に駐在のとこに行ってやってもいいぞ。なんでも新しい法律ができたとかで、悪さをする親方はとっちめられるようになったんだと。ま、親方を訴えたところで、その後の行き場がなけりゃどうしようもねえが」
そこで親方は腕を組み、ぼくからちょっと目をそらして付け加えた。
「だからおまえ、戻るとこがないなら、うちで使ってやってもいいぜ」
「ロブソンさん……」
「言っとくが、仕事はきついぞ。けどな、おまえにその気がありゃあ、おれが一人前の植字工に育ててやんよ。地味だが、まっとうな仕事だぜ。おまえにゃまだわからんだろうが、人間まっとうな仕事で飯が食えるのが一番……」
「ロブソンさん」
心なしか早口になった親方に、ぼくは頭を下げた。ついでに素早く目をこする。口が悪くて、すこぶる面倒見のいい親方に、これ以上心配をかけないために。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
でも、とぼくは顔をあげた。
「今日は帰ります。ぼく、やらなくちゃいけないことがあるので」
「なんだそりゃ」
毒気を抜かれたような顔で、親方はあごの無精髭をなでた。
「何をするってんだ」
冬の冷たい風が街路の落ち葉をくるくると巻き上げ、ついでにぼくの首筋をなでていった。だけど、その時のぼくはどんな寒さもへっちゃらだった。
まったく、寒さなんかに負けている場合ではなかったのだ。それよりずっと大事なことが、やるべきことが、ぼくを待っていたのだから。
「先生と喧嘩をするんです」
迎えに行こう、先生を。いつまでもやられっぱなしじゃいられない。
活版屋の親方にもう一度頭を下げて、ぼくは走り出した。街を吹き抜ける北風みたいに疾く、勢いよく。




